西方教会の教父として最も重要な人物で,かつヨーロッパのキリスト教を代表する一人である。
北アフリカのヌミディア州タガステに,異教徒の父パトリキウスPatriciusとキリスト教徒の母モニカMonicaとの子として生まれた。46歳のときに書いた自伝《告白》によれば,16歳のときカルタゴに出て修辞学を中心とする自由学科を学んだが,ある女性と同棲して1子アデオダトゥスを生んだ。さらにマニ教の世界理解に興味を覚えて入信した。そのころキケロの今では失われた作《ホルテンシウス》を読んで〈知恵への愛〉すなわち哲学的精神に燃え立ったという。20歳以後文法学と修辞学を教えるようになった。マニ教には9年間とりことなっていたが,やがてこれに疑問を感ずるようになったときローマに渡り,ミラノに行って高名なアンブロシウスの説教を聞き,カトリック教会の信仰に従って生きようと決意した。《告白》7,8巻はそのときの精神的格闘を詳細に記している。それによると,アウグスティヌスはまずプロティノスの《エンネアデス》を読んで霊的世界の存在に目覚め,次に聖書ことに〈パウロの手紙〉を読んで,謙虚の道こそキリストの道であり救いであることを知ったという。これは一方から他方へ移るものではなく,当時のキリスト教的プラトン主義にならって,前者によって得た自己認識を後者によって社会化していくものであったといえる。この二つの要素は回心のできごとの記述にも見られ,一つは禁欲の女神の呼びかけに従う精神の純化高揚であり,一つは教会的伝承に従う自己放棄の道である。後者については,子どもたちの〈取って読め〉の声を聞いて聖書を開いたところ,そこは《ローマ人への手紙》13章13~14節で,これによって最後のとどめがさされたと劇的に記されている。このしかたは修道士的伝承のもので,彼の回心はそうした伝承を自己の体験によって活性化し,広く教会化したものとみなされよう。これは386年,32歳のときであった。
その後いっさいの教職から離れ,胸の病をえたこともあって,ミラノに近いカッシキアクムにある友人の別荘に退いた。ここでの半年間に《アカデミア派駁論》《幸福の生》《ソリロキア》など,いわゆる初期哲学的対話編が成る。387年春に洗礼を受け,帰国の準備中に母モニカが死んだが,その数日前に母とともに天に揚げられるという霊的体験があった。この年に《魂の不死》《音楽論》《カトリック教会の習俗とマニ教徒の習俗》が書かれた。391年ヒッポの司祭となり,5年後ウァレリウスのあとをついで司教となる。390年代の著作には《教師論》《真の宗教》《自由意志論》《83問題集》《シンプリキアヌスにあてた諸問題集》《キリスト教の教え》《告白》があり,また多くのマニ教反駁書がある。司教としての生活は,教会の指導と修道士の教育のほか,《三位一体論》《創世記逐語解》《詩篇講解》《ヨハネ福音書講解》など,神学と聖書研究にいとまがなかったが,さらにマニ教,ドナトゥス派,ペラギウス派との多年にわたる論争があり,その徹底した論議を通じてキリスト教の理解を深めていったことは特筆に値する。410年アラリックのローマ侵入を機に大著《神の国》の執筆を始め,ほぼ13年かかってこれを完成した。つづいて《再論》により,これまでの著作活動をまとめている。430年ヒッポの町はバンダル族によって包囲されたが,その直前までペラギウス派反駁の筆をおくことがなかった。
アウグスティヌスの思想の根幹はキリスト教的プラトン主義と呼んでよい。これはアンブロシウスを通じて知った精神的雰囲気であり,彼自身の独創によって形をとったのである。そこには反発・融合の二つの面があって一義的に固定はされないが,全体として見て古代の哲学をキリスト教的に変え,また信仰内容を知解をもってとらえ直したこと,その際オリゲネスと異なる西方教会的特質を打ち出したことが明らかである。出発点は,神的光の精神への〈照明illuminatio〉が与える真理の確実性と自己認識という哲学的経験であるが,真理とは神にほかならないことからして,たんに事物のイデア(認識内容)ではなく,創造と摂理とをもって世界を支配するものとされる。真理は神の力・愛・正しさである。また精神の自己認識については,たんに知の形式と構造を示すにとどまらず,愛と意志とをもって存在し働くものであることが言われる。精神は世界を悪としてそこから離脱するのではなく,むしろこれを神の造ったものとして理解し,その中に神の働きを見,かつ他者との共同に生きることを求める。最初の著作《アカデミア派駁論》では,その懐疑論に抗して,どんなに疑っても疑うことのできない〈我〉の存在の確実さを主張し,この我において真理もまた確実であるという〈内在的超越〉の道を開いた。《自由意志論》では,悪は善の欠如であるとともに意志的反逆に由来すること,これに対して神の罰が来ざるをえないが,神は正しい法と摂理をもって世界を導くという〈神義論〉を示した。多くのマニ教反駁書の中では,〈無からの創造〉の意味が解明され,天使と人間の堕罪にもかかわらず神の創造は正しく恵みにみちたものであることが語られている。
