古代以来,河川を主にして使われた喫水の浅い平底の小船で,湖沼や海辺でも用いられた。おもに渡船,輸送船であったが,平安貴族の間では,遊び船としても盛んに用いられた。高瀬舟と類似したものに平駄(ひらた)舟があり,両者の区別は必ずしも明らかでないが,平安後期の12世紀前期に北九州遠賀(おんが)川で,上流荘園の年貢米を運んでいた平駄舟の積載量は14石前後であった。鎌倉時代,中国地方の高梁(たかはし)川を上下して,東寺領備中(岡山県)新見(にいみ)荘その他の年貢米を運んだ高瀬舟はせいぜい5石積み程度であった。近世以後,高瀬舟は川船の代表として,各地の河川に見られるようになり,大きさも小は10石積みから,大は200~300石積みに至るまでさまざまで,就航河川の状況に応じて,船型・構造を異にした。京~伏見間の高瀬川のものは,箱造りの15石積みで,小型を代表し,利根川水系の200石前後のものは,きわめて長大で大型高瀬舟を代表するものであった。
執筆者:新城 常三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…全国に散在する幕府の奉行,代官の役所を近江を境に東西に分け,美濃以東の役所で判決した罪人は江戸小伝馬町牢屋に,近江以西の場合は大坂の牢屋に集めたが,長崎奉行だけは直接島に送った。京都から大坂に流人を移すのに高瀬舟が使われたのは名高い。江戸からは春秋2回出船し,大島,八丈島,三宅島,新島,神津島,御蔵島,利島の伊豆七島に,大坂からは年に1回出帆し,薩摩および五島の諸島,隠岐,壱岐,天草島に流した。…
※「高瀬舟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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