飛鳥美術(読み)あすかびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「飛鳥美術」の意味・わかりやすい解説

飛鳥美術 (あすかびじゅつ)

飛鳥美術の時代区分については学説が分かれているが,その上限は等しく仏教伝来の時点とする。下限は644年(皇極3)または645年(大化1)とする説が大勢を占めていたが,美術史の時代区分は政治的・社会的変革によるのではなく,美術作品の様式的な変化にもとづくべきであるとして,671年(天智10)壬申の乱前年(小林剛),670年法隆寺焼亡(町田甲一),最近では663年白村江の戦(西川新次)等をくぎりとする説がみられ,その多くが彫刻史の側から提唱されている。ここでは,その下限を新様式展開の契機となった白村江の戦とし,大化改新を境に前期・後期に二分することとする。この時代は,国内的には政治の動揺激しく,対外的には,高句麗,百済,新羅など朝鮮半島における葛藤があいつぎ,これに新興の隋が加わるという複雑な時代であった。これら内外の情勢が飛鳥美術に及ぼす影響はきわめて大きく,ここでは歴史過程のうえに美術作品を点綴しながら,飛鳥美術の諸相を追うことにする。

仏教伝来の年次については,538年説(《元興寺縁起》《上宮聖徳法王帝説》,以下〈法王帝説〉と略),552年説(《日本書紀》,以下〈紀〉と略)がある。両時点のアジア情勢は,百済にとってもきわめて緊迫した状態にあり,日本に援兵を求めること切なるものがあった。仏教伝来以後,562年新羅は伽羅の諸国を全面的に支配し,任那の日本府は滅ぼされた(紀)。これは日本に衝撃を与え,以後百済の積極的な活動は見られない。574年新羅朝貢再開後,580年以降は調を返し,百済によって任那を回復しようとする日本の伝統的な方針が顕在化してくる。百済は日本に援兵を求める代償として,仏教の供与を試みてきたが,崇仏の蘇我氏を除いては,敏達,用明朝も仏教に否定的であり,特に物部氏の廃仏は激しかった。587年蘇我馬子はついに物部守屋を滅ぼし,ここに崇仏の基盤が確立した。

翌588年百済は仏舎利,僧,寺工,瓦博士,画工(白加)を献じ,馬子は法興寺(飛鳥寺)建立を発願した。法興寺の造営は596年竣工まで9ヵ年を要している(紀)。それまで掘立柱の宮殿しかなかった日本に,半永久的な寺院建築が建立されたところに飛鳥の新時代の意義がある。測量技術を駆使し数式的規格にのっとった伽藍設計,壮大な堂舎を支える堅牢な基壇の築成,礎石の作り出し,柱材の杣(そま)からの伐採・運搬,梁や桁にかかる重圧を緩衝する精巧な斗栱(ときよう)の導入,瓦の製作,彩色による内外装,そして仏像,荘厳具,仏具,調度などを製作する技術工人の集積によって,寺院ははじめて建立される。仏教伝来とは,仏教のみならず最新鋭の技術集団の伝来でもあった。こうした技術革新の最先端が,法興寺の造営だったのである。法興寺の伽藍配置四天王寺式とみなされていたが,1956-57年の発掘によって,塔を中心に三面を金堂が囲むという予想外の形式が明らかになった。これは日本や百済にも見られず,高句麗の清岩里廃寺に類似するにすぎない。東西金堂は重成基壇(二重基壇)で,下成基壇に礎石が並ぶ例は百済の扶余にも存する。また出土鐙瓦(あぶみがわら)の薄肉素弁の蓮華文様は,同時代の扶余の瓦と近似し,その様式の瓦は江南の南梁の地に発見され,大陸伝来の方式であることが知られる。塔心礎の埋納物は勾玉,管玉,トンボ玉などの玉類,刀子(とうす)や挂甲(けいこう),馬具や鏡,そのほか金銀延板や瓔珞(ようらく)等の装身具などで,これはまさしく古墳時代の埋葬品と等しく,仏教としては金銅製の小舎利容器があるにすぎない。地上に立ち並ぶ大陸伝来の壮麗な伽藍に比し,地下は依然として古墳の世界であり,新来の仏教文化と古墳文化の接点を,よく象徴するものといえよう。《日本書紀》によれば595年,高句麗から慧慈,百済から慧聡が来朝し,翌年の竣工とともに同寺止住の僧侶となり,ここにはじめて仏法僧が備わった法興寺が出現したのである。

