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飛鳥美術 あすかびじゅつ

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世界大百科事典 第2版の解説

あすかびじゅつ【飛鳥美術】

飛鳥美術の時代区分については学説が分かれているが,その上限は等しく仏教伝来の時点とする。下限は644年(皇極3)または645年(大化1)とする説が大勢を占めていたが,美術史の時代区分は政治的・社会的変革によるのではなく,美術作品の様式的な変化にもとづくべきであるとして,671年(天智10)壬申の乱前年(小林剛),670年法隆寺焼亡(町田甲一),最近では663年白村江の戦(西川新次)等をくぎりとする説がみられ,その多くが彫刻史の側から提唱されている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

飛鳥美術
あすかびじゅつ

日本に仏教が伝来した6世紀の中ごろから、645年の大化改新までの約1世紀間にわたり、大和(やまと)(奈良県)の飛鳥地方に開花した美術。百済(くだら)の聖明王が仏像、経典などをわが朝廷に献じたのが538年(宣化(せんか)天皇3)あるいは552年(欽明(きんめい)天皇13)で、この仏教の公伝以前にすでに仏教が伝来していたことは古記録や古墳の副葬品などによって明らかであるが、公伝を契機にして朝鮮半島との交渉が盛んになり、半島を経て大陸の文化が将来されるようになった。しかし6世紀にさかのぼる美術の遺品は現在のところきわめて少なく、具体的に仏教美術の遺品がみられるのは推古(すいこ)朝に入ってからである。6世紀末に崇仏派の蘇我(そが)氏により、わが国最初の本格的仏教寺院である飛鳥寺が飛鳥の地に建立され、推古朝に入ると聖徳太子が熱心に仏教を奨励し、大陸から渡来してくる僧侶(そうりょ)や技術者の活動もあって、造寺造仏が盛んに行われ、飛鳥地方を中心に仏教文化が栄えた。『日本書紀』によると聖徳太子没後の624年(推古天皇32)の仏教の情勢を、寺院の数が46寺、僧816人、尼569人と伝えている。造立された寺院建築や内部に安置された仏像や絵画あるいは仏具の工芸品などは、中国の北魏(ほくぎ)から東・西両魏時代の北朝美術や、同時代の南朝の美術が朝鮮半島を経由してわが国に伝わり、中国六朝(りくちょう)時代の影響を受けてつくりだされたものである。飛鳥時代を大化改新でくぎることは、美術史のうえからは多少の無理があり、天智(てんじ)天皇のころまで、飛鳥様式をもつものと、新しい要素を備えたものとが混じり合い、今日若草伽藍(がらん)と称している法隆寺の火災のあった670年(天智天皇9)をもって飛鳥時代の終わりとする説もあるが、ここでは大化改新(645)をもってくぎりとする。[永井信一]

建築

現在、飛鳥時代に建てられた建築は一つも残っていないが、遺跡は畿内(きない)をはじめ全国に40か所余りあり、礎石や出土瓦(がわら)から伽藍(がらん)の規模はかなり大きなものであったと想像される。飛鳥寺(奈良)はわが国最初の本格的な仏教寺院で、592年(崇峻(すしゅん)天皇5)に起工、606年(推古天皇14)に丈六(じょうろく)の釈迦(しゃか)像が安置された。この寺の伽藍配置は、塔を中心に、北と東西の三方に金堂があり、高句麗(こうくり)の清岩里廃寺跡とプランが同一で、朝鮮といかに密接な関係があったかを物語っている。また法隆寺の金堂、五重塔、中門(ちゅうもん)、回廊、法起(ほうき)寺の三重塔は飛鳥建築の特徴を備え、680年ごろまではその様式で建てられたものらしく、近年発掘された山田寺回廊の建築は、それよりすこし古くさかのぼるものとみられる。[永井信一]

