翻訳|phoneme
語の意味を区別する音声の最小単位。人間が言語の伝達において発する音声は多種多様であるが,ひとつの言語で聞き分けられる音声の型すなわち音素の数はほぼ一定している。この音素の規定は1930年代から40年代にかけて言語学の主要課題であった。音素については,これを具体的音声から抽出された音声概念とするポーランドの言語学者ボードゥアン・ド・クルトネの素朴な見解から,一方では心理的実在としてある型をなすものとするE.サピアの説および同質の音声のグループと解するD.ジョーンズの見方に進み,ついに音素は虚構であるというアメリカの言語学者トウォデルW.F.Twaddell(1906- )の極論にいたった。これに対し,L.ブルームフィールドは音素を物理的実体としてとらえる立場を表明した。この線に沿ってプラハ言語学派の音韻論は,語の知的意味を区別できる音声的相違すなわち音韻的対立phonological oppositionに基づき音素を分析すべきだと主張した。すなわち,より小さな連続した単位に分解できない音韻的対立の項が音素と見なされる。例えば,日本語で〈鯛〉[tai]と〈台〉[dai]という語を区別しているのは,子音の[t]と[d]である。これら音声はさらに小さな連続的単位に分解できないから音素である。同じく[tai]は〈パイ〉[pai]と〈才〉[sai]とも音韻的対立をなすので,それぞれ/p/,/s/という音素を取り出すことができる(音素は斜線/ /にはさんで表記される)。いまこれら音素の音声的特徴を下記に比べてみる。
/t/ 無声・歯茎・閉鎖音
/d/ 有声・歯茎・閉鎖音
/p/ 無声・両唇・閉鎖音
/s/ 無声・歯茎・摩擦音
音素/t/と/d/を区別しているのは〈無声〉と〈有声〉という音声特徴であることがわかる。このように音韻的対立を可能ならしめる音声特徴を弁別的素性もしくは示差的特徴distinctive featuresという。/t/と/p/の対立から〈歯茎〉と〈両唇〉,/t/と/s/の対立から〈閉鎖〉と〈摩擦〉という弁別的素性を取り出すことができる。そこで,音素/t/は〈無声・歯茎・閉鎖〉という弁別的素性から構成されていることになるので,R.ヤコブソンは〈音素は弁別的素性の束〉であると規定するにいたった。これに対し,アメリカの構造言語学の立場では,相補的分布complementary distributionの原則が重視されている。日本語のハ行音で〈フ〉[ɸ]には無声両唇摩擦音[ɸ]が,〈ヒ〉[çi]には無声硬口蓋摩擦音[ç]が,〈ハ〉[ha],〈ホ〉[ho],〈ヘ〉[he]には声門摩擦音[h]が現れる。これら三つの音[ɸ][ç][h]はいずれも無声摩擦という性質を共有し,しかも5母音[a,i,,e,o]との結びつきが相補う分布をなしている。このように類似したいくつかの音が同じ音声環境に立たないとき,これらの音声は同一音素の異音allophoneと見なされる。すなわち[ɸ][ç][h]は音素/h/の位置異音である。また英語の[Khæt](hは気息化を示す補助記号)〈ネコ〉の末位の[t]は閉鎖が開放されないこともある。すると開放[t]と無開放[t°](°は無開放を示す補助記号)は自由に入れ替えられるので,これらを音素/t/の自由異音と呼んでいる。こうした音素は音声の流れを区分した部分(分節)に割り当てることができるので分節音素と称する。これに対し,アクセントや連接のように分節することができないものを超分節音素と呼ぶ。例えば,英語のbillow[blo⋃]〈大波〉とbelow[blo⋃]〈下に〉は強勢の位置により意味が区別されるし,日本語の〈箸〉[haʃi]と〈橋〉[haʃi](やは高低アクセントを示す補助記号)は高低アクセントの置き方で意味が変わってくるから,やはり音素の資格をもつ。また英語のan aim〈ひとつの目的〉はa name〈ある名前〉と同じく[əneim]と音声表記される。しかし正確には前者は[n](は半長を示す補助的記号),後者は[n]であり,前者は後者よりも長く発音される。普通はnet[net]〈網〉とten[ten]〈十〉の比較から,頭位の[n]よりも語末の[n]の方が長い。そこでan aimの[n]が長いのは語末の特徴と考えられるので,ここに音素の切れ目の連接/+/を挿入し,/ən+eym/と音素表記される。この連接も音素の機能を果たしている。しかし最近の生成音韻論は基底音を想定し,これに音韻規則を適用して具体的音声形を導く方式を考えているので音素の存在を認めていない。
→音韻論
執筆者:小泉 保
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言語音声は多様で、言語により個人により異なっているが、意識して区別できる音の単位は一定で、その数は少ない。語の意味を区別できる音声の最小単位を音素という。