598年になると,高句麗は隋の遼西地方に侵入し,隋は敗北した。600年新羅は任那に侵入し,日本も新羅に派兵するという緊迫した情勢の下に,日本は遣隋使を派遣する(《隋書》倭国伝)。翌601年聖徳太子は宮室を飛鳥から斑鳩(いかるが)に移し,603年には新羅征討も中止された(紀)。隋と修好し新文化を摂取するには,その門戸である難波と大和川で結ばれる斑鳩はかっこうの要衝であった。また伝統的な蘇我氏による百済路線から,あえて新羅路線に乗りかえ,新羅修好のうえに立って対隋外交を確保した。

 603年新羅は仏像をもたらし,太子はこれを秦河勝(はたのかわかつ)に賜い,河勝は山背(やましろ)の太秦(うずまさ)に蜂岡寺(広隆寺)を造った。608年には新羅人が多数来朝し,610年新羅・任那の使者来朝に際して,秦河勝は接待役を命ぜられ,621年新羅は初めて表を奉って朝貢した(紀)。太子崩後の翌623年に新羅は仏像1具,金塔,舎利,大灌頂幡1具,小幡12具を貢し,仏像は広隆寺,四天王寺に納められた(紀)。現存する広隆寺の弥勒菩薩半跏像(宝冠像)は,様式上これと類似の作品が韓国中央博物館にあり,材質も日本に例のない赤松であるところから,《広隆寺資財交替実録帳》に徴しても,この折の奉献像とみなされている。

 このように太子時代の対外関係は,百済より新羅へと大転換したが,そのかげにあって飛鳥美術に実質的な影響を与えている高句麗の存在も看過しえない。憲法十七条制定の604年,黄文画師(きふみのえかき)や山背画師など,画師の区分が定められたが,はじめに高句麗出身の黄文画師をかかげるところに,その存在の大きさがうかがえる。《日本書紀》によれば610年高句麗王は,彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上するが,これは日本における画材の需要増大を反映しているとともに,その技術が高句麗からもたらされた点が注目される。また605年鞍作止利に銅・繡の丈六仏像各1軀を造らせたところ,高句麗王がこれを聞いて黄金300両を貢しており(紀),ここにも高句麗との関係がうかがえる。

 鞍作止利は新漢人(いまきのあやひと)系の帰化人とみなされているが,太子の崩後に造立した法隆寺金堂の釈迦三尊像(623年銘)の作者である。この像の正面観照・左右相称の厳しい造形は北魏様式を伝え,光背裏面には謹厳な六朝風の書体で銘文が刻されている。《元興寺縁起》によれば,止利はまた606年法興寺丈六像を完成したが,現存する安居院の飛鳥大仏がこれに当てられており,わずかに残る頭部や手の一部に止利の作風をとどめている。止利様式の作品としては法隆寺大宝蔵殿の銅造釈迦如来および脇侍像(628年銘),法隆寺献納宝物の銅造如来座像(145号),同如来立像(149号,ともに東京国立博物館)がある。また中宮寺《天寿国繡帳》は太子崩後622年,妃の橘大郎女が発願し,采女らに刺繡させたもので,今わずかに残る断片からも六朝風の作風がうかがわれる。画師も東漢末賢(やまとのあやまけん),高麗加西溢(こまのかせい),漢奴加己利(あやのぬかこり)など,漢系・高句麗系画師の名がみられる。このほか当時の遺品には六朝風の《鵲尾(じやくび)形柄香炉》(法隆寺献納宝物,東京国立博物館)があり,蓋裏の〈上宮〉の針書銘から太子関係の遺品とみなされ,太子筆と称される《法華経義疏》4巻(宮内庁)の墨書は闊達自在で隋写経風の趣がある。

