関屋村(読み)せきやむら

日本歴史地名大系 「関屋村」の解説

関屋村
せきやむら

[現在地名]新潟市関屋・関屋松波せきやまつなみ町・関屋下川原せきやしもかわら町・関屋本村せきやほんそん町・関屋田せきやた町・関屋新町通せきやしんまちどおり関新せきしん一―三丁目・関屋御船蔵せきやおふなぐら町・関屋昭和せきやしようわ町・関屋金鉢山せきやかなばちやま町・関屋浜松せきやはままつ町・関屋金衛せきやきんえい町・浜浦はまうら町・汐見台しおみだい信濃しなの町・文京ぶんきよう町・堀割ほりわり町・弥生やよい町・関屋大川前せきやおおかわまえ一―二丁目・有明大橋ありあけおおはし町・関屋恵せきやめぐみ町・有明台ありあけだい関南せきなみ町・関屋堀割せきやほりわり

日本海に面し、東を信濃川が流れる。北東は新潟町(新潟浜村)に接し、北国浜街道が通る。大部分が砂丘で、中央部に金鉢山という小丘がある。貞応年中(一二二二―二四)畠山六郎重宗がここを開発して居住したという伝えがある(関屋村誌)正保国絵図に村名がみえ、七六石余で長岡藩領。年不詳の関屋村田地変遷見取図(「新潟市史」所収)には、信濃川左岸に記された「関屋村居屋敷」「御蔵屋敷」のほかに川中に「関屋村古屋敷」「古御蔵屋敷」の注記があり、川欠けのために移転したことをうかがわせる。また、田地には「砂押」「砂田」の小字名とともに「砂入御損地」の注記があり、飛砂による被害も大きかった。「御蔵屋敷」は長岡藩の米蔵で、信濃川からの舟入堀が掘込まれていた。飛砂川欠けのために集落の移転があったことは、延享四年(一七四七)かと思われる卯五月付の覚(同書所収)に、御蔵は「宝永七寅の秋新屋敷へ御引被遊」、居村は「宝永年中より享保十五戌年迄四度引申候」と記されている。享保一六年(一七三一)阿賀野川河口がまつ崎浜さきはま村に変わってからは川欠けは止み、逆に土砂の堆積寄洲が顕著となって、舟入堀の入口をふさぐほどになった。

関屋村
せきやむら

[現在地名]香芝町関屋北一―八丁目・大字関屋

大和・河内国境の田尻たじり峠東方に所在。大坂(伊勢)街道の宿場として発達。西は田尻村。「日本書紀」天武天皇八年一一月条に「初めて関を竜田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く」とみえる関所の所在地とも考えられるが、現御所ごせ市にも大字関屋があり、南方の穴虫あなむし岩屋いわや竹内たけのうち各峠も大和・河内を結ぶ重要交通路であったので、大坂関については特定できない。

関屋村
せきやむら

[現在地名]長野市松代町豊栄まつしろまちとよさか

北には平林ひらばやし村、西に西条にしじよう村の枝村かけがあり、南は地蔵じぞう峠に通ずる道筋があり、東は保基谷ほきや山を境に小県ちいさがた傍陽そえひ村(現小県ちいさがた真田さなだ町)に接している。

口碑では往古北国脇往還は、地蔵峠・関屋村・加賀井かがい村・可候そろべく峠・大室おおむろ村に通じ、交通上の要地にあり、関屋があって村名となったという。真田氏の所領となって、ここに関屋口留番所が置かれ物資や旅人の取締りをしている(長谷部文書)

関屋の初見は応永一二年(一四〇五)の源関神社棟札に、この地の豪族関屋市兵衛ら一族の名前がみえる(→源関神社。また天正一五年(一五八七)の真田昌幸朱印状(河原文書)によれば、昌幸は唐沢庄助の知行であった山手を河原左衛門尉(綱家)に与えて、「仍関屋・桑(根)井・牧之内・南平・保科右之山手之儀毎年相改、可指上者也 仍如件」とある。

関屋村
せきやむら

[現在地名]北塩原村関屋

うるし村の東、大塩おおしお川の谷口左岸に位置し、小沼組(古くは大塩組)に属した。南はたて(現喜多方市)、北東はくぬぎ村。本村集落は大塩川の段丘上にあり、檜原ひばら峠越米沢街道に沿う。本村の東方、大塩川支流さわ川の上流域に小名二ノ沢(二沢)がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に関屋とみえ、高九一石余。寛文五年(一六六五)の「大塩組風土記」では高九六石余(うち新田六石余)、家数一四(竈数一七)、男四四・女三六、馬八、反別は田方三町一反余・畑方六町一反余。

関屋村
せきやむら

[現在地名]高浜町関屋

横津海よこつみ村の西に位置する。南は三国みくに岳・もり(生守山)を境に丹波国何鹿いかるが(現京都府綾部市)と接する。村の中央を関屋せきや川が流れ、村の北端を丹後街道が通る。「若狭郡県志」に「関屋村属青郷、去小浜六里半余也、有椋谷、坪村等之小村」とあり、「稚狭考」は「大飯郡関屋村の長、士官の者を一瀬氏と称す、此郡に此氏を称する者おほし、熊川のこなたに一の瀬村あり、いつれも関の転したるにやとおもはる」と記す。当村があお郷の中心地青村と西方の丹後街道吉坂きつさか(若狭・丹後国境)との間に立地することから考えて、関が置かれていた可能性は強い。

関屋村
せきやむら

[現在地名]安佐北区安佐あさ鈴張すずはり

高宮たかみや郡から山県郡本地ほんじ(現千代田町)へ越える明神みようじん峠の南西、鈴張川支流の東谷上流域に位置する山村。集落は谷あいに点在し、西に片廻かたもうし(六八二メートル)がそびえる。東は南原なばら村、西と南は鈴張村。小村ではあるが鈴張村内に雲田・力田などの飛郷が多く、「芸藩通志」付載の村絵図は村境の線引きをしていない。村名の由来は不詳であるが、「郡中国郡志」は「往古ハ関所ニ茂御座候関屋ノ名残居申候ト奉存、異説ニハ飯室村ニ属シ候由申伝候得共、拠無御座候」と記している。

関屋村
せきやむら

[現在地名]京ヶ瀬村関屋

東は前山まえやま村、南は小河原こがわら村。近世前期は新発田藩岡方組の五ヶ村組に属し、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数一四・人数九九とある。天明二年(一七八二)の岡方組万雑組立帳(倉島肩吾氏蔵)によれば役石は七三石七斗余で、四貫四六八文の組万雑を負担している。寛政元年(一七八九)幕府領となり(「御上知村附写」豊栄年表資料)、同一二年の水原代官所村々高書上帳(小田島余吉氏蔵)の村高は三六石八斗余で、岡方組に属した。

関屋村
せきやむら

[現在地名]御所市大字関屋

金剛山地東麓、水越みずこし川に沿う渓谷集落。西は河内国。この谷間を登り金剛山・葛城山の鞍部水越峠を経て河内国に通ずる水越街道(現国道三〇九号)は、大坂道や竹内たけのうち道にも劣らぬ重要な古道で、古代末から中世にかけて修験者が往還した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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