市川団十郎(2代)
没年:宝暦8.9.24(1758.10.25)
生年:元禄1.10.11(1688.11.3)
享保から宝暦前期にかけて江戸劇壇で活躍した歌舞伎役者。立役の名優。俳名は三升,栢莚。初代団十郎の長男として江戸で生まれた。初名九蔵。元禄17(1704)年2月,父の不慮の死に会い,その年に17歳で2代目団十郎を襲名した。父親似の容貌体格を備え,小柄だったが持ち前の芸熱心でめきめきと腕をあげ,江戸劇壇における「市川団十郎」の名跡の権威を確立した。初代団十郎の豪快な芸風を受け継ぎ,「暫」「鳴神」「外郎売」「矢の根」などの荒事芸を得意にしたばかりでなく,初代が不得手とした濡れ事芸,和事芸にも天分があった。上方で大当たりをとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曾根崎心中」の徳兵衛,「心中天網島」の治兵衛などを歌舞伎化して江戸で上演して好評を博したのも,その面の才能を物語る。「国性爺合戦」の和藤内を享保2(1717)年に上演したのは,江戸における義太夫狂言上演に先鞭をつけたものと目される。このように上方生まれの狂言の江戸での上演に成功したことは,上方文化の東漸という文化史上の現象を象徴的に示すものであるが,これについて2代目団十郎の資質が有効に働いたことを逸することはできない。 享保6年正月森田座の「賑末広曾我」で曾我五郎の役を勤めたが,この狂言が大当たりをとって280日間のロングランを記録した。その褒賞として以後彼の給金は千両となり,併せて毎年6月に土用休みの特権を与えられたと伝える。これがいわゆる「千両役者」の称の始まりである。彼は「助六」を初演し,以後3度にわたる上演のたびに和事味を加えて演出を洗練し,今日も見られる黒羽二重の小袖に紅絹の裏,友禅染めの五つ紋,鮫鞘,ひとつ印籠,紫縮緬の鉢巻きという扮装を完成させた。寛保1(1741)年には大坂に上り,「毛抜」を初演,上方でも高い評価を得た。享保20年,養子の市川升五郎に3代目団十郎を襲名させ,自身は市川海老蔵と名乗る。不幸にも3代目に先立たれるが,自身は「江戸随市川」の海老蔵として長く江戸歌舞伎界に君臨した。俳諧,狂歌をたしなんで,広く文人と交わり,『父の恩』『栢莚狂句集』,日記『老のたのしみ』などの著述を残した。<参考文献>立教大学歌舞伎研究会編『資料集成・二世市川団十郎』
市川団十郎(9代)
没年:明治36.9.13(1903)
生年:天保9.10.13(1838.11.29)
幕末明治期の歌舞伎役者。俳名は三升,団州など。文化文政期の名優7代目団十郎の5男で,本名は堀越秀。生後間もなく6代目河原崎権之助の養子となる。幼名長十郎,次いで権十郎を名乗り,明治2(1869)年,7代目権之助を襲名して河原崎座の再興に尽力した。明治7年の河原崎座新築開場を機に市川家に復帰して9代目団十郎を襲名。幼年期から音曲,舞踊,絵画,茶道の修業を積み,「風姿容貌」「音調弁舌」に優れ,時代物,世話物,所作事を問わず,立役,敵役,女形いずれの役も兼ねられる優れた才能を持ち,「劇聖」と呼ばれ,5代目菊五郎,初代左団次と共に団菊左と並び称された。 開明的な識見を持ち,文明開化,欧化改良をおしすすめる政界,財界,学界の有志による演劇改良運動に共鳴し,12代目守田勘弥,5代目菊五郎らと共にその中心となって活躍した。福地桜痴と提携して活歴(史実を尊重した英雄志向の時代物で,荒唐無稽な内容を排し,大道具,小道具,衣裳,扮装なども考証を重んじ,演技も迫真的な純写実を目指した作品群)を創始し,性格や心理を内面的に表現する演技術「肚芸」を開拓した。