市川団十郎(読み)イチカワダンジュウロウ

デジタル大辞泉 「市川団十郎」の意味・読み・例文・類語

いちかわ‐だんじゅうろう〔いちかはダンジフラウ〕【市川団十郎】

歌舞伎俳優。屋号、成田屋。江戸歌舞伎を代表する名門で、荒事あらごとの宗家。
(初世)[1660~1704]一説では14歳で荒事を創始したといわれ、三升屋兵庫の名で脚本も書いた。俳優生島半六に舞台で刺殺された。
(2世)[1688~1758]江戸の人。初世の長男。隈取くまどの工夫など荒事を洗練させ、市川家の芸として確立した。
(7世)[1791~1859]江戸の人。5世の孫。歌舞伎にを取り入れるなど革新に努めた。歌舞伎十八番を選定。
(9世)[1838~1903]江戸の人。8世の弟、7世の五男。本名、堀越秀ほりこしひでし活歴と称する新作の歴史劇を演じた。明治の劇聖とよばれる。
(11世)[1909~1965]東京の生まれ。7世松本幸四郎の長男で、10世の養子。本名、堀越治雄ほりこしはるお。天性の美貌と華のある芸風で人気を博した。
(12世)[1946~2013]東京の生まれ。11世の長男。本名、堀越夏雄ほりこしなつお。歌舞伎十八番の継承・復活に尽力。パリのオペラ座など、海外での公演にも積極的に取り組んだ。

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精選版 日本国語大辞典 「市川団十郎」の意味・読み・例文・類語

いちかわ‐だんじゅうろう【市川団十郎】

  1. 歌舞伎俳優。屋号成田屋。定紋三升(みます)
  2. [ 一 ] 初世。本姓堀越。俳名才牛。幼名海老蔵。江戸の人。荒事(あらごと)の創始者。元祿年間(一六八八‐一七〇四)の江戸歌舞伎の代表的名優。三升屋兵庫の名で「参会名護屋=暫(しばらく)」、「源平雷(なるかみ)伝記=鳴神」などの脚本を書き、これを得意芸とした。俳優生島半六(一説に杉山半之丞)に市村座の舞台で殺された。万治三~宝永元年(一六六〇‐一七〇四
  3. [ 二 ] 二世。初世の長男。俳名栢莚など。市川家の基礎を固めた。元祿元~宝暦八年(一六八八‐一七五八
  4. [ 三 ] 四世。初世松本幸四郎の養子。引退後俳名海老蔵を名乗り、演技研究のための「修行講」を主宰。正徳元~安永七年(一七一一‐七八
  5. [ 四 ] 五世。四世の子。俳名白猿。寛政期(一七八九‐一八〇一)の名優。寛保元~文化三年(一七四一‐一八〇六
  6. [ 五 ] 七世。五世の孫。俳名寿海老人。あらゆる役をよくした江戸末期の代表的名優。歌舞伎十八番を制定し、「勧進帳」を創演した。寛政三~安政六年(一七九一‐一八五九
  7. [ 六 ] 九世。七世の五男で八世の弟。明治七年(一八七四)団十郎を相続し、明治の劇聖といわれる。活歴劇の創始、新歌舞伎十八番の制定など、歌舞伎の向上発展にも尽力した。天保九~明治三六年(一八三八‐一九〇三
  8. [ 七 ] 一一世。七世松本幸四郎の長男。昭和三七年(一九六二)一一世を襲名。昭和一五年以来、海老蔵の名で親しまれ、戦後の歌舞伎復興に貢献した。明治四二~昭和四〇年(一九〇九‐六五

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改訂新版 世界大百科事典 「市川団十郎」の意味・わかりやすい解説

市川団十郎 (いちかわだんじゅうろう)

歌舞伎俳優。12世まである。姓は堀越。屋号は代々成田屋。定紋は三升(みます)。早世した3世,6世を除いて代々名優で,江戸歌舞伎界屈指の名跡である。(1)初世(1660-1704・万治3-宝永1)祖先は甲州の武士で,永正年中に北条氏康の家臣となり,のち下総国埴生(はにゆう)郡幡谷(はたがや)村に移住して郷士となり,堀越姓を称したと伝える。出身については,奥州の市川村ともいい,また葛飾郡市川村とする説もある。初世の父重蔵は江戸に出て俠客と交わり,〈菰(こも)の重蔵〉と呼ばれた人。通説に従うと1673年(延宝1)江戸中村座の《四天王稚立(してんのうおさなだち)》に,14歳で初舞台。この時坂田金時の役で,全身を紅で塗りつぶし,紅と墨で顔に隈(くま)を取り,童子格子の衣装に丸ぐけ帯,大太刀をはき,斧をひっさげて登場,豪快な荒事を演じて喝采を博したという。荒事の創始である。ただし,上の事実はもう少し遅れる85年(貞享2)の《金平六条通ひ》の坂田金平役の時が最初とする説がある。初世は芸の幅が広く,どんな役もこなして名声を得たが,とくに荒事に傑出した才能を示し,当時の江戸人の気風に合ったため,格別の人気を集めた。俳名才牛(さいぎゆう)。自身劇作も兼ね,《参会名護屋(さんかいなごや)》《兵根元曾我(つわものこんげんそが)》《源平雷伝記(げんぺいなるかみでんき)》《成田山分身不動(なりたさんふんじんふどう)》などを自作自演した。狂言作者としては,三升屋兵庫(みますやひようご)の筆名を併せ用いた。1704年(元禄17)2月江戸市村座の《わたまし十二段》に出演中,役者の生島半六に刺殺された。(2)2世(1688-1758・元禄1-宝暦8)初世の長男。初名九蔵。幼くして父と死別,16歳で団十郎を襲名した。容貌も体格も父に似ており,芸熱心だったので,めきめきと腕を上げ,名声を高め,江戸劇壇における市川団十郎のゆるぎない権威を確立した。1735年(享保20)11月2世市川海老蔵を襲名。俳名を三升(さんじよう),才牛,栢莚(はくえん)といい,俳諧や狂句をたしなみ,文人との交際が広かった。《老のたのしみ》《栢莚狂句集》などの著がある。助六,鳴神,毛抜,矢の根,曾我五郎,和藤内,外郎売(ういろううり)などを当り芸とする。荒事芸を様式化し洗練したのに加え,和事にも天分があった。たとえば,近松の《曾根崎心中》の徳兵衛や,《心中天の網島》の治兵衛を江戸で歌舞伎化して好演した。《助六》に和事味を加え,今日見るスタイルの原型を完成させたのも2世である。(3)3世(1721-42・享保6-寛保2)2世の養子。35年(享保20)に15歳で団十郎をつぎ,将来を期待されたが,数年にして病死した。22歳。(4)4世(1711-78・正徳1-安永7)初世松本幸四郎の養子。実は2世団十郎の子ともいう。54年(宝暦4),2世幸四郎から襲名。はじめは実悪の役者だったが,団十郎を名のってからは実事(じつごと)を得意にして好演した。《菅原伝授手習鑑》の松王丸は一代の当り役であり,その演出を現代にまで伝えた。76年(安永5)7月引退ののちは,深川木場の自宅に5世団十郎,4世幸四郎,初世中村仲蔵らを集め,〈修行講〉という演技研究会を開いた。親分肌で,人の世話をよくみたので,〈木場の親玉〉の名で慕われた。(5)5世(1741-1806・寛保1-文化3)4世の子。70年(明和7),3世松本幸四郎から襲名。荒事の役々を好演しただけでなく,岩藤,累(かさね)などの女方もよくし,安永・天明期(1772-89)の江戸歌舞伎全盛時代における江戸っ子の美学を代表する名優であった。91年(寛政3)11月市川鰕蔵(えびぞう)と改名。96年に舞台を退き,向島の反古庵(ほごあん)に隠居,芭蕉の風雅をしのぶ閑雅な生活を営んだ。俳名を白猿,狂歌名を花道のつらねと称した。立川焉馬,大田蜀山人ら当代第一流の文人と親交があり,《友なし猿》《徒然吾妻詞(つれづれあずまことば)》《市川白猿集》などの著作もある。1806年10月,66歳で没した。〈凩(こがらし)に雨もつ雲の行衛かな〉の辞世を残す。(6)6世(1778-99・安永7-寛政11)5世の養子。1791(寛政3)年に,鰕蔵襲名にともない14歳で団十郎をついだが,22歳で早世した。

