律令制下における郡の役所。郡衙(ぐんが),郡府ともいう。640年代に評制が施行され,701年(大宝1)に成立した大宝令で郡制に改められる。評(こおり)の設置によって設けられ,評家が郡家の前身である。古代の郡の数によれば,全国に8世紀前半には555,9世紀には590前後の郡家があった。郡家は律令国家の郡支配の拠点である。郡領(大領・少領),主政・主帳からなる郡司が,案主・税長・鎰取(かぎとり)などの郡雑任を従えて勤務し,郡の徴税と勧農などの行政と司法に当たり,また国府や郡家間の連絡のために伝馬がおかれた。8~9世紀の郡家の構成を知る史料は少なく,律令国家の衰退した11世紀中ごろの《上野国交替実録帳》がまとまった史料として有名。それによれば,郡家は,郡庁,館,厨家(くりや),正倉の四つの部分から構成される。郡庁は郡司が政務をとる政庁で,庁屋を中心に向屋,副屋,公文屋の4棟の建物があり,館屋,宿屋,納屋,厨,厩などが付属する場合もある。館は郡司の館舎か,あるいは国内を巡察する国司などが泊まる郡の公的な宿舎である。一館から四館まであり,各館は宿屋,向屋,副屋,厨家または厩屋の4棟からなる。厨家は郡家の公的な食事を用意する台所で,酒屋,納屋,竈屋,備屋などの建物がある。正倉は農民から徴収した正税の穀・穎(えい)などを収蔵する倉庫群で,上野国では1郡で二十数棟の倉をもつ例もある。この上野国の例では郡家には約40棟の建物があった。各地で郡家跡の発掘調査が進められ,その成果によれば,郡家は低台地の上や麓に立地する場合が多く,2町(約220m)四方や3町(約330m)四方の広さを占め,周囲には堀や土塁をめぐらすものもある。7世紀末から8世紀初めに成立する例が多く,建物は大規模な掘立柱建物があり,塀や溝で区画されて政庁区,倉庫区などの数ブロックに分けられ,ブロックの中では建物が計画的に配置されている。8世紀後半には多様な建物配置をとるようになる。代表的な郡家遺跡の小郡(おごおり)官衙遺跡では,長大な建物を方形に配した政庁地区(50m×60m),これと塀で区画された正倉地区,その他の官舎建物を発見している。宮尾遺跡では,長大な建物をコ字形に配して塀でつないだ政庁地区,その東側に倉庫,西側にその他の官舎建物を発見している。郡家の周囲には集落があり,郡の寺や神社が付属することもある。後世郡家所在地には,郡(こおり),郡山,桑折(こおり),郡家,大領などの地名がのこることがある。
執筆者:今泉 隆雄
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鳥取県東部、八頭郡(やずぐん)にあった旧町名(郡家町(ちょう))。現在は八頭町の北部を占める地域。旧郡家町は1951年(昭和26)町制施行。1953年国中(くになか)、大御門(おおみかど)、下私都(しもきさいち)の3村、1957年上私都、中私都の2村を合併。2005年(平成17)船岡町(ふなおかちょう)、八東町(はっとうちょう)と合併し、八頭町となる。旧町域はJR因美(いんび)線、若桜(わかさ)鉄道が通じ、国道29号が走る。首邑(しゅゆう)の郡家は明治期以来郡の中心であるが、段丘上に立地し高下(こうげ)とよんだのが地名の由来という。周辺の丘陵には銅鐸(どうたく)出土地や古墳群、国の重要文化財持国天(じこくてん)・多聞天(たもんてん)立像のある青竜寺(せいりゅうじ)、国史跡土師百井(はじももい)廃寺跡などが分布する。礎石19個、方7メートルの奈良時代の塔跡付近には、推定八上郡衙跡(やかみぐんがあと)が発見された。一帯はナシの産地で、殿(との)地区周辺は花御所(ごしょ)ガキが特産品である。私都川上流の姫路(ひめじ)、明辺(あけなべ)は木地師(きじし)集落で、姫路には平家落人(おちゅうど)の伝承がある。
[岩永 實]
『『郡家町誌』(1969・郡家町)』
律令(りつりょう)制下における郡の役所。「ぐんけ」とも読み、また郡衙(ぐんが)ともいう。律令用語は郡家。古くは「こおりのみやけ」と読んだ。646年(大化2)に郡(実は評)制が施行されたとき、郡家の成立は、従来の豪族の居館を改めて官衙とした場合、ミヤケなどのごとく以前から公的性格をもつ建物を転用した場合、新たに設置した場合の3ケースが想定されている。『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に建郡を「郡家を建てた」と記すのは、郡家が行政の拠点を意味するからである。また『日本書紀』に、壬申(じんしん)の乱(672)に際し大海人皇子(おおあまのおうじ)が伊勢(いせ)(三重県)、美濃(みの)(岐阜県)国内の郡家に立ち寄ったと記すのも有名。郡家の規模は方2~3町、土塁や溝で囲まれ、その内部には、正殿などのある郡庁、付属の官舎、厨家(くりや)、正倉(しょうそう)などが設置された。常陸国(茨城県)新治(にいはり)郡家址(し)とみなされる古郡遺跡は、発掘によってこれらの構造を裏づけたが、『上野(こうずけ)国交替実録帳』(1030)は、平安時代なかばの郡家の構造やその実態を文献のうえからうかがわせる好資料である。
[米田雄介]
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「ぐんけ・こおりのみやけ」とも。古代の郡の役所。類似の語として郡衙(ぐんが)があるが,史料上の用例は10世紀以降。「続日本紀」などでは建郡を「某村に郡家を建つ」との表現が多く,郡家は文字どおり郡の中心だった。11世紀前半の「上野国交替実録帳」によれば,その構造は郡庁(政庁)・正倉・館・厨家(くりや)からなり,館には伝馬(てんま)をつないだと思われる厩屋が付属していた。発掘成果によれば,郡家遺構は7世紀末~8世紀初頭に出現し,2町(約220m)四方程度の範囲に先の諸施設が,塀や溝で区画されたブロックごとに配置されている。遺構の多くは10世紀には廃絶し,1030年(長元3)頃の「上野国交替実録帳」では郡家もすべて「無実」と記されている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…開発は古く,北部の野(の)地区には野古墳群(史)など多数の古墳群がある。古代は大野郡に属し,郡家の所在地は当町の郡家(ぐげ)に比定され,東山道の大野駅も当町に置かれたといわれる。上磯などの南部地区には条里制を示す地名や地割りが残っている。…
…評も郡もともに〈こおり〉と読まれたらしいが,郡は評を継承しつつ701年(大宝1)の大宝令の制定とともに始まり,〈改新之詔〉はそれにもとづいて作文されたものと考えられている。令の規定では,50戸よりなる1里(のち郷と改称)で20里以下16里以上を大郡,12里以上を上郡,8里以上を中郡,4里以上を下郡,2里以上を小郡とし,各郡ごとに郡家(ぐうけ)とよばれる役所を置き,郡司(大領・少領・主政・主帳の四等官)が政務をとった。713年(和銅6)5月,《風土記》の撰進が命ぜられたのと同時に郡郷の名には好字が使われるようになった。…
※「郡家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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