遣迎院(読み)けんこういん

日本歴史地名大系 「遣迎院」の解説

遣迎院
けんこういん

[現在地名]東山区本町十九丁目

本町ほんまち(伏見街道)の東側に西面して寺門を開く。本堂は南面。浄土宗西山禅林寺派、山号慈眼山、本尊十一面観音。「山城名勝志」に「在東福寺前三橋南、東傍、仁空上人記云、本願光明峰寺殿、開山善恵上人」とある。同書はまた現京都市上京区てら(京極)にあった遣迎院(昭和三〇年京都市北区に移転。北区の→遣迎院との関係について、「近世遷京極鷹司北(中略)然此地猶存小堂」と述べ、この地からかなりの部分が移ったものとしている。「拾遺都名所図会」は「京極遣迎院の兼帯所也」とする。「京都府地誌」に「廃遣迎院」として「本町通拾九丁目ニアリ。明治戊辰年二月廃ス。


遣迎院
けんこういん

[現在地名]北区鷹峯光悦町

昭和三〇年(一九五五)京都市上京区北之辺きたのべ町から移転、天台宗から浄土真宗に改宗した。現在は浄土真宗遣光院派の本山。本尊は木造釈迦如来立像・木造阿弥陀如来立像の二尊。浄土へ「遣」わす釈迦、浄土で「迎」える阿弥陀から遣迎院と名付けられた。また元三大師(良源)自刻像を安置していた(拾遺都名所図会)。寺伝によると、藤原道家が善慧証空に帰依、正治三年(一二〇一)伏見ふしみ大路の東、三ノ橋南(現京都市東山区)に一寺を建立したのに始まるという。当初は四宗兼学で廬山ろざん(現同市上京区)二尊にそん(現同市右京区)般舟はんじゆう(現上京区)と併せ、四箇本寺とよばれた(拾遺都名所図会)。天正三年(一五七五)定額寺となったが(山城名跡巡行志)、同一三年寺を二分し、一つをもとの地に残し(東山区の→遣迎院、一つを北之辺町へ移し、僧弘空を中興とした(坊目誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「遣迎院」の意味・わかりやすい解説

遣迎院
けんこういん

京都市北区鷹峯(たかがみね)光悦(こうえつ)町にある浄土真宗遣迎院派の寺。1194年(建久5)九条兼実(かねざね)が快慶に命じて釈迦(しゃか)と弥陀(みだ)の二尊を造像させ、これを自邸の月輪殿(がちりんでん)に祀(まつ)ったのが起源という。1199年(正治1)藤原道家が法然(ほうねん)(源空)の高弟西山の善恵房証空(しょうくう)を開山に招いて創立、遣迎院とした。寺名は現世仏の釈迦が遣わした往生(おうじょう)者を来世仏の弥陀が迎えるという意味に由来。のち嵯峨(さが)天皇の勅願寺となり、1575年(天正3)正親町(おおぎまち)天皇の勅命により寺町(てらまち)に移る。1788年(天明8)大火により元三(がんざん)堂を除く諸堂を焼失。国指定重要文化財の釈迦如来(にょらい)、阿弥陀如来立像のうち、阿弥陀像は快慶の安阿弥(あんなみ)様である。

清水 乞]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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