自分が刑事責任を負わされるおそれのある事実について供述することを強制されない権利すなわち供述拒否権をいう。近代以前の刑事裁判では,被告人は真実を述べるのが当然とされ,拷問によって強制的に自白させることさえ許されていた。しかし,啓蒙時代に入ると,自己に不利益なことをみずから言うことを強制するのは人間の尊厳に反するばかりでなく,拷問は基本的人権に反し,強制された自白はかえって真実に反し,誤判を導くおそれも大きいとして,これに強い非難があびせられるようになった。そこで,近代刑事訴訟法は,自己に刑事責任を負わせる供述を強制しないとするに至ったのである。
罪を犯したなら正直に白状すべきだというのは,素朴な正義感には合致するが,それを刑事裁判にもち込むと,自白の強要,心理的・肉体的な圧迫や拷問を招き,誤判をも生じかねないのである。もっとも,同じく供述を強要しないとはいっても,ヨーロッパ大陸諸国では,被告人にも真実を述べる法的義務,少なくとも倫理的義務はあるが,ただそれを強行してはならないだけだと考える。日本でも,戦前の旧刑事訴訟法の下では,このように考えられていた。これに対して,英米法の伝統では,黙秘権は〈自己負罪拒否特権〉と呼ばれ,供述を法律で義務づけることを禁ずるのがその内容であると考えられている。日本国憲法38条1項が〈何人も,自己に不利益な供述を強要されない〉と規定しているのは,アメリカ法に由来するが,これは,供述を法律で義務づけることと,事実上強制することとの双方を禁じたものと解されている。
証人も,自己が刑事訴追を受け,または有罪判決を受けるおそれのある証言を拒否できるが(刑事訴訟法146条。なお147条参照),被疑者・被告人は一切の事実について供述を拒否できる(311条)。黙秘した者を不利益に扱うことは許されず,また,黙秘権を侵害して得た供述は,証拠とすることができない。
なお,捜査機関が被疑者を取り調べる際には,被疑者に対して,黙秘権があることをあらかじめ告げなければならず,また,公判の冒頭手続において,裁判長は黙秘権の存在を被告人に告げなければならない(198条2項,291条2項)。
黙秘権に関しては,氏名がその範囲に含まれるか,ポリグラフ(いわゆる〈うそ発見器〉)や麻酔分析にかけることが黙秘権に反するかなど,多くの問題が残されている。アメリカ法では,免責(訴追免除)を与えて訴追のおそれをなくしたうえで供述義務を課し,得られた供述を証拠として別の被告人を有罪にする制度があり,日本でもいわゆるロッキード事件の際,アメリカ人に対する嘱託尋問で同様のことが行われ,その当否が問題となった。
執筆者:平川 宗信
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被疑者・被告人は供述する義務を負わないことをいう。旧刑事訴訟法は被告人尋問の制度を規定して、「被告人に対しては被告事件を告げ其(そ)の事件に付(つき)陳述すべきことありや否を問うべし」とし、この規定を被疑者の尋問に準用していたが、現在、この黙秘権は強化されている。すなわち、何人(なんぴと)も自己に不利益な供述を強要されないことが憲法第38条1項で保障され、これを実現するために刑事訴訟法第311条1項は、被告人は終始沈黙し、または個々の質問に対し供述を拒むことができる、とした。もっとも判例は、氏名の黙秘は原則として許されないとしている。被疑者の取調べに際しては、あらかじめ被疑者に対して、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げることを要する(刑事訴訟法198条2項)。
被告人が黙秘権を行使して供述しなかったからといって、このことから、犯罪事実の認定について被告人に不利益な推測をすることは許されない。黙秘している事実を被告人に不利益な量刑資料として考慮することも許されないが、被告人が反省していないことの一資料とすることはありうる。被疑者が黙秘権を行使している場合にも、黙秘権の行使それ自体を勾留(こうりゅう)延長の理由とすることはできないが、黙秘権行使の結果として、住所不定、罪証隠滅のおそれなどの勾留理由がなお存続している場合には、それらの勾留理由から勾留延長がなされることもありうる。
被疑者・被告人が任意に供述する場合には、この供述は、自己に不利益な証拠にも、利益な証拠にもなりうる(刑事訴訟規則197条1項)。裁判長は冒頭手続で黙秘権のほかこの旨をも告げる必要がある(刑事訴訟法291条3項)。黙秘権が認められる理由は、個人の尊厳を尊重することにある。したがって、強制、拷問、法律上認められない利益の約束、偽計などにより被疑者・被告人の意思決定、意思活動の自由を侵害することは許されない。任意性のない自白または任意性に疑いのある自白の証拠能力は否定される(同法319条1項)。
[内田一郎・田口守一]
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…(1)冒頭手続では,出頭した者が被告人本人であることの確認(人定質問)の後,検察官が起訴状を朗読する。つづいて,裁判長は被告人に黙秘権のあることなどを告げたうえ,被告人および弁護人に陳述の機会を与える。その陳述においては,訴因,すなわち検察官の主張する事実に対する応答(罪状認否)が重要であり,これによって事件の争点が明確になる。…
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