旧ユーゴスラビアの解体に伴い1992年に独立を決定。内戦に陥り、95年に終結。イスラム系とクロアチア系の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「セルビア人共和国」の二つの「国家内国家」で構成。ボスニア和平履行会議は、内戦を終結させたデートン合意に基づき和平プロセスの民生部門を担当する国際社会の代表機関。人口323万3千人(2022年推定)。首都サラエボ。(サラエボ共同)
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ヨーロッパ南東部、バルカン半島北西部に位置する共和国。東をセルビアと、南東をモンテネグロと、北西から南にかけてをクロアチアと接する。南部はアドリア海に近い。国内のおもに北東部の地方がボスニア、南西部の地方がヘルツェゴビナである。かつては、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)を構成していた6共和国の一つであり、連邦の中西部を占めていた。旧ユーゴスラビアが解体へと向かうなか、1991年以降、独立の賛否をめぐり、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の3勢力が対立。1992年にムスリム人とクロアチア人により独立が宣言されると、これに反対するセルビア人とのあいだで内戦(ボスニア内戦、ボスニア紛争)が勃発(ぼっぱつ)した。この紛争は、1995年に和平協定が結ばれて終結し「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」とで構成されるボスニア・ヘルツェゴビナとなった。面積5万1197平方キロメートル、人口384万3000(2006年推計)。首都は サライエボ(サラエボ)。
1991年に行われた旧ユーゴスラビア時代の国勢調査による民族構成比は、ムスリム人(オスマン帝国統治下でイスラム教に改宗したクロアチア人やセルビア人。ムスリムとはイスラム教徒の意だが、しだいに民族概念となっていったため、1971年から民族として認められた。民族構成比40%)、セルビア人(32%)、クロアチア人(18%)、ほかにモンテネグロ人、アルバニア人、トルコ人、ユダヤ人、ロマ(かつてはジプシーとよばれていた)など多様な民族が住む。しかし、内戦による影響で約270万人の被災者、難民が出るなど、人口や民族構成は著しく変化している。宗教としては、イスラム教、セルビア正教、ローマ・カトリックがあり、セルビア人はセルビア正教、クロアチア人はカトリックである。言語は、独立前からセルビア・クロアチア語を用いていたが、独立後はボスニア語とセルビア語とクロアチア語の3言語とされるようになった。
ボスニアという名称は、サバ川の支流で国内中部を北流するボスナ川に由来する。ヘルツェゴビナは15世紀の統治者ステファン・ブクチッチStefan Vukčić(在位1435~1466)がドイツ語で「公爵」を意味するヘルツォークHerzogを称したことに由来し、「公爵領」の意味である。おもな都市はモスタル、バニャ・ルカ、トゥズラTuzla、独立後にセルビア人の中心都市となったパレPaleなどがある。
北部のサバ川流域はパンノニア平原の一部で、大陸性気候であるが、標高150メートル以下の低地は共和国のわずか8%にすぎない。2000メートルを超える山地が多く、ディナル・アルプス、コザラ山脈、グルメチュ山脈が位置する。南部は乾燥したカルスト台地で、ネレトバ川河口部は地中海性気候である。国土の大部分が山岳森林地帯で、マツ、ブナ、カシを産する。鉄鉱石(埋蔵量は旧ユーゴスラビア全土の85%)、褐炭、ボーキサイト、マンガン、亜鉛などの地下資源も豊富。金属加工、繊維、靴製造などの工業が盛んであったが、内戦で工業設備の80%が破壊された。
[漆原和子]
7世紀前半、この地方の北部と西部にクロアチア人、南部と東部にはセルビア人が定住した。さまざまな支配者(バン)が群雄割拠していたが、12世紀後半にクリンKulin(在位1180~1204)がボスニア中部を統一し、中世のボスニア国を建国。東西の分岐点に位置するこの地方は、ローマ・カトリックと東方正教会双方の影響を受けたが、ボスニアは山岳地が多く、両教会の影響が容易に及ばなかった。その間隙(かんげき)を突き、中世の異端ボゴミル派が浸透したが、ボゴミル派がボスニアで多数を占めるには至らなかった。14世紀前半、コトロマニチStepan Ⅱ Kotromanić(在位1322~1353)がヘルツェゴビナをも支配し、ボスニア・ヘルツェゴビナ統一の基礎を築いた。彼の後継者トゥブルトコTvrtko(在位1353~1391)は、衰退しつつあったセルビアにかわり、さらに領土を拡大し、「セルビア、ボスニア、ダルマチア沿岸地方の王」として戴冠(たいかん)した。