北海道南西部、道内の空の玄関口。1958年(昭和33)市制施行。新千歳空港、JR千歳線・石勝(せきしょう)線、国道36号・234号・274号・276号・337号・453号、道央、道東自動車道が通じる交通の要地で、道都札幌とは40キロメートルの距離にある。かつては「シコツ」(アイヌ語で大きな窪地(くぼち)の意)と称したが、死骨に通じるのを嫌い、ツルの飛来にちなんで、江戸時代に千歳の好字に変えたという。西部にカルデラの支笏湖(しこつこ)があり、その火山噴出物上に市街地が展開する。1910年(明治43)苫小牧(とまこまい)に王子製紙(株)が建設されると、その動力源として市内を流れる千歳川に発電所がつくられたことが発展の動機になり、鉄道の開通、海軍航空隊の配置により人口が増加した。第二次世界大戦後にはアメリカ軍の進駐、ついで陸上自衛隊・航空自衛隊の駐屯によりサービス業などの増加が目だった。
千歳空港は1939年(昭和14)海軍航空隊配置後に本格的な滑走路がつくられ、1951年に民間航空が再開されると東京―千歳便が開設(1961)された。その後、羽田、成田、大阪など多くの空港と結ばれたが、航空自衛隊との共用という問題があった。そのため1988年に民間機専用の新千歳空港が開港した。札幌に近い地の利と豊かな水資源に加え、空港の所在を背景とした市の積極的企業誘致が成功し、機械、食品、印刷、ゴム、建設、木工、流通など多様な企業が進出している。
支笏湖畔には丸駒温泉(まるこまおんせん)、支笏湖温泉があり、一帯は支笏洞爺国立公園に指定されている。また、恵庭(えにわ)岳西麓(ろく)にはオコタンペ湖がある。蘭越(らんこし)地区のウサクマイ遺跡群からは擦文時代の墓などが発見され、国の史跡に指定されている。面積594.50平方キロメートル(一部境界未定)、人口9万7950(2020)。
[奈良部理]
『『千歳市史』(1969・千歳市)』▽『『増補千歳市史』(1983・千歳市)』
大分県南部、大野郡にあった旧村名(千歳村(むら))。現在は豊後大野市(ぶんごおおのし)の中央部北東寄りにあたる地域。1941年(昭和16)井田(いだ)、柴原(しばはら)の2村が合併して千歳村が成立。2005年(平成17)三重(みえ)町、清川(きよかわ)村、緒方(おがた)町、朝地(あさじ)町、大野(おおの)町、犬飼(いぬかい)町と合併して市制施行、豊後大野市となった。旧村名は合併時の県知事の命名で、知事の母の名によるという。大野川中流と同支流の茜(あかね)川の沿岸沖積地の米作、その周辺の阿蘇(あそ)溶結凝灰岩台地の畜産(肉用牛)、葉タバコ、ハトムギ、花卉(かき)など農業が主産業。国道57号が通じる。平尾社(ひらおしゃ)の石造宝塔・鳥居は県指定文化財。柴山八幡(しばやまはちまん)社のひょうたん祭は県選択無形民俗文化財で、12月第1日曜日に開催。
[兼子俊一]
『『千歳村誌』(1974・千歳村)』
求肥(ぎゅうひ)を用いた加賀(石川県)の祝い菓子。京都の中島浄雲が江戸に求肥の仕法を伝えて以後、金沢の森八(もりはち)が創作した菓子で、江戸中期ごろとみられる。黒糖を使った小豆の蒸し餡(あん)の上下を紅白の求肥で押さえ、四角に切って冠婚祭の引き菓子に用いられたが、その姿が押しずしに似ているところから千歳鮓(ずし)ともよばれた。この菓子は加賀藩の藩菓にも取り上げられたが、幕末のころ、森八(もりはち)14代目の森下八左衛門は、飴(あめ)を加えた黒糖餡に改め、求肥で富士山の形にくるむ姿に改良した。一方、江戸・本郷で加賀藩御用を勤めた藤村(ふじむら)は、名代羊かんに用いる餡を求肥でくるみ、上に紅白の新びき粉をまぶす手法で江戸風の千歳を今日に伝えている。
[沢 史生]
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
