改訂新版 世界大百科事典 「経営経営管理」の意味・わかりやすい解説
経営・経営管理 (けいえいけいえいかんり)
administration
management
〈経営〉という言葉は今日,企業をはじめ行政,教育,宗教,組合など各種組織の運営にかかわる言葉として使われているが,日本語としていつごろ定着したかは確かではない。《日本国語大辞典》1940年版には,(1)縄張りをして土台をすえいとなみ造ること,(2)工夫をこらして物事をいとなむこと,とされ,中国春秋時代の《詩経》に(1)(2)の早い使用例があり,日本では(2)の使用例が室町時代の《太平記》にみられる。この二つの意味のうち,(1)の建物をつくるほうの語意がしだいに消え(2)の意味がしだいに強くなっていったといえるであろう。ところで〈管理〉という言葉は同辞典(1940年版)にはなく,74年版には出てくる。1940年版の収録語数ははるかに少ないから断定はできないが,40年段階に〈管理〉という言葉は,まだ日本では一般に定着していなかったとも考えられる。また《鮮訳国語大辞典》(1919)には〈経営〉を建築または建物としている(《日本国語大辞典》の(1)に対応)が,〈管理〉という言葉はなく,おもしろいことに,〈幹理〉という言葉があって〈とりしまり〉〈すべくくり〉の意味だとされている。《日本国語大辞典》74年版は,〈幹理〉を監督し処理すること,とりしまることとし,〈管理〉は(1)管轄・処理すること,(2)法律上,財産を保全し,その利用改良をはかること,(3)事務を経営し,設備の維持・管理にあたること,の三つの意味をあげている。そこで,幹理-監理-管理といった言葉に,物ないし事物についての処理といった行為が基軸にあること,今日では死語の〈幹理〉のほうが〈管理〉よりも一般に使われていたのではないか,ということが察せられる。いずれにせよ,〈管理〉を人ないし人の活動の管理といった意味で使用することは,明治期から大正中期までは,日本では一般にはあまりなかったのではないかと考えられる。
なお欧米におけるadministrationやmanagementなどの語も,それぞれ国や人により多少異なった意味に用いられており,これについては本項の[経営管理論の形成と展開]を参照されたい。
アメリカ産業における初期の管理問題の歴史
初期管理の実態
経営あるいは管理の研究が盛んに行われてきた先進国はアメリカとドイツ,とりわけアメリカである。ここでは,アメリカを中心にその歴史的経過を追い,問題の所在をみることにする。またアメリカでの管理の研究はきわめて実践的な性格をもって登場し,展開されてきたので,その側面にも光をあてながらその動きをみてみよう。
内部請負制
まず工場レベルに焦点をおくと,広義の機械工業では産業革命以降かなり長期にわたって内部請負制subcontract systemが採用されていた。それは,かつて熟練労働者であった者のなかで,それなりに能力があって内部請負人となった者が資本家との間で契約を結び,一定種類の作業を一定量,一定期間,一定価格で請け負って完成させるものである。彼は必要な労働者を自分の判断で雇用し,作業上の監督やときに技能訓練を行い,仕事を査定して賃金を支払う。資本家ないし企業家は機械,原材料,運転資本を供与し,ディーラーなどとの間で製品の販売に従事するが,工場の生産活動そのものの管理にはタッチしないのである。内部請負制が典型的に進められたアメリカでは,企業家は技術的知識が十分なくても製品検査や販売に専念するだけで,投下資本を効果的に運営できる。一方,内部請負人の所得は主として請負価格と支払賃金との差であるから,所得をあげようとする請負人によって生産面での監督,工程面での改善が半ば自動的に期待できる,といったメリットがあった。したがって,産業革命による機械の導入後も,男性の半熟練労働が中心である広義の機械工業(鉄鋼,金属精練,造船を含む)では,内部請負制がかなり一般的にみられた(綿紡績は顕著な例外)。
しかし内部請負制にも各種の問題があった。すなわち,製品の革新を刺激する要因に乏しく,設備の使用・保全に十分な注意が払われず,仕掛品在庫が過大になりがちである。工程面でも原材料節約的な革新はあまり進められず,労働節約的革新に頼りがちで,それがときに低賃金労働を招く。また契約期間中は景気後退があっても工場規模を縮小しにくい等々がそのおもなものである。こうしたデメリットはしだいにそのメリットを上回ると意識されるようになり,またしだいに組織化が進んだ労働組合も,内部請負人が巨額の所得をあげるとき,これを中間搾取として批判するようになった。こうして内部請負制は,19世紀末から20世紀初頭にかけて急速に衰退した。ただニューイングランドなどでは,第1次大戦のころまでかなり残っていた。
職長制度
内部請負制の廃止は,企業家,少なくともその代理人が直接,従業員としてどのような労働者をどれだけ選抜し,その能力の保全,向上をはかり,どのように賃金その他の報償を行い,どのように昇進の機会を与えていくか,といったことを行うことを意味する。かくて業務管理の仕事が重要な意味をもって登場してくるのである。と同時に工場現場では,企業家の意思を直接代弁する現場管理者層を組織的に確立することが必要となる。具体的にいえば職長制度の確立である。かつての内部請負人は,その蓄積した所得をてこに企業家に上昇転化するものと,熟練労働者,さらに生産管理のベテランとして企業の職長になるものとに分かれていった。後にとりあげるF.W.テーラーが科学的管理の名のもとに工場管理の合理化を行ったのは,ちょうどこのころにあたる。彼は,こうしてできた職長制度を,ありとあらゆることを1人でしなければならないが,結局はなにひとつ十分にできない万能式職長制度であると批判し,今まで1人の職長がやっていた仕事を職能別に分化させ8人の職長に代替させる職能的職長制を提案した。
管理問題の登場
体系的管理運動
工場レベルでの管理問題を意識的に合理化の対象とするようになったのは1880年代,東部の機械工業において工場技師などが,アメリカ機械技師協会を拠点にして工場管理の改善を試みてからで,それは体系的管理運動systematic management movementと呼ばれた。たとえばタウンHenrey R.Towneは1886年,工場の管理は産業企業の成功にとって工学と同じように重要な意義をもっており,近代技術の一つに入れてしかるべきであると主張した。彼の〈節約賃金分配制(タウン分益制)〉(1889)やハルシーFrederick A.Halseyの〈割増賃金制〉(1891),N.メトカフの〈工場の勘定体系〉(1886)などは,このころの優れた成果である(〈能率給〉の項参照)。
科学的管理
その一環に先述のF.W.テーラーがいた。彼は1903年発表の《工場管理》で,工場管理の課題を低労務費・高賃金の実現に求め,1日の作業量=課業taskを動作研究・時間研究によって科学的に算出し,課業達成者には高賃率の賃金,そうでない者には低賃率の賃金を与えるという提案を行った。この場合の課業は,中心的な作業それぞれについて熟練労働者を5~6人から7~8人集めて作業を行わせ,動作研究を通して最速最適な動作のつながりをそのなかから発見し,これを標準的な仕事のやり方として確定する。ついでストップウォッチによって各動作の必要時間を計測して集計し,さらに余裕時間を加算して1作業に要する時間を算出し,1日の作業時間との関連で当該作業の1日の〈正しい〉作業量を発見するというものである。テーラーによれば,それは科学的に算出されたという意味で労使の対立を超えた存在であった。彼の主張は,それまで作業する労働者自身が,先輩の熟練労働者や自分自身の経験を通して体験していった個人的,伝承的な仕事のやり方から,第三者が客観的に観察し,その合理的なあり方を討議しうるやり方に道を開くものであったといえる。
テーラーの科学的管理法が各種の工場現場に導入されていったとき,直面したものは激しい労働組合の反対であった。その理由はY.ヨーダーによれば,(1)労働者の機械視,(2)分配の不公正,(3)経営独裁の提唱,(4)労働組合の否定,となる。(2)~(4)は必ずしもテーラー自身の主張とはいえないが,(1)の労働者の機械視は,テーラーの主張の根底にある基本的観念である。すなわち彼は,人間の労働それぞれを相互に分離し,それぞれについて基本的に工学的観念によって分析して標準的な作業方式をそれぞれの作業に見いだし,それを唯一最善の方法として画一的に実行させようとした。それが可能なのは,彼が管理しようとしたものが人間のなかできわめてプリミティブな生理的エネルギーのレベルであったからである。それは植民地から独立して,中世ギルド以来の徒弟的熟練を欠き,ヨーロッパ各地からの多様な移民労働に大幅に依存しながら工業化を急速に進めていた当時のアメリカの産業の実態にも,ある程度対応していた。その多様な文化,習慣,言語を背景にした種々雑多な労働を統合する一つの共通の契機は,各人がなにはともあれ生理的エネルギーの持主であるということであろう。各作業について適正な動作を適正な時間内に遂行するという形で生理的エネルギーの標準的な放出形態を考え,それを主として賃金刺激によって実行させようとする方向は,統合的な工場管理の体系を人為的に生み出す重要な前提を与える。こうしてテーラーの考え方は,どの程度彼自身意識していたかは別にして,当時のアメリカ工業の条件に照応して提出されていた。さらにそれは急速に進む機械化に照応して,機械の内包する可能性を十二分に引き出すことを可能にした。