しかし,「高尚熱」と「改良癖」は江戸歌舞伎に親しんできた観衆に受け容れられず,晩年には活歴から離れて,古典歌舞伎の台本を吟味し,古典歌舞伎の演出・演技を近代化することに尽力した。現代に伝わる「型」の創造は貴重な貢献である。また能狂言に取材した所作事松羽目物の演目を創造して,歌舞伎舞踊の一系統としての位置を固めたのも団菊の功績である。父7代目団十郎の「歌舞伎十八番」制定の遺志を継いで,活歴物,松羽目物のなかから「紅葉狩」「鏡獅子」など得意芸を集めた「新歌舞伎十八番」を選定している。初の天覧劇への出演をはじめ,歌舞伎役者の社会的地位の向上に果たした役割も大きい。<参考文献>伊原敏郎『市川団十郎の代々』下,伊坂梅雪編『五代目菊五郎自伝』,伊原敏郎『団十郎の芝居』,服部幸雄『市川団十郎』
市川団十郎(初代)
没年:元禄17.2.19(1704.3.24)
生年:万治3.5(1660)
元禄期の江戸劇壇で活躍した歌舞伎役者。立役の名優。江戸時代を通じて連綿と代を重ね,平成の12代に至る由緒ある名跡の初代。定紋は三升,俳名才牛,屋号成田屋。祖先は甲州の武士,のちに下総国埴生郡幡谷村(千葉県成田市)に移住し農を営んだ。父重蔵は江戸に出て,「菰の重蔵」とあだ名された顔役。通説では延宝1(1673)年,14歳のときに中村座の「四天王稚立」で初舞台。このとき坂田公時役で,全身を赤く塗り,紅と墨で顔に隈を取り,荒い格子の衣裳に丸ぐけの帯,大太刀を佩き斧を提げて大江山の場へ出,猟師を相手にして大立ち回りの豪快な荒事を演じたという。これが殺伐な風の残っていた江戸の人たちに熱烈に迎えられた。資料的には貞享2(1685)年の「金平六条通ひ」の坂田金平の役が荒事の創始ともいう。 芸域の広い役者で,特に荒事を得意としたが,「濡れ事は不得手」と評されている。自身で狂言作者を兼ね,「成田山分身不動」で不動明王に扮して示現したように,大詰に神霊に扮して登場する独特な狂言を自作自演した。三升屋兵庫の筆名も用いた。「参会名護屋」「兵根元曾我」「源平雷伝記」などの狂言本が伝存。信仰心厚く,特に成田山新勝寺の不動尊を信仰した。成田屋の屋号はこれに由来する。元禄17(1704)年2月,江戸市村座の「わたまし十二段」に出演中,俳優の生島半六によって刺殺された。<参考文献>二世市川団十郎「金の揮」(『資料集成・二世市川団十郎』),『歌舞伎評判記集成』1期1~3巻,西山松之助『市川団十郎』
市川団十郎(7代)
没年:安政6.3.23(1859.4.25)
生年:寛政3.4(1791)
江戸後期の歌舞伎役者。芝居茶屋和泉屋勘十郎と5代目団十郎の次女すみの子。幼名小玉。市川新之助,同ゑび蔵を経て寛政12(1800)年に団十郎を襲名。のちに海老蔵に戻る。俳名三升,白猿,二九亭,夜雨庵,寿海老人,子福長者など。別名市川白猿,成田屋七左衛門,幡谷重蔵など。団十郎家伝来の荒事をはじめとして時代物,世話物を問わず,実事,実悪,敵役,老役,和事から女形に至るまで広く巧みに演じた。所作事にも長じ,4代目鶴屋南北(大南北)の生世話物の役々にも個性を発揮した。文化文政期を中心とした後期江戸歌舞伎界の中心的存在であった。当たり役も多い。 天保3(1832)年,海老蔵改名と同時に団十郎家累代の当たり芸の集成「歌舞伎十八番」を制定公表した。同11年能楽の演出を大幅に取り入れた『勧進帳』を創演して明治に流行する松羽目物への道を拓いた。同13年,天保改革の奢侈禁止令に触れ江戸十里四方追放となるが,嘉永2(1849)年赦免。追放中を含めて数度京坂の劇場に出演した以外にも,西は長崎に至るまで各地を巡って舞台に立ったのは従来の団十郎にない精力的な活動である。祖父5代目団十郎以来の江戸文化人グループの熱烈な支援を受けるとともに,自身も文筆に親しみ『遠く見ます』『しもふさの身旅喰』『遊行やまざる』『腰かけざる』などの旅行記,句文集を著し,多くの書画を残している。名目のみにせよ合巻の作も相当ある。