 (7)7世(1791-1859・寛政3-安政6) 5世の孫。俳名は三升,白猿,夜雨庵,二九亭,寿海老人,子福長者など。1800年10歳で団十郎を襲名。文化・文政期から幕末の安政に至るまで活躍した名優。小柄ながら多才多能の役者で,眼が大きく,口跡にすぐれていた。荒事,実事,実悪,和事,色悪など実に広い役柄を自由にこなし,4世鶴屋南北作の生世話や所作事をもよくした。42年(天保13),改革令に触れて江戸十里四方を追放されて諸国を流浪,上方の芝居に出たりしていたが,49年(嘉永2)に許されて江戸に帰った。1832年3月長男に8世をつがせ,自分は前名の5世海老蔵を再度名のった。この時,初世以来の荒事の当り役を調べて〈歌舞伎十八番〉を選定し,公表した。40年3月《勧進帳》初演に当たって,能様式の演出を大胆に採り入れたのは当時画期的な出来事であった。狂歌・俳句をよくし,文筆に親しんだ7世は,《遠く見ます》《遊行やまざる》などの著述や,洒脱な人柄をうかがわせる多くの書簡・書画を残している。(8)8世(1823-54・文政6-安政1) 7世の長男。1832年3月,10歳で6世海老蔵から団十郎を襲名した。若くして天才的な技芸を見せ,かつ格別の美貌が幕末期の退廃的な気分に合い,江戸人の熱狂的な支持を受けたが,大坂の旅宿で謎の自殺を遂げた。32歳の若さだった。天性の花やかさと美貌を生かした児雷也や切られ与三郎などの当り芸を残した。(9)9世(1838-1903・天保9-明治36) 7世の五男。8世の弟。生まれてすぐ6世河原崎権之助の養子となったが,74年実家に戻り,9世団十郎を襲名した。俳名三升,団洲,寿海,夜雨庵など。明治期の劇界の第一人者で,〈劇聖〉と仰がれた名優であった。容貌,風姿,音調,弁舌にすぐれ,立役,女方,敵役のいずれにもよく,時代,世話,所作事の何を演じても卓越した技芸を示した。演劇改良運動に意欲を燃やし,その中心となって活躍,忠実に史実を写そうと志す〈活歴(かつれき)〉と呼ぶ史劇を創始したことは演劇史上に特筆される。また,登場人物の性格・心理を研究し,これを内攻的に表現する〈肚芸(はらげい)〉という演技術を開拓するなど,近代歌舞伎に与えた影響はきわめて大きい。《高時》《紅葉狩》《大森彦七》《鏡獅子》などを含む〈新歌舞伎十八番〉を制定。(10)10世(1880-1956・明治13-昭和31) 9世の女婿。堀越福三郎から市川三升となり,没後に10世団十郎の名を追贈された。7世の選定した〈歌舞伎十八番〉のうち,長く演出の絶えていた《解脱》《不破》《象引》《押戻》《嫐(うわなり)》《七つ面》《蛇柳》を,古い台帳によったわけではないが,復活を試みた功績がある。(11)11世(1909-65・明治42-昭和40) 本名堀越治雄。7世松本幸四郎の長男。市川三升の養子になり,1940年に9世市川海老蔵をついだ。海老蔵時代は,天性の美貌と花のある芸風が幅広い層の人気を集め,〈海老サマ〉の愛称で親しまれた。待望久しくして,62年11世団十郎を襲名し,人気はいよいよ高まったが,わずか3年ののち没した。古典の時代物・世話物・荒事のいずれにもすぐれ,新作を意欲的に演じて,文字どおり戦後歌舞伎の花形俳優であった。(12)12世(1946-2013・(昭和21-平成25) 本名堀越夏雄。11世の長男。58年に6世市川新之助,69年に10世海老蔵を襲名して,85年4月12世団十郎を襲名。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「市川団十郎」の意味・わかりやすい解説

市川団十郎
いちかわだんじゅうろう

歌舞伎(かぶき)俳優。屋号成田屋。

初世(1660―1704)武門の出身で姓は堀越。江戸生まれで、父は「菰(こも)の重蔵」とよばれた人。通説によれば14歳のとき初舞台。市川家の「家の芸」として今日まで伝承されている荒事(あらごと)芸の創始者とされ、元禄(げんろく)期(1688~1704)の江戸の歌舞伎界を代表する名優であった。劇作も兼ね、市川団十郎または三升屋兵庫(みますやひょうご)の署名のある狂言本十数編を残す。怨恨(えんこん)のため、俳優生島(いくしま)半六に舞台で刺殺された。

2世(1688―1758)初世の長男。父の死後16歳で2世を襲名。容貌(ようぼう)、体格とも父に似て、たいへんな芸熱心であったので、江戸劇壇における市川家の確固たる地位を築いた。俳諧(はいかい)や狂歌をたしなみ、文人との交際も広かった。『助六』に和事(わごと)味を加え、今日みるスタイルの原型を創造した。1735年(享保20)海老蔵(えびぞう)と改め、以後長く舞台を勤めた。

3世(1721―1742)2世の養子。1735年(享保20)3世を襲名したが、数年にして没した。

4世(1711―1778)初世松本幸四郎の養子。父は芝居茶屋和泉屋(いずみや)勘十郎と伝えるが、実は2世団十郎ともいう。1754年(宝暦4)2世幸四郎から4世を襲名。初め実悪(じつあく)の俳優であったが、晩年は実事(じつごと)をも得意とした。1775年(安永4)に引退後、5世団十郎や初世中村仲蔵らを木場の自宅に招き、修行講と称する演技研究会を開き、「木場の親玉」の名で慕われた。

5世(1741―1806)4世の子。1770年(明和7)3世松本幸四郎から5世を襲名。これまでの団十郎が勤めなかった役柄を広く演じた実力者で、岩藤や累(かさね)などの女方(おんながた)も演じた。1796年(寛政8)舞台を退いて向島の反古庵(ほごあん)に隠居し、成田屋七左衛門と名のって閑雅な生活を送った。狂歌名は花道のつらね。立川焉馬(たてかわえんば)や蜀山人(しょくさんじん)ら当時一流の文化人と交際が広かった。

6世(1778―1799)5世の養子。1791年(寛政3)に6世を襲名したが、早世。

7世(1791―1859)5世の孫。1800年(寛政12)10歳で7世を襲名。文化・文政期(1804~1830)から安政(あんせい)(1854~1860)に至るまで活躍した名優で、荒事、実事、実悪、和事、色悪(いろあく)などの広い役柄をこなし、4世鶴屋南北(つるやなんぼく)作の生世話(きぜわ)にも所作事(しょさごと)にも優れていた。1842年(天保13)6月、改革令に触れて江戸十里四方追放に処せられ、上方(かみがた)の芝居に出ていたが、1849年(嘉永2)赦免となって江戸に帰った。1832年(天保3)に長男に8世を継がせ、自身は5世海老蔵を名のった。『勧進帳』を初演し、また、「歌舞伎十八番」を制定、公表した。

8世(1823―1854)7世の長男。1832年(天保3)に6世海老蔵から8世を襲名。若くして技芸優れ、美貌(びぼう)であったため江戸人の熱狂的支持を受けたが、32歳の若さで大坂で自殺。『切られ与三(よさ)』が当り芸であった。

9世(1838―1903)7世の五男。生まれてすぐに6世河原崎権之助(かわらさきごんのすけ)の養子になったが、のち実家に帰り、1874年(明治7)河原崎三升(さんしょう)から9世を襲名した。明治期劇界の第一人者。のちに「劇聖」と崇(あが)められた名優で、とくに演劇改良運動の中心人物となって活躍、「活歴(かつれき)」とよぶ史劇を始めたことが特筆に価する。また登場人物の性格や心理を研究して、内向的に表現する「肚芸(はらげい)」とよぶ演技術を開拓するなど、近代歌舞伎に与えた影響は非常に大きい。明治36年9月13日没。長女翠扇(すいせん)(2世)の婿が10世団十郎、次女旭梅(きょくばい)の婿が5世市川新之助で、新派女優3世市川翠扇(前名紅梅、1913―1974)はその子、すなわち9世の孫。