彫刻

この時代の彫刻は仏像が主であり、様式からみてもいろいろで、一つの様式の展開としてとらえられない。そのなかで主流を占めたのは止利(とり)派の作で、法隆寺(奈良)金堂の釈迦三尊像は、光背に刻まれた銘文により、聖徳太子没年の翌年(623)止利仏師によってつくられたことがわかる。先にあげた飛鳥寺の本尊釈迦如来(にょらい)像も銘はないが、文献から止利の作とされ、火災により原形は損なわれているが、止利様式の特徴がよく残っている。飛鳥寺本尊に比べると、法隆寺の釈迦三尊像は、金銅仏のきわめて完好な遺品で、わが国仏教美術の初期を飾るにふさわしい優れた作である。奥行のない正面観照性、衣文(えもん)や身にまとう服飾の左右相称性、面長で古拙的微笑を表した面相、また抽象化した衣文を裳懸座(もかけざ)と称する独特の形式にまとめるなど、謹厳ななかにも豊かな造形美を現している。この止利仏師の流れをくむものは、ほかに法隆寺の戊子(ぼし)年銘の釈迦三尊像(脇侍(わきじ)1体を欠失)、や菩薩(ぼさつ)立像、東京国立博物館所蔵のいわゆる四十八体仏のなかの小金銅仏像の数点があり、いずれも精巧な鋳造技術をもってつくられた金銅仏である。止利派に属す木彫像では法隆寺夢殿の本尊救世(ぐぜ)観音像があり、頭部から蓮肉(れんにく)までクスノキの一木造りで、天衣の裾(すそ)が大きく左右に広がっている点や、両肩にかかる蕨手(わらびで)の垂髪(すいはつ)など、北魏式の仏像の影響の濃い止利派の特色を備えている。法隆寺の百済(くだら)観音像は、その尊名から百済からもたらされたもののような印象を与えるが、クスノキの一木造りで、わが国でつくられたものである。この像は止利派の様式とは異なり、奥行のある立体構成で、プロポーションも八等身のスマートな姿につくられ、全身に厚く彩色が施されている。従来その源流を中国には求められないとされていたが、竜門石窟東山にこれと似た高肉(たかにく)彫りの菩薩像のあることが確かめられ、制作年代からみると、竜門像があとになるが、その祖型となる像がそれ以前にあったことが考えられる。法隆寺金堂の四天王像および法輪寺(奈良)虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)像は百済観音像の系譜につながるもので、四天王像はその広目天の光背の銘文から、山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)らが制作した像であることがわかる。山口大口費は『日本書紀』によると白雉(はくち)元年(650)に千仏像を刻んだ由が記され、この像もそのころの作と考えられる。
 広隆寺(京都)の弥勒(みろく)菩薩像は、6世紀末から7世紀にかけて、大陸とくに朝鮮半島で盛んにつくられた半跏思惟(はんかしい)像である。この像ときわめてよく似た金銅製の像がソウルの韓国国立中央博物館にあり、素材は飛鳥の木彫像がどれもクスノキであるのに、この像だけがアカマツであることなどから、朝鮮から舶載されたものではないかという説が最近有力である。しかし、等身の一木造りの像を半島から請来することに技術的な困難を伴う点などから、渡来した朝鮮の工人が使い慣れたアカマツを素材にしてつくったものではないかと考えられる。像の表面の漆箔(うるしはく)はほとんどなくなり、木目を表しているが、一部に金箔(きんぱく)がみられる。中宮寺(奈良)の半跏思惟像は、寺伝では如意輪(にょいりん)観音像と称しているが、これももとは弥勒菩薩像としてつくられたもので、クスノキの一木造りで、体の線や肉づきに抑揚があり、人間の体の美しさを控えめに表出しており、裾の衣文のまとめ方にも型にとらわれない自由さがある。いまは漆黒に覆われているが、もとはこの上に彩色がしてあったもので、像の内側に顔料がわずかに残っている。もと法隆寺に伝来し、現在は東京国立博物館の法隆寺献納宝物館に陳列され四十八体仏の名で知られている小金銅仏群のなかに、先に述べた止利派のものと思われる遺品のほかに、摩耶(まや)夫人像とよぶ小像がある。夫人の右脇(わき)から釈迦の誕生するところを現しており、かたわらには采女(うねめ)たちが欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している。[永井信一]

絵画・工芸

彫刻に比べ、絵画、工芸の遺品はきわめて乏しい。法隆寺の玉虫厨子(ずし)は、飾りにつけた周辺の透(すかし)彫り金具の下に玉虫のはねを敷き詰め、鍍金(ときん)の飾り金具と、玉虫のはねの光とが醸し出す装飾効果を利用していたのでこの名称があり、もとは貴人が日常念持仏を納める厨子としてつくられたものである。この厨子の台座の四面の板絵に釈迦の前生の物語である本生(ほんしょう)話(捨身飼虎(しゃしんしこ)、施身問偈(せしんもんげ))と須弥山(しゅみせん)図や供養図が描かれ、扉には菩薩像や天部像が描かれている。とくに名高いのは本生話である。同じ主題の北魏の絵画が敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の壁画にもみられるが、同じ主題を扱いながらもこれらは題材を強くみるものに訴えようとするものであり、玉虫厨子のものは画面に情緒性を表出するということに力を注ぎ、平安時代になって盛んになる大和絵の源流がすでにここにみいだされることは非常に興味深い。
 中宮寺の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)(天寿国曼荼羅(まんだら)ともよばれる)は聖徳太子が亡くなったあと、妃(ひ)の一人であった橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、画家の東漢末賢(やまとのあやのまけん)らに下絵を描かせ、多くの采女たちと刺しゅうにしたものである。もとは約3メートル四方の大きさの繍帳が2張りあったもので、いまではその一部が断片として残っているにすぎず、それも後世の手が加えられているが、人物や建物や波の表し方に中国六朝時代の絵画の影響がみられる。[永井信一]

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