 高句麗から渡来した慧慈は聖徳太子の内教(仏教)の師であり,太子に与えた影響はかなり大きかったと思われる。602年にも高句麗僧僧隆,雲聡が来朝するが,このような高句麗の影響も,614年高句麗が隋に降伏するにいたって終息する。これと歩調を合わせるように翌年慧慈も高句麗に帰国する。

 一方同じころ百済人路子工(みちこのたくみ)が御所の南庭に須弥山形および呉橋を構え,百済人味摩之(みまし)も伎楽を伝えるなど百済からの来朝あいつぎ,613年には飛鳥と難波を結ぶ竹内街道が開通し(紀),これによって難波との直結をねらった,斑鳩宮の存在価値は半減する。これ以後聖徳太子は政治の舞台から後退し,615年には帰還する遣隋使に従って百済の使いが朝貢するなど,蘇我氏による百済路線復活のきざしがうかがえる。蘇我氏は聖徳太子崩後の翌623年には任那を討った新羅に対して一族の境部雄摩呂の将軍を派遣し(紀),太子の新羅修好は早くも破綻したのである。

舒明朝には百済の使いが急激に増加し,百済との修好は活発化した。639年斑鳩宮に近い百済川のほとりの熊凝(くまごり)精舎の地に,百済大寺造営の詔があり,12月には九重の塔が建立された(紀)。仏教に対してなるべく中立的態度をとりつづけた天皇は,舒明天皇にいたって天皇建立の寺院を初めてつくり出し,百済宮の造営もあわせて行われた。641年蘇我石川麻呂の氏寺山田寺の造営も始まる(〈法王帝説〉裏書)。百済大寺造営の始まる639年の前後年には,百済,新羅,任那がこぞって朝貢しており,640年には宮中において初めて無量寿経の講説が行われた(紀)。この年百済大寺には組大灌頂幡1具が納められ(《大安寺資財帳》),642年に大寺において仏菩薩四天王像を荘厳した(紀)とあれば,百済大寺の竣工は皇極朝に入ってからであろう。この造営の当代美術に与えた影響は大きかったに相違なく,大化改新後にも尾を引いたものと思われる。

 642年百済は高句麗と結び,新羅の侵攻した任那の中心地帯を奪取した。643年蘇我入鹿は山背大兄王および一族を滅ぼすが,翌々年蘇我入鹿は中大兄皇子らに殺され,時代を主導してきた蘇我氏は滅亡した。

大化改新により,蘇我氏の百済路線は衰退し,新羅関係が緊密化する。646年新羅に遣わし,任那の調をやめ,その代りに服属を意味する質をとることを要請したが,翌年新羅は質の金春秋をもたらした(紀)。648年には学問僧を三韓に遣わすとあり(紀),唐文化の摂取に急な新羅に渡った学問僧が多かったようである。651年(白雉2)以降は,新羅のほかに高句麗,百済の朝貢が目だってくる。648年阿倍倉梯麻呂は四天王寺塔内に四仏と霊鷲山を安置するが(紀),おそらく塑像であったろう。650年には中大兄皇子等が,7m四方にも及ぶ巨大な釈迦浄土図の繡帳を納めているが(《大安寺資財帳》),これは新たな浄土変相図の到来を告げるものである。《日本書紀》にはこの年漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおくち)が詔によって千仏像を刻したとあり,また法隆寺金堂四天王像の広目天像の光背には〈山口大口費(あたい)〉の銘があり,同一人とみられるところから,四天王像もほぼこの頃の作と考えられている。四天王像は止利様式の頭大短軀の不調和を脱して,人体比率に近づき,体軀にわずかな屈曲を試み,天衣も側面に向けて湾曲し単調を避けるなど,正面観照を維持しながらも側面観照への指向がみられる。衣文も非現実的,抽象的な表現と異なり,身体から遊離しないようにたたみ,それを通して肉体表現や律動感の胎動が認められ,その表現は飛鳥前期と異なる。このような特徴は法隆寺夢殿の救世観音像,同寺の百済観音像にもみられ,宝冠や装飾金具の透し彫文様にも共通性がある。この様式は法隆寺《玉虫厨子》にも通い,これらは四天王像と同じ650年前後の製作とみなされる。この様式変化をとらえて,大化改新以後を白鳳時代とする説が多いが,仏像の正面観照や側面観照にしても平面性を脱却できず,量的把握や律動感に欠けるなど,天智朝以降の白鳳時代とは造形的に異なるものがあるため,この時代を飛鳥後期とする。