テーラー・システムの普及
しかもこのような労働観は,当時の社会科学の認識,とりわけ経済学における経済人の影響が強かった状況では,それほどとっぴなものではなかった。また労働各層の貨幣所得がまだ相対的に低かった段階であり,それなりの説得力をもちえた。にもかかわらず,テーラー・システムが産業のなかで浸透していくにつれ,労働組合の抵抗は強くなった。労働者は,自分たちを取替可能な要具的なものとして扱うその基礎的観念に強く反発したのである。そしてついには議会が,官営事業分野にテーラー・システムを導入することに反対する決議を行うまでになった。しかし第1次大戦が1914年に始まりアメリカも参戦するようになると,生産性向上の要請が強まる一方,若年労働力の不足が激しくなった。これを契機に,テーラー・システムはアメリカの産業にしだいに定着し,機械工業のみならず広く他の産業にも普及し,テーラーが考えもしなかった流通分野にまで入っていくようになった。
テーラーやその後継者の提案は,主として作業労働の管理の面に焦点をおいている。このため,その主張は作業の科学にとどまり,経営や管理の科学化には影響を与えなかったという見方もある。確かに彼らの提案そのものが直接志向したものは,生産現場における作業であった。そしてその直線的な発展領域として,人間工学-産業工学があることも確かである。しかし彼らの管理観の基礎に流れている思考,すなわち人間労働にはなんらかの程度のone best wayがあるはずであり,それを手がかりにして,他者-管理者が人間労働を制御することができるといった観念は,その後の管理の実践や研究,とりわけアメリカのそれに大きな影響を与えた。すなわちアメリカの管理におけるキー概念,少なくともその一つでありつづけた職能functionという概念は,このような意味での人間のなすべき仕事という意味を,程度の差はあれもっている。
多機能企業の展開と管理問題
製造と販売の調整
19世紀後半,企業活動がしだいに複雑になるにつれ企業全体の管理問題もより尖鋭になり,かつ多様になっていった。製造企業を中心にいえば,多くの企業は1880年代くらいまでは製造に専念し,原材料の調達や製品の販売についてディーラーに任せていた。しかし80年代以降は確実な売上げと商標の確立とを期待して,販売・購買活動に積極的に乗り出すようになる。そうすると製造と販売とをどのようにうまく自己の企業のなかで調整するかという管理問題が登場する。それは,前述した体系的管理労働が展開されるにいたった背景の一つでもあった。なぜならそこでは,急速な市場拡大と企業成長のなかで,注文の見落し,部品の損耗,原材料の浪費,過剰在庫の発生等々が問題になったからである。また以上のような動きは,企業が企業活動として多機能をかかえこむことを意味し,ここに多機能企業の登場とその管理問題--各活動の有効な管理と相互の調達の問題が登場するのである。
第1次企業集中運動
他方,企業間競争は,規模の経済の実現,機械化の推進による労働生産性の向上を要求する。そしてそれは企業における固定費負担を強め,それが景気下降過程での供給調節力を弱め,いっそう企業間競争を強めるようになる。こうして南北戦争(1861-65)以降の急速な工業化とともにしだいに普及しだした株式会社制度を一つのてこにしながら,企業間の競争を抑制する動きが19世紀末ころから20世紀初頭にかけて盛んに行われるようになった。すなわちプールなどのカルテル,トラスト,持株会社さらに吸収合併などの形で進められた,アメリカの第1次企業集中運動がそれである。このころまで通常の企業がとった成長戦略は,自己の所属する産業ないし主要製品において圧倒的な市場占有率を実現しようとするものであった。そのための企業統合インテグレーションintegrationを若干別の観点からみると,自己の主力製品ないし事業と競合する企業を統合する水平的統合と,自己の主要製品ないし事業に対し,前後の過程にある製品あるいは事業を運営している企業と統合する垂直的結合とからなっている。さらに後者は,たとえば石油精製企業をとると,原油採掘企業を統合する後進的垂直的結合,ガソリン販売企業を統合する前進的垂直的結合に分かれる。第1次集中運動の中心をなしたのは水平的統合であったが,垂直的統合もかなり活発に行われた。垂直的統合が企業の多機能化を進めることはいうまでもないが,水平的統合の場合も多機能化を進める可能性がある。というのは,製造企業をとってみると工場施設の拡大,固定費の増大が生み出す生産量の拡大,費用切下げの要求が自力による販売活動の強化・拡大を求めさせるからである。
職能別部門と全社的管理機構
こうしてより多機能化し,かつより大規模になった企業全体の管理が,しだいにしかし意識的に進められるようになった。ここでほぼ共通する管理上の課題は,いかに多様な職能別の諸活動--財務(資金調達)・購買・労務・製造・販売--のそれぞれについて専門化を進め効率化をはかるか,また相互の調整をはかって企業全体としての費用低下をいかに実現するか,ということである。その具体的なあらわれとして,まず管理機構の全社的確立の動きがみられる。それは,それぞれの職能的活動を職能別部門として確立し,それぞれの権限と伝達のラインを確立し,各部門の処理範囲を明確化するところの,職能別部門組織の形成となってあらわれる。と同時に,各職能別部門の調整をはかる本社機構が,各職能別部門の上に組織的に位置づけられる。すなわち本社機構は,全社的統合と市場など外部環境との適応とを果たすものとして位置づけられた。こうして本社-職能別部門-工場または営業所という,垂直的な管理階層関係が確立されるようになった。1880年から1900年までの間に前述した企業集中運動の進展は,いくつかの企業を法的には単一企業に転化させたが,経営的にはまだばらばらの面をもったルーズな連合体であった。それが職能別部門組織の確立によって,第1次大戦ころまでに多くの企業が真の企業結合体になったのである。
集権的機構と管理方式・管理技術
本社機構を核とする最高経営者層(トップ・マネジメント)は,各部門活動を調整,評価し,市場の動きと部門活動とを調整し,さらに企業全体の政策を決定する。最高経営者層は,長期的予測・判断に基づく企業資源の部門間配分と短期的変動に対応した企業資源の有効利用とについての意思決定を行った。これに基づいて部門レベルの中間管理者層(ミドル・マネジメント)は,所属下にある各地工場や営業所を,製造や販売といった職能的専門性の観点から管理した。他方,労務,財務,購買などの部門は,どちらかといえば本社部門の一角を形成した。またエンジニアリング,法律,運輸,倉庫など共通サービス部門も,本社部門として設定されるようになった。さらに最高経営者層の意思決定を補佐するスタッフが,個人的スタッフなどの形で配置されるようになった。このような管理機構の特徴は,各職能別部門の職能別専門性と裁量性を強調しながらも,部門間調整に関する重要問題はいっさい本社-最高経営者層にゆだねざるをえず,この点から多分に集権的性格をもっている。
集権的職能別部門機構の確立に対応して,それと結びついて機能する管理方式や管理技術なども発展した。まず企業活動全体を効率的に機能させるには,今まで以上に将来の市場や需要の動きを的確に予測し,それに対応することが必要であった。これと関連して統計的方法による需要予測が先進企業で開発された。たとえばゼネラル・モーターズ(GM)社は第1次大戦直後,年々の需要予測に基づいて詳細な生産計画を立案するとともに,設備投資,操業度,従業員採用などに反映させた。会計そして内部統計が,経営の分析,経営者層へのデータ提供とともに内部統制の手段として用いられ,さらに後者は間接費の配賦と変動費の決定,変動費と操業度との関係,過去および将来の業績決定に意味ある原価分析の発展などに貢献した。また原材料・部品・製品の適正在庫をはかる在庫管理の方法も発達した。さらにいろいろな職能的活動の発展と量的拡大は,職能的部門間や部門内の資金利用の有効活用の必要性を高め,その手段として資金準備金勘定の運用手続が発展した。また企業予算制度も急速な発展をとげ,企業全体の経営方針の表明,部門間の資金配分,実績チェックによる部門活動の監督など,最高経営者層による全社的統括手段として機能した。以上のような職能別部門-本社といった職能別管理機構が確立し,それに連動して経営・管理(技術)が開発され進展することによって,企業結合がめざした本来の経済的効果が実現されるようになった。すなわち,多くのアメリカの大企業は20世紀初頭から第1次大戦ころまでに,全社的管理システムの構築を進めたのである。
経営管理論の形成と展開
アメリカにおける研究体制の成立と〈経営管理〉概念