10世(1882―1956)9世の女婿。堀越福三郎から5世市川三升(さんしょう)となり、没後に10世を追贈。

11世(1909―1965)本名堀越治雄。7世松本幸四郎の長男。10世の養子となり、9世海老蔵から1962年(昭和37)に11世を襲名した。海老蔵時代には「海老さま」の愛称でよばれ、天性の美貌と花のある芸風が広く人気を集めた。待望久しくして11世団十郎を襲名し、人気はいよいよ高まったが、襲名後わずか3年、昭和40年11月10日に没した。

12世(1946―2013)本名堀越夏雄。11世の長男。1953年(昭和28)市川夏雄を名のり初舞台。6世新之助(1958)、10世海老蔵(1969)を経て、1985年4月、12世を襲名した。美貌と明るい芸風で、平成歌舞伎を代表する立役(たちやく)として活躍した。長男が11世市川海老蔵(1977― )である。

服部幸雄

『伊原青々園著『団十郎の代々』(1917・市川宗家)』『金沢康隆著『市川団十郎』(1962・青蛙房)』『服部幸雄著『市川団十郎』(1978・平凡社)』『西山松之助著『市川団十郎』新装版(1987・吉川弘文館)』『利根川裕著『十一世市川団十郎』(朝日文庫)』


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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「市川団十郎」の解説

市川 団十郎(9代目)
イチカワ ダンジュウロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
堀越 秀

別名
前名=河原崎 長十郎(初代)(カワラサキ チョウジュウロウ),河原崎 権十郎(初代)(カワラサキ ゴンジュウロウ),河原崎 権之助(7代目)(カワラサキ ゴンノスケ),俳名=市川 三升

生年月日
天保9年 10月13日

出生地
江戸・木挽町(東京都)

経歴
7代目市川団十郎の五男で、8代目団十郎は異母兄に当たる。生後間もなく6代目河原崎権之助の養子となり、初代河原崎長十郎を名乗る。嘉永5年(1852年)初代河原崎権十郎に改名し、河原崎座の若太夫として俳優修業を積んだ。7年兄・8代目団十郎が大坂で自殺し、8年には河原崎座の焼失・森田座の再興によって養家が興行権を失うなど不幸が相次ぐが、安政4年(1857年)養父と共に出演した市村座で徐々に大役を任されるようになり、7年河竹新七(河竹黙阿弥)作「三人吉三廓初買」の初演では主役の一人・お坊吉三を演じた。若い頃は口跡も重々しく悪評が出ることもしばしばであったが、父の高弟である4代目市川小団次の厳しい教育を受けて技芸を研鑽。明治元年養父・権之助が強盗に殺害されたため、その遺志を継ぐべく、2年7代目権之助を襲名し、河原崎座の再興に力を尽くした。6年義弟の蝠次郎に権之助の名を譲り、代々の団十郎の俳号を用いて河原崎三升を名乗る。7年河原崎座新築開場を機に市川家に復帰して9代目団十郎を襲名。その後もしばらく河原崎座に出演していたが、9年12代目守田勘弥の要請で新富座の座頭となる。同座は同年の火災で焼けたが、11年に近代的な劇場様式を取り入れて再築した後は技芸の素質が開花し、関東歌舞伎界屈指の俳優となった。12年には米国大統領グラントの前で「後三年奥州軍記」を上演。19年伊藤博文、末松謙澄、渋沢栄一らといった貴顕や福地桜痴、依田学海ら文学者の後援を受けて演劇改良会を興し、勘弥とともに劇の内容や筋を史実に忠実なものとする演劇改良運動(活歴)を主導。20年には井上馨邸において5代目尾上菊五郎、初代市川左団次らとともに明治天皇の御前で「勧進帳」「高時」を演ずるまでとなり、歌舞伎の高尚さと芸術性、歌舞伎俳優の地位をより高めることとなった。22年新築された歌舞伎座の座頭となり、桜痴らと提携して新作にも積極的に取り組んだ。しかし、これらの運動は古くからの歌舞伎に親しんできた江戸っ子や識者の間から反発があり、興行的には失敗。晩年には再び古典歌舞伎に専念したが、演芸改良運動時代に編み出した“肚芸”と呼ばれる心理的な表現は古典歌舞伎の中でも十分に生かされ、のちの歌舞伎の手本となった。5代目菊五郎、初代左団次とともに“団菊左”と並び称されるなど明治期歌舞伎界の頂点にあり、風采が立派で音調と弁舌にすぐれ、荒事から和事、時代物から世話物、古典から新作、立役・敵役・女形などすべての役をこなす伎倆をもち、“不世出の天才’“劇聖”と讃美された。当たり役に「勧進帳」の弁慶、「助六由縁江戸桜」の花川戸助六、「暫」の鎌倉権五郎、「天衣粉上野初花」の河内山宗俊、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助などがあり、父・7代目団十郎の「歌舞伎十八番」に補遺するかたちで「新歌舞伎十八番」を選定し、歌舞伎の近代化に貢献。また、文筆、絵をよくし、釣遊びと骨董を好んだ。

没年月日
明治36年 9月13日 (1903年)

家族
実父=市川 団十郎(7代目),兄=市川 団十郎(8代目),養父=河原崎 権之助(6代目)

親族
女婿=市川 団十郎(10代目)

伝記
芝居随想 作者部屋から団菊以後東京おぼえ帳明治人物閑話歌舞伎百年百話歌舞伎―研究と批評〈35〉特集 女流義太夫の世界歌舞伎―研究と批評〈33〉特集 競伊勢物語歌舞伎十八番市川団十郎代々浅草の昭和を彩った人たちNHKニッポンときめき歴史館〈6〉江戸の文事人と芸談―先駆けた俳優たち幼少時代九代目団十郎と五代目菊五郎森銑三著作集〈続編 第6巻〉 人物篇〈6〉団十郎と『勧進帳』西山松之助著作集〈第7巻〉 江戸歌舞伎研究市川団十郎 食満 南北 著伊原 青々園 著平山 蘆江 著森 銑三 著上村 以和於 著歌舞伎学会 編歌舞伎学会 編戸板 康二 著服部 幸雄 著鈴木 としお 著NHK「ニッポンときめき歴史館」プロジェクト 編延広 真治 編馬場 順 著谷崎 潤一郎 著小坂井 澄 著森 銑三 著小坂井 澄 著西山 松之助 著西山 松之助 著(発行元 ウェッジ青蛙房ウェッジ中央公論新社河出書房新社歌舞伎学会,雄山閣〔発売〕歌舞伎学会,雄山閣〔発売〕隅田川文庫講談社東京新聞出版局日本放送出版協会ぺりかん社演劇出版社岩波書店徳間書店中央公論社講談社吉川弘文館吉川弘文館 ’09’09’09’07’07’05’04’03’02’01’00’00’99’98’93’93’93’87’87発行)


市川 団十郎(11代目)
イチカワ ダンジュウロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
堀越 治雄

別名
幼名=松本 金太郎,前名=市川 高麗蔵(9代目)(イチカワ コマゾウ),市川 海老蔵(9代目)(イチカワ エビゾウ)

屋号
成田屋

生年月日
明治42年 1月6日

経歴
大正4年松本金太郎を名乗って帝劇で初舞台。昭和4年9代目市川高麗蔵を襲名。11年第1次東宝劇団に参加、14年松竹に復帰。15年市川三升の養子となり、9代目市川海老蔵を襲名した。戦後の21年東劇で「助六」を演じ大当たり。以後「鳴神」「弁慶」など古典から「藤十郎の恋」「お艶殺し」など新作物も演じたが、26年舟橋聖一の「源氏物語」の光君、27年「若き日の信長」で“海老さまブーム”を巻き起こした。37年「勧進帳」「助六」を演じ11代目団十郎を襲名。沈滞気味の歌舞伎界に気をはいたが、3年後、がんに倒れた。

受賞
テアトロン賞(昭37年度)

没年月日
昭和40年 11月10日 (1965年)

家族
実父=松本 幸四郎(7代目),弟=松本 白鸚(初代),尾上 松緑(2代目),長男=市川 団十郎(12代目),長女=市川 紅梅(日本舞踊家),孫=市川 海老蔵(11代目)