《告白》11巻は有名な時間論のテキストとなっているが,それは時間の分散の中での精神の統一を示して,〈時と永遠〉の問題に迫ったものである。ここに見られる世界の象徴認識は真に彼独自のものと言ってよく,それは《三位一体論》の中で神の存在・本質の解明とならんで,精神を〈神の似像〉としてとらえたことの中に十分展開されていった。ドナトゥス派に対しては教会と典礼の不可侵性を強調したが,その際教会を見えるものとしてだけでなく見えざるものとしても理解した。ペラギウス派に対しては自由意志は恩恵なしに働かず,かえって原罪の事実を露呈するとして深刻な人間観を呈示した。晩年の大著《神の国》はキリスト教最初の歴史哲学と言ってよく,人類史の中でのイスラエルと教会の位置,キリスト預言とその成就が与える歴史の意味を明らかにした。この書は教会と国家の本質的相違とならんで両者の暫定性をも論じていて,政治思想史の上でも重要である。
アウグスティヌスの後世への影響は深大であるが,そのプラトン主義的性格のゆえに直接的には12世紀までであり,13世紀にアリストテレスがヨーロッパに入ってからはフランシスコ会修道院の中で受けつがれていった。そこではとくに霊魂観と神秘主義が受けつがれた。教義史の上ではペラギウス派反駁が重要で,中世のカトリック教会はこれをそのまま受け入れず,かえって恩恵と自由意志との協働に傾いたのであるが,のちにルターとジャンセニスムは厳格な〈恩恵のみ〉の思想を取り上げ再興した。ジャンセニスムは〈見えざる教会〉の思想をも受けついでいる。
執筆者:泉 治典
アウグスティヌスは多くの場合,玉座に座り,書物を手にして教えを説く教師,または書斎で学問にふける学者として表現される。単独像の場合,司教服と司教冠をつけ,さまざまな持物をもつ。書物とペンは学者であることを,教会の模型は《神の国》の著者であることを示し,聖人が手の中または胸の上に掲げる心臓(矢がつきささるか燃えていることもある)は,神への愛を象徴する。後代の伝説によれば,聖人は海辺を散策中,子どもが貝殻で,砂に掘った穴に海の水を汲み出して空(から)にしようとしているのを見て,三位一体の神秘を解することの不可能性を悟ったという。15世紀以降,この場面の表現が見られるようになる。祝日は8月28日。
執筆者:荒木 成子
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古代末期最大のラテン教父、神学者、哲学者、聖人。11月13日ヌミディア(北アフリカ)の小村タガステ(現、アルジェリアのスーク・アラス)に生まれる。父パトリキウスPatricius(315―371)はローマ人、母モニカはベルベリ人で中産階級(小地主)に属していた。タガステ、マダウラ、カルタゴで初等、中等教育を受けたが、その後は独学でラテン文学、とくに古代ローマ第一の詩人ウェルギリウスを愛読し、自らも修辞学に秀でていた。女性と同棲(どうせい)して1子をもうけたりする生活のなかで迎えた19歳のとき、キケロの哲学的対話編『哲学のすすめ(ホルテンシウス)』を読んで、にわかにフィロソフィア(知恵への愛=哲学)に目覚めた。こうして真の知恵を求め始める過程で、母の宗教でもあるキリスト教に初めて触れる。だが聖書の素朴な文体やカトリック教会の保守性に飽き足らず、光と闇(やみ)の二元論を説いて当時盛んであったマニ教の合理主義的主張と美的宗教性にひかれていった。以後9年余りをマニ教的雰囲気のなかで過ごし、マニ教的美学書『美と適合』を著すが、383年ローマで新アカデメイア学派の懐疑主義思想に出会って、マニ教からも離れていった。翌384年、知事への出世の道を求めて、ミラノの修辞学教授となった。
386年、32歳の5~6月、プロティノス、ポルフィリオスらの新プラトン主義の書物を読んで、「不変の光」を見るという神秘的体験を与えられ、懐疑主義を去って真理の存在を確信するに至った。さらに、ミラノ司教アンブロシウスの説教を聞いて、母モニカとともに感動し、同年8月ついにミラノの自宅の庭で、「とりて読め」という声を聞いて回心を経験することになる。回心後、彼はただちに教授の職を辞して、ミラノ郊外のカッシキアクムの山荘に仲間とこもり、討論と瞑想(めいそう)のなかから哲学的対話編(『独語録(ソリロクイア)』など)を著し始める。そこで聖書の「詩編」第4編を読んで、高ぶりと正反対の敬虔(けいけん)を学んだことは、彼の精神に大きな転換をもたらした。