市川団十郎(8代)
没年:嘉永7.8.6(1854.9.27)
生年:文政6.10.5(1823.11.7)
江戸後期の歌舞伎役者。7代目団十郎と妻すみ(芝居茶屋福地善兵衛の娘)の長男。2代目市川新之助,6代目市川海老蔵を経て天保3(1832)年に団十郎を襲名。俳名三升,団栗,白猿など。団十郎家の後継者として期待され,誕生の翌月に舞台に出る。美貌で上品,愛嬌があり,幕末期江戸歌舞伎界では最高の,熱狂的な人気を博した。団十郎家伝来の荒事をはじめ,時代物,世話物ともに広く演じるとともに,容貌風姿を生かした若殿様,若旦那役という類例のない新しい芸境を創りあげた。当たり役では助六,鳴神上人,岡部六弥太,足利光氏,児雷也,向う疵の与三郎,春日屋時次郎などが知られる。江戸追放中の父の無事を祈り,母や家族の面倒をよくみているとして弘化2(1845)年,北町奉行所から親孝行を表彰された。人気絶頂時に大坂で出演直前に自殺。おびただしい種類の死絵および『追善・三升格子』その他の追悼出板物が刊行されている。その死因をめぐってさまざまな説が取沙汰された。杉本苑子『はみだし人間の系譜』など,いくつかの小説に描かれている。<参考文献>川上邦基編『八代目団十郎集』(『演劇文庫』3編)
市川団十郎(5代)
没年:文化3.10.29(1806.12.8)
生年:寛保1.8(1741)
江戸中期の歌舞伎役者。4代目団十郎の実子。俳名三升,白猿など。狂歌名は反古庵,花道のつらね。松本幸蔵,3代目松本幸四郎を経て明和7(1770)年,団十郎を襲名,のちに市川鰕蔵と改めた。寛政8(1796)年引退後も請われて市川白猿の名で数度舞台に立った。実悪から始めて実事,荒事をよくした。当たり役としては暫,外郎売,六部,悪七兵衛景清,工藤祐経などが名高い。最盛期の江戸歌舞伎界最高の人気役者であった。隠居名成田屋七左衛門。俳諧や狂歌を通じて大田蜀山人,鹿津部真顔,山東京伝,烏亭焉馬らの文人と親交があり,熱烈な支援を得た。焉馬は5代目を中心に『江戸客気 団十郎贔屓』『追善数珠親玉』など歴代団十郎に関する多数の著作を刊行した。5代目自身の句や文を集めた『友なし猿』『徒然吾妻詞』『市川白猿集』などがある。6代目は5代目の実子が徳蔵,海老蔵(4代目)を経て寛政3年に襲名したが,同11年に早世した。<参考文献>日野竜夫編『五世市川団十郎集』
市川団十郎(4代)
没年:安永7.2.25(1778.3.23)
生年:正徳1(1711)
江戸中期の歌舞伎役者。江戸堺町(日本橋芳町・人形町)の芝居茶屋和泉屋勘十郎の次男とも,2代目団十郎の実子ともいう。俳名は海丸,五粒,三升など。屋号成田屋。初代松本幸四郎の養子となり,松本七蔵,2代目幸四郎を経て宝暦4(1754)年団十郎襲名。のち市川海老蔵(3代)と改名した。女形から立役に転じて実悪,敵役を演じ,のちには実事や団十郎家伝来の荒事をもよくした。当たり役としては悪七兵衛景清,佐々木巌柳などが名高い。住居が深川木場にあり,劇界における地位やその人柄から「木場の親玉」と尊称された。修行講という演技の研究会を開いて門弟の育成に努力した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
