福井県中西部,丹生(にゆう)郡の町。2005年2月朝日(あさひ),旧越前,織田(おた)の3町と宮崎(みやざき)村が合体して成立した。人口2万3160(2010)。
越前町北東部の旧町。丹生郡所属。人口9590(2000)。東部は武生盆地の北西部に当たる低地,西部は丹生山地が占め,低地と山地は断層で接する。中心集落の西田中は江戸時代には幸若舞で知られる幸若氏の領地として栄えた。天王川,和田川沿いの肥沃な低地は古くから良質米の産地で,シイタケの栽培も盛んである。ほかに家具,繊維,眼鏡枠の地場産業が発達し,町の基幹産業となっている。越知(おち)川流域の横山は杉の美林で知られ,良材を産する。縄文中期の栃川遺跡,5世紀の築造とされる朝日山古墳などがあり,大谷寺の石造九重塔,不動明王像,八坂神社の阿弥陀如来座像,釈迦如来座像などは重要文化財に指定されている。
越前町西部の旧町。丹生郡所属。人口6112(2000)日本海に面し,丹生山地を背後に西部は海岸段丘が続く。低地に乏しく集落は段丘崖下の狭い低地にある。越前岬付近は対馬暖流と寒流が衝突する県内第1の好漁場で,古くから水産業が発達した。エチゼンガニ,ウニの特産物があり,イカ,イワシ,サバなどの水揚げが多い。隆起海岸のため天然の港湾に乏しく,船を陸に揚げてしけから守る(ま)という避難場所を必要としたことから第2次世界大戦直後まで封建的な主制度が残った。海食崖,岩礁が複雑に交錯した海岸線一帯は越前加賀海岸国定公園に含まれ,越前岬から北隣の福井市の旧越廼(こしの)村居倉浜に至る海岸段丘は,海岸気候をいかし早咲きスイセンの日本三大産地の一つとなっている。
越前町中部の旧町。丹生郡所属。人口5283(2000)丹生山地の中央に位置し,四方を山に囲まれ,天王川支流の織田川沿いに盆地が形成される。中央に《延喜式》の式内社で,旧国幣小社の織田神社があり,中心集落の織田は鳥居前町として発達した。織田信長の祖が神官を務めたとされ,織田氏の崇敬を受けた。社蔵の梵鐘は奈良時代の製作で,国宝に指定されている。南隣の旧宮崎村とともに古越前の産地で古窯跡が多く残る。農林業を基幹産業とするが,繊維,木材,窯業などの工業生産額も多い。特に伝統のある窯業では越前織田焼,越前瓦の生産が盛ん。光輝畳縁,織田人形も作られる。
越前町南部の旧村。丹生郡所属。人口4032(2000)。丹生山地の山間盆地に集落があり,村落は東西に細長く,東は鯖江市,南は旧武生(たけふ)市に接する。陶土にめぐまれて越前焼の産地として知られ,北隣の旧織田町域にかけて越前古窯跡群がある。小曾原(おぞはら)の神明ヶ谷には須恵器窯跡があり,一帯には越前陶芸村が設置されており,県立窯業試験場(現,福井県工業技術センター窯業指導所),陶芸館がある。農業は米や野菜のほか,たけのこが特産。小曾原にある相木家住宅(重要文化財)は入母屋造茅葺きの江戸時代のこの地方の標準的な民家といわれる。
執筆者:上田 雅子
福井県中部の市。2005年10月武生(たけふ)市と今立(いまだて)町が合体して成立した。人口8万5614(2010)。
越前市北東部の旧町。旧今立郡所属。1956年粟田部町が改称の後,岡本村を編入。人口1万3907(2000)。武生盆地の東縁にあり,越前中央山地を刻む鞍谷川とその支流の谷を占める。狭い耕地と冬の積雪から古来農産加工が盛んで,それが現在の機業兼業農家につながり,リボン類の細幅織に特色がある。中心の粟田部は三里山の南縁にあり,古くから付近の商業地であった。その南東の五箇(ごか)は越前和紙で名高い旧岡本村であり,大滝を中心に不老(おいず),岩本,新在家,定友が専業和紙産地を形成している。文献では14世紀後半,朝倉氏の大滝神郷紙座保護にさかのぼり,近世は福井藩が有力すき屋〈御紙屋〉に特権を与え,奉書紙,鳥の子紙など幕府・藩の御用紙をすかせた。洋紙の普及でふすま紙,美術小間紙などに中心は移ったが,明治期に考案された独特の〈溜めすき〉による局紙(証券用紙類)など新技法開発が,数少ない和紙産地として生き残った最大の理由である。