法隆寺再建非再建論争は,半世紀近く続けられたが,1939年現南大門東の若草伽藍跡の発掘の結果,法隆寺より古い四天王寺式伽藍の存在が確認されたため,現在では再建説がとられている。また69-70年の再発掘では,金堂基壇ののちに塔基壇が築成されたことが判明し,出土した4組の瓦は若草伽藍のものと比定されているが,それより古い八葉花弁の弁端に珠点を配する百済系の瓦が,若草伽藍のみならず西院からも出土した。しかもこの瓦は四天王寺創建時の瓦と同型であるため,法隆寺草創期の寺院が別に存在する可能性をも示唆することとなった。

 法隆寺金堂の薬師如来座像は〈丁卯年〉の光背銘によれば,607年に造られたことになるが,文献上から銘文に疑問が持たれるとともに,釈迦三尊像と同じ形式をとりながら,様式のうえからは焼失後再建の際に造られたとみなされるなど多くの問題を残している。また法起寺は638年福亮によって金堂と本尊の弥勒像が造立されたが(《法起寺塔露盤銘》),1950-51年の発掘によって,金堂跡の下に若草伽藍や斑鳩宮跡と同じ西辺20度の前身遺構が飛鳥瓦とともに見いだされ,池後(いけじり)尼寺の問題などが浮かび上がった。このような考古学上の成果は,今後とも飛鳥美術に新たな展開をもたらすものとして期待されよう。なお遺品の上で中宮寺の菩薩半跏像,法輪寺の薬師如来座像,同寺の伝虚空蔵菩薩像,法隆寺献納宝物の《金銅灌頂幡》(東京国立博物館)や経錦(たてにしき)による法隆寺系の蜀江錦などは,従来飛鳥時代とみなされていたが,天智朝以降とする説も行われるようになり,今後の研究にまつところが多い。

660年百済は新羅・唐連合軍の攻略をうけ,事実上の滅亡を迎えた。日本は百済復興の方針を立て,派兵したが,663年(天智2)白村江の戦に敗れ,百済も滅亡した。これを境に,亡命の百済人が多く日本に帰化し,唐の文化も新羅経由で流入した。この変化は美術にも影響を与え,たとえば古瓦の文様にもたどることができる。飛鳥前期においては,素弁薄肉の蓮華文鐙瓦が,大化改新の前ごろからは素弁厚肉となるとともに,花弁中に子葉1個を配する単弁蓮華文が出現し,飛鳥後期に流行する。しかし花弁に子葉2個を配する複弁蓮華文は白村江の戦の後に初めて出現する。この文様は初唐直伝の量感のある文様で,前代とは本質的に異なっている。瓦の文様もこれを機に新時代に入ったことを如実に示しており,したがって飛鳥美術から白鳳美術への転機もこの時点におかれるべきであろう。
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中国・朝鮮の建築技術は古墳時代前期に日本に伝わっていたことが埴輪の家の斗束(とづか)や《日本書紀》の記事から知られる。しかし,その影響は小さく,本格的な大陸式建築が完備した一群として造営されるのは法興寺(飛鳥寺)からであった。その構造や意匠は宮殿にも用いられた。飛鳥時代建築の実物は1棟も現存していないので,日本や中国・朝鮮の文献・遺跡・遺物などと,飛鳥時代の様式を濃厚に伝えると考えられる白鳳時代再建の法隆寺西院の中心伽藍から実態が推定されている。