トゥブルトコの死後内紛が続き、1463年にオスマン帝国(トルコ)の領土に組み込まれ、以後約400年にわたりその支配下に置かれた。長いオスマン帝国統治下で、カトリック教徒(クロアチア人)や正教徒(セルビア人)農民のムスリム(イスラム教徒)への改宗が進んだ。1875年、オスマン帝国支配に対する農民反乱がおこり、この反乱が引き金となりロシア・トルコ戦争を誘発。1878年のベルリン条約により、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルグ帝国)の行政管理下に置かれた。1908年のオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合は、第一次世界大戦の導火線となった。同大戦後、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」に統一された。
[柴 宜弘]
ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国の統治下で一定の近代化が進められたが、土地改革などは実施されず、以前から続いていたイスラム教徒地主とキリスト教徒農民の対立は克服されなかった。また、隣国セルビアとの合併の気運も強まっていた。このためオーストリア・ハンガリー帝国では、1900年代に入るとすぐに、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合の動きがみられた。併合を決定的にしたのは、1908年のオスマン帝国近代化を目ざす青年トルコ革命であった。同年10月、オーストリア・ハンガリー帝国はロシアとの交渉を行ったうえで、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言した。
セルビア人が多数居住するこの地方の領有をもくろんでいたセルビアでは、対オーストリア戦争の気運が高まった。ナロードナ・オドブラナなどの秘密組織も結成された。これに対し、ヨーロッパ列強は戦争の回避に努めた。列強の圧力があり、セルビアはオーストリア・ハンガリー帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ併合を承認せざるをえなかった。以後、セルビアの対オーストリア感情は極度に悪化し、第一次世界大戦の直接的な原因となるサライエボ事件(サラエボ事件)が発生した。
[柴 宜弘]
第一次世界大戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年12月にボスニア・ヘルツェゴビナは南スラブ人の統一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(1929年にユーゴスラビア王国と改称)に統一された。1939年8月、ザグレブを州都として「クロアチア自治州」が創設されると、クロアチア人が多数居住するヘルツェゴビナの部分がこれに組み込まれた。さらに、1941年4月、ナチス・ドイツの占領下で、その傀儡(かいらい)国家「クロアチア独立国」が建国されると、ボスニア・ヘルツェゴビナの全域がこれに加えられた。「クロアチア独立国」では、クロアチア人のファシスト集団ウスタシャが傀儡政権を担い、ムスリムを「セルビア人狩り」に当たらせた。一方で、第二次世界大戦期、森林に覆われた山岳地帯の多いこの地域はドイツに対するパルチザン戦争の舞台となった。戦後の社会主義ユーゴスラビアの出発点となる1943年11月の第2回ユーゴ人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)は、ボスニア中部の町ヤイツェJajceで開かれた。1945年11月には憲法制定議会が開かれ、ユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言され(後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国となる)、多民族混住地域のボスニア・ヘルツェゴビナは地域としての一体性を認められ、他の構成共和国とは異なり、民族名ではなく地域名を付した特殊な共和国となった。1950年から歩みを始める自主管理社会主義体制のもと、この共和国で最大多数を占めるムスリムはセルビア人でもクロアチア人でもないことを主張した結果、1971年の国勢調査から新たな民族概念である「ムスリム人」が認められた。しかし、ムスリム人、クロアチア人、セルビア人という三者にとって、ボスニア・ヘルツェゴビナの地域としての一体性は基本的な共通認識であった。
[柴 宜弘]