388年に故郷タガステに帰り、親しい仲間たちと修道院的共同生活を営むかたわら、391年ヒッポの司教ウァレリウスValerius(?―396)の求めに応じて司祭となり、さらに396年ウァレリウスの死とともにヒッポ司教となった。こうして民衆との日々の接触を通して、アウグスティヌスの思索は、聖書の文言の奥に神の言そのものをみいだし、伝達しようとする「解釈学的」な方法をとることによって、いっそう深められていく。その間、マニ教徒、堕落した聖職者による秘蹟(ひせき)を認めないドナティスト、さらに晩年には、人間の自由意志による罪なき生活の可能性を認めるペラギウス派のような異端との論争、ローマの元老院にくすぶる異教主義に対する弁明などを契機に、数多くの神学的、哲学的な作品を生み出していった。430年、ローマ帝国に侵入したゲルマン系のバンダル人がヒッポの町を取り囲むなかで、8月28日世を去った。
[加藤 武 2017年11月17日]
〔1〕人間学 若き日のアウグスティヌスはその著書『独語録』において、神と魂のほかにはいかなる関心も抱かないと断じたが、そのとき彼の思想はすでに古代哲学の宇宙論的関心から脱して、人間学的地平を開きつつあった。宇宙のなかの微小な存在である人間存在への、存在の源泉である神によって与えられる特別なめぐみへの感謝と賛美の念こそ、彼の哲学の基底をなす原動力である。そして彼は謎(なぞ)めいた怪物として映る人間への洞察を深めながら、人間を心身一如の統一体としてとらえようとするのである。
〔2〕ウティutiとフルイfrui 人間は幸福を求めてやまないが、幸福とは「魂において神を所有すること、すなわち神を享受すること」deo fruiにほかならない(『幸福な生活』4巻3の4)。『キリスト教の教え』第1巻冒頭部ではさらに、享受は利用utiとかかわると説く。神の享受とは、神をそれ自身として尊び、愛し、神にとどまることであるが、用いる(ウティ)とは、もの(レース)をそれ自体としてではなく、他のもの(レース)のために利用することである。ゆえに本来利用するにとどめるべき、神以外のすべてのものをそれ自身として愛することは、倒錯的な愛におぼれることである。しかしまた、弱い人間には唯一の神への愛にとどまることはできない。そこでキリストの助けが必要となり、神のキリストにおける受肉の教理の承認は、脱現世的な新プラトン哲学の限界を超えさせる。この世界への執着から脱しながら、しかも積極的にこの世界を用い尽くす彼の思想は、このようにして生まれたのである。
[加藤 武 2017年11月17日]
17世紀に出版された大型のマリウス版で11巻に及ぶほど多くの著作を全集として残した。哲学的著作、神学的著作のほかに、日常の牧会活動に基づく多くの説教、また『詩編講解』『ヨハネ伝講解』のような聖書注解、異端や異教徒らとの論争的弁明の書も多く、書簡類も残されている。そのなかで今日まで、もっともよく読まれたものを紹介する。
(1)『独語録(ソリロクイア)』2巻(386~387) 初期の代表的な哲学的小品。「神と私とを知りたい。……そのほかには何も」という有名な自己と理性との対話で知られる。
(2)『キリスト教の教え』4巻(397~427) 聖書の内容をみいだす方法(第1~3巻)と、それを伝達する方法(第4巻)としての解釈学的方法が述べられる。
(3)『告白録』13巻(397~400) 第11~13巻は「創世記」の冒頭をめぐって将来の生を論じている。
(4)『三位(さんみ)一体論』15巻(400~421) 神の三一性と人間の魂の三一性の類比を論ずる。
(5)『神の国』22巻(413~426) 第10巻までは異教徒への反論、第22巻までは神の国と地の国の相関を歴史神学的に論じている。
[加藤 武 2017年11月17日]
『中沢宣夫訳『三位一体論』(1975・東京大学出版会)』▽『山田晶訳『世界の名著16 アウグスティヌス 告白』(1978・中央公論社)』▽『『アウグスティヌス著作集』30巻・別巻2(1979~2013・教文館)』▽『『石原謙著作集8 キリスト教の源流』(1979・岩波書店)』▽『宮谷宣史著『人類の知的遺産15 アウグスティヌス』(1981・講談社)』▽『金子晴勇著『アウグスティヌスの人間学』(1982・創文社)』▽『P. BrownAugustine of Hippo (1967, London)』
