長安寺(読み)ちょうあんじ

精選版 日本国語大辞典 「長安寺」の意味・読み・例文・類語

ちょうあん‐じ チャウアン‥【長安寺】

大阪市天王寺区城南寺町にある浄土宗の寺。大阪三十三所の第一四番札所。

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日本歴史地名大系 「長安寺」の解説

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]豊後高田市加礼川

(五四三・四メートル)の中腹、標高約三三〇メートルの位置にある。金剛山と号し天台宗。本尊は千手観音。養老二年(七一八)仁聞の開基と伝える。当寺には大治五年(一一三〇)の胎内銘を有する木造太郎天立像や保延七年(一一四一)銘の銅板法華経などがあり、久安六年(一一五〇)には高さ五尺三寸の梵鐘の鋳造が行われるなど(「六郷山年代記」長安寺文書、以下同文書は省略)、開基年代はともかく、平安時代末期にはすでに寺勢を誇っており、以後中世を通じて六郷山寺院の中心であった。織豊期以降の成立と思われる六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)によると、正宗分中山一〇ヵ寺の一。建武四年(一三三七)六月一日の六郷山本中末寺次第并四至等注文案(永弘文書)によると、寺領の四至は「限東田原路 限西明神前道向神護石 限南鳴石 限北折花」であった。六郷山年代記によれば、寿永二年(一一八三)に男形三郎是吉(緒方三郎惟栄)の手により焼失、以後建久四年(一一九三)まで退転。この頃院主は宝持ほうじ院から六郷山執行職をもつ仏持ぶつじ院に代わり、仏持院初代応仁は山を開き諸堂を造営したという(長安寺歴代過去帳)。安貞二年(一二二八)五月日の六郷山諸勤行并諸堂役祭等目録写には屋山寺とみえ、本山分の次に惣山として一ヵ寺のみ独立して記される。

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]福知山市字奥野部

姫髪ひめがみ山麓にあり、もみじ寺として知られる。山号医王山、臨済宗南禅寺派、本尊薬師如来

寺伝によると、往古は真言宗金剛山善光ぜんこう寺と称し、境内に二五の院坊があったが、応永年間(一三九四―一四二八)に諸堂ことごとく焼失したという。本堂の東方、善光寺谷がその跡地といわれる。「蔭涼軒日録」永享一二年(一四四〇)九月一〇日条に「丹州長安寺再興」とみえ、同書寛正二年(一四六一)一〇月一四日条に「丹波国長安寺造営段、以先規御免許、但永享十二年十月廿一日御成敗之旧例也」とあり、同月二〇日条に「丹州長安寺塔婆料段銭、以先規仰付之由、以飯尾大和守出于管領細川殿、即於殿中飯尾大和守也」と記される。

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]草津市北山田町

法雲山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。長安寺由緒書略(寺蔵)によれば、天正一一年(一五八三)「顕如様始御建立被為成下候、永久と申仁住持に被為仰付候御事」とあり、本願寺顕如の命によって建立されるとともに、永久が住職を命じられている。このとき顕如の主導のもと、湖上交通の一拠点として寺内屋敷の建設も行われている。寺蔵の文書のなかに「詳定」「明聖」「続」「達」という印文の御印書があり、印文「達」の御印書には天正九年・同一〇年の野洲やす栗太くりた両郡惣中の月次の志に対する御印書があり、当寺の建立以前から永久を住職とする道場が存在していたと思われる。

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]両津市久知河内

久知くぢ川左岸にある。真言宗豊山派、陽雲山と号し、本尊阿弥陀如来。寛元二年(一二四四)八月日の長安寺草創記(長安寺文書)によると、天長八年(八三一)の創建といい、天長寺と号したが、その後絶えて仁安三年(一一六八)に慈覚門流の定光が中興して長安寺と改めたとある。文永八年(一二七一)三月日の藤原某禁制(同文書)では寺の四至を「限東中尾道 限西久知大道 限南白土尾 限北二王堂」とする。元亨三年(一三二三)一二月日の宝明寺領寄進状(同文書)によれば「しなの浦」(現吾潟)に仏供田五反半があった。