以上のような方向は,当然に各企業における管理の専門化を促し,大量の管理者,管理補助者の需要を生み出す。こういった動きに相当程度影響を受けながら,1880年代から20世紀初頭にかけて,有名大学に商業-経営の専門教育を行う商学部が設置された。1881年にペンシルベニア大学のウォートン・スクール,98年にシカゴ大学,カリフォルニア大学などに設けられ,1907年にはハーバード大学に大学院レベルのビジネス・スクールが設けられた。そしてこのような教育分野を中心に,管理の研究・教育を行うものとして,business managementあるいはbusiness administrationといった領域が生まれ,30年代までに発展していった。それは,日本では〈経営管理〉と訳されるのが普通となったが,少なくともこの段階でのそれは,むしろ〈企業管理〉と訳されるべきものである。こういったことも含めて,日本語の経営管理という概念は若干矛盾を含んでいる。なぜならそれは経営を管理するという意味になるからであり,正確には経営・管理というべきであろう。ともあれ,こういった管理論の研究では,管理活動が出資活動や作業活動と異なる独自の内容をもつものとして分析されるとともに,その社会的意義が強調された。前者の方向では,たとえばチャーチA.H.Charchは,小規模経営で1人の資本家に結合していた活動が,財務・製造・販売などの基本方針の決定にかかわる決定的要素と,それを前提にして行われる管理的要素とに分かれ,管理的要素は企業の大規模化とともにしだいに専門経営者に委任されていく,と述べた。他方,後者の方向では,一種の専門職として独自の思考・行動基準をもち,そのことによって,資本と労働と異なる形で社会に奉仕しうる存在としてとらえようとする傾向がすでに含まれていた。
ヨーロッパの管理研究
このころアメリカ以外の国,とりわけイギリスやフランスでも管理の研究がしだいに進められるようになった。それは明らかに,各国企業における管理活動の重要性の増大,1920年代の合理化運動におけるテーラー・システムなどアメリカの管理研究の紹介・摂取などによって影響されたものである。
シェルドンの〈経営〉〈管理〉の概念
当時のイギリスの代表的研究にシェルドンO.Sheldonの《Philosophy of Management》(1924)がある。彼はまず管理を広義の管理としてとらえ,それは,経営administration,狭義の管理management proper組織からなるものとしている。経営とは,企業の政策決定,財務・生産・流通の調整,組織規模の設定,管理者の最終的統制を意味している。狭義の管理は,経営が設定した範囲での政策の遂行,具体的諸目的のための組織の利用を意味している。そして組織は,各作業を相互に関連させ,人間能力を能率的,体系的に利用するものである。彼のいう経営と管理は,管理活動そのものの内容が垂直的な構成をもっていることを指しており,管理活動の専門化が進むと,A.H.チャーチやW.H.ホワイトが指摘したように,水平的に分化するだけでなく垂直的に分化が進むことを指摘しているのである。そして,ここでとりあげている経営の言葉の意味は,日本語の経営にほぼ対応しているといってよい。それに階層的な関連をつけ加えて解釈するならば,最高経営者層の管理を経営と考えてもよいといえるであろう。したがって経営管理は,正確には経営-管理というべきであろう。
フェイヨルの管理論
フランスでは,H.フェイヨルがコマントリー・フールシャンポール炭鉱株式会社の社長などの経験を基礎にしながら,《産業ならびに一般の管理論L'administration industrielle et générale》(1916)を著した。彼はここで,管理が,大小を問わず,工業,商業,政治,宗教,その他事業の違いを問わず,きわめて重要な役割を果たしている,と主張する。そして企業の場合,管理活動は技術的活動,商業的活動,財務的活動,保全(財産・人員の保護),会計と並ぶが,しかしそれらと異なる独自の内容をもつと主張する。すなわち他の活動が物財ないし機械の運用に当たるのに対し,管理はもっぱら従業員に対し働きかけるのであり,具体的には将来を予測・計画し,組織し,命令し,調整し,統制することを指している。さらに彼は,経験や実践に基づいて検討され,社会的に承認された管理の原則を発展させることが必要である,と主張した。そしてそれは絶対的なものではないけれども,あたかも航海に際して船長が判断の基準とする羅針盤のような役割を管理者に与えるものである,と主張する。彼の理論は1940-50年代のアメリカの管理の研究,とりわけその体系化に貢献した。とくに,管理があらゆる人間組織に共通にみられる不可欠の活動であること,しかしそれは他の諸活動=作業活動と異なり組織のメンバーに働きかける活動であること,その管理はいくつかの下位活動から構成されていること,管理者の一般的判断基準として,経験的素材のなかから管理原則を帰納的に抽出するのが有用であること,といった点は強い影響を与えた。
ドイツの経営経済学
ドイツでもテーラー・システムが導入され,経営科学と呼ばれた。1920年代には経営組織論に発展し,労働過程の時間的連続性を中心とした作業組織の問題,さらに管理機構全体の階層的関係のあり方などを問題にした。とはいっても,ドイツの経営に関する研究は私経済学-経営経済学を中心に経営計算学の色彩を強くもって展開され,管理・組織の研究は,アメリカと比べるとはるかに弱かった。そして第2次大戦後まで,ドイツの経営経済学では,人間労働をあるがままに分析し,その問題の所在を明らかにし,それに対応した管理的・組織的考察を進めていくという動きは,ほとんどあらわれなかった。
日本における経営・管理の研究
日本の第2次大戦前の経営研究は,どちらかといえばドイツの私経済学-経営経済学の影響を受けて展開された。そして多くの研究は,ドイツの経営経済学における形式的方法論の吟味を主調として受けつぎ,企業-経営体-経営-管理の具体的内容をもった分析は,必ずしも進まなかった。こういったなかで渡辺鉄蔵(《工場経営論》1926)や馬場敬治(《産業経営の職能とその分化》1926)が科学的管理論やアメリカの管理論の研究をいち早く消化し,経営学に具体的内容をもりこむことに努力したことは見逃せない。とくに馬場は《産業経営理論》(1927)において,交換関係を対象とする国民経済学に対し経営内分業関係,換言すれば統一的支配のもとにある組織を分析対象とすることを主張し,さらにこの支配関係を形成し維持する活動としてmanagementを構想した。馬場経営学は第2次大戦前に,すでに組織・管理の理論的分析を実質的内容とする経営学にまで発展した。
戦前日本における経営・管理の実態
1920年代にアメリカを含め主要資本主義国は,官民協調の合理化運動を展開した。その具体的内容は国によってさまざまであったが,比較的共通するものとしてテーラー・システムの導入があげられる。なおそれは,ソ連においても導入された。日本でも同じような動きがみられた。すでに大正初期,アメリカなどで科学的管理を研究し,日本への導入をはかる人もあらわれていた。昭和初期に入ってテーラー・システムの導入をはかった企業にライオン歯磨,呉造船所等々の例がある(〈科学的管理法〉の項参照)。
鈴木悦三郎の《工場管理実学》
この科学的管理は日本の実務家や研究者にどのように受けとられたのであろうか。1912年(大正1)工場管理の研究でアメリカおよびヨーロッパに渡った古河鉱業の鈴木悦三郎は,帰国後,日光精銅所の所長となって工場管理の合理化を行い,2年で工員数半減,賃金2倍増,総経費3割削減に成功したという。彼が16年に著した《工場管理実学》は,日光精銅所における工場管理の改善を具体的に記したものである。鈴木は1日12時間労働を10時間,さらにわずか7時間にまで削減し,夜業も廃止した。またそれまでの時間給,請負給から独特の常用給(それまでの請負給支給額を標準としたうえで奨励給的要素を加味したもの)に変更した。そのほか,原価計算制度の改善,事務管理・分掌の改革を行い,上記のような成果をあげた。この彼が,10の働きをする甲と5の働きをする乙とが分業するとき,平均7.5の出来上りを得ようとするならば甲がその余力で乙を助けなければならない,テーラーやH.エマソンなどの個人的能率増進法は日本の工場ではあまり役に立たない,工場長が家長といった格で社員・職工すべてが一家族のようになることが必要である,といっていることは注目される。なぜならそれは,まさに科学的管理のエッセンスに触れると同時に,日本の経営の特質,少なくともその一つをみごとに語っているからである。
明治期から昭和初期の工場管理
大正期から昭和初期には少なからぬ企業に科学的管理が導入されたが,必ずしも十分定着したとはいえなかった。それでは日本の工場管理は,どのような形で展開されたのであろうか。