北海道南西部,札幌市の南東にある市。1958年市制。人口9万3604(2010)。市域の西半は支笏(しこつ)湖とそれにつづく台地,中央東寄りは石狩平野の南端,東は馬追丘陵からなり,東西に細長い。千歳川が市街地を北流する。開拓は1869年高知藩移民の入植に始まる。明治初期に札幌本道,1926年に鉄道(のちのJR千歳線)が開通し,39年には海軍航空隊基地が設置された。第2次世界大戦後はアメリカ軍の空軍基地となり,57年航空自衛隊基地となる。また61年から民間航空路が開設され,千歳空港は北海道の空の玄関口として重要な役割を果たしたが,86年以降,新千歳空港がそれに代わっている。80年にはJR千歳空港駅(92年の新千歳空港駅開業に伴い南千歳駅と改称)が設置され,81年には石勝(せきしよう)線が開通し,道東への主要幹線となった。南北には道央自動車道,国道36号線,東へは道東自動車道が通じる。1964年道央新産業都市の一部として工業団地が造成され,89年には道央テクノポリスの指定をうけて,電気機器工業を中心に,内陸工業都市として発展している。農業は米作,畑作のほか酪農が行われる。千歳周辺は道内でも注目される遺跡が多く,祝梅(しゆくばい)三角山遺跡では先土器時代の道内最古段階の石器を,美々(びび)遺跡では縄文後・晩期の動物形土製品などを出土し,ウサクマイ遺跡では続縄文~擦文時代の蕨手(わらびで)刀と北海道式古墳が発掘された。恵庭岳周辺の原始林,支笏湖など景観にすぐれ,一帯は支笏洞爺国立公園に含まれる。恵庭岳南麓の支笏湖畔に丸駒温泉(硫黄泉,58℃)がある。
執筆者:山下 克彦
御神楽(みかぐら)に歌われる神楽歌の曲名。現行の歌詞は本歌〈千歳 千歳 千歳や 千年(ちとせ)の 千歳や〉,末歌〈万歳(まんざい) 万歳 万歳や 万世(よろずよ)の 万歳や〉,本歌〈なほ千歳〉,末歌〈なほ万歳〉。この曲は,前張(さいばり)といわれる民謡風の歌群の最終部に歌われるが,歌というより祝言の呪文のようなもので,《鍋島本神楽歌》《楽章類語鈔》などにはこれの曲名に《千歳法》とあって,下に〈しかさへづる声〉と注記がある。〈さへづる〉は雅楽にいう囀(てん)/(さえずり)(舞楽の途中で漢詩句を朗誦すること)で,これと同様の唱法を用いるとの注記かといわれている。なお江戸末期の注釈書《梁塵後抄》はこの注を,昔は千歳と称する者が出てこの詞を唱え,その後に《早歌(はやうた)》を舞ったのであろうと,能の《式三番(しきさんばん)》との関係を暗示するような説を述べているが確証はない。
執筆者:石田 百合子
能の《翁(おきな)》(《式三番》)に登場する役。翁が面をつけるときには脇座にいて両手をつき平伏している。翁の謡のあと〈鳴るは滝の水,鳴るは滝の水,日は照るとも〉と謡いながら立ち上がり,〈たえずとうたり,常にとうたり〉の謡に続いて〈千歳ノ舞〉を舞う。前後2段に分かれ,軽快な足拍子を踏んでのはつらつたる舞事である。千歳の役は《翁》一番の露払いとしての役割をもち,上掛り(かみがかり)(観世,宝生)ではシテ方の演者が勤め,別に狂言方の面箱持(めんばこもち)の役も登場するが,下掛り(しもがかり)(金春,金剛,喜多)では狂言方の演者が千歳を勤め,面箱持をも兼ねる。
執筆者:羽田 昶
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…5役のうち翁面(《翁》の主役)・三番猿楽(三番叟)・父尉の3老翁による三番の舞が翁猿楽の主体であるために〈式三番〉とも呼ばれたらしいが,これに延命冠者(父尉の応対者)と児(露払役。千歳)とを加えた5人が登場するのが南北朝時代前半までの形であった。猿楽の芸の主体が歌舞劇としての能に移り,翁猿楽の地位が低下した南北朝時代後半には,5人登場する形から露払・翁・三番猿楽の順に3人が舞う(別に面箱持ちが出る)形になっているし,観阿弥が今熊野猿楽で《翁》を舞い,専門役者以外の者の《翁》上演の道を開くなどこの時期には翁猿楽もかなりの変化をとげたようだが,それらを踏まえて上演された世阿弥時代の演出形態が今日のそれとほぼ通ずるものになっているようである。…
…(3)面箱持の役は三番叟と同じく狂言方から出る。(4)白キ翁の前奏舞を舞う若者は千歳(せんざい)と呼ばれ,下(しも)掛り(金春,金剛,喜多)では狂言方から出て面箱持の役を兼ねる。上(かみ)掛り(観世,宝生)では,面箱持とは別にシテ方から出る。…
※「千歳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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