豊後大野(市)(読み)ぶんごおおの

日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊後大野(市)」の意味・わかりやすい解説

豊後大野(市)
ぶんごおおの

大分県南西部にある市。2005年(平成17)大野三重町(みえまち)、緒方町(おがたまち)、朝地町(あさじまち)、大野町、犬飼町(いぬかいまち)、清川村(きよかわむら)、千歳村(ちとせむら)が合併して市制施行、豊後大野市となる。市名は郡名に由来。市域は大野川の中・上流域を占め、東を佩楯(はいだて)山、西を阿蘇外輪山裾野、北を鎧(よろい)ヶ岳、御座(ござ)ヶ岳、南を祖母(そぼ)山、傾(かたむき)山などに囲まれる。大部分は山地で、大野川とその支流域に小盆地が開ける。JR豊肥(ほうひ)本線、国道57号、502号が東西に、10号、326号、442号が南北に走る。

 大野川流域は旧石器時代遺跡の宝庫として知られ、代ノ原遺跡(だいのはるいせき)ではナウマンゾウの牙の化石が、岩戸遺跡(いわといせき)(国指定史跡)からは後期旧石器時代の集石墓遺構が発見されている。古代の大野郡には大野、田口(たぐち)、緒方、三重の4郷があり、三重郷域に推定される市域南東部には前方後円墳の立野古墳(たてのこふん)、重政古墳(しげまさこふん)などが集中。平安時代、大野郷では豊後大神氏一族の大野氏が勢力を張ったが、のち大野荘地頭職を得た大友氏が台頭。緒方郷に成立した緒方荘は、平安末期に源平合戦などで活躍した緒方氏の拠点であったが、のちに大友氏が進出。室町中期以降、市域は大友惣領家の支配下に置かれた。江戸時代、市域の村々は西部から南部が岡藩領、ほかは臼杵藩領に属した。17世紀中ごろ岡藩によって灌漑用の緒方上下井路が築造され、緒方盆地は岡藩最大の米どころとなった。岡藩では年貢米や特産のシイタケ、祖母山東方の尾平(おびら)、九折(つづら)鉱山から採掘した銅、錫(すず)などを、大野川中流の犬飼湊から大野川通船で外港の三佐(みさ)湊(大分市)へ輸送した。

 現在の基幹産業は農林業で、米作のほか、シイタケ、ピーマン、サトイモ、ナス、アスパラガス、カボス、甘藷、茶などが特産で、木材生産や豊後牛の肥育も盛ん。祖母傾(そぼかたむき)国定公園、祖母傾県立自然公園、神角寺芹川(じんかくじせりかわ)県立自然公園に指定される豊かな自然環境を生かし、観光事業にも力を注ぐ。大野川本流に懸かる沈堕の滝(ちんだのたき)は景勝地として知られ、雪舟が「鎮田瀑図」を描いている。緒方宮迫東(みやさこひがし)・同宮迫西、菅尾(すがお)、犬飼の各石仏(磨崖仏)は、いずれも国指定史跡、神角寺本堂は国指定重要文化財。尾崎の石風呂(おさきのいしぶろ)は国指定重要有形民俗文化財。大草鞋を履いたひょうたん様が練り歩く奇祭、柴山八幡(しばやまはちまん)社のひょうたん祭は県選択無形民俗文化財。大分県央飛行場は1992年(平成4)に豊肥地区農道離着陸場として開港し、1997年に改称。現在は、大分県防災航空ヘリの基地、農産物の輸送、遊覧飛行などに利用。面積603.14平方キロメートル、人口3万3695(2020)。

[編集部]


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