初代カンタベリー大司教、聖人。597年ローマ教皇グレゴリウス1世の命でイングランドへの布教に赴き、一行はケント王国のサニット島に上陸。エセルバート王Ethelbert(552ころ―616。在位560~616)に迎えられ、布教の自由を得た。のち王自身も受洗。598年教皇との書簡による相談の結果、12の司教区を創設。布教にあたっては現地の慣習と伝統を尊重、ケルト系教会との抗争をしだいに克服していった。
[朝倉文市 2017年11月17日]
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354~430
古代キリスト教最大の教父,神学者。北アフリカのヌミディアの生まれ。父は異教徒の市参事会議員(クリアレス),母は篤信なキリスト教徒モニカ。カルタゴに遊学,抜群の成績を収めたが,愛欲に悩み,身分の低い女と結婚,またマニ教と懐疑論に傾いた。384年ミラノに修辞学教師として赴任,新プラトン派哲学とアンブロシウスの説教の感化のもとに,386年キリスト教に回心した。アフリカに帰り,396年ヒッポの司教となり,マニ教,ドナトゥス派,ペラギウス主義との論争をとおしてカトリック教会の恩寵,礼典,教会概念などの確立に努め,中世以後の神学および政治思想の指標となった。ヴァンダル族がヒッポ攻囲中に病死した。著書は『神の国』『三位一体論』『告白録』『自由意志論』『ソリロキア(独白)』ほか多数。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ここにジャンセニスムの複雑さと多様性がある。 神学思想としてのジャンセニスムは,後期アウグスティヌスの恩寵観を奉じて,一方では神の預定と恩寵の絶対性を,他方では原罪以後の人間の無力さを強調する。これは,ルネサンスと宗教改革に衝撃を受け,近代世界にどう対応すべきか模索していたカトリック神学の一つの極限的解答であり,キリスト教とヒューマニズムとの調和を図る近代主義的傾向――その代表がイエズス会である――の対極にある立場である。…
… 313年にキリスト教が公認された直後,ミラノの司教アンブロシウスらは,東方の初期キリスト教徒たちの例にならって,典礼に歌を用いることに積極的な態度をとり,アンブロシウス聖歌として伝えられる単旋聖歌の体系の礎を築いた。しかし,アンブロシウスの弟子でもあったアウグスティヌスによる,〈歌の内容にではなくて,歌そのものに感動したときには,罪を犯したような気持になる〉という反省は,キリスト教会の長い歴史の中で,教会における音楽のあり方をめぐっての論議に際し,折にふれて思い出されることになる。
[中世]
西方のキリスト教会がローマを中心にして中央集権的な体制を固めつつあったころ,グレゴリウス1世は,典礼聖歌の集大成とその普及に力を入れ,スコラ・カントルム(歌手の学校の意)の整備拡充を図った。…
…昭和の〈散文詩〉は形式としてはまったく散文であり,内容が詩poésieをもつというだけである。【川路 柳虹】
【音楽における韻律】
言語の韻律は音楽にも関係が深く,ヨーロッパでは古くアウグスティヌス(354‐430)の音楽論にも,韻律が言語の音楽性として取り扱われている。中世のグレゴリオ聖歌は純音楽的なリズムをもたず,言語的,内容的なリズムのわくにはめて歌われたが,そのリズムのわくはリズム的モードと呼ばれて六つの種類があった。…
… こうした古代的宇宙観は,唯一の世界創造者としての創造主概念を強力にもつユダヤ・キリスト教の展開とともに,限定付きで受けとられた。アウグスティヌスの例のように,プラトンや新プラトン主義的宇宙観を身近に感じつつ,しかも,そこに含まれる魔術的・占星術的要素を忌避して留保を付するというのが,キリスト教の側のとった基本的態度であったといってよい。 一方,宇宙内で生起する現象,とくに天体現象に関しては,アレクサンドリア学派,とくに2世紀のプトレマイオスが《アルマゲスト》の中で展開したモデルによって,間然するところなく説明されることになった。…
…生没年不詳。414年,すでに《プリスキリアヌス派およびオリゲネス派の過誤に関する教訓書》を著していたオロシウスは,ゲルマン諸族に蹂躙(じゆうりん)される生地を逃れてアフリカへ渡り,アウグスティヌスの弟子となる。415‐416年,師の勧めでベツレヘムのヒエロニムスのもとを訪れ,415年エルサレムの地方教会会議ではペラギウスを異端として論難している。…
…アウグスティヌスの代表作の一つで,22巻の大著。西ゴート族のローマ侵入を契機に,かねて考えていたキリスト教の歴史的弁証を行ったもの。…