工場管理に焦点をおいてみると,明治期の工業化の初期には,日本にも内部請負制に近似した工場管理の仕組みが,半熟練労働を基幹労働とする産業,広義の機械工業にはあったようである。すなわちこのころ,熟練労働者のなかには渡り職人といわれ,いろいろな企業なり職場なりを有利な請負仕事を求めて転々と移動しながら多様な仕事をこなしつつ,熟練の厚みを加えていくといった労働者がいた。彼らのなかで親方職工といわれる熟練労働者群が生まれてくるが,彼らは若手の労働者に仕事をあっせんし,その技能指導をも行っていた。資本家ないし企業家は彼らに仕事を請け負わせ,個々の労働者の管理に直接手を出さなかった。しかし日露戦争(1904-05)後,急速な工業化が進むにつれ,企業は企業なりに期待する熟練のレベルを要求するとともに,より定着した労働力を求めるようになる。そこで少なからぬ大企業は自前の技能養成施設をしだいに形成し,従来の個人的,開放的な熟練形成から,個別企業に基礎をおいたより組織的かつ閉鎖的な技能形成が進むようになる。その初期のものとして八幡製鉄所と日立製作所の養成所(1910設置),芝浦製作所の職工教育制度(1915開設)があるが,これがほぼ多くの大企業に定着していくのが,第1次大戦(1914-1918)以降昭和初期である。
ブルーカラーの養成と管理
日本的現実における年功的熟練
企業は,小卒,高小卒の若年層を農村や都市近郊などから雇用し,工場の技能養成施設でイロハから技術などの知識を教え,技能の養成を行った。ただし彼らの技能習得は,養成施設においてだけでなく,それ以上に工場での仕事を手伝いながら,先輩の労働者から個人的に伝承される形で身につけていくといったOJT(on-the-job training)の要素がより強かった。彼らの熟練は,仕事のかたわら多分に年長労働者が個人的に体得したものを徐々にのれん分けの形で伝承していく形をとった。企業の自前の養成施設といっても,当初は親方職人などに蓄積されている熟練を,職長として迎えるなどの形で利用せざるをえなかったので,その技能形成過程は必ずしもテーラーが志向したような客観的,組織的なものではなかった。そして企業における資本蓄積の貧困は,アメリカのように徹底した標準的量産機械が企業横断的にどんどん波及していき,作業条件を均一化させていくことを妨げた。大企業といえども機械には〈ばらつき〉があり,この多少とも多様な機械(技術)を駆使して同じく多様性のある原材料から,ほぼ同質の製品をつくりあげていくのが,優れた熟練であった。それは入社後の仕事経験年数で徐々にレベルが上がるもので,年功的熟練ともいわれる。年功的熟練は以上のように,それぞれの企業の技術と結びついて固着する傾向があり,他の企業ではそのまま通用しがたいという点で,閉鎖的な性格をかなりもっている。そして企業自身がこのような形で養成した労働者を技能養成工としてブルーカラーの基軸にすえ,可能な限り定年退職まで雇用の保証を与え,終身雇用(終身雇用制)の対象としていったから,いっそうその性格は強まっていった。そこで勤続年数の上昇とともに技能レベルが上がるということにおおむね対応させて,昇給-昇進の仕組みをつくりあげていった。これが年功的賃金・昇進制度である(年功的労使関係)。
技能序列と現場管理機能
昇進制度についていえば,2級工員-1級工員-組長-掛長-職長といった形で,多くの機械工場にみられた職制=作業(管理)組織は,このようなブルーカラーの昇進経路を指してもいる。職長を頂点とする技能序列を企業側がフォーマルに権威づける形で職制としているともいえるが,そのこと自体が,実はこういった職場集団の相対的自律性を経営側が認めることを意味している。すなわち職制を上がるにつれて,熟練労働者は単なる作業熟練のみならず,後輩に技能を授け,企業の歴史を教え,その仕事を監督し,機械の保全,製品の検査,他職場集団との連係,工場管理者との意思疎通をはかるといった,現場管理機能をも担当するのである。年功的熟練にはこのような側面も含まれており,経営者側には職長などブルーカラーの頂点を直接掌握しさえすれば,他のブルーカラーについては彼らの準自律的な管理にゆだねたほうが経済的にも合理的であるという判断があった。そして,こういった作業労働の管理が,作業集団における人格的つながりを基調とした管理の性格を少なからずもつことは,ある程度当然であった。もともと企業-工場は,工業就業経験のない小卒,高小卒を採用し,熟練-労働力の質の管理は大幅に職長以下の現場管理者にゆだねたのである。したがって工場-企業レベルでは労働者管理が先行し,労働力管理はそれと未分離の形で結びついている,あるいは労働者管理を通して間接的に労働力管理を行うという形をとった。ここには,テーラー・システムが志向した生理的エネルギー放出の客観的標準化,それを基軸とした労働力管理そのものの形成・展開といった方向とは,若干異質の管理状況が生まれたのである。このような実態は,基本的には第2次大戦後の1950年代の技術革新期まで維持された。
ホワイトカラー管理職の実態
ホワイトカラー,広い意味での管理職・管理補助職の技能養成は,ブルーカラーの場合以上に個人的・経験主義的要素が支配的であった。第2次大戦前には大企業でも大卒・高専卒は絶対少数であり,彼らは経営幹部候補生としてブルーカラーの養成工以上に終身雇用の対象となった。そして入社後,多くの職能別分野を巡回して幅広い,しかし薄い経営・管理の知識と経験を身につけて,勤続年数とともに漸次その経歴を豊かにしながら昇進していくといった,より典型的な年功的昇進制度であった。
こういったなかで,製造企業についてみると最高経営者層を別にすれば,部門レベルではライン部門とりわけ製造部門がその基軸をなしていた。しかも戦前は大企業でも1企業1製造所が多く,せいぜい二,三の工場にすぎず,その工場・製造所は企業発祥の地であることも少なくなく,製造企業の中核として人,物,金を集中する単位であった。このような工場や事業所では,労働者管理としての労務=採用解雇・賃金・労務職制・労働争議対策,労働者組織対策が重要な意味をもっていた。さらに大事業所レベルでの原価管理,資金管理などの経理も重要な職能をなしていた。また当然のことながら技術-製造(設計・工程管理・操業管理・機械保全)関係の管理は製造所-工場の中核をなしていた。独立の研究所は少なく,工場で日常の製造,技術管理のかたわら研究活動が行われた。したがって製造所で幅広い管理上の経験を身につけていくことは,大卒・高専卒の重要な昇進経路であった。他方では,第2次大戦前の一般消費市場は未成熟で,かつ財閥系企業間において若干の分業もあり,企業間競争が不活発であったから,営業活動-マーケティング活動は相対的に脆弱(ぜいじやく)であった。
また本社部門でも管理機能の職能分化は未成熟で,前述の労務,経理以外には,(秘書・株式・調査・管理職人事・企画一般が混然とした)総務という非常に大ぐくりな部門が存在する程度であった。それぞれの分野における技能形成は,個人主義的,試行錯誤的,経験主義的で,先輩から後輩へとOJT中心に伝えられていった。もっとも実際の日常的管理事務は中卒が行うことが多く,大卒・高専卒とくに前者は,経営幹部候補生としていくつかの分野を巡回していくのが普通であった。こういった状況のもとでは当然,管理職,管理補助機関の協働関係は人格的・集団的性格をもつことになった。それは基本的には第2次大戦後の昭和30年代にまで及んだ。
〈人間関係論〉登場以降の管理論
〈人間関係論〉と人間関係的管理
アメリカでは,科学的管理以来の伝統的な管理の考え方が基本的には維持されつつも,労働力の担い手である人間主体そのものに注目する動きが1930年代以降強まっていった。その口火を切ったのはG.E.メーヨーをリーダーとする人間関係論,そしてその実践版ともいえる人間関係的管理である。
メーヨーの〈人間関係論〉
ウェスタン・エレクトリック社のホーソーン工場でメーヨー・グループがホーソーン実験(1927-32)を通して発見した新たな事実と,それに基づいて彼らが一般化した主張の骨子は次のようなものである。従業員は一人一人がばらばらに存在して賃金など物質的刺激の追求を合理的に判断し行動しているといったものでは必ずしもない。従業員を含めて人々は通常,なんらかの集団に属しており集団の規範にのっとって行動しようとする。この集団規範に同調する行動を没論理的行動とすると,それは目的合理的に行動する論理的行動と並んで重要な人間行動であり,近代産業社会の近代工場においてもごく日常的に発見されるものである。こういった集団のなかでも従来ほとんど注目されなかった集団,しかも多分に上述の没論理的行動形成・展開の基盤となる集団は,人々の間の感情の交流など相互作用が蓄積されるにつれて,お互いの間に自然発生的に形成されるにいたったインフォーマル集団である。それは目的合理的に設定されたフォーマルな組織・集団とことなる(公式組織・非公式組織)。しかも人々はこのような集団の一員となって集団規範に同調した行動をとるとき,集団の成員であると自他ともに認める心理的安定感-帰属意識をもつことができるのである。
