デジタル大辞泉 「市川団十郎」の意味・読み・例文・類語
いちかわ‐だんじゅうろう〔いちかはダンジフラウ〕【市川団十郎】
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歌舞伎俳優。12世まである。姓は堀越。屋号は代々成田屋。定紋は三升(みます)。早世した3世,6世を除いて代々名優で,江戸歌舞伎界屈指の名跡である。(1)初世(1660-1704・万治3-宝永1)祖先は甲州の武士で,永正年中に北条氏康の家臣となり,のち下総国埴生(はにゆう)郡幡谷(はたがや)村に移住して郷士となり,堀越姓を称したと伝える。出身については,奥州の市川村ともいい,また葛飾郡市川村とする説もある。初世の父重蔵は江戸に出て俠客と交わり,〈菰(こも)の重蔵〉と呼ばれた人。通説に従うと1673年(延宝1)江戸中村座の《四天王稚立(してんのうおさなだち)》に,14歳で初舞台。この時坂田金時の役で,全身を紅で塗りつぶし,紅と墨で顔に隈(くま)を取り,童子格子の衣装に丸ぐけ帯,大太刀をはき,斧をひっさげて登場,豪快な荒事を演じて喝采を博したという。荒事の創始である。ただし,上の事実はもう少し遅れる85年(貞享2)の《金平六条通ひ》の坂田金平役の時が最初とする説がある。初世は芸の幅が広く,どんな役もこなして名声を得たが,とくに荒事に傑出した才能を示し,当時の江戸人の気風に合ったため,格別の人気を集めた。俳名才牛(さいぎゆう)。自身劇作も兼ね,《参会名護屋(さんかいなごや)》《兵根元曾我(つわものこんげんそが)》《源平雷伝記(げんぺいなるかみでんき)》《成田山分身不動(なりたさんふんじんふどう)》などを自作自演した。狂言作者としては,三升屋兵庫(みますやひようご)の筆名を併せ用いた。1704年(元禄17)2月江戸市村座の《わたまし十二段》に出演中,役者の生島半六に刺殺された。(2)2世(1688-1758・元禄1-宝暦8)初世の長男。初名九蔵。幼くして父と死別,16歳で団十郎を襲名した。容貌も体格も父に似ており,芸熱心だったので,めきめきと腕を上げ,名声を高め,江戸劇壇における市川団十郎のゆるぎない権威を確立した。1735年(享保20)11月2世市川海老蔵を襲名。俳名を三升(さんじよう),才牛,栢莚(はくえん)といい,俳諧や狂句をたしなみ,文人との交際が広かった。《老のたのしみ》《栢莚狂句集》などの著がある。助六,鳴神,毛抜,矢の根,曾我五郎,和藤内,外郎売(ういろううり)などを当り芸とする。荒事芸を様式化し洗練したのに加え,和事にも天分があった。たとえば,近松の《曾根崎心中》の徳兵衛や,《心中天の網島》の治兵衛を江戸で歌舞伎化して好演した。《助六》に和事味を加え,今日見るスタイルの原型を完成させたのも2世である。(3)3世(1721-42・享保6-寛保2)2世の養子。35年(享保20)に15歳で団十郎をつぎ,将来を期待されたが,数年にして病死した。22歳。(4)4世(1711-78・正徳1-安永7)初世松本幸四郎の養子。実は2世団十郎の子ともいう。54年(宝暦4),2世幸四郎から襲名。はじめは実悪の役者だったが,団十郎を名のってからは実事(じつごと)を得意にして好演した。《菅原伝授手習鑑》の松王丸は一代の当り役であり,その演出を現代にまで伝えた。76年(安永5)7月引退ののちは,深川木場の自宅に5世団十郎,4世幸四郎,初世中村仲蔵らを集め,〈修行講〉という演技研究会を開いた。親分肌で,人の世話をよくみたので,〈木場の親玉〉の名で慕われた。(5)5世(1741-1806・寛保1-文化3)4世の子。70年(明和7),3世松本幸四郎から襲名。荒事の役々を好演しただけでなく,岩藤,累(かさね)などの女方もよくし,安永・天明期(1772-89)の江戸歌舞伎全盛時代における江戸っ子の美学を代表する名優であった。91年(寛政3)11月市川鰕蔵(えびぞう)と改名。96年に舞台を退き,向島の反古庵(ほごあん)に隠居,芭蕉の風雅をしのぶ閑雅な生活を営んだ。俳名を白猿,狂歌名を花道のつらねと称した。立川焉馬,大田蜀山人ら当代第一流の文人と親交があり,《友なし猿》《徒然吾妻詞(つれづれあずまことば)》《市川白猿集》などの著作もある。1806年10月,66歳で没した。〈凩(こがらし)に雨もつ雲の行衛かな〉の辞世を残す。(6)6世(1778-99・安永7-寛政11)5世の養子。1791(寛政3)年に,鰕蔵襲名にともない14歳で団十郎をついだが,22歳で早世した。