1990年代に入ると、旧ユーゴスラビアの解体過程が進んだ。1990年末の自由選挙では、民族政党のイゼトベゴビッチAlija Izetbegović(1925―2003)率いる民主行動党、カラジッチRadovan Karadzić(1945― )率いるセルビア民主党、ボバンMate Boban(1940―1997)率いるクロアチア民主同盟が勝利を収めた。1991年6月、旧ユーゴのなかでは最先進共和国であったスロベニアとクロアチアで独立宣言が出されると、クロアチアでは内戦が生じた。クロアチア内戦の過程で、ボスニア・ヘルツェゴビナでも独立の方向が打ち出された。独立の是非をめぐり、地域としての一体性を前提としてきたムスリム人、セルビア人、クロアチア人3勢力の共通認識が崩れていく。ムスリム人とクロアチア人は独立に賛成し、セルビア人はこれに反対の立場をとった。1991年10月に主権国家宣言を行い、1992年3月の国民投票によって独立が支持されたが、この国民投票をセルビア人はボイコットした。そして翌4月、ボスニア内戦が始まり、支配領域の拡大をねらう3勢力相互の血で血を洗う凄惨(せいさん)な戦闘が、3年半以上にわたり展開された。
この間、他民族を強制追放するか抹殺(まっさつ)する「民族浄化」が相互に行われ、強制収容所での殺害や虐待、集団レイプといった忌まわしい事件が相次いだ。国連をはじめとする国際社会は冷戦後の最大の民族紛争に対して、その解決に積極的に取り組んだ。しかし、EU(ヨーロッパ連合)諸国とアメリカとの足並みがそろわず、話し合いによる解決か、軍事的解決かで方針が揺れた。1995年8月には、アメリカ軍を中心とするNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)軍がついにセルビア人勢力に対する本格的な空爆を行った。一方で、アメリカはボスニア、クロアチア、新ユーゴスラビア(セルビアとモンテネグロから構成)の紛争3当事国の外相会議を主催した。飴(あめ)と鞭(むち)の政策を使い分けるアメリカの主導により、同年11月にオハイオ州デイトン空軍基地で、紛争3当事国首脳の話し合いが行われた。三者がそれぞれに妥協するなかで、デイトン和平合意(デイトン合意ともいう。正式名ボスニア・ヘルツェゴビナ和平協定)が調印された。この結果、20万人近い死者と270万人を超える難民、避難民を出したボスニア内戦はいちおう終息したが、事実上、3勢力の領域は分割されており、和平合意にもられた「単一国家」をいかにつくり上げ、経済再建を遂げるのか、難民の帰還問題をどのように解決するのかなど、課題が山積していた。
デイトン和平合意に基づき、民政面では国連により上級代表部(OHR、上級代表は2002年からEUの特別代表を兼任)が設置され、軍事面ではNATOを中心とする多国籍軍が配備された。1996年9月に統一選挙が実施されて二つの政体、つまり「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(ムスリムとクロアチア人勢力から形成)と「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」とにまたがる中央機構(共通議会と閣僚評議会)がつくられた。しかし、その後も中央機構が機能せず、「単一国家」に向かっての困難な道が続いており、和平プロセスも行き詰まっている。1998年9月に実施された統一選挙では民族主義政党が根強い支持を集め、2000年11月の選挙では社会民主党など多民族共存を訴える政党の躍進もみられた。しかし、2002年10月に行われた選挙では、社会民主党など穏健派の進めた改革路線に対する反発から民族主義政党が勝利をおさめた。2006年10月の選挙でも民族主義政党が躍進し、多民族共存をかかげた社会民主党の議席は少数にとどまった。
2010年の統一選挙でも、概して民族政党が勝利を収めた。例外として、ボスニア・ヘルツェゴビナ共通議会でボスニア社会民主党が議席を拡大させた。ボスニア・ヘルツェゴビナの選挙は複雑であり、3人の共同大統領(ムスリム系、セルビア系、クロアチア系から各一人、任期4年、8か月の輪番制で議長となる)、ボスニア・ヘルツェゴビナ共通議会議員(定数42名)、これに加えて、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦では連邦議会議員(定数98名)、10カントン(州)それぞれの議会議員、スルプスカ共和国では、共和国議会議員(定数83)、スルプスカ共和国大統領、スルプスカ共和国副大統領2名の七つのレベルで行われる。元首は3人の大統領評議会の輪番制の議長、首相にあたるのはボスニア・ヘルツェゴビナ共通議会から選任された閣僚評議会議長で、同評議会が政府の役割を果たす。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、EUおよびNATOへの加盟を最大の優先事項としており、統合ヨーロッパの一員となることは、国内の民族的対立を超えた共通の目標となっている。2001年にはヨーロッパ評議会に加盟。2006年12月NATOの「平和のためのパートナーシップ」に調印。2008年には、EUとの安定化連合協定を締結した。しかし、民族分断をまだ克服できていないとする上級代表部による国際監視が続いているため、加盟申請が出せない状態が続いている。