このような事実発見とある種の一般化は,科学的管理以来アメリカの管理において確固として存在し,機能してきた基本的観念に大きく挑戦するものであった。すなわちそれは,分離可能,取替可能な個々の労働力の標準的作業形態を〈科学的に〉考察し,職能として組織的に位置づけ,それを賃金など物的刺激によって実現するという基本観念とおよそ対照的な人間観を提出したのである。と同時にそれは,経済人的人間観にも重大な挑戦を行うものであった。すでにアメリカの多くの企業では,心理学的方法を使いながらも伝統的な思考方法の延長線上で人間工学的な人事管理-疲労・単調の研究などを下敷きにしながら,人間-従業員を心理的エネルギーの保有者とみて心理的エネルギーの最適放出形態を物的誘因-作業条件との関連を含めてとりあげる行き方を,1920年代以降採用していた。また労組対策の意味をかなりもちながら従業員の福利厚生施設を充実する試みが,このころの労務管理の重要な要素をなしていた。しかしいずれにせよこういった人事管理にも,基本的には従業員を(経済)合理的に反応する要員的存在としてとらえる人間観が存在している。そしてそれは従業員の主体的・心情的側面,集団成員としての行動側面に光をあてていなかった。他方において労働移動,欠勤率,ストライキ等々の増大は,これらの労務管理は必ずしも適切な働きをしていないのではないかという疑問を生み出していた。
こういった状況のなかで,人間関係論が提起した基本的問題意識と産業における人間問題解決の具体的なアプローチは,1930年代後半以降とくに40年代において救世主の響きをもってアメリカの産業界に迎えられたのである。多くの企業では,作業などについての従業員の提案を奨励し,採用して参加意識を刺激する提案制度suggestion system,従業員の職場における各種の苦情を受理・処理する苦情処理制度grievance system,さらに積極的に従業員のもつ意見・不満を聴取し,その背後にある情感や態度の特徴を見いだそうとする面接計画,態度調査,ないしモラール・サーベイ等々が行われるようになった。いわばそれらは,要具的,孤立的,(経済)合理的な従業員観から離れて,主体的,集団成員的,没論理的行動の従業員の側面に管理のメスを加えようとするものであった。この意味においては,労務管理のレベルにとどまらず,企業における人間問題一般に斬新な視角を提供した。そのゆえに,アメリカの経営・管理の考え方全般に大きな影響を与えた。
〈人間関係論〉の限界
1950年代に入ると人間関係論への批判がしだいに強くなった。それには理論的批判もあれば実践的な批判もあり,おもな点は次のようである。(1)各種の実証的研究は,(人間関係的管理によって)従業員が社会的・心理的満足をもつとしても彼らの生産性が高くなる保証はない,すなわち両者の間に相互関係は存在しないことを明らかにした。生産性を直接左右する要因は別にあるのではないか,もう少し合理的な要因が働いているのではないか,ということである。(2)従業員は快適な人間関係のなかで自然に仕事への動機づけをするようになるとみなす傾向があり,職務や仕事そのものの意味,それに対する動機づけの関係がそれ自体としてとりあげられていないのではないか,しかも前者と後者は当然に同じものではないのではないか,というものである。
(1)(2)ともに理論的な批判であると同時に実践的な批判を含んでいる。(1)の問題は後に組織的意思決定論に部分的に継承され,その枠組みのなかに位置づけられる。また(2)は動機づけ理論そのものの発展に結びついていくのである。ただ筆者の考えでは,さらに次のような問題もある。(3)メーヨーなどは,集団とりわけインフォーマル集団の規範に同調して行われる集団成員の共通の没論理的行動を他から強制されない自然発生的協働とみ,そのゆえにこれを自発的協働とみなし,このような協働こそ近代産業社会において欠けているものと考え,それを回復するために人間関係的管理の必要を強調した。しかしこのような協働は,情緒的雰囲気のなかで好ましいものとして,まさに自然発生的に形成されたものであって,近代における自発的協働とはいいがたい。なぜならそれは,個人個人が協働に参加する意味を問い,それに納得するときに初めて自発的といいうるからである。メーヨーが中世における協働と近代における協働を区別できず,中世を協働の豊かな社会,近代を協働の欠如した社会とみなしていることも,同じ意味において間違っている。(4)没論理的行動-インフォーマル集団の存在,それによる従業員行動への影響を実証的に明確に明らかにしたことは今日でも重大な貢献であるけれども,彼らはこの点にあまりにも大きなウェイトをおきすぎ,フォーマルな組織や論理的行動を軽視してしまった。と同時にその相互作用を追跡することをほとんど行わなかったため,バランスの欠けた管理観になりかねないものとなった。(5)次に(4)に関連して従業員のインフォーマル集団と没論理的行動の意味を一方的に強調すれば,従業員に対する管理は受動的に展開するしかありえない。それらは独自の規範をもち,外からの統制には抵抗するからである。事実,人間関係管理は技術の変更,フォーマル組織の変更を,従業員集団の適応範囲にとどめるべきことを強調しているが,客観的条件は決してそれを許さない場合が少なくないのである。
以上の諸点は,人間関係論-人間関係的管理の基本的限界にかかわるものであるが,その存在そのものを否定するというよりは,その意味を相対化するものであった。そして人間関係論がこれまでの社会科学とりわけ経済学において鍛えあげられ,それを通して管理論にも大きな影響を与えた人間観である経済人的人間観をも相対化したこともまた事実であった。
1950年代の管理論の体系化と各国への波及
前述の科学的管理法に代表される伝統的管理論は1940-50年代前半新たに体系化されたが,50年代後半以降になると,人間関係論の影響があらわれてくる。もともと伝統的管理論は,前述したように,アメリカでは実践的要請と深いかかわりをもって登場したが,フェイヨルの影響などをうけて40年代以降,一般管理論-管理過程論としてそれなりの体系化をはかっていった。このころ著された管理論は,1932年刊のA.A.バーリとG.C.ミーンズの共著《近代株式会社と私有財産》における〈所有と経営の分離〉についての実証的研究を前提にしており,経営・管理が所有に対して独自性をもった社会的技能であるという認識を,1920年代のそれよりも強く打ち出している。と同時にそれは,フェイヨルにならってあらゆる種類の組織に共通に存在する不可欠の活動であると理解する。そして管理は人間活動を対象とするものとみなされ,〈人々を通して物事を行わせる技能〉と定義され,明確に作業と区別される(1920年代のアメリカの管理論では管理と作業を必ずしも十分識別していなかった)。それは最高経営者層,中間管理者層,下部管理者層を問わず,基本的には同じ内容をもつものとされる。具体的には,それは計画,組識設計,人事,統制などの下位職能からなり,かつそれが循環的に繰り返されていくところの循環的過程として把握されるのである。これが管理過程ともいわれる理由である。あらゆる種類の組織にみられるすべての管理活動そのものは,現実にはもちろん多種多様である。しかしあえて伝統的管理論は,それをこのような下位職能から構成される循環的管理過程として総合的にとらえようとするのである。そして現実の組織において発見された優れた管理実践の集積に基づいて,帰納的に管理者のよるべき管理原則を導出し,それを一般的準則に高めようとするのである。
第2次大戦後,アメリカの圧倒的な経済力を背景にし,多国籍企業を含めたアメリカ企業の広範な影響力を前提にして,アメリカにおける管理の研究と実践が各国の研究に大きな影響を与えるようになった。それは西ドイツの経営経済学にもあらわれたし,日本の経営学にも顕著にみられるようになった。西ドイツの経営学でmanagementの言葉がそのまま使用されることも少なくない。またイギリスはもちろん,フランス,イタリアなど西欧諸国,さらには東欧諸国などにもアメリカの管理論は輸入されていった。日本でも戦前と違って経営管理論などの名称のもとに,管理の研究が展開され,経営学の実質的内容を豊かにする方向で貢献するようになった。もっとも,伝統的管理そのものは,きちっとまとまった論理体系というよりは,上記のような大づかみな管理過程の枠組みを,現実の管理の動きを観察し,検討するプリズムとして利用するといったものである。したがってそれ自体にもりこむ具体的中身は,隣接分野の影響によって相当程度変化する可能性をもっている。すでに述べたように,人間関係論の影響が大きくなると,組織の問題においてフォーマル組織と並んでインフォーマル組織が強調されたり,また管理者リーダーシップが強調されるようになる。
〈組織的意思決定論〉〈動機づけ理論〉のインパクト