(7)7世(1791-1859・寛政3-安政6) 5世の孫。俳名は三升,白猿,夜雨庵,二九亭,寿海老人,子福長者など。1800年10歳で団十郎を襲名。文化・文政期から幕末の安政に至るまで活躍した名優。小柄ながら多才多能の役者で,眼が大きく,口跡にすぐれていた。荒事,実事,実悪,和事,色悪など実に広い役柄を自由にこなし,4世鶴屋南北作の生世話や所作事をもよくした。42年(天保13),改革令に触れて江戸十里四方を追放されて諸国を流浪,上方の芝居に出たりしていたが,49年(嘉永2)に許されて江戸に帰った。1832年3月長男に8世をつがせ,自分は前名の5世海老蔵を再度名のった。この時,初世以来の荒事の当り役を調べて〈歌舞伎十八番〉を選定し,公表した。40年3月《勧進帳》初演に当たって,能様式の演出を大胆に採り入れたのは当時画期的な出来事であった。狂歌・俳句をよくし,文筆に親しんだ7世は,《遠く見ます》《遊行やまざる》などの著述や,洒脱な人柄をうかがわせる多くの書簡・書画を残している。(8)8世(1823-54・文政6-安政1) 7世の長男。1832年3月,10歳で6世海老蔵から団十郎を襲名した。若くして天才的な技芸を見せ,かつ格別の美貌が幕末期の退廃的な気分に合い,江戸人の熱狂的な支持を受けたが,大坂の旅宿で謎の自殺を遂げた。32歳の若さだった。天性の花やかさと美貌を生かした児雷也や切られ与三郎などの当り芸を残した。(9)9世(1838-1903・天保9-明治36) 7世の五男。8世の弟。生まれてすぐ6世河原崎権之助の養子となったが,74年実家に戻り,9世団十郎を襲名した。俳名三升,団洲,寿海,夜雨庵など。明治期の劇界の第一人者で,〈劇聖〉と仰がれた名優であった。容貌,風姿,音調,弁舌にすぐれ,立役,女方,敵役のいずれにもよく,時代,世話,所作事の何を演じても卓越した技芸を示した。演劇改良運動に意欲を燃やし,その中心となって活躍,忠実に史実を写そうと志す〈活歴(かつれき)〉と呼ぶ史劇を創始したことは演劇史上に特筆される。また,登場人物の性格・心理を研究し,これを内攻的に表現する〈肚芸(はらげい)〉という演技術を開拓するなど,近代歌舞伎に与えた影響はきわめて大きい。《高時》《紅葉狩》《大森彦七》《鏡獅子》などを含む〈新歌舞伎十八番〉を制定。(10)10世(1880-1956・明治13-昭和31) 9世の女婿。堀越福三郎から市川三升となり,没後に10世団十郎の名を追贈された。7世の選定した〈歌舞伎十八番〉のうち,長く演出の絶えていた《解脱》《不破》《象引》《押戻》《嫐(うわなり)》《七つ面》《蛇柳》を,古い台帳によったわけではないが,復活を試みた功績がある。(11)11世(1909-65・明治42-昭和40) 本名堀越治雄。7世松本幸四郎の長男。市川三升の養子になり,1940年に9世市川海老蔵をついだ。海老蔵時代は,天性の美貌と花のある芸風が幅広い層の人気を集め,〈海老サマ〉の愛称で親しまれた。待望久しくして,62年11世団十郎を襲名し,人気はいよいよ高まったが,わずか3年ののち没した。古典の時代物・世話物・荒事のいずれにもすぐれ,新作を意欲的に演じて,文字どおり戦後歌舞伎の花形俳優であった。(12)12世(1946-2013・(昭和21-平成25) 本名堀越夏雄。11世の長男。58年に6世市川新之助,69年に10世海老蔵を襲名して,85年4月12世団十郎を襲名。
執筆者:服部 幸雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