親族
甥=尾上 辰之助(初代)

伝記
大向うの人々―歌舞伎座三階人情ばなし新日本現代演劇史〈2〉安保騒動篇 1959〜1962十一代目團十郎と六代目歌右衛門―悲劇の「神」と孤高の「女帝」最期の台詞―演劇人に学ぶ死の作法伝統芸能に学ぶ―躾と父親終幕の思想―演劇人の死女形の運命ガン50人の勇気市川団十郎十一世市川団十郎 山川 静夫 著大笹 吉雄 著中川 右介 著北川 登園 著光森 忠勝 著北川 登園 著渡辺 保 著柳田 邦男 著西山 松之助 著利根川 裕 著(発行元 講談社中央公論新社幻冬舎STUDIO CELLO恒文社21,恒文社〔発売〕白水社筑摩書房文芸春秋吉川弘文館朝日新聞社 ’09’09’09’07’03’93’91’89’87’86発行)


市川 団十郎(10代目)
イチカワ ダンジュウロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
堀越 福三郎

別名
前名=市川 三升(イチカワ サンショウ)

屋号
成田屋

生年月日
明治15年 10月31日

出生地
東京・日本橋

学歴
慶応義塾卒

経歴
明治34年9代目団十郎の長女実子と結婚し、堀越家の婿養子となる。43年9代目が死去、初代中村鴈治郎を頼って舞台に立った。大正6年5代目市川三升を襲名したが、俳優としては不評で、死後、10代目団十郎を追贈された。

没年月日
昭和31年 2月1日 (1956年)

親族
岳父=市川 団十郎(9代目)

伝記
歌右衛門の疎開西山松之助著作集〈第7巻〉 江戸歌舞伎研究市川団十郎 山川 静夫 著西山 松之助 著西山 松之助 著(発行元 文芸春秋吉川弘文館吉川弘文館 ’87’87’87発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

朝日日本歴史人物事典 「市川団十郎」の解説

市川団十郎(2代)

没年:宝暦8.9.24(1758.10.25)
生年:元禄1.10.11(1688.11.3)
享保から宝暦前期にかけて江戸劇壇で活躍した歌舞伎役者。立役の名優。俳名は三升,栢莚。初代団十郎の長男として江戸で生まれた。初名九蔵。元禄17(1704)年2月,父の不慮の死に会い,その年に17歳で2代目団十郎を襲名した。父親似の容貌体格を備え,小柄だったが持ち前の芸熱心でめきめきと腕をあげ,江戸劇壇における「市川団十郎」の名跡の権威を確立した。初代団十郎の豪快な芸風を受け継ぎ,「暫」「鳴神」「外郎売」「矢の根」などの荒事芸を得意にしたばかりでなく,初代が不得手とした濡れ事芸,和事芸にも天分があった。上方で大当たりをとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曾根崎心中」の徳兵衛,「心中天網島」の治兵衛などを歌舞伎化して江戸で上演して好評を博したのも,その面の才能を物語る。「国性爺合戦」の和藤内を享保2(1717)年に上演したのは,江戸における義太夫狂言上演に先鞭をつけたものと目される。このように上方生まれの狂言の江戸での上演に成功したことは,上方文化の東漸という文化史上の現象を象徴的に示すものであるが,これについて2代目団十郎の資質が有効に働いたことを逸することはできない。 享保6年正月森田座の「賑末広曾我」で曾我五郎の役を勤めたが,この狂言が大当たりをとって280日間のロングランを記録した。その褒賞として以後彼の給金は千両となり,併せて毎年6月に土用休みの特権を与えられたと伝える。これがいわゆる「千両役者」の称の始まりである。彼は「助六」を初演し,以後3度にわたる上演のたびに和事味を加えて演出を洗練し,今日も見られる黒羽二重の小袖に紅絹の裏,友禅染めの五つ紋,鮫鞘,ひとつ印籠,紫縮緬の鉢巻きという扮装を完成させた。寛保1(1741)年には大坂に上り,「毛抜」を初演,上方でも高い評価を得た。享保20年,養子の市川升五郎に3代目団十郎を襲名させ,自身は市川海老蔵と名乗る。不幸にも3代目に先立たれるが,自身は「江戸随市川」の海老蔵として長く江戸歌舞伎界に君臨した。俳諧,狂歌をたしなんで,広く文人と交わり,『父の恩』『栢莚狂句集』,日記『老のたのしみ』などの著述を残した。<参考文献>立教大学歌舞伎研究会編『資料集成・二世市川団十郎』

(服部幸雄)


市川団十郎(9代)

没年:明治36.9.13(1903)
生年:天保9.10.13(1838.11.29)
幕末明治期の歌舞伎役者。俳名は三升,団州など。文化文政期の名優7代目団十郎の5男で,本名は堀越秀。生後間もなく6代目河原崎権之助の養子となる。幼名長十郎,次いで権十郎を名乗り,明治2(1869)年,7代目権之助を襲名して河原崎座の再興に尽力した。明治7年の河原崎座新築開場を機に市川家に復帰して9代目団十郎を襲名。幼年期から音曲,舞踊,絵画,茶道の修業を積み,「風姿容貌」「音調弁舌」に優れ,時代物,世話物,所作事を問わず,立役,敵役,女形いずれの役も兼ねられる優れた才能を持ち,「劇聖」と呼ばれ,5代目菊五郎,初代左団次と共に団菊左と並び称された。 開明的な識見を持ち,文明開化,欧化改良をおしすすめる政界,財界,学界の有志による演劇改良運動に共鳴し,12代目守田勘弥,5代目菊五郎らと共にその中心となって活躍した。福地桜痴と提携して活歴(史実を尊重した英雄志向の時代物で,荒唐無稽な内容を排し,大道具,小道具,衣裳,扮装なども考証を重んじ,演技も迫真的な純写実を目指した作品群)を創始し,性格や心理を内面的に表現する演技術「肚芸」を開拓した。しかし,「高尚熱」と「改良癖」は江戸歌舞伎に親しんできた観衆に受け容れられず,晩年には活歴から離れて,古典歌舞伎の台本を吟味し,古典歌舞伎の演出・演技を近代化することに尽力した。現代に伝わる「型」の創造は貴重な貢献である。また能狂言に取材した所作事松羽目物の演目を創造して,歌舞伎舞踊の一系統としての位置を固めたのも団菊の功績である。父7代目団十郎の「歌舞伎十八番」制定の遺志を継いで,活歴物,松羽目物のなかから「紅葉狩」「鏡獅子」など得意芸を集めた「新歌舞伎十八番」を選定している。初の天覧劇への出演をはじめ,歌舞伎役者の社会的地位の向上に果たした役割も大きい。<参考文献>伊原敏郎『市川団十郎の代々』下,伊坂梅雪編『五代目菊五郎自伝』,伊原敏郎『団十郎の芝居』,服部幸雄『市川団十郎』

(藤波隆之)


市川団十郎(初代)

没年:元禄17.2.19(1704.3.24)
生年:万治3.5(1660)
元禄期の江戸劇壇で活躍した歌舞伎役者。立役の名優。江戸時代を通じて連綿と代を重ね,平成の12代に至る由緒ある名跡の初代。定紋は三升,俳名才牛,屋号成田屋。祖先は甲州の武士,のちに下総国埴生郡幡谷村(千葉県成田市)に移住し農を営んだ。父重蔵は江戸に出て,「菰の重蔵」とあだ名された顔役。通説では延宝1(1673)年,14歳のときに中村座の「四天王稚立」で初舞台。このとき坂田公時役で,全身を赤く塗り,紅と墨で顔に隈を取り,荒い格子の衣裳に丸ぐけの帯,大太刀を佩き斧を提げて大江山の場へ出,猟師を相手にして大立ち回りの豪快な荒事を演じたという。これが殺伐な風の残っていた江戸の人たちに熱烈に迎えられた。資料的には貞享2(1685)年の「金平六条通ひ」の坂田金平の役が荒事の創始ともいう。 芸域の広い役者で,特に荒事を得意としたが,「濡れ事は不得手」と評されている。自身で狂言作者を兼ね,「成田山分身不動」で不動明王に扮して示現したように,大詰に神霊に扮して登場する独特な狂言を自作自演した。三升屋兵庫の筆名も用いた。「参会名護屋」「兵根元曾我」「源平雷伝記」などの狂言本が伝存。信仰心厚く,特に成田山新勝寺の不動尊を信仰した。成田屋の屋号はこれに由来する。元禄17(1704)年2月,江戸市村座の「わたまし十二段」に出演中,俳優の生島半六によって刺殺された。<参考文献>二世市川団十郎「金の揮」(『資料集成・二世市川団十郎』),『歌舞伎評判記集成』1期1~3巻,西山松之助『市川団十郎』