一方,C.I.バーナードに始まり,H.A.サイモンによって発展させられた意思決定論の影響もあらわれてくる。すなわちそこでは,経済人の超合理性と人間関係論の情緒性のどちらにもくみしない人間観--情緒的に反応するだけではなく,情報収集の能力と将来結果の計算能力において現実に制約をもっており,その制約の内で合理的に満足できると思われる代替案の選択=意思決定を行うところに管理人(かんりじん)administrative manの基本特性を見いだす人間観を提出する。そしてそのゆえにこそ,人々はそれぞれの合理性の限界を改善するために,他の人々との協働の道を選び組織に参加すると考えるのである。ここでは,組織はこのような人々の意思決定のネットワークとしてえがかれる。また管理的意思決定も,そのような組織現象の,きわめて重大だが一要因にみなされるのである。組織的意思決定論は,伝統的管理論の基礎にある人間観に大きなインパクトを与えると同時に,要具的管理機構をこえた組織観を植えつけるのに重大な影響を与えた。
またネオ人間関係論ともいわれる動機づけ理論は,マズローAbraham Harold Maslow(1908-70)の欲求階層説をほぼ共通の前提として受け入れる。それは,人間を内的欲求の束とみなし,それを充足しようとするとき動機づけられ行動をおこすと考える。欲求は,生理的欲求,安全への欲求,社会的欲求,自我欲求,自己実現欲求といった形で階層をなしており,それぞれが飽和水準に達すると,次の高い階層レベルの欲求充足が刺激されて行動のイニシエーターになると考える。これに対し現実の大規模組織では,分業が進んで一人一人の仕事はますます小さなものとなり,ほんの表面的な能力しか要求しないと,C.アージリスは両者の葛藤を強調する。しかも自我欲求とか自己実現欲求は,どのような仕事に従事するかに大きく関係している。こうして職務の再設計-職務拡充・職務充実が主張され,職場集団における参加的リーダーシップの実現が強調されるのである。またL.リッカートなどは,従業員の社会的・心理的満足を増大させるようなリーダーシップのもとでは,短期には生産性に影響を与えないが,従業員の経営に対する態度(人的資産)は好意的になり,長期には生産性をあげる,これに対し権威主義的リーダーシップでは,人的資産を食いつぶして短期に生産性をあげることができても,長期には生産性の低下をもたらす,と主張し,かつての人間関係論に対する批判に答えている。このような動機づけと小集団の理論も,管理論の中身を豊かにした。たとえば,管理過程を構成する下位職能の一つとして動機づけ職能が追加されたり,組織設計において職務再設計の考え方や小集団リーダーシップの考え方を導入するといった形をとるものも多くなった。
このようにアメリカの管理論は,ある意味では若干融通無碍といわざるをえないような面があるという意味で,現在なおそれは管理の科学という段階にまで達しているとはいえない。H.A.サイモンが,管理原則を普遍妥当性をもった行動基準というよりも,ことわざでしかないといった批判は,この点を痛切に示している。もっとも,現実の管理現象のなかには,高度に不確実で複雑な環境のもとで代替案の選択・決定を行わざるをえないレベルの管理行動がある。しかもそれは管理のなかでも不可欠の重要な部分をなしているゆえに,それになんらかの形で分析を加えざるをえない。それゆえ管理の研究には,どうしてもartとscienceの両面があるのである。意思決定の場合でも同じような意思決定のパターンが行われるような定型的意思決定でなく,1回限りの前例のない意思決定,すなわち非定型的意思決定がartの面の代表的なものである。これを科学的,客観的に分析することはたいへん困難である。ただしサイモンも明らかにしているように,定型的意思決定,非定型的意思決定の両面において,意思決定技術は大きな進歩をとげてきた。前者については,オペレーションズ・リサーチ,数量的分析,モデル分析,コンピューター・シミュレーション,コンピューターによるデータ処理が発達し,意思決定の科学化を進めた。後者については,なかなか適切な方法はなく,経営者,管理者の判断力・直観力や,試行錯誤に依存する等の方法にとって代わる合理的なものは生まれていないが,人間の思考過程をコンピューター・シミュレーション・モデルに模型化し,多少とも高度に複雑な意思決定に解析的に接近しようとするヒューリスティックな問題解決ないし全般的問題解決プログラムが形成されつつある。
意思決定の構造と経営戦略
非定型的意思決定は,今までの用語法でいえば管理というよりも経営といったレベルの意思決定を指すことになる。こうしてみると,組織,とりわけ企業組織は,若干その性格を異にする以下のような3層からなる意思決定構造をもっている,ともいうことができる。(1)は基礎的な作業的意思決定であり,企業についていえば,諸環境から資源をとりこみ,新しい産出物に変換していく過程(購買,製造,販売など)である。(2)は日常的作業的意思決定に影響を与え,その方向を制御する管理的意思決定である。(3)は組織-企業全体の設計・修正を行い,組織-企業の環境との関連で諸目的を定式化し,業績評価を行う経営的意思決定である。(3)のレベルの意思決定のなかでも典型的なものが戦略的意思決定ないし経営戦略である。それは企業環境との関連において,企業の長期的存続を可能にする方向を探索する意思決定ということができる。具体的には,(1)企業環境における(存続と成長の)機会,(存続・成長を危うくする)脅威の識別,(2)自己の相対的強み・弱みの自己点検(技術・商品企画・開発・マーケティング等の力を他企業と比較した場合の相対的優位・劣位),前者を伸ばし,後者を改善または廃除する方向の模索,(3)企業環境と企業との望ましい相互作用の場=企業の望ましい行動領域の設定,(4)望ましい行動領域内部の諸事業に対する重点評価とそれに対応した企業資源(人物,金など)の重点的開発と重点配分,といった過程をたどる。
アメリカにおける多角化戦略
経営・管理のなかで経営戦略ないし戦略的決定が理論的にも実践的にも重視されるようになったのは1960年代以降であり,とりわけ70年代に入って盛んになった。それには,実践的レベルでは1920年代に始まり,50年代の技術革新を背景にして60年代にアメリカのビッグ・ビジネスの成長手段として一般化した多角化(経営多角化)による成長が,戦略的な意味合いを強くもっていたこと,研究レベルではチャンドラーA.D.ChandlerやアンゾフH.I.Ansoffが多角化を戦略的含意をもって評価したことが,大きな影響を与えている。
アメリカの大企業で多角化が企業成長の基本的戦略として,いつごろから意識的に認められたかは確かではない。ただ第1次大戦後デュポン・ド・ヌムール社が行った多角化の成功が,他企業に刺激を与えたことは確かである。すなわち第1次大戦まで企業合併でアメリカで最大の火薬企業となっていたデュポンは,第1次大戦の終結と戦争需要の消滅といった事態のなかで,染料,鉛・顔料,合成樹脂,合成皮革といった新規事業分野に,戦争中得た特別利潤と戦後生まれた遊休能力を活用する,事業多角化にのり出すことを決定した。と同時に,大規模な研究開発部門-研究所を設定し,多数の研究者を俸給従業員として採用してその組織的活動によって企業行動の一環としての研究開発活動を展開し,新規事業分野の製品・技術開発を行った。それは,従来少数の天才の創造力にほとんど依存していた研究開発が,企業行動に内部化されることを意味している。
デュポンの多角化の成功のほか,いくつかの要因が,多角化戦略の一般化に働いている。第1は,アメリカにおける独占禁止法(シャーマン法,クレートン法など)の存在である。それは単一産業における集中度が重要な判断基準であるから,単一産業での成長に対して制約的に働く。これに対し複数産業にまたがって成長をする場合には,独禁法の制約は相対的にゆるい。第2に,20世紀に入って新しく登場し,1920年代以降急速に成長してきた電機・電子・化学といった産業は,技術変化のテンポが激しく新製品開発の可能性が大きいことである。さらにより一般的な理由もある。その第1は,単一産業に企業資源を集中的に投下しての事業は,短期的景気循環における景気後退期に企業業績全体が著しく悪化し,また長期的な産業停滞・衰退のなかで企業の存続そのものが危うくなるということである。第2に過剰能力(設備・技術者等)のより有効な利用,第3に副産物の製品化と市場開拓,第4に研究開発活動の企業内組織化による新製品(系列)創出の可能性の増大,第5に既存市場の成熟化と競争の激化,をあげることができる。こうして化学,電機,電子,自動車,ゴム,石油といった産業を中心に多角化が1920年代から徐々に,40-50年代から60年代にかけては活発に行われるようになった。
チャンドラー,ルメルトの研究
A.D.チャンドラーは,このような多角化にとりわけ関心をはらい,戦略的決定の意味を企業の長期的体質にかかわるものとしてとらえ,企業の長期目的の決定,それに対応した代替案の選択,諸資源の割当てに求め,アメリカの巨大企業における多角化戦略の形成と展開過程を歴史的にフォローした。彼は,さらに〈組織構造は経営戦略に従う〉といった著名な命題を提出し,多角化戦略の進展は,それに適合した組織構造として戦略を所与としてなされる装置・販売など業務上の決定権をもった,プロフィット・センターである自律的事業部divisionの採用を促すことを,これまた歴史的に明らかにした。またアメリカの巨大企業の多角化戦略の展開を,包括的なデータに基づいて統計的方法を使って実証したのがP.ルメルトである(《戦略,構造,経済的成果》1974)。彼は1949年,59年,69年の各時点でアメリカ最大500社のうち任意に抽出した100社に関し,時系列的な戦略変化を観察し,多角化戦略は1950年代に,とりわけ60年代に進行したのであり,同時に60年代初めまでは,以上のような多角化の進行は事業部制の採用をともなったことを明らかにしている。アメリカの巨大企業は今日では,多角化戦略を平均的な成長戦略とし,その管理機構としては事業部制を一般に導入しているのである。