市川団十郎(12代) いちかわ-だんじゅうろう
1946-2013 昭和後期-平成時代の歌舞伎役者。
昭和21年8月6日生まれ。11代市川団十郎の長男。昭和28年初舞台。60年12代市川団十郎を襲名,家の芸である「歌舞伎十八番」の荒事(あらごと)を中心に江戸歌舞伎の現代への継承につとめる。平成元年芸術院賞。初代団十郎が元禄16年に演じた「成田山分身不動」を平成4年に上演。19年フランス芸術文化勲章コマンドールを受章。同年菊池寛賞。24年芸術院会員。平成25年2月3日死去。66歳。東京都出身。日大卒。本名は堀越夏雄。初名は市川夏雄。前名は市川新之助(6代),市川海老蔵(10代)。屋号は成田屋。
市川団十郎(11代) いちかわ-だんじゅうろう
1909-1965 大正-昭和時代の歌舞伎役者。
明治42年1月6日生まれ。7代松本幸四郎の長男。大正4年初舞台。昭和4年9代市川高麗蔵(こまぞう)を,15年5代市川三升の養子となり9代市川海老蔵(えびぞう)を名のる。荒事(あらごと)を得意とし,「海老さま」とよばれ,戦後歌舞伎のスターとなる。37年11代を襲名。昭和40年11月10日死去。56歳。東京出身。本名は堀越治雄。初名は松本金太郎。屋号は成田屋。
【格言など】プロンプターがつくような非良心的な演技では銭はとれない(常に口にしたことば)
市川団十郎(初代) いちかわ-だんじゅうろう
1660-1704 江戸時代前期の歌舞伎役者。
万治(まんじ)3年5月生まれ。延宝元年江戸中村座の初舞台で顔を隈取(くまど)りし,荒事(あらごと)を創案した。元禄(げんろく)6年段十郎を団十郎とあらためる。元禄時代を代表する名優。市川家の宗家で,三升屋(みますや)兵庫の筆名で歌舞伎脚本もかく。元禄17年2月19日舞台で生島(いくしま)半六に刺殺された。45歳。江戸出身。姓は堀越。初名は市川海老蔵(えびぞう)(初代)。俳名は才牛。屋号は成田屋。作品に「参会名護屋」など。
市川団十郎(9代) いちかわ-だんじゅうろう
1838-1903 幕末-明治時代の歌舞伎役者。
天保(てんぽう)9年10月13日生まれ。7代市川団十郎の5男。6代河原崎権之助の養子となるが,明治7年実家にもどり9代を襲名。明治期を代表する役者で「劇聖」とよばれる。演劇改良運動にとりくみ,活歴物(かつれきもの)という史劇を創始。新歌舞伎十八番を制定した。明治36年9月13日死去。66歳。江戸出身。本名は堀越秀。初名は河原崎長十郎(初代)。前名は河原崎権十郎(初代),権之助(7代)。俳名は三升。屋号は成田屋。
市川団十郎(4代) いちかわ-だんじゅうろう
1711-1778 江戸時代中期の歌舞伎役者。
正徳(しょうとく)元年生まれ。2代市川団十郎の子という。初代松本幸四郎の養子となり,享保(きょうほう)20年2代をつぐ。実悪(じつあく)で名をあげ,宝暦4年4代団十郎を襲名。のち実事(じつごと)に転じ,晩年は深川木場で門弟を育成,「木場の親玉」とよばれた。安永7年2月25日死去。68歳。江戸出身。後名は市川海老蔵(えびぞう)(3代)。俳名は佰莚,夜雨庵。屋号は成田屋。
市川団十郎(7代) いちかわ-だんじゅうろう
1791-1859 江戸時代後期の歌舞伎役者。