(服部幸雄)


市川団十郎(7代)

没年:安政6.3.23(1859.4.25)
生年:寛政3.4(1791)
江戸後期の歌舞伎役者。芝居茶屋和泉屋勘十郎と5代目団十郎の次女すみの子。幼名小玉。市川新之助,同ゑび蔵を経て寛政12(1800)年に団十郎を襲名。のちに海老蔵に戻る。俳名三升,白猿,二九亭,夜雨庵,寿海老人,子福長者など。別名市川白猿,成田屋七左衛門,幡谷重蔵など。団十郎家伝来の荒事をはじめとして時代物,世話物を問わず,実事,実悪,敵役,老役,和事から女形に至るまで広く巧みに演じた。所作事にも長じ,4代目鶴屋南北(大南北)の生世話物の役々にも個性を発揮した。文化文政期を中心とした後期江戸歌舞伎界の中心的存在であった。当たり役も多い。 天保3(1832)年,海老蔵改名と同時に団十郎家累代の当たり芸の集成「歌舞伎十八番」を制定公表した。同11年能楽の演出を大幅に取り入れた『勧進帳』を創演して明治に流行する松羽目物への道を拓いた。同13年,天保改革の奢侈禁止令に触れ江戸十里四方追放となるが,嘉永2(1849)年赦免。追放中を含めて数度京坂の劇場に出演した以外にも,西は長崎に至るまで各地を巡って舞台に立ったのは従来の団十郎にない精力的な活動である。祖父5代目団十郎以来の江戸文化人グループの熱烈な支援を受けるとともに,自身も文筆に親しみ『遠く見ます』『しもふさの身旅喰』『遊行やまざる』『腰かけざる』などの旅行記,句文集を著し,多くの書画を残している。名目のみにせよ合巻の作も相当ある。

(池上文男)


市川団十郎(8代)

没年:嘉永7.8.6(1854.9.27)
生年:文政6.10.5(1823.11.7)
江戸後期の歌舞伎役者。7代目団十郎と妻すみ(芝居茶屋福地善兵衛の娘)の長男。2代目市川新之助,6代目市川海老蔵を経て天保3(1832)年に団十郎を襲名。俳名三升,団栗,白猿など。団十郎家の後継者として期待され,誕生の翌月に舞台に出る。美貌で上品,愛嬌があり,幕末期江戸歌舞伎界では最高の,熱狂的な人気を博した。団十郎家伝来の荒事をはじめ,時代物,世話物ともに広く演じるとともに,容貌風姿を生かした若殿様,若旦那役という類例のない新しい芸境を創りあげた。当たり役では助六,鳴神上人,岡部六弥太,足利光氏,児雷也,向う疵の与三郎,春日屋時次郎などが知られる。江戸追放中の父の無事を祈り,母や家族の面倒をよくみているとして弘化2(1845)年,北町奉行所から親孝行を表彰された。人気絶頂時に大坂で出演直前に自殺。おびただしい種類の死絵および『追善・三升格子』その他の追悼出板物が刊行されている。その死因をめぐってさまざまな説が取沙汰された。杉本苑子『はみだし人間の系譜』など,いくつかの小説に描かれている。<参考文献>川上邦基編『八代目団十郎集』(『演劇文庫』3編)

(池上文男)


市川団十郎(5代)

没年:文化3.10.29(1806.12.8)
生年:寛保1.8(1741)
江戸中期の歌舞伎役者。4代目団十郎の実子。俳名三升,白猿など。狂歌名は反古庵,花道のつらね。松本幸蔵,3代目松本幸四郎を経て明和7(1770)年,団十郎を襲名,のちに市川鰕蔵と改めた。寛政8(1796)年引退後も請われて市川白猿の名で数度舞台に立った。実悪から始めて実事,荒事をよくした。当たり役としては暫,外郎売,六部,悪七兵衛景清,工藤祐経などが名高い。最盛期の江戸歌舞伎界最高の人気役者であった。隠居名成田屋七左衛門。俳諧や狂歌を通じて大田蜀山人,鹿津部真顔,山東京伝,烏亭焉馬らの文人と親交があり,熱烈な支援を得た。焉馬は5代目を中心に『江戸客気 団十郎贔屓』『追善数珠親玉』など歴代団十郎に関する多数の著作を刊行した。5代目自身の句や文を集めた『友なし猿』『徒然吾妻詞』『市川白猿集』などがある。6代目は5代目の実子が徳蔵,海老蔵(4代目)を経て寛政3年に襲名したが,同11年に早世した。<参考文献>日野竜夫編『五世市川団十郎集』

(池上文男)


市川団十郎(4代)

没年:安永7.2.25(1778.3.23)
生年:正徳1(1711)
江戸中期の歌舞伎役者。江戸堺町(日本橋芳町・人形町)の芝居茶屋和泉屋勘十郎の次男とも,2代目団十郎の実子ともいう。俳名は海丸,五粒,三升など。屋号成田屋。初代松本幸四郎の養子となり,松本七蔵,2代目幸四郎を経て宝暦4(1754)年団十郎襲名。のち市川海老蔵(3代)と改名した。女形から立役に転じて実悪,敵役を演じ,のちには実事や団十郎家伝来の荒事をもよくした。当たり役としては悪七兵衛景清,佐々木巌柳などが名高い。住居が深川木場にあり,劇界における地位やその人柄から「木場の親玉」と尊称された。修行講という演技の研究会を開いて門弟の育成に努力した。

(池上文男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「市川団十郎」の解説

市川団十郎
いちかわだんじゅうろう

歌舞伎俳優。江戸前期から12世を数える。屋号は成田屋。江戸の歌舞伎界で「宗家」とよばれた特権的名家。初世(1660~1704)は江戸生れ。初名海老蔵(えびぞう)。俳名才牛。江戸荒事の創始者で元禄期の江戸を代表する名優。三升屋(みますや)兵庫の筆名で劇作もした。2世(1688~1758)は初世の子。俳名三升(さんじょう)・栢莚(はくえん)など。荒事を様式的に洗練し,和事にも芸域を広げ,市川家の地位を不動のものとした。4世(1711~78)は初世松本幸四郎の養子で宝暦期の実悪(じつあく)の名手。5世(1741~1806)は4世の子で安永~寛政期の名優。7世(1791~1859)は5世の外孫で江戸後期の名優。俳名白猿・夜雨庵・寿海老人など。天保の改革で江戸を追放されたが,のちに復帰し幕末期まで活躍。「歌舞伎十八番」の制定者。8世(1823~54)は7世の長男で,美男の花形だったが,大坂で自殺。9世(1838~1903)は7世の五男。本名堀越秀。俳名紫扇・三升・団洲(だんしゅう)など。近代随一の名優で「劇聖」とよばれる。演劇改良に熱心で活歴物(かつれきもの)をつぎつぎと上演,後年は古典にも近代的演技術を導入して後世への規範を残した。11世(1909~65)は7世松本幸四郎の長男で10世の養子。本名堀越治雄。美男の立役で第2次大戦後随一の人気俳優。12世(1946~2013)は11世の長男。本名堀越夏雄。スケールの大きな芸と多彩な役柄で人気を博した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

20世紀日本人名事典 「市川団十郎」の解説

市川 団十郎(11代目)
イチカワ ダンジュウロウ

大正・昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治42(1909)年1月6日

没年
昭和40(1965)年11月10日

本名
堀越 治雄

別名
幼名=松本 金太郎,前名=市川 高麗蔵(9代目)(イチカワ コマゾウ),市川 海老蔵(9代目)(イチカワ エビゾウ)