歌舞伎(かぶき)俳優。屋号成田屋。
初世(1660―1704)武門の出身で姓は堀越。江戸生まれで、父は「菰(こも)の重蔵」とよばれた人。通説によれば14歳のとき初舞台。市川家の「家の芸」として今日まで伝承されている荒事(あらごと)芸の創始者とされ、元禄(げんろく)期(1688~1704)の江戸の歌舞伎界を代表する名優であった。劇作も兼ね、市川団十郎または三升屋兵庫(みますやひょうご)の署名のある狂言本十数編を残す。怨恨(えんこん)のため、俳優生島(いくしま)半六に舞台で刺殺された。
2世(1688―1758)初世の長男。父の死後16歳で2世を襲名。容貌(ようぼう)、体格とも父に似て、たいへんな芸熱心であったので、江戸劇壇における市川家の確固たる地位を築いた。俳諧(はいかい)や狂歌をたしなみ、文人との交際も広かった。『助六』に和事(わごと)味を加え、今日みるスタイルの原型を創造した。1735年(享保20)海老蔵(えびぞう)と改め、以後長く舞台を勤めた。
3世(1721―1742)2世の養子。1735年(享保20)3世を襲名したが、数年にして没した。
4世(1711―1778)初世松本幸四郎の養子。父は芝居茶屋和泉屋(いずみや)勘十郎と伝えるが、実は2世団十郎ともいう。1754年(宝暦4)2世幸四郎から4世を襲名。初め実悪(じつあく)の俳優であったが、晩年は実事(じつごと)をも得意とした。1775年(安永4)に引退後、5世団十郎や初世中村仲蔵らを木場の自宅に招き、修行講と称する演技研究会を開き、「木場の親玉」の名で慕われた。
5世(1741―1806)4世の子。1770年(明和7)3世松本幸四郎から5世を襲名。これまでの団十郎が勤めなかった役柄を広く演じた実力者で、岩藤や累(かさね)などの女方(おんながた)も演じた。1796年(寛政8)舞台を退いて向島の反古庵(ほごあん)に隠居し、成田屋七左衛門と名のって閑雅な生活を送った。狂歌名は花道のつらね。立川焉馬(たてかわえんば)や蜀山人(しょくさんじん)ら当時一流の文化人と交際が広かった。
6世(1778―1799)5世の養子。1791年(寛政3)に6世を襲名したが、早世。
7世(1791―1859)5世の孫。1800年(寛政12)10歳で7世を襲名。文化・文政期(1804~1830)から安政(あんせい)(1854~1860)に至るまで活躍した名優で、荒事、実事、実悪、和事、色悪(いろあく)などの広い役柄をこなし、4世鶴屋南北(つるやなんぼく)作の生世話(きぜわ)にも所作事(しょさごと)にも優れていた。1842年(天保13)6月、改革令に触れて江戸十里四方追放に処せられ、上方(かみがた)の芝居に出ていたが、1849年(嘉永2)赦免となって江戸に帰った。1832年(天保3)に長男に8世を継がせ、自身は5世海老蔵を名のった。『勧進帳』を初演し、また、「歌舞伎十八番」を制定、公表した。
8世(1823―1854)7世の長男。1832年(天保3)に6世海老蔵から8世を襲名。若くして技芸優れ、美貌(びぼう)であったため江戸人の熱狂的支持を受けたが、32歳の若さで大坂で自殺。『切られ与三(よさ)』が当り芸であった。
9世(1838―1903)7世の五男。生まれてすぐに6世河原崎権之助(かわらさきごんのすけ)の養子になったが、のち実家に帰り、1874年(明治7)河原崎三升(さんしょう)から9世を襲名した。明治期劇界の第一人者。のちに「劇聖」と崇(あが)められた名優で、とくに演劇改良運動の中心人物となって活躍、「活歴(かつれき)」とよぶ史劇を始めたことが特筆に価する。また登場人物の性格や心理を研究して、内向的に表現する「肚芸(はらげい)」とよぶ演技術を開拓するなど、近代歌舞伎に与えた影響は非常に大きい。明治36年9月13日没。長女翠扇(すいせん)(2世)の婿が10世団十郎、次女旭梅(きょくばい)の婿が5世市川新之助で、新派女優3世市川翠扇(前名紅梅、1913―1974)はその子、すなわち9世の孫。