寛政3年4月生まれ。5代市川団十郎の外孫。寛政12年7代を襲名。家芸の荒事(あらごと)のほか,4代鶴屋南北の生世話物(きぜわもの)なども好演。天保(てんぽう)3年歌舞伎十八番を制定。13年改革令にふれて江戸を追放され,上方などを巡業した。安政6年3月23日死去。69歳。江戸出身。初名は市川新之助。後名は市川海老蔵(えびぞう)(5代)。俳名は三升,白猿。屋号は成田屋。
市川団十郎(2代) いちかわ-だんじゅうろう
1688-1758 江戸時代中期の歌舞伎役者。
元禄(げんろく)元年10月11日生まれ。初代市川団十郎の長男。宝永元年2代を襲名。父の荒事(あらごと)を継承し,和事(わごと)にも習熟して,家名を確立した。当たり役の「助六」は後世の原型となる。宝暦8年9月24日死去。71歳。江戸出身。初名は市川九蔵(初代)。後名は市川海老蔵(えびぞう)(2代)。俳名は三升,才牛,栢莚(はくえん)。屋号は成田屋。句集に「父の恩」。
市川団十郎(8代) いちかわ-だんじゅうろう
1823-1854 江戸時代後期の歌舞伎役者。
文政6年10月5日生まれ。7代市川団十郎の長男。天保(てんぽう)3年10歳で8代を襲名。美貌(びぼう)と親孝行で弘化(こうか)期以降絶大な人気をえた。新作の時代物や世話物にすぐれたが,父と巡業した大坂で嘉永(かえい)7年8月6日自殺。32歳。江戸出身。初名は市川新之助(2代)。前名は市川海老蔵(えびぞう)(6代)。俳名は三升,夜雨庵。屋号は成田屋。
市川団十郎(5代) いちかわ-だんじゅうろう
1741-1806 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
寛保(かんぽう)元年8月生まれ。4代市川団十郎の子。明和7年5代を襲名。若衆方,実悪(じつあく),実事(じつごと),女方をこなし,安永-天明の江戸歌舞伎全盛期の花形役者となる。寛政3年鰕蔵(えびぞう)と改名。文化3年10月30日死去。66歳。江戸出身。初名は松本幸蔵。前名は松本幸四郎(3代)。俳名は白猿。狂歌名は花道のつらね。屋号は成田屋。
市川団十郎(10代) いちかわ-だんじゅうろう
1882-1956 明治-昭和時代の歌舞伎役者。
明治15年10月31日生まれ。はじめ銀行員。明治34年9代団十郎の長女堀越実子(のち2代市川翠扇)と結婚。43年初代中村鴈治郎(がんじろう)門下として初舞台。大正6年5代市川三升を襲名。昭和31年2月1日死去。73歳。死後団十郎(10代)を追贈された。東京出身。慶応義塾卒。本名は堀越福三郎。旧姓は稲延。俳名は夜雨。屋号は成田屋。
市川団十郎(6代) いちかわ-だんじゅうろう
1778-1799 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
安永7年生まれ。5代市川団十郎の子。父の従弟和泉屋勘十郎の養子となるが,天明元年あらためて5代の養子にはいる。寛政3年6代を襲名し,10年中村座の座頭(ざがしら)となる。寛政11年5月13日死去。22歳。江戸出身。前名は市川海老蔵(えびぞう)(4代)。俳名は三升。屋号は成田屋。
市川団十郎(3代) いちかわ-だんじゅうろう
1721-1742 江戸時代中期の歌舞伎役者。
享保(きょうほう)6年生まれ。初代三升屋(みますや)助十郎の子。2代市川団十郎の養子となり,享保12年江戸で初舞台。20年3代を襲名した。寛保(かんぽう)2年2月27日死去。22歳。前名は市川升五郎。俳名は三升,徳弁。屋号は成田屋。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例