 仏教渡来の初期には本格的な仏寺は建てられず,王家や貴族の邸宅を転用したり小仏堂を設けたといい,577年(敏達6)に百済から造仏工・造寺工が渡来し,585年には蘇我馬子が大野丘北に仏塔を建てようとしたが,物部大連に倒され焼かれたと伝える。596年に日本最初の伽藍である法興寺が完成されると,ひきつづいて斑鳩寺,四天王寺なども造営され,《日本書紀》によると624年には寺46ヵ所があったとし,舒明朝には百済大寺,皇極朝には山田寺も着工されている。現在知られている飛鳥時代寺院跡は四十数ヵ所で大和と河内に特に多く,東は愛知県,西は愛媛県までみられるが,九州では発見されていない。これらは計画的に方位を決め中軸線上に南大門・中門・塔・金堂・講堂を配置し,飛鳥寺では塔の東西北に3金堂をもつ。さらに僧房・鐘楼・経蔵を必要とした。主要建物は版築による基壇に礎石を据え,太い円柱に複雑な組物で深い軒を支え,壁は土壁とした。屋根は本瓦ぶきで棟端には鴟尾(しび)を飾る。木部は丹や緑青,壁は白壁と鮮やかに塗装された。法隆寺にみられるエンタシスのある太い柱,皿斗(さらと)つきの大斗(だいと),雲肘木(くもひじき)や三斗組(みつどぐみ),卍字崩高欄(まんじくずしこうらん)や人字形蟇股(にんじがたかえるまた)などは,中国の六朝~初唐の様式が高句麗や百済を経て伝えられたもので,《玉虫厨子》にみられる放射状に斗栱を出す構造とか,円垂木,隅扇垂木(すみおうぎだるき)のような細部もあり,様式は多様であった。造営の尺度は1尺=約35cmと長く,後に高麗尺(こまじやく)と呼ばれた。伽藍配置では飛鳥寺のような一塔三金堂式は高句麗以外ではみられず,四天王寺のように縦1列で回廊が中門から講堂にとりつく配置は百済にも例がある。末期には山田寺のように講堂前庭で回廊が閉じるものや,高麗寺(こまでら)(京都府)などのように,塔と金堂を横置するものもできた。宮殿建築でも計画的配置が採用され,後世の内裏・朝堂の前身にあたる2部分が存在したらしい。斑鳩宮では瓦や土壁も使われていた。

 大王家などの墳墓は前方後円より方墳が好まれるようになり,石の仕上げ技術も進んで,切石積の石室や横口式石槨(せつかく)もできた。おそらく技術者の不足などから,造営には困難が多く,飛鳥時代中に完成した伽藍は少なかったと思われる。寺院建築の全国的普及は,白鳳時代になってみられた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「飛鳥美術」の意味・わかりやすい解説

飛鳥美術
あすかびじゅつ

日本に仏教が伝来した6世紀の中ごろから、645年の大化改新までの約1世紀間にわたり、大和(やまと)(奈良県)の飛鳥地方に開花した美術。百済(くだら)の聖明王が仏像、経典などをわが朝廷に献じたのが538年(宣化(せんか)天皇3)あるいは552年(欽明(きんめい)天皇13)で、この仏教の公伝以前にすでに仏教が伝来していたことは古記録や古墳の副葬品などによって明らかであるが、公伝を契機にして朝鮮半島との交渉が盛んになり、半島を経て大陸の文化が将来されるようになった。しかし6世紀にさかのぼる美術の遺品は現在のところきわめて少なく、具体的に仏教美術の遺品がみられるのは推古(すいこ)朝に入ってからである。6世紀末に崇仏派の蘇我(そが)氏により、わが国最初の本格的仏教寺院である飛鳥寺が飛鳥の地に建立され、推古朝に入ると聖徳太子が熱心に仏教を奨励し、大陸から渡来してくる僧侶(そうりょ)や技術者の活動もあって、造寺造仏が盛んに行われ、飛鳥地方を中心に仏教文化が栄えた。『日本書紀』によると聖徳太子没後の624年(推古天皇32)の仏教の情勢を、寺院の数が46寺、僧816人、尼569人と伝えている。造立された寺院建築や内部に安置された仏像や絵画あるいは仏具の工芸品などは、中国の北魏(ほくぎ)から東・西両魏時代の北朝美術や、同時代の南朝の美術が朝鮮半島を経由してわが国に伝わり、中国六朝(りくちょう)時代の影響を受けてつくりだされたものである。飛鳥時代を大化改新でくぎることは、美術史のうえからは多少の無理があり、天智(てんじ)天皇のころまで、飛鳥様式をもつものと、新しい要素を備えたものとが混じり合い、今日若草伽藍(がらん)と称している法隆寺の火災のあった670年(天智天皇9)をもって飛鳥時代の終わりとする説もあるが、ここでは大化改新(645)をもってくぎりとする。