10世(1882―1956)9世の女婿。堀越福三郎から5世市川三升(さんしょう)となり、没後に10世を追贈。
11世(1909―1965)本名堀越治雄。7世松本幸四郎の長男。10世の養子となり、9世海老蔵から1962年(昭和37)に11世を襲名した。海老蔵時代には「海老さま」の愛称でよばれ、天性の美貌と花のある芸風が広く人気を集めた。待望久しくして11世団十郎を襲名し、人気はいよいよ高まったが、襲名後わずか3年、昭和40年11月10日に没した。
12世(1946―2013)本名堀越夏雄。11世の長男。1953年(昭和28)市川夏雄を名のり初舞台。6世新之助(1958)、10世海老蔵(1969)を経て、1985年4月、12世を襲名した。美貌と明るい芸風で、平成歌舞伎を代表する立役(たちやく)として活躍した。長男が11世市川海老蔵(1977― )である。
[服部幸雄]
『伊原青々園著『団十郎の代々』(1917・市川宗家)』▽『金沢康隆著『市川団十郎』(1962・青蛙房)』▽『服部幸雄著『市川団十郎』(1978・平凡社)』▽『西山松之助著『市川団十郎』新装版(1987・吉川弘文館)』▽『利根川裕著『十一世市川団十郎』(朝日文庫)』
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
(服部幸雄)
(藤波隆之)
(服部幸雄)
(池上文男)
(池上文男)
(池上文男)
(池上文男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
歌舞伎俳優。江戸前期から12世を数える。屋号は成田屋。江戸の歌舞伎界で「宗家」とよばれた特権的名家。初世(1660~1704)は江戸生れ。初名海老蔵(えびぞう)。俳名才牛。江戸荒事の創始者で元禄期の江戸を代表する名優。三升屋(みますや)兵庫の筆名で劇作もした。2世(1688~1758)は初世の子。俳名三升(さんじょう)・栢莚(はくえん)など。荒事を様式的に洗練し,和事にも芸域を広げ,市川家の地位を不動のものとした。4世(1711~78)は初世松本幸四郎の養子で宝暦期の実悪(じつあく)の名手。5世(1741~1806)は4世の子で安永~寛政期の名優。7世(1791~1859)は5世の外孫で江戸後期の名優。俳名白猿・夜雨庵・寿海老人など。天保の改革で江戸を追放されたが,のちに復帰し幕末期まで活躍。「歌舞伎十八番」の制定者。8世(1823~54)は7世の長男で,美男の花形だったが,大坂で自殺。9世(1838~1903)は7世の五男。本名堀越秀。俳名紫扇・三升・団洲(だんしゅう)など。近代随一の名優で「劇聖」とよばれる。演劇改良に熱心で活歴物(かつれきもの)をつぎつぎと上演,後年は古典にも近代的演技術を導入して後世への規範を残した。11世(1909~65)は7世松本幸四郎の長男で10世の養子。本名堀越治雄。美男の立役で第2次大戦後随一の人気俳優。12世(1946~2013)は11世の長男。本名堀越夏雄。スケールの大きな芸と多彩な役柄で人気を博した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
大正・昭和期の歌舞伎俳優
明治〜昭和期の歌舞伎俳優
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…実方と敵役とを兼ねた初世村山平十郎のような役者が,金平のイメージを介して,悪の力を善のそれへと転換させて生み出したもの。ここからさらに,実・悪の双方を兼ね,奴芸をも身に備えた初世市川団十郎が,御霊神の威力ある祝福性を受けとめて,《暫》の主人公に代表されるような,市川流の荒事を創始した。歌舞伎十八番御霊(ごりょう)信仰実事和事【今尾 哲也】。…