…彼の後を受けて,ギリシア語圏でもラテン語圏でも,教会と国家を重ねて眺める同様の年代史作成が続けられた。アウグスティヌスはこれに対し,国家と対峙する教会像を,《神の国》の中で歴史的に描写した。中世前期には教会の全体像が薄れ,まず個々の民族,修道院,司教区等の年代史が作成されたが,11世紀以降の各種改革運動が教会全体の実態とあるべき姿とに対する関心を高めると,教会全体の年代史も作成された。…
…なお,〈教皇papa〉の呼称がローマ司教に対して用いられるようになったのは,レオ1世(在位440‐461)のころ以後であるといわれている。 東方教会で形成された神学はアウグスティヌスによって西方のものに作り変えられた。アウグスティヌスは最初アンブロシウスとともにキリスト教的プラトン主義の圏内にあったが,《告白》にみるような救済の体験を通じて西方的伝統に立つ教会形成につとめ,ペラギウスとの論争に際してはパウロにもとづく信仰義認と恩恵の教えを明らかにして宗教改革に結ばれる線を生み,また《神の国》では国家と教会の闘争および教会の最後の勝利を示して,歴史のなかでの教会の目標を明らかにした。…
… 西方キリスト教会の音楽は,初期の段階ではこれらの東方の伝統に負うものであった。4~5世紀の教父アウグスティヌスは彼の《告白》の中で,〈少し前からミラノの教会では,多数の聖職者が声と心を聖なる熱心でひとつにあわせ,人の心を慰め教化する旋律で礼拝を行うようになった。……この頃,東方教会の慣習にならって,会衆の心が悲しみに沈み,飽き飽きしないようにと,賛歌と詩篇の歌が採り入れられたのである〉と語っている。…
… これにつづく4世紀は,3人の特筆すべきキリスト教作家を出した。年代的にも接近して現れたアンブロシウス,ヒエロニムス,アウグスティヌスがこれである。この3人はみな護教活動のほか,多くの著述や大部な書簡を残しているが,アンブロシウスはまた賛美歌創始者の一人として知られ,その作になる《世界の永遠なる造り主》ほか多くの詩は,広く一般に用いられ,多くの模倣者をさえ出した。…
…(3)古代教会の信条は本質や本性といった抽象的概念を用いての形式的規定にとどまっていたが,中世のカトリック教会は西方教会の赦罪論を受けて,キリストの位格のみならず,その業(わざ)についての考察を進めた。すでにアウグスティヌスは,キリストを預定された人々の頭(かしら)として,そこに救いの業の確かさを見た。アンセルムスは贖罪をキリスト受肉に結びつけ,贖罪は〈神人〉としてのキリストにおける神と人間の意志の一致によって起こるもので,それは単に神による悪魔の征服ではないと論じた。…
…以下,イギリスを例として,今日にいたるクリスマスの変遷を鳥瞰しよう。
[中世]
597年,カンタベリーのアウグスティヌスがイギリス伝道を開始したとき,クリスマスはローマ教会の三大祝日の一つとなっていた。彼は翌年のクリスマスに1万人以上のアングロ・サクソン人に洗礼を施したという。…
…特筆さるべきはイングランドのアングロ・サクソン族への伝道活動である。その動機はローマの奴隷市場でイングランド出身の美しい少年奴隷を見たことにあるといわれるが,596年8月教皇はサン・アンドレイア修道院の修道士約40名をアウグスティヌス(後のカンタベリー大司教)に引率させて派遣し,翌年ケント王エテルベルトを受洗させ,ここが西方カトリック教会の重要な一員となる端緒を開いた。 グレゴリウスはアンブロシウス,ヒッポのアウグスティヌス,ヒエロニムスとともに西方における四大ラテン教会博士の一人に数えられ,著述活動も歴代教皇中抜群のものである。…
…パウロは《ローマ人への手紙》5章で,ひとりの人の罪がすべての人に及ぶことを集合人格corporate personalityの意味で述べ,かつ罪が罪として現れたのは律法によるのであり,モーセの律法が生ずる前は死のみがあったと述べている。アウグスティヌスは原罪を遺伝罪として語ることが多かったが,これは性交を原罪的なものとみなす考えと一致し,さらにまたマリアの無垢を強調するカトリック一般の考えにも連なっている。しかし個々の罪に関しては意志の働きがあることを否定せず,そこで原罪とは〈意志の腐敗〉にほかならないとも言われた。…
…アウグスティヌスの代表作の一つ。397年から400年にかけて書かれた13巻の書。…