第2次大戦後の日本の経営・管理
管理機構と企業の高度成長
アメリカに比べ日本企業の事業部制の普及率ははるかに低い。ある調査によれば1977年段階でも,事業部制を採用する企業は403社中172社,約43%と半数に満たない。しかもアメリカのような製品別事業部といった典型的な事業部制は172社中93社にすぎず,残りは職能別部門組織を採用しているとか,販売事業部・生産事業部など職能別部門制にむしろ近いものが含まれている(関西生産性本部《経営戦略と経営組織の新動向》1981年5月)。このような経営組織-管理機構の姿は,戦後日本企業の経営・管理の実態をかなりの程度反映しているが,特徴は概略以下のようである。
年功序列制の復活と終身雇用制の再生
戦後,占領政策の一環として行われた財閥解体,持株集中排除,財閥系家族・重役の公職追放,財閥系企業の企業分割等々は,財閥本社による傘下企業の統制を廃棄し,相対的により多数の企業がそれぞれの意思によって激しく競争しながら存続・成長をはかっていく一つの前提を与えた。専門経営者が一挙に出現し,彼らは資本家の代理人というよりは,広義の企業構成員代表の意味をより強くもった。1940年代後半は,多くの企業,そして経営者はどのように戦後条件のなかで企業の将来を考えていくべきか確信がもてないままに,戦後にわかに組織力が拡大した労働組合の激しい攻勢,とりわけ生産管理闘争に押しまくられていた。こういったなかで徐々に経営者層は労使対決の姿勢を形成するにいたり,厳しい労使紛争が少なからぬ大企業で発生した。その帰結は,大筋として経営者側がヘゲモニーを握るようになり,労働組合は経済闘争至上主義へと運動方針を転換していった。こういった状況で大企業経営者側がとった一つの企業秩序再建の方法が,年功序列型昇給・昇進制度の復活である。戦前のそれは,戦時中の動員による勤続構成の部分的解体,戦後生活難のなかでの一律生活給的要求に対応した各種手当が林立するなかで,事実上無意味になっていた。これを,定期昇給制の形成を契機に53年ころから58年ころの間に再建・確立したのである。そしてほぼ並行して,終身雇用制も再生されていった。激しい解雇反対闘争のなかで,多くの労働組合で新たにリーダーシップをとった組合リーダーは経済闘争を主張し,その核として雇用保証を掲げることで組合員の支持を獲得しようとした。経営者側にとってみれば,終身雇用制が完全に機能すれば雇用調節力をみずから放棄することを意味する。しかし激しいストライキのなかで,彼らも痛手を受けた。そして大量の臨時工・社外工を利用しうる条件が残されていた。こうして終身雇用の理念が,労使の最低の合意として定着するようになった。このような終身雇用制は戦前のそれと違って,中途採用者を含む常用従業員すべてが終身雇用の対象とされたのである。
終身雇用制と年功序列制は,それぞれ若干異なる要因を基盤にして形成されたが,いったんでき上がると両者の間に相互強化の信用が働き,日本企業の労使関係の大枠を形成した。というのは,年功序列制は,終身雇用の保証があって初めてみずからのものとすることができるし,また終身雇用制は,長く勤続することが報われるシステムがあって初めて,実質的内容を賦与されるからである。
高度成長の実現
終身雇用・年功序列が,従業員一般にとってより希望に満ちたシステムとなるためには,企業の成長,しかも高度な成長が重要である。なぜなら高度成長はパイの配分をふやすとともに,昇進すべき職位を増大させるからである。そこで終身雇用・年功序列は,企業が高度成長を志向する内的酵母となった。
さらに多くの諸要因が日本企業の高度成長に促進的に働いた。前述した企業間競争の活発化は,競争上の優位を実現する技術の導入,機械化・自動化の進展,企業規模の拡大と量産効果の実現等々を要求させた。1950年代の技術革新と海外技術の大々的導入,60年代半ばくらいまでほぼ一貫して大量に続いた若年労働力の供給,低金利政策の維持と金融機関からの低利・大量の資金供給の実現等々があげられる。多くの産業における代表的企業は海外の有力企業を到達目標として,新鋭技術・設備・工場の形成を志向し,規模の経済と国際競争力の培養を目ざした。こうして1950年代半ばから73年秋のオイル・ショック後の不況にいたるまで,長期にわたる高度成長が実現された。
経営・管理の多機能化
日本の企業における戦後の経営・管理の特色としては,著しい多様化の進展が指摘できよう。
マーケティング管理
軍需という安定的需要部門がなくなり,国際競争力がまだ十分でなかった多くの日本企業にとって,まず問題とすべきことは国内市場における市場占有率の確保であった。国内市場は核家族化の進展と消費単位数の増大,所得水準一般の向上等によって,購買力は大きく増大する可能性をもっていた。そして戦時中の民間消費の抑圧,戦後欧米においてすでにある程度伸びていた各種新製品の技術導入を含む製品開発が,民間消費を刺激した。カメラ,ミシン,合成繊維,テレビ,電気洗濯機,自動車,さらには住宅等々が大きな市場需要となって,企業成長を支えた。各企業は自己の売上げ・市場占有率を高めるため,新鋭設備・技術の導入をはかるとともに,販売活動を強化したのである。そして1960年代後半から70年代にかけて,少なからぬかつての成長商品-成長産業が成熟化するにつれて,市場の細分化が進み,差別化を軸とした販売活動が盛んになった。それは,単なる販売活動を超えた製品開発・製品企画・価格決定・広告宣伝・販売網管理・セールスマン活動といった一連の対消費者向け活動,すなわちマーケティング活動の展開を意味している。こうしてマーケティング管理が,日本企業におけるライン管理活動の一環として,製造管理につぐ重要な役割をもつこととなった。
経理部門の重要性増大
戦前から経理部門は数少ない本社部門の一つであったが,高度成長期における巨大な資金需要は経理活動をさらに重要なものとしていった。証券市場が十分再生しない間に,企業の高度成長が先行した状況において,長期的低金利政策を前提にして金融機関からの長期借入金が重要な資金源泉となり,この間接金融方式は1960年代に入って一般化した(〈直接金融・間接金融〉の項参照)。こうして経理部門は,金の面から高度成長を充足する重要部門となった。もっとも戦前からの経理部門は,多くの企業において60年代前半までにこういった資金調達を中心とした財務部門と,会計的数値を駆使して企業活動を計数的に計画し統制する予算・原価管理部門=計理部門とに分かれていった。前者はライン(管理)部門であるが,後者は最高経営者層の全社的年次計画・統制を補佐するスタッフ(管理)部門であった。さらに60年代以降は政府の所得倍増計画などにも刺激されて,長期経営計画の作成がしだいに多くの企業で盛んになった。技術革新の激しい環境のもとで急速に成長していく日本の企業を,長期的観点から計画管理しようとする最高経営者層の要求を反映している。長期計画,中期計画を担当し,この観点から最高経営者層を補佐するスタッフ部門として企画部門が漸次形成された。
研究開発管理
1950年代の技術革新期には欧米からの新製品・新技術が,技術導入などをパイプにして奔流のごとく流入してきた。強い競争意識は戦前以上に,各企業とりわけ製造企業の製造-技術-研究の組織上の地位を引き上げ,年々大量の大卒技術者を雇用させることになった。なぜなら企業間競争の一つの決め手が,いかに優れた新製品を他者よりいち早く開発して市場における開発リーダーとなるか,またいかに新しい効率的技術をマスターし,量産技術を駆使してコストリーダーになるか,にあったからである。60年代後半に入ると,一方では欧米の先進製品・技術にも革新的なものが生まれず,他方では欧米企業による日本企業に対するいわゆるブーメラン効果への脅威が高まるなかで,自主的研究開発活動の必要性が叫ばれるようになり,大企業で中央研究所の新設・拡充があいつぐとともに,複数の研究所や事業(部)研究所さえ設立されるようになった。アメリカの大企業と同じように多数の研究者が企業のサラリーマンとなり,研究所・工場における多数の研究者・技術者の高度に不確実でかつ個性的な研究開発活動をいかに組織化し,効果的に運営していくか,といった研究開発管理が,重要な管理領域として登場するようになる。以上のようにして,戦後日本の企業においては,急速に多機能的管理の必要性が増大していったわけである。
大卒ホワイトカラーと管理者養成