…〈事(こと)〉と呼んだ,演技・演出の類型が数多く形成された。江戸では,初世市川団十郎が創始したとされる荒事(あらごと)が,武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ,非常な人気を獲得した。一方,京都では,初世坂田藤十郎を代表として,初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ和事(わごと)の演技様式が確立する。…
…この系統のもので現在残っているものに,常磐津節の《三人形(みつにんぎよう)》,清元節の《土佐絵》,荻江節の《金谷丹前(かなやたんぜん)》《水仙丹前》,長唄の《高砂丹前》《廓丹前》《鞘当》《供奴》《元禄花見踊》などがあり,これらを一括して〈丹前物〉という。〈丹前〉を演技術として歌舞伎で初めて見せたのは多門庄左衛門(生没年不詳,1660年江戸で活躍)といわれ,初世市川団十郎を〈丹前開山〉と記すものもある。【鳥越 文蔵】。…
…暁雨は当時江戸っ子の象徴とされた歌舞伎の花川戸助六にみずからを擬し,遊里で豪華な大尽ぶりをみせたり,男伊達を気取って,所持の名刀濡衣で乞食坊主を試斬したなどの伝聞がある。2代目市川団十郎と親交があり,彼が助六物を演ずるときは治兵衛の所作をまね,治兵衛も芝居の下桟敷を半分買い占めるなど,当時の歌舞伎や役者の良い援助者でもあった。また髪形・衣装,ことばづかいや行動に,ことさら奇矯で派手な蔵前風とよばれる風俗をはやらせるなど,江戸の文化史,風俗史にも名高い。…
…浄瑠璃《仮名手本忠臣蔵》(1748年8月初演)には大鷲源吾(異版では〈大わしぶん五〉とも)の仮名で登場し,討入りのシーンで〈……大鷲源吾かけやと大槌引さげ引さげ〉と描写される。江戸歌舞伎で1749年(寛延2)6月中村座上演のおり,2世市川団十郎は水間沾徳(せんとく)遺品の大高源吾筆〈山を劈(さ)く(“抜く”とも)力も折れて松の雪〉の句を記した掛物を所蔵する縁で大館熊之助の役名で源吾役をつとめた。このとき以来菱皮鬘(ひしかわかつら)に一本隈という扮装で荒事の演出が行われ,代々市川家の家の芸とされ,源吾は勇猛の士としての性格に強調点がおかれたが,この演出はいつか絶えた。…
…新助をはじめ芝居の人びとは,これを公的な身分保証と受け取って喜んだ。2世市川団十郎は,新助の公事日記を写し,《勝扇子》と題して家蔵。5世団十郎もそれを転写して後に伝えた。…
…歌舞伎十八番の一つで3時間近く(現行1時間半から2時間)を要する華やかな大曲。1713年(正徳3),江戸山村座上演の《花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)》で2世市川団十郎が助六に扮したのが初演とされる。これ以前上方では助六と揚巻を脚色した歌舞伎や浄瑠璃が上演されており,江戸へ移されての初演である。…
…江戸時代,それぞれの役者は11月から翌年10月までの1年間契約で劇場の専属となったが,その給金が1000両の高額に達した者を千両役者という。その最初は正徳・享保期(1711‐36)の初世芳沢あやめや2世市川団十郎といわれる。その後それ以上の高給の役者も出たが,一般には金額にかかわらず,最も格式の高い役者,最高の人気役者,技芸抜群の役者,またそれらを総合したすぐれた役者をいう。…
…俳優追善絵入句集。市川三升(2世市川団十郎)編。美濃判大。…
…〈事(こと)〉と呼んだ,演技・演出の類型が数多く形成された。江戸では,初世市川団十郎が創始したとされる荒事(あらごと)が,武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ,非常な人気を獲得した。一方,京都では,初世坂田藤十郎を代表として,初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ和事(わごと)の演技様式が確立する。…
…7世市川団十郎が制定した18の演目をいう。7世団十郎は,1832年(天保3)3月に長男の海老蔵に8世団十郎を襲名させ,自身は海老蔵を名のると発表したときに配った刷り物に,初めて〈歌舞妓狂言組十八番〉と題して18種の名目を掲げた。…