屋号
成田屋

主な受賞名〔年〕
テアトロン賞(昭37年度)

経歴
大正4年松本金太郎を名乗って帝劇で初舞台。昭和4年9代目市川高麗蔵を襲名。11年第1次東宝劇団に参加、14年松竹に復帰。15年市川三升の養子となり、9代目市川海老蔵を襲名した。戦後の21年東劇で「助六」を演じ大当たり。以後「鳴神」「弁慶」など古典から「藤十郎の恋」「お艶殺し」など新作物も演じたが、26年舟橋聖一の「源氏物語」の光君、27年「若き日の信長」で“海老さまブーム”を巻き起こした。37年「勧進帳」「助六」を演じ11代目団十郎を襲名。沈滞気味の歌舞伎界に気をはいたが、3年後、がんに倒れた。


市川 団十郎(10代目)
イチカワ ダンジュウロウ

明治〜昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治15(1882)年10月31日

没年
昭和31(1956)年2月1日

出生地
東京・日本橋

本名
堀越 福三郎

別名
前名=市川 三升(イチカワ サンショウ)

屋号
成田屋

学歴〔年〕
慶応義塾卒

経歴
明治34年9代目団十郎の長女実子と結婚し、堀越家の婿養子となる。43年9代目が死去、初代中村鴈治郎を頼って舞台に立った。大正6年5代目市川三升を襲名したが、役者としては不評で、死後、10代目団十郎を追贈された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「市川団十郎」の解説

市川団十郎(12代) いちかわ-だんじゅうろう

1946-2013 昭和後期-平成時代の歌舞伎役者。
昭和21年8月6日生まれ。11代市川団十郎の長男。昭和28年初舞台。60年12代市川団十郎を襲名,家の芸である「歌舞伎十八番」の荒事(あらごと)を中心に江戸歌舞伎の現代への継承につとめる。平成元年芸術院賞。初代団十郎が元禄16年に演じた「成田山分身不動」を平成4年に上演。19年フランス芸術文化勲章コマンドールを受章。同年菊池寛賞。24年芸術院会員。平成25年2月3日死去。66歳。東京都出身。日大卒。本名は堀越夏雄。初名は市川夏雄。前名は市川新之助(6代),市川海老蔵(10代)。屋号は成田屋。

市川団十郎(11代) いちかわ-だんじゅうろう

1909-1965 大正-昭和時代の歌舞伎役者。
明治42年1月6日生まれ。7代松本幸四郎の長男。大正4年初舞台。昭和4年9代市川高麗蔵(こまぞう)を,15年5代市川三升の養子となり9代市川海老蔵(えびぞう)を名のる。荒事(あらごと)を得意とし,「海老さま」とよばれ,戦後歌舞伎のスターとなる。37年11代を襲名。昭和40年11月10日死去。56歳。東京出身。本名は堀越治雄。初名は松本金太郎。屋号は成田屋。
【格言など】プロンプターがつくような非良心的な演技では銭はとれない(常に口にしたことば)

市川団十郎(初代) いちかわ-だんじゅうろう

1660-1704 江戸時代前期の歌舞伎役者。
万治(まんじ)3年5月生まれ。延宝元年江戸中村座の初舞台で顔を隈取(くまど)りし,荒事(あらごと)を創案した。元禄(げんろく)6年段十郎を団十郎とあらためる。元禄時代を代表する名優。市川家の宗家で,三升屋(みますや)兵庫の筆名で歌舞伎脚本もかく。元禄17年2月19日舞台で生島(いくしま)半六に刺殺された。45歳。江戸出身。姓は堀越。初名は市川海老蔵(えびぞう)(初代)。俳名は才牛。屋号は成田屋。作品に「参会名護屋」など。

市川団十郎(9代) いちかわ-だんじゅうろう

1838-1903 幕末-明治時代の歌舞伎役者。
天保(てんぽう)9年10月13日生まれ。7代市川団十郎の5男。6代河原崎権之助の養子となるが,明治7年実家にもどり9代を襲名。明治期を代表する役者で「劇聖」とよばれる。演劇改良運動にとりくみ,活歴物(かつれきもの)という史劇を創始。新歌舞伎十八番を制定した。明治36年9月13日死去。66歳。江戸出身。本名は堀越秀。初名は河原崎長十郎(初代)。前名は河原崎権十郎(初代),権之助(7代)。俳名は三升。屋号は成田屋。

市川団十郎(4代) いちかわ-だんじゅうろう

1711-1778 江戸時代中期の歌舞伎役者。
正徳(しょうとく)元年生まれ。2代市川団十郎の子という。初代松本幸四郎の養子となり,享保(きょうほう)20年2代をつぐ。実悪(じつあく)で名をあげ,宝暦4年4代団十郎を襲名。のち実事(じつごと)に転じ,晩年は深川木場で門弟を育成,「木場の親玉」とよばれた。安永7年2月25日死去。68歳。江戸出身。後名は市川海老蔵(えびぞう)(3代)。俳名は佰莚,夜雨庵。屋号は成田屋。

市川団十郎(7代) いちかわ-だんじゅうろう

1791-1859 江戸時代後期の歌舞伎役者。
寛政3年4月生まれ。5代市川団十郎の外孫。寛政12年7代を襲名。家芸の荒事(あらごと)のほか,4代鶴屋南北の生世話物(きぜわもの)なども好演。天保(てんぽう)3年歌舞伎十八番を制定。13年改革令にふれて江戸を追放され,上方などを巡業した。安政6年3月23日死去。69歳。江戸出身。初名は市川新之助。後名は市川海老蔵(えびぞう)(5代)。俳名は三升,白猿。屋号は成田屋。

市川団十郎(2代) いちかわ-だんじゅうろう

1688-1758 江戸時代中期の歌舞伎役者。
元禄(げんろく)元年10月11日生まれ。初代市川団十郎の長男。宝永元年2代を襲名。父の荒事(あらごと)を継承し,和事(わごと)にも習熟して,家名を確立した。当たり役の「助六」は後世の原型となる。宝暦8年9月24日死去。71歳。江戸出身。初名は市川九蔵(初代)。後名は市川海老蔵(えびぞう)(2代)。俳名は三升,才牛,栢莚(はくえん)。屋号は成田屋。句集に「父の恩」。

市川団十郎(8代) いちかわ-だんじゅうろう

1823-1854 江戸時代後期の歌舞伎役者。
文政6年10月5日生まれ。7代市川団十郎の長男。天保(てんぽう)3年10歳で8代を襲名。美貌(びぼう)と親孝行で弘化(こうか)期以降絶大な人気をえた。新作の時代物や世話物にすぐれたが,父と巡業した大坂で嘉永(かえい)7年8月6日自殺。32歳。江戸出身。初名は市川新之助(2代)。前名は市川海老蔵(えびぞう)(6代)。俳名は三升,夜雨庵。屋号は成田屋。

市川団十郎(5代) いちかわ-だんじゅうろう

1741-1806 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
寛保(かんぽう)元年8月生まれ。4代市川団十郎の子。明和7年5代を襲名。若衆方,実悪(じつあく),実事(じつごと),女方をこなし,安永-天明の江戸歌舞伎全盛期の花形役者となる。寛政3年鰕蔵(えびぞう)と改名。文化3年10月30日死去。66歳。江戸出身。初名は松本幸蔵。前名は松本幸四郎(3代)。俳名は白猿。狂歌名は花道のつらね。屋号は成田屋。

市川団十郎(10代) いちかわ-だんじゅうろう

1882-1956 明治-昭和時代の歌舞伎役者。
明治15年10月31日生まれ。はじめ銀行員。明治34年9代団十郎の長女堀越実子(のち2代市川翠扇)と結婚。43年初代中村鴈治郎(がんじろう)門下として初舞台。大正6年5代市川三升を襲名。昭和31年2月1日死去。73歳。死後団十郎(10代)を追贈された。東京出身。慶応義塾卒。本名は堀越福三郎。旧姓は稲延。俳名は夜雨。屋号は成田屋。

市川団十郎(6代) いちかわ-だんじゅうろう

1778-1799 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
安永7年生まれ。5代市川団十郎の子。父の従弟和泉屋勘十郎の養子となるが,天明元年あらためて5代の養子にはいる。寛政3年6代を襲名し,10年中村座の座頭(ざがしら)となる。寛政11年5月13日死去。22歳。江戸出身。前名は市川海老蔵(えびぞう)(4代)。俳名は三升。屋号は成田屋。