[柴 宜弘]
通貨はコンベルティビルナ・マルカkonvertibilna marka。主要産業は、木材業、鉱業、繊維業、電力産業など。2007年の国内総生産(GDP)は148億ドル、1人当りGDPは3754ドル、貿易額は、輸出が41億6600万ドル、輸入が97億7200万ドル、主要貿易相手国はドイツ、イタリア、スロベニア、クロアチアなど。
[柴 宜弘]
内戦による破壊などがあったが、2005年には「モスタル旧市街の古橋地区」、2007年には「ビシェグラードのメフメド・パシャ・ソコロビッチ橋」がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産(世界文化遺産)に登録されている。また2016年には「中世墓碑ステチュツィの墓所群」が、セルビア、クロアチア、モンテネグロとともに4か国で登録された。1984年2月に当時の社会主義国では初めての冬季オリンピックがサライエボで開催された。
[柴 宜弘]
対日貿易額は、輸出が4億4300万円、輸入が5億8300万円。おもな輸出品目は木材、繊維製品など、おもな輸入品目は電気機器、精密機器など。日本は1996年1月にボスニア・ヘルツェゴビナを国家承認し、同年2月に外交関係を樹立して相互に大使館を開設した。
[柴 宜弘]
『R・J・ドーニャ、J・V・A・ファイン著、佐原徹哉・柳田美映子・山崎信一訳『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』(1995・恒文社)』▽『クリソルド編、田中一生・柴宜弘・高田敏明訳『ユーゴスラヴィア史』(1995・恒文社)』▽『伊藤芳明著『ボスニアで起きたこと――「民族浄化」の現場から』(1996・岩波書店)』▽『N・ステファノフ、M・ヴェルツ編、佐久間穆訳『ボスニア戦争とヨーロッパ』(1997・朝日新聞社)』▽『千田善著『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか――悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(1999・勁草書房)』▽『高木徹著『ドキュメント 戦争広告代理店――情報操作とボスニア紛争』(2002・講談社)』▽『柴宜弘著『図説バルカンの歴史』(2006・河出書房新社)』▽『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』
基本情報
正式名称=ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国Republika Bosna i Hercegovina/Republic of Bosnia and Herzegovina
面積=5万1209km2
人口(2010)=384万人
首都=サラエボSarajevo(日本との時差=-8時間)
主要言語=セルビア語,クロアチア語
通貨=マルカMarka
旧ユーゴスラビア連邦を構成した一共和国。1991年10月に独立を宣言した。北部のボスナBosna(ボスニア)地方と南部のヘルツェゴビナHercegovina地方からなる。旧ユーゴスラビアの総面積の20%を占めていた。首都はボスニア地方のサラエボで,ヘルツェゴビナ地方の中心はモスタル。独立以後,民族間の対立をめぐって厳しい内戦にさらされてきた。
ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は森林地帯で,標高150m以下の地域は約8%以下,平均標高は693mである。気候は南部が地中海式気候,北部が大陸性気候と大別できる。民族構成は,一つの民族としてみなされているイスラム教徒の〈ムスリム〉が約40%,セルビア人が37%,クロアティア人が約21%である。
産業を概観すると,山がちの地勢および平地の大部分がカルスト層であるため,農耕,とくに機械による大型の農耕に適していない。農耕地は共和国総面積の約10%を占めるにすぎない。ヘルツェゴビナの低地では灌漑設備を整え,野菜やブドウの栽培が行われている。モスタル産のブドウ酒は有名。しかし,全農地の半分以上は牧草地であり,畑作農業より家畜の飼育に適しているといえよう。また,この地方は保護林面積230万ha(ユーゴスラビア全体の44%)ということからもわかるように,豊かな森林資源を利用しての林業が盛んである。工業の面では,豊富な鉱物資源(鉄鉱石,石炭,ボーキサイト,アスベスト,鉛,亜鉛など)を使っての金属加工業が最も活況を呈している。機械や電気工業,繊維工業,木材加工業も重要な位置を占める。1984年2月に開催されたサラエボ冬季オリンピックを契機とし,サラエボをウィンター・スポーツの中心地とするなど,観光地化が進められている。