…1814年(文化11)3月江戸市村座初演。おもな配役は,花子の前のちに清玄尼・召使お初を5世岩井半四郎,松若・局岩藤・下部軍助を7世市川団十郎,粂の平内・猿島惣太を5世松本幸四郎。清玄桜姫物の一つで,主役の清玄を尼にしたもの。…
…同年,すぐに歌舞伎でも上演された。1809年(文化6)6月江戸市村座で上演されたときには,7世市川団十郎が素戔嗚尊に扮し,市川流の白眼でにらみ,病人が治癒したという逸話が残されている。興行としては不評であった。…
…しかし歌舞伎舞踊に大きな地位を占める〈石橋物(しやつきようもの)〉(石橋)や〈道成寺物〉など能取りの所作事も,能を直訳的に歌舞伎に移すのではなく,単に題名や詞章の一部を借りるのみで,自由な発想ともどきの趣向によって換骨奪胎し,みごとに歌舞伎化していた。7世市川団十郎は能の様式にあこがれ,その演出を積極的にとり入れようとした。その具体的なあらわれが《勧進帳》である。…
…振付初世藤間勘十郎。7世市川団十郎の近江八景八変化所作事《茲姿八景(またここにすがたのはつけい)》の一。江戸時代の夏,日照りが続いて水が乏しくなると,特定の井戸と契約している水屋が,1荷100文ぐらいで売りさばいたり,あるいは砂糖を入れた冷水や,白玉やところてん(心太)も売る風俗を舞踊化したもの。…
…江戸時代に悪所とみなされた芝居に対して,明治初年から20年代にかけて試みられたさまざまな改良運動をいう。明治政府の欧化政策や社会各分野の新時代の気運に応じて,まず興行者の12世守田勘弥と9世市川団十郎が,依田学海らの協力を得て,歌舞伎を高尚な演劇に革新することをめざした。有職故実家による史実や時代考証の重視,道徳的規範にのっとった人物像の設定など,いわゆる〈活歴劇〉がそれで,1878年6月,勘弥の新富座開場に際して団十郎は《松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)》を上演したが,民衆の支持を得られなかった。…
…歌舞伎狂言の一系統。明治10年代以降9世市川団十郎を中心に行われた歌舞伎の革新運動のなかで,旧来の荒唐無稽な時代物でなく,史実によって脚色し時代考証による扮装・演出に重きをおいた時代物の作品群をいう。団十郎のこの運動には1872年(明治5)に新劇場を新富町に建設して旧制度の打破を試みた興行師の12世守田勘弥,作者界の第一人者河竹黙阿弥らが協力した。…
…〈事(こと)〉と呼んだ,演技・演出の類型が数多く形成された。江戸では,初世市川団十郎が創始したとされる荒事(あらごと)が,武士階級を中心に形成された新興都市の荒々しい気風に合致して喜ばれ,非常な人気を獲得した。一方,京都では,初世坂田藤十郎を代表として,初期歌舞伎の傾城買の狂言の伝統を受け継ぐ和事(わごと)の演技様式が確立する。…
…近代には,〈芸談〉が読み物の一種として歓迎された。その中心は歌舞伎俳優の芸談で,9世市川団十郎の《団州百話(だんしゆうひやくわ)》(1903,松居松葉編),5世尾上菊五郎の《尾上菊五郎自伝》(1903,伊坂梅雪編)が先蹤(せんしよう)となり,以後《魁玉夜話(かいぎよくやわ)》(5世中村歌右衛門),《芸》《おどり》(6世尾上菊五郎),《梅の下風》《女形の事》(6世尾上梅幸),《松のみどり》(7世松本幸四郎),《三津五郎芸談》(7世坂東三津五郎)など,数多くのすぐれた芸談の書物が出版され,こんにちでは歌舞伎の伝承と創造にとって貴重な財産となっている。歌舞伎以外の分野では,能,狂言で《六平太芸談》(喜多六平太),《兼資芸談》(野口兼資),《万三郎芸談》(梅若万三郎),《狂言八十年》(茂山千作),《狂言の道》(野村万蔵)など,人形浄瑠璃で《吉田栄三自伝》,《文五郎自伝》(吉田文五郎),《山城少掾聞書》(豊竹山城少掾)などがそれぞれ代表的な書物である。…
…1881,82年(明治14,15)ごろから三遊派の一枚看板三遊亭円朝に対して,柳派の一枚看板として並び称された。人情噺,芝居噺の名人で,歌舞伎役者の9世市川団十郎を崇拝して談洲楼と号した。晩年は,森田思軒,幸田露伴,饗庭篁村(あえばこうそん)らの根岸派文士と親交を結び,芸に深みを加えた。…