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]黒部市若栗 浦川端

南に若栗わかぐり城跡、東に善念ぜんねん寺がある。真宗大谷派、法城山と号する。本尊阿弥陀如来。かつての館跡と伝え、庭田某が住し、入膳にゆうぜん(現入善町)と相呼応したという(「古城跡等由来記」下新川郡史稿)。寺蔵の過去帳によれば、寛正元年(一四六〇)初代教誓住職が死去。貞享二年寺社由緒書上には、永正六年(一五〇九)慶誓が建立し、寺屋敷は百姓からの請地に居住とある。もと長方ちようほう寺と称し、承応元年(一六五二)頃長方寺から長宝ちようほう寺が分離した。貞享元年(一六八四)越後の旦那回りのため、長方寺住職と小者伝作の二人が、さかい関所(現朝日町)の通行手形の発行を城端善徳じようはなぜんとく寺に願出た(城端別院善徳寺史料)

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]大船渡市日頃市町 長安寺

さかり川北岸、字長安寺にある。片杉山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。創建の時期は不詳。「封内風土記」には寺僧の伝として、阿部倉橋麻呂の末裔金野四郎為重の子次郎丸が一八歳で近江比叡山に登って僧となり、正善坊と号して当寺を創建したとみえる。正善坊から二一世までは天台宗、二二世正光坊の時の明徳年間(一三九〇―九四)真宗に改宗したという。

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]大村市武部町

富松とみまつ神社の南にある。白竜山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来・観音菩薩大勢至菩薩山栄さんえいと称される寺地には四面大菩薩が安置されていたが、天正二年(一五七四)キリシタンの焼打ちがあったという。創建は大村純忠の長女二ノ丸殿の発願になるもので、龍造寺隆信の四男で須古すこ(現佐賀県白石町)城主の江上家種に嫁いだものの、家種の病気で大村に戻って大村城二の丸に住んでいた(大村郷村記)

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]川西町上野 元町

上野うえのの集落の西端もと町にある。曹洞宗、積雲山と号し、本尊釈迦牟尼仏。寺伝によれば、元亀二年(一五七一)信濃国佐久さく岩村田いわむらだ(現長野県佐久市)竜雲りゆううん寺の僧鳳庵が仁田にた村に禅院を建て、太田山竜雲寺と称した。その後節黒ふしぐろ城主上野中務長安が鳳庵に帰依して伽藍を現在地に移し、寺号を改めたという。ただし元亀二年当時の節黒城主は上野中務丞家成である。

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]四賀村会田

会田あいだ宿の立町たつまちの北、虚空蔵こくぞう山尾根の麓にある。臨済宗で本尊は虚空蔵菩薩。現在は本堂・庫裏を残す。

享保九年(一七二四)成立の「信府統記」には「泰平山長安寺 恵光院末寺ナリ会田組会田町ニアリ、当寺開基年数知レズ」とある。寺伝及び「東筑摩郡村誌」は、弘安元年(一二七八)七月鎌倉建長けんちよう寺の大覚禅師の創建で、中世に寺運衰え、寛文一〇年(一六七〇)恵光えこう(現松本市)の二世列山により中興開基されたと伝える。

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]茂木町町田

千本せんぼん城跡の西にある。九石山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来、脇士文殊・普賢・大現達磨。建久六年(一一九五)に須藤為隆が九石さざらしに建立し、為隆の法号法輪院殿長安光公を寺号としたと伝える。明応元年(一四九二)千本常陸介資持が九石より現地に移し、法輪院九石山と号したという。その際、資持は高祖為隆以下の墓を整えている。資持自身も同七年に当寺に葬られ、以来一七代朋隆まで葬られた。旗本千本家の菩提寺として累代の墓碑二二基を残している。慶安元年(一六四八)に徳川家光の朱印状(県立文書館蔵)で寺領四三石六斗余を与えられ、寺中山林竹木諸役等は免除となる。

長安寺
ちようあんじ

[現在地名]富加町夕田 釜洞

釜洞かまぼらの小さな山の麓にある。大道山と号し、曹洞宗、本尊は延命地蔵迫間はざま(現関市)領主旗本大島雲四郎の家老大島瀬兵衛が亡母長安永久大姉の菩提を弔うため、明暦元年(一六五五)に名古屋含笑がんしよう寺五世空船薫海を迎えて開山とし創建した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報