…この考えを実質的に推し進めたのが原始キリスト教の無抵抗主義の唱道であり,ローマの軍国主義に対して平和的手段をとることは人間の基本的な義務であるとし,国家の権威の上に良心の権威をおいた。この思想は古代末期にいたってアウグスティヌスの《神の国》で神の浄福に輝く共同社会という形で,さらに,トマス・アクイナスの《君主統治について》の中では,数個の都市国家を包含する王国regnumを中世的帝国の合理的原則の体現とみなす考えとして示された。一方,中世末期イタリア諸都市の動乱に悩んだダンテは《帝政論》の中で世界帝国の理想をかかげ,全人類の手になる連邦国家の構想を述べた。…
…このような聖書に基づくキリスト教の秘義は,古代の密儀宗教が盛んな時代にあって,その中で共存し,それを克服しながら独自の秘義の神学と典礼の実践として形成されていった。 ラテン語のsacramentumとmysteriumとは,最初は同義語として諸教父や典礼の文書に使われていたが,やがてmysteriumのほうは,理性だけでは理解できないが啓示によって初めて信仰の対象となる奥義の意味になり,sacramentumは,アウグスティヌス(430没)のころから,救いの恵みの実在の見えるしるしsacramentum visibileのほうを強調するときに使われるようになった。こうして洗礼や聖餐を中心に,教会の諸活動にことばとしるしによるキリストの救いの恵みの実現を見るサクラメント(秘跡)観がしだいに形成された。…
…多くの教父と第1ニカエア公会議(325)は〈一実体,三位格una substantia,tres personae〉の定式をもって三位一体を固守したが,三位の統一を宇宙の循環運動になぞらえるとか,三位の成立と働きを神の摂理に帰する以上には出ないということがあった。アウグスティヌスは《三位一体論》の中で,聖霊は〈父と子よりex patre filioque〉発出することを確認して西方教会の神学を基礎づけたが,子は父より,聖霊は子より発出するという東方教会の表現も残している(フィリオクエ)。この異なる表現はのちの東西両教会分裂の一因でもあった。…
… 時間論を(空間論とともに)詳細かつ体系的に仕上げたのは,ギリシア思想の影響を受けているにせよ,中世ヨーロッパのスコラ学においてであった。それはアウグスティヌスの時間論を下敷きにしているが,そこでは,日常的な時間の三態から時間を解きほぐしていく間に数多くのアポリア(難問)が生じてくることが示される。例えば,〈今〉はどうしてリアルと言えるのか。…
…この分類はウルピアヌスなどローマの法律家たちに影響した。 他方,キリスト教においても,パウロによりすでに異教徒にとっての自然的な〈心の則(のり)〉としての自然法がいわれており,それはアウグスティヌスによって詳論されるが,彼は上記の4種の法に,超自然的啓示の法としての〈神法〉(モーセの十誡や教会法)を加える。このアウグスティヌスにあっては,いまだ自然と超自然との区別の哲学的原理が不明確であったが,13世紀のトマス・アクイナスは,自然的理性の〈光〉(明証性)と超自然的理性の〈光〉との区別を明確にすることによって,自然の世俗的世界と超自然の啓示の世界,自然と恩寵,哲学(および自然神学)と啓示神学,国家と教会,政治と宗教の差異を明らかにした。…
…信仰に関して人間に自由意志をみとめた最初の人はエメサのネメシオスNemesios(359ころ没)であるとされる。アウグスティヌスは《自由意志論》(395)で罪と自由意志との関係を論じ,それによってマニ教の善悪二元論を克服した。この場合,自由意志はたんなる選択の働きではなく,意志の全体と統一が成ることであり,回心なしにはこのことは起こらないとされる。…
…イタリアではローマとミラノ,南フランスではトゥーロンの南東のイエール島やその東方のレランス島,ロアール川中流のトゥール付近,それにはるか遠くのアイルランド,これらが最も早く修道集落のできた所である。アウグスティヌスはローマとミラノで見聞した修道生活をアフリカのヒッポに持ち帰り,ここに建てた修道院のために〈アウグスティヌス会則〉を作成したといわれる。レランス島はローヌ川流域の修道院の源となり,トゥールに修道院を開いたマルティヌスはフランク王国の守護聖人とされ,イタリアやガリアに新設された多数の修道院も彼の名を冠した。…
…この考えはプラトンのイデア説とプロティノスのヌース(知性)説に生かされ,霊魂の純化と上昇の道を教えるとともに,霊魂が想起によって自己のうちに真理を見いだすことも説かれた。アウグスティヌスはこれにならい,知的真理の発見と精神の自己認識とを神的光の〈照明illuminatio〉に帰した。その光は存在そのものの光であるとされ,照明説は認識の働きに存在論的根拠をおくものでもあった。…