市川団十郎(3代) いちかわ-だんじゅうろう

1721-1742 江戸時代中期の歌舞伎役者。
享保(きょうほう)6年生まれ。初代三升屋(みますや)助十郎の子。2代市川団十郎の養子となり,享保12年江戸で初舞台。20年3代を襲名した。寛保(かんぽう)2年2月27日死去。22歳。前名は市川升五郎。俳名は三升,徳弁。屋号は成田屋。

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旺文社日本史事典 三訂版 「市川団十郎」の解説

市川団十郎
いちかわだんじゅうろう

歌舞伎俳優。屋号は成田屋
〔初代(1660〜1704)〕 元禄時代の江戸歌舞伎役者。荒事を創始し,2代目とともに歌舞伎十八番の型を考案,隈取 (くまどり) をくふうした。〔7代目(1791〜1859)〕 天保改革で江戸を追放されたが,のち復帰し京坂で活躍,「歌舞伎十八番」を制定した。〔9代目(1838〜1903)〕 明治時代の名優。福地源一郎・河竹黙阿弥ら劇作家と活劇を始め,新しい歴史劇(活歴物)をおこす。一方,古典劇を守り,識見高く,俳優の社会的地位の向上に貢献した。

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367日誕生日大事典 「市川団十郎」の解説

市川 団十郎(10代目) (いちかわ だんじゅうろう)

生年月日:1882年10月31日
明治時代-昭和時代の歌舞伎役者
1956年没

市川 団十郎(11代目) (いちかわ だんじゅうろう)

生年月日:1909年1月6日
大正時代;昭和時代の歌舞伎役者
1965年没

市川団十郎(2代目) (いちかわだんじゅうろう)

生年月日:1688年10月11日
江戸時代中期の歌舞伎役者
1758年没

市川団十郎(8代目) (いちかわだんじゅうろう)

生年月日:1823年10月5日
江戸時代末期の歌舞伎役者
1854年没

市川 団十郎(12代目) (いちかわ だんじゅうろう)

生年月日:1946年8月6日
昭和時代;平成時代の歌舞伎俳優

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世界大百科事典(旧版)内の市川団十郎の言及

【荒事】より

…実方と敵役とを兼ねた初世村山平十郎のような役者が,金平のイメージを介して,悪の力を善のそれへと転換させて生み出したもの。ここからさらに,実・悪の双方を兼ね,奴芸をも身に備えた初世市川団十郎が,御霊神の威力ある祝福性を受けとめて,《暫》の主人公に代表されるような,市川流の荒事を創始した。歌舞伎十八番御霊(ごりょう)信仰実事和事【今尾 哲也】。…

【歌舞伎】より

…〈事(こと)〉と呼んだ,演技・演出の類型が数多く形成された。江戸では,初世市川団十郎が創始したとされる荒事(あらごと)が,武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ,非常な人気を獲得した。一方,京都では,初世坂田藤十郎を代表として,初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ和事(わごと)の演技様式が確立する。…

【丹前】より

…この系統のもので現在残っているものに,常磐津節の《三人形(みつにんぎよう)》,清元節の《土佐絵》,荻江節の《金谷丹前(かなやたんぜん)》《水仙丹前》,長唄の《高砂丹前》《廓丹前》《鞘当》《供奴》《元禄花見踊》などがあり,これらを一括して〈丹前物〉という。〈丹前〉を演技術として歌舞伎で初めて見せたのは多門庄左衛門(生没年不詳,1660年江戸で活躍)といわれ,初世市川団十郎を〈丹前開山〉と記すものもある。【鳥越 文蔵】。…

【大口屋治兵衛】より

…暁雨は当時江戸っ子の象徴とされた歌舞伎の花川戸助六にみずからを擬し,遊里で豪華な大尽ぶりをみせたり,男伊達を気取って,所持の名刀濡衣で乞食坊主を試斬したなどの伝聞がある。2代目市川団十郎と親交があり,彼が助六物を演ずるときは治兵衛の所作をまね,治兵衛も芝居の下桟敷を半分買い占めるなど,当時の歌舞伎や役者の良い援助者でもあった。また髪形・衣装,ことばづかいや行動に,ことさら奇矯で派手な蔵前風とよばれる風俗をはやらせるなど,江戸の文化史,風俗史にも名高い。…

【大高源吾】より

…浄瑠璃《仮名手本忠臣蔵》(1748年8月初演)には大鷲源吾(異版では〈大わしぶん五〉とも)の仮名で登場し,討入りのシーンで〈……大鷲源吾かけやと大槌引さげ引さげ〉と描写される。江戸歌舞伎で1749年(寛延2)6月中村座上演のおり,2世市川団十郎は水間沾徳(せんとく)遺品の大高源吾筆〈山を劈(さ)く(“抜く”とも)力も折れて松の雪〉の句を記した掛物を所蔵する縁で大館熊之助の役名で源吾役をつとめた。このとき以来菱皮鬘(ひしかわかつら)に一本隈という扮装で荒事の演出が行われ,代々市川家の家の芸とされ,源吾は勇猛の士としての性格に強調点がおかれたが,この演出はいつか絶えた。…

【勝扇子】より

…新助をはじめ芝居の人びとは,これを公的な身分保証と受け取って喜んだ。2世市川団十郎は,新助の公事日記を写し,《勝扇子》と題して家蔵。5世団十郎もそれを転写して後に伝えた。…

【助六由縁江戸桜】より

…歌舞伎十八番の一つで3時間近く(現行1時間半から2時間)を要する華やかな大曲。1713年(正徳3),江戸山村座上演の《花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)》で2世市川団十郎が助六に扮したのが初演とされる。これ以前上方では助六と揚巻を脚色した歌舞伎や浄瑠璃が上演されており,江戸へ移されての初演である。…

【千両役者】より

…江戸時代,それぞれの役者は11月から翌年10月までの1年間契約で劇場の専属となったが,その給金が1000両の高額に達した者を千両役者という。その最初は正徳・享保期(1711‐36)の初世芳沢あやめや2世市川団十郎といわれる。その後それ以上の高給の役者も出たが,一般には金額にかかわらず,最も格式の高い役者,最高の人気役者,技芸抜群の役者,またそれらを総合したすぐれた役者をいう。…

【父の恩】より

…俳優追善絵入句集。市川三升(2世市川団十郎)編。美濃判大。…

【歌舞伎】より

…〈事(こと)〉と呼んだ,演技・演出の類型が数多く形成された。江戸では,初世市川団十郎が創始したとされる荒事(あらごと)が,武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ,非常な人気を獲得した。一方,京都では,初世坂田藤十郎を代表として,初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ和事(わごと)の演技様式が確立する。…

【歌舞伎十八番】より

…7世市川団十郎が制定した18の演目をいう。7世団十郎は,1832年(天保3)3月に長男の海老蔵に8世団十郎を襲名させ,自身は海老蔵を名のると発表したときに配った刷り物に,初めて〈歌舞妓狂言組十八番〉と題して18種の名目を掲げた。…

【隅田川花御所染】より

…1814年(文化11)3月江戸市村座初演。おもな配役は,花子の前のちに清玄尼・召使お初を5世岩井半四郎,松若・局岩藤・下部軍助を7世市川団十郎,粂の平内・猿島惣太を5世松本幸四郎。清玄桜姫物の一つで,主役の清玄を尼にしたもの。…

【日本振袖始】より

…同年,すぐに歌舞伎でも上演された。1809年(文化6)6月江戸市村座で上演されたときには,7世市川団十郎が素戔嗚尊に扮し,市川流の白眼でにらみ,病人が治癒したという逸話が残されている。興行としては不評であった。…

【松羽目物】より

…しかし歌舞伎舞踊に大きな地位を占める〈石橋物(しやつきようもの)〉(石橋)や〈道成寺物〉など能取りの所作事も,能を直訳的に歌舞伎に移すのではなく,単に題名や詞章の一部を借りるのみで,自由な発想ともどきの趣向によって換骨奪胎し,みごとに歌舞伎化していた。7世市川団十郎は能の様式にあこがれ,その演出を積極的にとり入れようとした。その具体的なあらわれが《勧進帳》である。…