こういった状況に対応し,1950年代後半以降,大量の大卒の定期採用が行われるようになった。しかも60年代以降はブルーカラー職種における中卒の激減,高卒の代替によって,管理補助職の職場はいっそう大卒,とりわけ大卒事務系の中心的職場となっていった。そして戦前のように大卒を経営幹部候補者として,多様な職能領域を巡回させ,幅広いしかし専門性の薄い経験を身につけさせていくという行き方は,しだいに消失していった。なぜなら,一方で大卒ホワイトカラーはあまりにも多く,他方で職能別専門性を強化して管理水準を高める要求がしだいに強くなっていったからである。こうして大卒技術系が大学時代の専門領域(物理,化学,電気,電子,冶金,機械等)にほぼ準拠して工場や研究所に配属されるのに対して,事務系は教育経歴と無関係にアトランダムに,なんらかの職能別領域(経理-財務,企画-調査,労務-人事,国内販売-海外営業,など)に入社後数ヵ月ないし1年以内に配属され,多少の例外を別にしてその領域内の職能別専門性を順次身につけ,次長ないし部長にまで昇進していくのである。
この場合,各人はそれぞれの分野でほとんど素人として出発し,係長・課長代理などの先輩からOJTによって職能別技能・判断の訓練を受け,5年ないし8年ほどでそれぞれの職能別領域に必要な技能・判断力を身につける。このころ,企業は彼らを係長・課長代理などの職位で処遇し,以降はこの職能別領域内で判断領域を広げながら昇進していく。このような職能別専門性を核とした人材養成は,とりわけ60年代後半以降しだいに強まっていった。
常務会の機能
そして組織的には,その頂点として職能別担当常務が君臨しており,彼らが実質的に最高の意思決定機関である常務会の構成メンバーとなっている。常務会は,株主総会や取締役会と違って法的に必要とされる機関ではない。しかし内部出身重役が圧倒的に多い日本の大企業では,取締役内部に(年功的)序列があるため,大企業の取締役会は実質的に意思決定機関としての機能を喪失し,常務取締役以上の役員からなる常務会が最高経営方針の審議・決定の機関として一般化した。しかし社長を除くと,常務以上の役員もなんらかの職能別領域の担当(人事・組織担当,営業担当,研究開発担当など)をもつため,結局は部門間調整に常務会の審議が傾斜し,企業全体の経営戦略が十分討議されないという批判がたえず行われてきた。このこと自体は,確かに一つの問題点である。ただこのような組織状況が,前述した職能別部門制,職能別領域ごとの人材養成と昇進と結びついたとき,日本企業の相対的に優れた機能戦略を生み出す大きな基盤となったことを指摘しないと,バランスの欠けた主張となるであろう。
日本企業における機能戦略
すでにみたような終身雇用制・年功序列制を含めた人事・労務戦略,成熟期におけるきめ細かな差別化を軸とした総合的マーケティング戦略,オイル・ショック以降の低成長期における国際資金市場を含む弾力的な財務戦略等々は,上述の状況に結びつけて考察するとき,それなりに理解可能なものとなる。
生産戦略と技術革新
その典型が生産戦略で,アメリカではオペレーションのレベルにとどまっていた生産問題が,日本の企業では生産戦略にまで高められたといわれている。しかしその根は深く,かつ長い土壌の形成があって,初めてその効果が全面的に70年代以降あらわれてきたといえよう。すなわちそれは,1950年代の技術革新にまで遡及(そきゆう)して考える必要がある。
50年代の技術革新による生産技術の変革は,ブルーカラーの年功的技能やその職場集団にも大きな影響を与えた。すなわち第2次大戦中から戦後にかけて開発・蓄積された海外技術の導入はきわめて広範なものであったから,それが与えたインパクトはきわめて広くかつ深刻であった。ただある程度共通してみられた現象は,既成の年功的熟練が解体し,大量の単能工労働と計器労働とに分かれたということである。この結果,準自律的な職場集団を支えていた一つの重要条件である年功的技能序列が解体し,それまでの冗長な職場階層組織は多くの工場でより簡潔な,たとえば職長ないし作業長-班長ないし工長-作業員といった形にかわった。と同時に個々の労働は,それまでのように個人個人の心身に固着した熟練から,より客観化し標準化された技能が主軸をなすようになった。このような技能労働は,機械体系と有機的に結びついて編成される単なる労働力として捕捉され,管理されるようになる。こうして労働力管理と労働者管理が切断され,前者は生産管理の一環として把握され展開されることになるが,それは〈科学的管理〉がより高次の段階において導入されることを必要とした。またそれまでの職長などによる職場集団の準自律的管理展開の基盤が掘り崩された結果,工場労働者の意思がより直線的に作業集団の隅々にまで浸透する可能性が生まれた。それは新しい技術体系を,それまでの熟練労働者が十分習熟できない状況のなかで,大卒技術者が大々的に生産現場に立ち入って関与することによっても促進されたのである。
職場集団の準自律的管理
こうして一見,ブルーカラー職場集団における準自律的管理は解体の一途をたどったようにみえた。しかし事態は必ずしもこのような形でのみは進まなかった。1960年代に入ると,高度成長を支えた一つの条件である豊富な若年筋肉労働の供給が,継続的に高い労働需要の存在と高校への進学率の向上によって制約されるようになり,高卒労働力が中卒労働力にかわって漸次,ブルーカラーの中心的な担い手となった。また若年労働力不足が強まるなかで,労働条件の悪い臨時工に安んじる人々も急減した。それは,終身雇用制のもとでは,一層の雇用調整力の欠如を意味している。
この状況のなかで,多くの企業はしだいに常用従業員を多能工として育成・管理するようになった。そしてこのような一つ一つは相対的に単純化したけれども,複数の多様な職務を関連の深い職場での仕事を含めて巡回しながら勤続年数の経過とともに広く身につけていく,いわばキャリア形成が行われるようになった。その場合の主導権は依然として,工場管理者でも労組リーダーでもなく,職長ないし作業長と従業員仲間との話合いである。そして職場集団内の作業の段取り,実績チェック,職場規律の維持,職場内配置,教育訓練,昇給賞与査定,残業手当決定などについては,職長などは依然として実質的には大きな発言権を留保している。
QCサークル活動
この意味では,ブルーカラー職場集団の準自律的管理はそれなりに再生されたということができる。そしてこれと連動してQCサークル活動(小集団活動)が展開されている。それは就業外のインフォーマルな活動が建前ではあるが,サークル・リーダーは多くの場合職制のリーダー,たとえば班長などがなることが多く,討議テーマはほとんどフォーマルな仕事・作業条件の問題点のチェック,改善提案に集中する。この意味でそれは実質的にはフォーマルな職場集団と連動している。すなわち職場集団では,その時点時点で与えられた職務のかなりの部分を工場全体の準自動的なリズムのもとで遂行する。この点ではむしろ日本の工場は,ある意味では今や欧米のそれを凌駕(りようが)さえしており,生産の自動化やロボットの大量投入はそれを例証している。しかし彼らは一定期間後,同じ職場集団内のあるいは隣接職場集団内の他の職務に移動し,技能の幅をフォーマルに拡大していく。このような条件をバックにしたQCサークルでの討論は,十分実質的な内容をともなうことができる。同時に,フォーマルな建前から切り離されてインフォーマルな雰囲気のもとに,自由に現状を批判的に考察することができる。そしてここで提出された改善案・批判は,製造現場の大卒技術系の工場技術者によって適宜くみあげられ,ときには生産技術部あるいは品質管理部(品質管理センター)にとりあげられ,より大きな変革を生み出していく。さらにそれは,ときに生産担当役員の戦略的意見となって経営戦略のなかに結実していく。ここに生産戦略の組織的形成が可能となるのである。すなわち革新的生産技術の潜在的余力を徹底的に引き出すような技術改良・操業管理・工程管理・品質管理の創出等々は,それを示している。
企業戦略の問題点
これに対し,企業全体としてどのような製品事業分野に乗り出していくべきか,いかに重点的に企業資源を配分し開発していくべきか,といった企業戦略については,必ずしもオリジナルな展開は顕著にはみられなかった。その理由としては,(1)企業戦略とりわけ多角化戦略については,アメリカの大企業のそれに一定の時間的遅れをもって追随していき,これに前述の機能戦略を重ね合わせることで,かなりの成果をあげることができた,(2)前述のような組織的性格が十分これに適応的なものではなかった,ということができる。(2)については73年秋のオイル・ショック以降,多くの企業において少なからぬ組織再編成がみられた。その中心は,専務ないし副社長以上の少数役員からなる戦略的意思決定に専念する経営会議の新設,経営会議に直結する戦略的な委員会の設定,企画スタッフの戦略スタッフへの改編・強化などにある。こういった組織形成による潜在的戦略能力の創出が今後どのように日本企業の企業戦略の形成に影響を与えていくかは,これからの課題である。またそれは,海外戦略が大きな戦略的課題となっている日本の多くの企業の現在の問題状況に対する一つの回答でもあろう。
執筆者:岡本 康雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報