[永井信一]

建築

現在、飛鳥時代に建てられた建築は一つも残っていないが、遺跡は畿内(きない)をはじめ全国に40か所余りあり、礎石や出土瓦(がわら)から伽藍(がらん)の規模はかなり大きなものであったと想像される。飛鳥寺(奈良)はわが国最初の本格的な仏教寺院で、592年(崇峻(すしゅん)天皇5)に起工、606年(推古天皇14)に丈六(じょうろく)の釈迦(しゃか)像が安置された。この寺の伽藍配置は、塔を中心に、北と東西の三方に金堂があり、高句麗(こうくり)の清岩里廃寺跡とプランが同一で、朝鮮といかに密接な関係があったかを物語っている。また法隆寺の金堂、五重塔、中門(ちゅうもん)、回廊、法起(ほうき)寺の三重塔は飛鳥建築の特徴を備え、680年ごろまではその様式で建てられたものらしく、近年発掘された山田寺回廊の建築は、それよりすこし古くさかのぼるものとみられる。

[永井信一]

彫刻

この時代の彫刻は仏像が主であり、様式からみてもいろいろで、一つの様式の展開としてとらえられない。そのなかで主流を占めたのは止利(とり)派の作で、法隆寺(奈良)金堂の釈迦三尊像は、光背に刻まれた銘文により、聖徳太子没年の翌年(623)止利仏師によってつくられたことがわかる。先にあげた飛鳥寺の本尊釈迦如来(にょらい)像も銘はないが、文献から止利の作とされ、火災により原形は損なわれているが、止利様式の特徴がよく残っている。飛鳥寺本尊に比べると、法隆寺の釈迦三尊像は、金銅仏のきわめて完好な遺品で、わが国仏教美術の初期を飾るにふさわしい優れた作である。奥行のない正面観照性、衣文(えもん)や身にまとう服飾の左右相称性、面長で古拙的微笑を表した面相、また抽象化した衣文を裳懸座(もかけざ)と称する独特の形式にまとめるなど、謹厳ななかにも豊かな造形美を現している。この止利仏師の流れをくむものは、ほかに法隆寺の戊子(ぼし)年銘の釈迦三尊像(脇侍(わきじ)1体を欠失)、や菩薩(ぼさつ)立像、東京国立博物館所蔵のいわゆる四十八体仏のなかの小金銅仏像の数点があり、いずれも精巧な鋳造技術をもってつくられた金銅仏である。止利派に属す木彫像では法隆寺夢殿の本尊救世(ぐぜ)観音像があり、頭部から蓮肉(れんにく)までクスノキの一木造りで、天衣の裾(すそ)が大きく左右に広がっている点や、両肩にかかる蕨手(わらびで)の垂髪(すいはつ)など、北魏式の仏像の影響の濃い止利派の特色を備えている。法隆寺の百済(くだら)観音像は、その尊名から百済からもたらされたもののような印象を与えるが、クスノキの一木造りで、わが国でつくられたものである。この像は止利派の様式とは異なり、奥行のある立体構成で、プロポーションも八等身のスマートな姿につくられ、全身に厚く彩色が施されている。従来その源流を中国には求められないとされていたが、竜門石窟東山にこれと似た高肉(たかにく)彫りの菩薩像のあることが確かめられ、制作年代からみると、竜門像があとになるが、その祖型となる像がそれ以前にあったことが考えられる。法隆寺金堂の四天王像および法輪寺(奈良)虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)像は百済観音像の系譜につながるもので、四天王像はその広目天の光背の銘文から、山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)らが制作した像であることがわかる。山口大口費は『日本書紀』によると白雉(はくち)元年(650)に千仏像を刻んだ由が記され、この像もそのころの作と考えられる。