【水売】より

…振付初世藤間勘十郎。7世市川団十郎の近江八景八変化所作事《茲姿八景(またここにすがたのはつけい)》の一。江戸時代の夏,日照りが続いて水が乏しくなると,特定の井戸と契約している水屋が,1荷100文ぐらいで売りさばいたり,あるいは砂糖を入れた冷水や,白玉やところてん(心太)も売る風俗を舞踊化したもの。…

【演劇改良運動】より

…江戸時代に悪所とみなされた芝居に対して,明治初年から20年代にかけて試みられたさまざまな改良運動をいう。明治政府の欧化政策や社会各分野の新時代の気運に応じて,まず興行者の12世守田勘弥と9世市川団十郎が,依田学海らの協力を得て,歌舞伎を高尚な演劇に革新することをめざした。有職故実家による史実や時代考証の重視,道徳的規範にのっとった人物像の設定など,いわゆる〈活歴劇〉がそれで,1878年6月,勘弥の新富座開場に際して団十郎は《松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)》を上演したが,民衆の支持を得られなかった。…

【活歴物】より

…歌舞伎狂言の一系統。明治10年代以降9世市川団十郎を中心に行われた歌舞伎の革新運動のなかで,旧来の荒唐無稽な時代物でなく,史実によって脚色し時代考証による扮装・演出に重きをおいた時代物の作品群をいう。団十郎のこの運動には1872年(明治5)に新劇場を新富町に建設して旧制度の打破を試みた興行師の12世守田勘弥,作者界の第一人者河竹黙阿弥らが協力した。…

【歌舞伎】より

…〈事(こと)〉と呼んだ,演技・演出の類型が数多く形成された。江戸では,初世市川団十郎が創始したとされる荒事(あらごと)が,武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ,非常な人気を獲得した。一方,京都では,初世坂田藤十郎を代表として,初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ和事(わごと)の演技様式が確立する。…

【芸談】より

…近代には,〈芸談〉が読み物の一種として歓迎された。その中心は歌舞伎俳優の芸談で,9世市川団十郎の《団州百話(だんしゆうひやくわ)》(1903,松居松葉編),5世尾上菊五郎の《尾上菊五郎自伝》(1903,伊坂梅雪編)が先蹤(せんしよう)となり,以後《魁玉夜話(かいぎよくやわ)》(5世中村歌右衛門),《》《おどり》(6世尾上菊五郎),《梅の下風》《女形の事》(6世尾上梅幸),《松のみどり》(7世松本幸四郎),《三津五郎芸談》(7世坂東三津五郎)など,数多くのすぐれた芸談の書物が出版され,こんにちでは歌舞伎の伝承と創造にとって貴重な財産となっている。歌舞伎以外の分野では,能,狂言で《六平太芸談》(喜多六平太),《兼資芸談》(野口兼資),《万三郎芸談》(梅若万三郎),《狂言八十年》(茂山千作),《狂言の道》(野村万蔵)など,人形浄瑠璃で《吉田栄三自伝》,《文五郎自伝》(吉田文五郎),《山城少掾聞書》(豊竹山城少掾)などがそれぞれ代表的な書物である。…

【談洲楼燕枝】より

…1881,82年(明治14,15)ごろから三遊派の一枚看板三遊亭円朝に対して,柳派の一枚看板として並び称された。人情噺,芝居噺の名人で,歌舞伎役者の9世市川団十郎を崇拝して談洲楼と号した。晩年は,森田思軒,幸田露伴,饗庭篁村(あえばこうそん)らの根岸派文士と親交を結び,芸に深みを加えた。…

【時桔梗出世請状】より

…南北作品としては一方に片寄ってしまったといえる。明治期,9世市川団十郎は陽性で逞しい反逆児の型を,7世市川団蔵は陰性で執念の反逆児の型を残した。【広末 保】。…

【花柳流】より

…寿輔は4世西川扇蔵の門弟として西川芳次郎を名のったが,4世扇蔵の没後,西川流から独立して,1849年(嘉永2)花柳芳次郎と改名,花柳流を創立した。初世は振付の才能に恵まれ,幕末から明治の劇壇で名振付師として活躍したが,9世市川団十郎と不和が生じ,劇壇から遠ざかり,1903年没した。実子の花柳芳三郎は6世尾上菊五郎の門弟として俳優修業を志したが,18年門弟たちに望まれ,2世寿輔を襲名した。…

【肚芸(腹芸)】より

…一種のリアリズム演技で,役の性根(しようね)を〈肚〉と称するところから出た用語である。明治期の9世市川団十郎は肚芸を強調し,とくにみずから始めた〈活歴〉における重要な演技術となり,今日にまで大きな影響を残している。【井草 利夫】。…

【船弁慶】より

…振付初世花柳寿輔。演者9世市川団十郎。(1)に拠った松羽目物。…

【北条九代名家功】より

…1884年11月東京猿若座初演。配役は北条高時を9世市川団十郎,衣笠を4世中村福助(のちの5世歌右衛門),大仏(おさらぎ)陸奥守を市川権十郎ら。〈求古会〉のために新史劇をという希望により,いわゆる演劇改良運動の一つとして書かれた活歴劇(活歴物)で,上・中・下の3巻に分かれる。…

【松羽目物】より

…しかし歌舞伎舞踊に大きな地位を占める〈石橋物(しやつきようもの)〉(石橋)や〈道成寺物〉など能取りの所作事も,能を直訳的に歌舞伎に移すのではなく,単に題名や詞章の一部を借りるのみで,自由な発想ともどきの趣向によって換骨奪胎し,みごとに歌舞伎化していた。7世市川団十郎は能の様式にあこがれ,その演出を積極的にとり入れようとした。その具体的なあらわれが《勧進帳》である。…

【紅葉狩】より

…作曲鶴沢安太郎,6世岸沢式佐,3世杵屋正次郎。振付9世市川団十郎。演者は団十郎のほか初世市川左団次,4世中村芝翫など。…

【夜討曾我狩場曙】より

…1881年6月東京新富座初演。配役は工藤祐経・曾我五郎を9世市川団十郎,鬼王新左衛門を5世尾上菊五郎,曾我十郎・頼朝を中村宗十郎,団三郎を初世市川左団次,和田義盛を4世中村芝翫,五郎丸を5世市川小団次,喜瀬川の亀菊を8世岩井半四郎など。《曾我物語》その他の作に拠り,これより前の1874年同作者の《蝶千鳥曾我実伝(ちようちどりそがのじつでん)》を改作したもの。…

【吉田草紙庵】より

…草紙庵の名は裏千家藤谷宗仁から与えられた雅号である。小唄の作曲は,当時の粋人の趣味であったが,友人の歌舞伎俳優市川三升(10世市川団十郎,小唄の作詩もした)の勧めでその仲間に入り,300曲近い小唄を作曲した。長唄と清元の下地があるため,作風は器楽部分に下座(げざ)音楽をとり入れ,唄は豊後節系の節回しが特徴であり,しかも,歌舞伎舞踊の舞台への出(で)を想定した〈前弾き〉(普通の小唄にはない)と,舞台からの入(いり)を想定した〈送り〉の付いている作品が多い。…

【市川海老蔵】より

…歌舞伎俳優。市川団十郎の前名または後名として用いられる名跡。初世団十郎が生誕のおり,俠客唐犬十右衛門によって命名されたと伝えられ,市川家にとって由緒ある名である。…

【新勝寺】より

…〈江戸にて開帳あるに何時にても参詣群聚するは善光寺の弥陀と清涼寺の釈迦仏また成田の不動などなり〉と《嬉遊笑覧》にあるように,これより江戸出開帳の三本指に数えられるほど人気を集めた。また歌舞伎役者市川団十郎は代々屋号を〈成田屋〉といい,初世以来当不動尊への信仰が厚く,不動尊霊験記の上演もあったから,その霊験は広く庶民の間に喧伝され,講の発達にともない各地よりの成田詣も年々盛んになっていった。とくに天保(1830‐44)以降,講社数は飛躍的に増加し,関東,東海,甲信地方へ広がっている。…

※「市川団十郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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