…寿輔は4世西川扇蔵の門弟として西川芳次郎を名のったが,4世扇蔵の没後,西川流から独立して,1849年(嘉永2)花柳芳次郎と改名,花柳流を創立した。初世は振付の才能に恵まれ,幕末から明治の劇壇で名振付師として活躍したが,9世市川団十郎と不和が生じ,劇壇から遠ざかり,1903年没した。実子の花柳芳三郎は6世尾上菊五郎の門弟として俳優修業を志したが,18年門弟たちに望まれ,2世寿輔を襲名した。…
…一種のリアリズム演技で,役の性根(しようね)を〈肚〉と称するところから出た用語である。明治期の9世市川団十郎は肚芸を強調し,とくにみずから始めた〈活歴〉における重要な演技術となり,今日にまで大きな影響を残している。【井草 利夫】。…
…振付初世花柳寿輔。演者9世市川団十郎。(1)に拠った松羽目物。…
…1884年11月東京猿若座初演。配役は北条高時を9世市川団十郎,衣笠を4世中村福助(のちの5世歌右衛門),大仏(おさらぎ)陸奥守を市川権十郎ら。〈求古会〉のために新史劇をという希望により,いわゆる演劇改良運動の一つとして書かれた活歴劇(活歴物)で,上・中・下の3巻に分かれる。…
…しかし歌舞伎舞踊に大きな地位を占める〈石橋物(しやつきようもの)〉(石橋)や〈道成寺物〉など能取りの所作事も,能を直訳的に歌舞伎に移すのではなく,単に題名や詞章の一部を借りるのみで,自由な発想ともどきの趣向によって換骨奪胎し,みごとに歌舞伎化していた。7世市川団十郎は能の様式にあこがれ,その演出を積極的にとり入れようとした。その具体的なあらわれが《勧進帳》である。…
…1881年6月東京新富座初演。配役は工藤祐経・曾我五郎を9世市川団十郎,鬼王新左衛門を5世尾上菊五郎,曾我十郎・頼朝を中村宗十郎,団三郎を初世市川左団次,和田義盛を4世中村芝翫,五郎丸を5世市川小団次,喜瀬川の亀菊を8世岩井半四郎など。《曾我物語》その他の作に拠り,これより前の1874年同作者の《蝶千鳥曾我実伝(ちようちどりそがのじつでん)》を改作したもの。…
…草紙庵の名は裏千家藤谷宗仁から与えられた雅号である。小唄の作曲は,当時の粋人の趣味であったが,友人の歌舞伎俳優市川三升(10世市川団十郎,小唄の作詩もした)の勧めでその仲間に入り,300曲近い小唄を作曲した。長唄と清元の下地があるため,作風は器楽部分に下座(げざ)音楽をとり入れ,唄は豊後節系の節回しが特徴であり,しかも,歌舞伎舞踊の舞台への出(で)を想定した〈前弾き〉(普通の小唄にはない)と,舞台からの入(いり)を想定した〈送り〉の付いている作品が多い。…
…歌舞伎俳優。市川団十郎の前名または後名として用いられる名跡。初世団十郎が生誕のおり,俠客唐犬十右衛門によって命名されたと伝えられ,市川家にとって由緒ある名である。…
…〈江戸にて開帳あるに何時にても参詣群聚するは善光寺の弥陀と清涼寺の釈迦仏また成田の不動などなり〉と《嬉遊笑覧》にあるように,これより江戸出開帳の三本指に数えられるほど人気を集めた。また歌舞伎役者市川団十郎は代々屋号を〈成田屋〉といい,初世以来当不動尊への信仰が厚く,不動尊霊験記の上演もあったから,その霊験は広く庶民の間に喧伝され,講の発達にともない各地よりの成田詣も年々盛んになっていった。とくに天保(1830‐44)以降,講社数は飛躍的に増加し,関東,東海,甲信地方へ広がっている。…
※「市川団十郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
国または地方公共団体が個々の候補者の選挙費用の一部または全額を負担すること。選挙に金がかかりすぎ,政治腐敗の原因になっていることや,候補者の個人的な財力によって選挙に不公平が生じないようにという目的で...
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