 広隆寺(京都)の弥勒(みろく)菩薩像は、6世紀末から7世紀にかけて、大陸とくに朝鮮半島で盛んにつくられた半跏思惟(はんかしい)像である。この像ときわめてよく似た金銅製の像がソウルの韓国国立中央博物館にあり、素材は飛鳥の木彫像がどれもクスノキであるのに、この像だけがアカマツであることなどから、朝鮮から舶載されたものではないかという説が最近有力である。しかし、等身の一木造りの像を半島から請来することに技術的な困難を伴う点などから、渡来した朝鮮の工人が使い慣れたアカマツを素材にしてつくったものではないかと考えられる。像の表面の漆箔(うるしはく)はほとんどなくなり、木目を表しているが、一部に金箔(きんぱく)がみられる。中宮寺(奈良)の半跏思惟像は、寺伝では如意輪(にょいりん)観音像と称しているが、これももとは弥勒菩薩像としてつくられたもので、クスノキの一木造りで、体の線や肉づきに抑揚があり、人間の体の美しさを控えめに表出しており、裾の衣文のまとめ方にも型にとらわれない自由さがある。いまは漆黒に覆われているが、もとはこの上に彩色がしてあったもので、像の内側に顔料がわずかに残っている。もと法隆寺に伝来し、現在は東京国立博物館の法隆寺献納宝物館に陳列され四十八体仏の名で知られている小金銅仏群のなかに、先に述べた止利派のものと思われる遺品のほかに、摩耶(まや)夫人像とよぶ小像がある。夫人の右脇(わき)から釈迦の誕生するところを現しており、かたわらには采女(うねめ)たちが欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している。

[永井信一]

絵画・工芸

彫刻に比べ、絵画、工芸の遺品はきわめて乏しい。法隆寺の玉虫厨子(ずし)は、飾りにつけた周辺の透(すかし)彫り金具の下に玉虫のはねを敷き詰め、鍍金(ときん)の飾り金具と、玉虫のはねの光とが醸し出す装飾効果を利用していたのでこの名称があり、もとは貴人が日常念持仏を納める厨子としてつくられたものである。この厨子の台座の四面の板絵に釈迦の前生の物語である本生(ほんしょう)話(捨身飼虎(しゃしんしこ)、施身問偈(せしんもんげ))と須弥山(しゅみせん)図や供養図が描かれ、扉には菩薩像や天部像が描かれている。とくに名高いのは本生話である。同じ主題の北魏の絵画が敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の壁画にもみられるが、同じ主題を扱いながらもこれらは題材を強くみるものに訴えようとするものであり、玉虫厨子のものは画面に情緒性を表出するということに力を注ぎ、平安時代になって盛んになる大和絵の源流がすでにここにみいだされることは非常に興味深い。

 中宮寺の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)(天寿国曼荼羅(まんだら)ともよばれる)は聖徳太子が亡くなったあと、妃(ひ)の一人であった橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、画家の東漢末賢(やまとのあやのまけん)らに下絵を描かせ、多くの采女たちと刺しゅうにしたものである。もとは約3メートル四方の大きさの繍帳が2張りあったもので、いまではその一部が断片として残っているにすぎず、それも後世の手が加えられているが、人物や建物や波の表し方に中国六朝時代の絵画の影響がみられる。

[永井信一]


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