…それゆえ神学は啓示認識,信仰認識といわれる。アウグスティヌス=アンセルムス的な定式〈理解を求める信仰fides quaerens intellectum〉はそれを表現している。また神と人間との関係として生起する啓示は,人間となった神,仲保者イエス・キリストによって現実化し,信仰はなによりもこのイエス・キリストに対する信仰であるから,神学の現実的出発点はイエス・キリストにある。…
… テルトゥリアヌスやオリゲネスら初期の教父は全面的に戦争を否定したが,キリスト教が国家社会全体に受容され世俗権力の責任を強調する過程で,個人的暴力と適法の戦争を区別する方向に向かう。アウグスティヌスは,君主によって宣布され秩序と平和の維持を目的とする場合に限って戦争を承認した。聖職者の封建化とともに戦争参加の現象が生じ,9世紀末フランク王国分裂抗争のなかで戦死した司教は10名を超えている。…
…これらはその後の西欧科学の基本的枠組をつくったものといえる。こうした思考革命はすでにエイレナイオス,テルトゥリアヌス,カッパドキアのバシレイオスなどの教父によって部分的に行われていたとはいえ,それを最も明確に自覚的に遂行したのはアウグスティヌスである。5世紀になると,それまで細々と伝わっていたギリシア・ローマの科学の伝統を集大成して,いわゆる〈四科quadrivium〉(幾何学,天文学,算術,音楽)の摘要書をつくろうという動きが生じてきた(自由七科)。…
…神学においては,罪の赦しは無償か有償か,全面的か部分的か,代理的か自力的かが論じられた。ペラギウスの自力的道徳主義はアウグスティヌスによって退けられたが,教会は正統と異端の争いをかかえ,全体としてみて現世的・道徳主義的な罪の理解にとどまらざるをえなかったといえる。これはニーチェがキリスト教の矮小化とみて批判の俎上(そじよう)にのせたことでもある。…
…最初の2語をとって呼ばれる。4世紀のミラノの司教アンブロシウスの作とする説,あるいはアウグスティヌスがアンブロシウスの手で洗礼を受けたとき,霊感に打たれた二人が,その場で交互に1句ずつ作ったとする言い伝えがあるが,正確な起源は不明。ただし5世紀ないし4世紀までさかのぼることは確実で,近来の研究はガリア聖歌およびモサラベ典礼との関係を指摘している。…
…347年,コンスタンス帝はドナトゥス以下のおもな指導者をガリアに追放して,いったん拡大を抑えたが,361年にユリアヌス帝が帰還を許したため,以前よりも勢力をまし,ついに7世紀に至るまで北アフリカに存続した。アウグスティヌスは400年以後これと論争し,《洗礼論》その他によってサクラメントの教会法的有効性を主張するとともに,テュコニウスTyc(h)oniusの〈千年王国説〉や,教会を単に選ばれた者の集いとする閉鎖的な考えを退けて,未来的終末論を基礎とするカトリック教会の普遍性と公同性を強調した。【泉 治典】。…
…この新プラトン主義的流出説は,ヨーロッパおよびアラビア世界に後代さまざまな思索を結晶させた。 アウグスティヌスは,知的光たる神が真理の必然性と永遠性を人間精神に開示するとの照明説を唱え,偽ディオニュシウスは,感覚的な光は神的な光の内在と超越を象徴するものとみなし,万物が〈光の父〉なる神から発出・放射し,還帰することを説き,キリスト教的象徴主義の一大源泉となった。一方アラビアでは,アリストテレスにつぐ第二の師と尊称されたファーラービーにより,宇宙の階層的構造形成に関して英知体とその発出の理論が展開され,イブン・シーナーに継承された。…
…ローマに行き司祭に叙任されず平信徒として聖書を講義していたが,洗礼以外の恩恵をみとめず,自由意志による救済をとなえたことで異端とされた(399および418)。410年西ゴート族によるローマ陥落後北アフリカのカルタゴに行き,アウグスティヌスとはげしく論じ合った。その論争はペラギウスがパレスティナに去ったのちも弟子のカエレスティウスCaelestius,アエクラヌムのユリアヌスJulianusとアウグスティヌスの間でつづけられ,アウグスティヌス側の莫大な論争書が残っている(《霊と文字》《自然と恩恵》《ユリアヌス反駁》など)。…
…〈12世紀ルネサンス〉を経て,ギリシア・ローマ,イスラムの学問をわがものにしたうえで,それらをキリスト教と融合させ,スコラ学という合理的な知識体系をつくりあげたあとでさえ,ルネサンス期までは,ヨーロッパ世界は魔術に対し一貫して否定的な態度を取り続けた。 教父時代の末期,アウグスティヌスはプラトン思想(ないし新プラトン主義思想)への強い関心と敬意を抱きながらも,それが魔術と近親性をもつという理由で,最終的には拒斥した。以来,キリスト教の正統派は,魔術を非合理なものとして,厳しく弾劾したのである。…
