赤木村(読み)あかぎむら

日本歴史地名大系 「赤木村」の解説

赤木村
あかぎむら

[現在地名]直川村赤木

仁田原にたはら村の東、久留須くるす川支流の赤木川流域に位置。栗林くりばやしに応永一八年(一四一一)三月一五日銘の正明しようみよう寺跡層塔が、中津留なかつるに永正九年(一五一二)八月銘の中津留観音庵宝篋印塔二基がある。宮元みやのもとに大永七年(一五二七)憤死した佐伯惟治を祀る富尾とびのお神社がある。なお屋形やがたに惟治を裏切った森嶽周防守の流れを汲む盛嶽貞則の逆修塔があり、天文一八年(一五四九)九月一二日の紀年銘がある神内釈迦堂石幢、通称六地蔵は県指定文化財。慶長豊後国絵図に赤木村とみえ、高一千二九八石余。

赤木村
あかぎむら

[現在地名]鎮西町大字赤木

東松浦半島上場うわば台地北東部の丘陵地にある。丘陵は緩やかで、耕地の占める割合が多い。日野田ひのだ川が村内を流れる。唐津藩政期には塩鶴しおづる中野なかの丸田まるた(以上現鎮西町)呼子よぶこ大友おおとも小友ことも(以上現呼子町)横野よこの屋形石やかたいし中里なかざと(以上現唐津市)の各村をまとめる赤木組の大庄屋が置かれた。縄文時代の石鏃・掻器が散見され、弥生中期の土器も発見されている。古代から大陸への渡航の拠点登望とも駅近くにあり、中世に入って松浦党の支配下にあった。

赤木村
あかぎむら

[現在地名]相馬市赤木

北の立谷たちや村の枝郷。東流する日下石につけし川南岸の平坦地から台地にかけて位置する。南の行方なめかた南柚木みなみゆぬき(現鹿島町)から北へ延びる浜街道が村内を通り、立谷村日下石村の境に至る。明暦二年(一六五六)立谷村から分村したとされ(相馬藩政史)、天保郷帳にみえる立谷村に「古者 立谷村・赤木村・樋口新田三ケ村」と注記される。明暦二年の高三九七石余(相馬藩政史)元禄郷帳に立谷村枝郷と注記され高六〇三石余。

赤木村
あかぎむら

[現在地名]葉山村赤木

新荘しんじよう川に注ぐ赤木川・桑の川くわのかわ川・舞の川まいのかわ川に沿った谷間の村。北には鶴松森かくしようもりから東に延びる山地が連なり、東はかいかわ村。天正一六年(一五八八)の津野半山地検帳のうち、村域には赤木谷分と、「クリノ木野」分を除いたマイ野川のかわ谷分が含まれると考えられ、総検地面積八町二反余、ヤシキ三四筆。赤木谷はほとんどが津野氏の家老津野藤蔵人の給地、マイ野川谷は津野氏家臣門屋隼人・森部采女らの給地であった。赤木谷にはくわかわクチ・フノなどのホノギがみえ、桑の川・舟野ふねのの地名は現存する。

江戸時代は半山はやま郷の一小村で、元禄郷帳による本田高八八石余。

赤木村
あかぎむら

[現在地名]紀和町赤木

丸山まるやま村の北にあり、北山街道が南北に通り、赤木川が西北に流れて北山川に注ぐ。大倉谷おおくらだに(現八瀬戸)が当村の南にある。中世は西山にしやま郷の内であったと考えられる。慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)に「赤木村」と記される。入鹿組に属する。慶安四年(一六五一)から正徳五年(一七一五)にかけて新田検地が行われた(「新田畑検地帳」徳川林政史蔵など)。「紀伊続風土記」は赤木城跡について、

<資料は省略されています>

と記している。

赤木村
あかぎむら

[現在地名]美里町赤木

貴志きし川沿いの村であるが、南の山間に村域が広がり、南境は有田郡に接する。東は高畑たかはた村、西は鎌滝かまたき村。貴志川北岸を高野街道が通り、その近くに弘法大師が掘ったと伝える井戸と地蔵堂がある(続風土記)

弘長三年(一二六三)二月一二日付の日置国利田地譲状(続宝簡集)に「神野御庄赤木田地券文事」とあり、赤木の地が国利より養子長乗坊に譲られている。文永八年(一二七一)八月二四日の高野山領神野庄田地充文(同集)には神野庄赤木村内田地について「右件田地者、慈法房与長乗房、雖有相論、所詮違乱出来時者、可返本直之由券契明白也」とあり、相論があったらしい。しかし同年一二月、この地は長乗坊実能によって高野山の御影堂陀羅尼田として寄進されている(同月二一日「大法師実能御影堂陀羅尼田寄進状」同集)

赤木村
あかぎむら

[現在地名]津久見上青江かみあおえ 赤垣あかがき

蔵富くらとみ村の南、青江川の中流左岸に位置する。江戸時代は臼杵藩領で、初め津久見村組(慶長一一年惣御高頭御帳)、のち道尾組に属した(「臼杵藩御会所日記」など)。村名の由来について「臼杵小鑑」は「津久見の谷あいに、いにしへは青・赤の名ありて、今はたゞ赤河内の名明らかなるのみ。(中略)赤河内に今閼伽八幡の祠あり。然れば古へその地名を閼伽と呼びし事明らか也。さて此赤木村といへるも(中略)閼伽来あかきのよしにて閼伽の人来りて住初し故の名にや」と記す。

赤木村
あかぎむら

[現在地名]上市町和合わごう

白岩しらいわ川の扇状地に位置し、東を白岩川が流れ、西は大塚新おおつかしん村、白岩川を挟んで女川おながわ村・新屋あらや村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高六四石、免四ツ六歩(三箇国高物成帳)。その後享保七年(一七二二)に検地引高が発生、一方同一七年・延享元年(一七四四)の手上高が計二石あって都合高四二石となる(天保一一年「高免帳」杉木家文書)

赤木村
あかぎむら

[現在地名]松本市寿 赤木

赤木山の西麓、川の右岸にある。

嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「赤木郷赤木太郎入道跡」とある。赤木家文書によると、赤木氏は嘉元二年(一三〇四)鎌倉幕府の下知によって備中に移っているが、弘安年間(一二七八―八八)既に赤木氏の所領となっていたことがわかる。

山城は初め赤木山の南山麓の狐林きつねばやし、館は現在弘長寺跡となっている所にあった。

赤木村
あかぎむら

[現在地名]熊野川町赤木

長井ながい村の東北にあり、小口こぐち(現赤木川)両岸に集落を形成。日足ひたり村とともにこの付近最大の穀倉地帯。慶長検地高目録では村高三六五石余、小物成四・九四四石。元禄(一六八八―一七〇四)以後、長井村ひがし村が当村から分村(続風土記)したため、天保郷帳では村高二五〇石余となる。

赤木村
あかぎむら

[現在地名]古座川町西赤木にしあかぎ

宇筒井うづつい村の東方にあり、南方に位置する長洞尾ちよううつお村と谷を同じくする小村。慶長検地高目録によると村高一二石余、小物成八斗六升。天保郷帳では高四〇石余。三尾川組に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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