タス「足す」とヒク「引く」の意味を区別しているのは、「タ」と「ヒ」の音声部分である。タス[tasɯ]とダス[dasɯ]の意味を区別しているのは、[t]と[d]の音声部分であるが、これ以上小さな連続した音声部分に分解できないから、/t/ と /d/ は音素である。音素は斜線で囲んで、これを表す。/t/ と /d/ はともに歯茎閉鎖音であって、/t/ は無声、/d/ は有声の音声特徴をもつ。そこでタスとダスの語を究極において区別しているのは、無声と有声という特徴であることになり、これらを弁別的特徴という。カス[kasɯ]とタス[tasɯ]の対立から音素 /k/ と /t/ が取り出される。ともに無声閉鎖音であって、弁別的特徴は /k/ の軟口蓋(こうがい)と /t/ の歯茎という、調音する場所の違いによっている。
サス[sasɯ]とタス[tasɯ]を比べれば、音素 /s/ が求められる。ともに無声歯茎音であって、弁別的特徴は /s/ が摩擦音、/t/ が閉鎖音という調音方法の相違に基づく。そこで、音素 /t/ は「無声・歯茎・閉鎖」という弁別的特徴から成り立つから、音素は弁別的特徴の束であるともいえる。また、英語のbelow[bilóu]「下に」とbillow[bílou]「大波」では、強さアクセントの位置により意味が変わる。また日本語のハシ「箸」とハシ「橋」では、高さアクセントの位置により意味が違ってくる。このようにアクセントも語の意味を区別する限り音素とみなされる。
[小泉 保]
『柴田武編『言語の構造』(『講座言語 第1巻』1980・大修館書店)』
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…音韻は言語音声から意識された要素として抽出された最小の単位で,フォネームphonemeの訳語として音素と同じ意味に用いられることが多い。音素は音声の最小単位たる単音に対応する分節音素と強弱や高低アクセントのように単音に対応しない超分節音素に分けられるが,このうち分節音素に限り音韻と呼ぶこともある。…
…言語学の用語。フランスの言語学者A.マルティネの言語理論の根幹をなす認識。人間の言語は多くの観察によってこの二重分節をそなえていることが知られ,また人間の言語に課せられた基本的な要請からいっても,そこには二重分節構造がぜひ必要であると考えられる。 人間の言語に課せられた基本的な要請としては,まず〈多様性〉の問題がある。人間の言語は次々と生じる新たな表現の必要を満たさなくてはならない。そこから無限の多様性の要請が出てくる。…
…音韻は言語音声から意識された要素として抽出された最小の単位で,フォネームphonemeの訳語として音素と同じ意味に用いられることが多い。音素は音声の最小単位たる単音に対応する分節音素と強弱や高低アクセントのように単音に対応しない超分節音素に分けられるが,このうち分節音素に限り音韻と呼ぶこともある。…
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[音韻]
次に,言語の音の面に注目すると,単語(あるいは,形態素)は,意味を無視するならば,さらに小さい単位から成り立っている。音の面での最小単位を〈音素〉と呼ぶ。各言語はそれぞれある数(通常,十数個から数十個)の音素を保有し,それらを順に並べて単語などの音形を構成している(こういう状態も,〈分節〉と呼ばれる)。…
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[音韻論]
音韻論的研究は,その言語がどのような音をどのように用いてその音的側面を構成しているかを研究する。どの言語も,ある数(通常,十数個から数十個)の〈音素〉と呼ばれる音的最小単位を順番に並べて単語などの音形をつくっていることがわかっているので,音韻論的研究の第一歩は,その言語にどのような音素が存在するのかということである。この研究は,一見容易に思われるかも知れないが,実際はかなり困難な仕事である。…
… また数千から数万の意味の切片を,一つ一つ,未分化の声のかたまりで区別していくことは,人間の発声能力の点からいっても認知能力の点からいっても不可能であり,ここにも分析的な手法を人間は用いる。つまり意味の切片は,それを表す形の面で,人間に発声可能で認知可能の音の小切片(〈音素phonème〉)に分節される。この分節が〈第二次分節〉といわれるものである。…
…使用者が十分使いこんで使用が容易になっている要素を別とすれば,変化はことばの中の不経済なものを取り去り,結果として使用者にとって労力の節約になるような形で生じるのである。また,ことばの機能性という点からみると,音素構造こそ,人間のことばが常に経済的にそして正確に機能することを保証する鍵である。つまり人間は音素構造を縦横に駆使することにより,わずかな数の音単位を用いて一定数(かなりの数)の記号素を安価につくることができる。…
※「音素」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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