越前市中西部の旧市。福井平野南端の武生盆地に位置する商工業都市。1948年武生町と神山村が合体,市制。人口7万3792(2000)。日野川西岸の扇状地性の堆積地を占める市街は,明治以前は府中とよばれ,古代の越前国府の所在地であった。中世に守護代甲斐氏,近世には福井藩家老本多氏の館が置かれ,北陸街道の宿場を兼ねた町屋は嶺北地方南部にかなりの商圏をもち,近年まで街道中央の水路(今は暗渠(あんきよ)の下水道となる)と松並木に旧景観を残していた。鎌倉時代の刀鍛冶に起源をもつという打刃物は江戸時代に越前鎌として広く知られ,今も包丁,押切,はさみなどを特産する。明治期に絹織物が福井から伝わり,大正期以降九頭竜川上流の豊富な電源に引かれて化学肥料,電気機械など近代工業も立地した。JR北陸本線が通じる。近年は国道8号線沿いの市街西部に都市化が進み,北陸自動車道武生インターチェンジに近い日野川東岸の開発が進められ,県内では福井市をしのいで1位の工業出荷額(1995)をあげている。市街西郊の大虫には奈良時代の廃寺跡があり,北郊の本保(ほんぼ)には江戸時代に越前の天領を統治した代官所があった。市域南東部の味真野(あじまの)も白鳳期の廃寺跡のある古く開けた地で,近年〈万葉のふるさと味真野苑〉が開設された。文室(ふむろ)川扇状地では茶や杉,ヒノキの苗を特産する。
→府中(城下町)
執筆者:島田 正彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
福井県中西部、丹生郡(にゅうぐん)にある町。西は日本海に面し、越前岬の南と東に位置する。1955年(昭和30)四ヶ浦(しがうら)町と城崎(しろさき)村が合併して越前町と改称。町名は、美味をもって全国的に知られるエチゼンガニおよびエチゼンウニの産地として、また越前岬の所在地であるところから名づけられた。2005年(平成17)朝日町(あさひちょう)、織田町(おたちょう)、宮崎村(みやざきむら)と合併し、新町域は内陸の武生(たけふ)盆地までを占めるようになった。海岸部を国道305号が走るほか国道365号、417号が通じる。越前海岸にはみごとな海岸段丘が並び、また切り立った断崖(だんがい)をもつ男性的な海岸美は、越前加賀海岸国定公園中の代表的風景の一つである。海岸線は単調で天然の良港は少ないが、本県の海岸中もっとも漁場に近く、数多くの漁村を有し、夏の海水浴・ウニ漁、冬のカニ漁に多数の訪客を集めている。なお初冬、段丘面に咲き乱れるスイセンは県花に指定されている。玉川温泉(越前温泉)もある。劒(つるぎ)神社の梵鐘(ぼんしょう)は国宝に指定される。面積153.15平方キロメートル、人口2万0118(2020)。
[印牧邦雄]
『『越前町史』全3巻(1977~1993・越前町)』
福井県中部にある市。2005年(平成17)武生市(たけふし)、今立(いまだて)郡今立町が合併して成立。市名は市域に古代、越前国の国府が置かれたことによる。東、南、西の三方を山に囲まれた武生盆地の南部に位置し、中心の武生市街は日野(ひの)川のつくる扇状地にある。JR北陸本線、福井鉄道福武線、北陸自動車道、国道8号、365号、417号が通じる。
日野川より東、味真野(あじまの)扇状地を含む地域に岩内山(いわうちやま)古墳群、味真野古墳群など古墳時代の遺構が多く確認され、味真野には男大迹(おおど)王(継体天皇)が住んだとの伝承が残る。古代には北陸道の門戸の位置にあたる武生に越前国府が置かれた。越前国府には国分寺、総社なども創建され政治・交通の中心地として開け、『源氏物語』の作者紫式部は国司となった父に伴われて移り住んだとされる。中世には越前守護所、戦国期、朝倉氏の時代には府中奉行(ふちゅうぶぎょう)所が置かれ、府中とよばれた。織田信長が越前を平定すると、1575年(天正3)市域を含む一帯はいわゆる府中三人衆に分与され、前田利家は府中城に、不破光治は竜門寺(りゅうもんじ)城に、佐々成政は五分市(ごぶいち)に小丸(こまる)城(城跡は県指定史跡)を築いて在城した。府中城は1613年(慶長18)以降は福井藩の家老本多氏4万石の居館となり、明治を迎える。府中城主本多氏初代富正は、府中の整備や日野川の治水工事、町用水・道路工事などを行い、打刃物や織物など地場産業の発展にも力を尽くし、武生の基礎を築いた。城福寺の枯山水庭園は国指定名勝。越前万歳は国の重要無形民俗文化財。
現在、産業としては鎌倉時代からの「越前打刃物」の伝統を継ぐ包丁類、越前和紙として知られる今立地区の和紙、紙加工業、絹・合繊などの繊維工業、電気機器、木工などがある。面積230.70平方キロメートル、人口8万0611(2020)。
[編集部]
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