…ストア学派は世界霊魂の統一性にもとづいて時間の連続性を主張し,預定の概念を哲学的に明示したが,この意味での未来のたしかさをいう〈あらかじめ〉は聖書ではいわれていない(〈預言者〉の場合は神から言葉を“あずかる”という意味も含む)。アウグスティヌスは〈最後の審判〉にたえる者のみが預定をうけていると考えた。これは自由意志による救いをとなえるペラギウスに対し,神の絶対の主権性を強調したものである。…
…313年のキリスト教公認を境に,4世紀から5世紀にかけて,《マタイによる福音書》を叙事詩にしたユウェンクスJuvencus,雄弁家ラクタンティウス,賛美歌作者で人文主義に反対した神秘主義者アンブロシウス,古代最大のキリスト教ラテン詩人プルデンティウスとその後継者ノラのパウリヌスなどが活躍したが,古代最大の2人のキリスト教作家も続いて現れた。一人は,全古典作家に精通した人文主義者である一方,聖書をラテン語に翻訳して,異教の伝統とキリスト教とを照応させたヒエロニムス,もう一人はヨーロッパ最初の自叙伝《告白》と,《神の国》などの著作で名高いアウグスティヌスである。こうみてくると,一部にアンブロシウスのような反人文主義の主張があったとはいえ,全体としてはキリスト教作家たちは古典を尊重し,これを習得研究してキリスト教思想と融合させようとしている。…
…彼は詩脚の分析から,最小の時間単位(クロノス・プロトス)を設定して,その複合から種々の脚を説明し,さらに長短をテシス(下拍)とアルシス(上拍)という概念でとらえた。彼の述べた〈加算的リズム〉の考え方は古典古代のリズム論を代表するもので,その後,アリスティデス・クインティリアヌスやアウグスティヌスらのリズム論にも受け継がれた。アウグスティヌスはまた,〈数(ヌメルス)〉という概念のもとに独自のリズムの形而上学をうち立てた。…
…アンミアヌス・マルケリヌスのように道徳的堕落という伝統的原因論をとる者もいたが,異教勢力はまた帝国のキリスト教化に衰退の主因をみた。これに対してキリスト教側はキリスト教的ローマ理念をもって対抗するが,410年西ゴートによるローマ市略奪ののち,異教徒に対して最も有効な論駁(ろんばく)をなしえたのは,〈神の国〉と〈地の国〉を区別するアウグスティヌスの《神の国》であった。しかし,古代末期の知識人層は一般に地上のローマ帝国の永続を信じるローマ理念から脱却しきれず,ルティリウス・ナマティアヌスら異教徒にせよ,オロシウスらキリスト教徒にせよ,現今の老齢化が死に至るものであるとは予知せず,なお帝国の若返りを信じていた。…
…これを粉砕したのが,410年の西ゴートによるローマ市略奪という事件であった。永遠であるはずのローマ市陥落が全ローマ世界に与えた衝撃のなかで,アウグスティヌスは地上のローマ帝国は名誉欲と支配欲の産物であり,なんら特別な永遠の存在などではないと断罪する。むろん410年以後も伝統的ローマ理念は,ルティリウス・ナマティアヌスや帝政末期のシドニウス・アポリナリス,また,ほかならぬアウグスティヌスの弟子オロシウスの著作になお鮮明に認められる。…
…初期の伝道はスコットランドのニニアン,アイルランドのパトリック,アイオナ修道院の創始者コルンバらによって推進されたが,アングル族,サクソン族の侵攻によって布教活動はしばしば中断した。教皇グレゴリウス1世によって派遣されたアウグスティヌスは,597年初代のカンタベリー大司教となり,イギリスの教会を西方教会の一員として再編する方向を定めた。以後宗教改革期まで,国民国家の台頭による王権と教皇権の対立にもかかわらず,イギリスの教会はカトリック教会の枝として存続した。…
…ローマ時代は〈川の町〉を意味するケルト系の名称ドゥロウェルヌムDurovernumとよばれたが,サクソン人はこれを〈ケント人の町〉カントワラブルフCantwaraburhと名付け,七王国時代の560年ころケント王国の首都とした。キリスト教布教のために教皇グレゴリウス1世が597年に派遣した修道士アウグスティヌスら一行は,王の許可を得てこの地にベネディクト派修道院を建立し,さらに司教に叙任されてのちクライストチャーチChristchurchとよばれる最初の司教座聖堂(大聖堂)を設立した。その後北方のデーン人にしばしば破壊されたが,ノルマン征服後大司教ランフランクやアンセルムによって再建された。…
※「アウグスティヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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