なおボスニアのトラブニクに生まれたノーベル賞作家アンドリッチの三部作《ドリナの橋》《ボスニア物語》《サラエボの女》(いずれも邦訳あり)は,ボスニア・ヘルツェゴビナの生活を生き生きと描いている。
7世紀前半,ボスニアの北部と西部にクロアティア人,南部と東部にセルビア人が定住した。その後,クロアティア人,セルビア人,ハンガリー人,ビザンティン帝国がこの地方の一部を交互に支配したが,12世紀後半にクリンKulin(在位1180-1204)が中世のボスニア王国を統一した。東と西の分岐点に位置するボスニアは,ローマ・カトリックと東方正教会双方の影響を受けた。しかし,マケドニアのボゴミルが開祖とされる中世の異端ボゴミル派がボスニアに浸透し,この異端はクリンの時代に国教とされ,ボスニア史に多大な影響を及ぼすことになった。一時ハンガリー王国の支配下に置かれたボスニアは,14世紀入るとコトロマニッチKotromanić(在位1322-53)が統治者に選出され,南部のフムHum(のちにヘルツェゴビナと呼ばれる)をも支配下に置き,ボスニアとヘルツェゴビナ統一の基礎をつくった。彼の後継者トブルトコTvrtko(在位1353-91)はさらに自らの領土を拡大し,衰退しつつあった隣接のセルビア王国に代わり,バルカン最強の国となった。しかしトブルトコの死後内紛が生じ,フム地方は有力者ブクチッチVukčićにより統治された。ブクチッチはしだいにボスニアの支配下を離れ,フム地方を独立の国家として,〈聖サバ公(ヘルツォークHerzog)〉を名のった(1448)。ここから,フムはヘルツェゴビナと呼ばれるようになる。
14世紀後半からバルカン半島に進出していたオスマン帝国は,南スラブ諸民族の国をもその領土に加え,ついに1463年にはボスニアを,82年にはヘルツェゴビナを支配下に置いた。以後400年以上にわたり,オスマン帝国の支配をうけることになる。オスマン帝国に吸収されたあと,この地方の支配層はボゴミル派を捨てて,イスラムに大量改宗した。この結果,彼らは支配的な地位を保持し,トルコ人以上に同民族であるキリスト教徒の農民たちを厳しく統治した。現在でもボスニア・ヘルツェゴビナ共和国には,民俗的にはセルビア人かクロアティア人である多数のイスラム教徒が存在し,自らをひとつの〈民族〉であると主張している。
16世紀後半の最盛期を過ぎると,オスマン帝国は内外の諸要因から衰退の道をたどった。こうしたなかで,19世紀のナショナリズムの時代にいたると,オスマン帝国支配下の諸民族の間にも民俗的な運動が発生した。1875年,ヘルツェゴビナのネベシニェ村の農民がオスマン帝国支配に対する反乱を起こした。この反乱は数週間のうちにボスニア地方にも拡大し,隣接の南スラブ地域にも,また国際的にも大きな影響をもたらした。すなわち,隣接のセルビア公国やモンテネグロ公国は農民反乱を援助するため,オスマン帝国に宣戦布告し,これが引金となって露土戦争を誘発した。結局オスマン帝国は敗北し,ボスニア・ヘルツェゴビナは78年のベルリン条約(ベルリン会議)により,オーストリア・ハンガリー二重帝国の行政管理下に置かれることになった。
バルカン進出への足場を築いたオーストリアの統治下で,一定の近代化は進められたが,土地改革などは実施されず,82年にはハプスブルク帝国軍への徴兵に反対する農民反乱が起こった。イスラム教徒地主とキリスト教徒農民との対立は相変わらず克服されなかったし,隣国セルビアとの合併の気運も強まっていた。このためオーストリア・ハンガリーでは,20世紀に入るとすぐに,ボスニア・ヘルツェゴビナ併合の声が上がった。しかし併合を決定的にしたのは,オスマン帝国の近代化を目ざす1908年の青年トルコ革命であった。同年10月,オーストリア・ハンガリーはロシアとの交渉を行ったうえで,ボスニア・ヘルツェゴビナの併合宣言した。セルビア人が多数居住するこの地方の領有をもくろんでいたセルビアでは,対オーストリア戦争の気運が高まった。〈ナロードナ・オドブラナ(民族防衛団)〉などの秘密組織も結成された。これに対し諸列強は戦争の回避に努めた。その結果,セルビアは09年3月,オーストリア・ハンガリーのボスニア・ヘルツェゴビナ併合を承認せざるをえなかった。以後,セルビアの対オーストリア感情は極度に悪化し,第1次世界大戦の直接的な原因がつくられた。併合後,ボスニア・ヘルツェゴビナでも,中等学校や専門学校の学生たちによる反オーストリアと南スラブ族の統一を掲げた〈青年ボスニア〉の運動が活発になる。14年6月28日,オーストリア・ハンガリー軍観閲のためサラエボにやってきたフランツ・フェルディナント皇太子夫婦は,〈青年ボスニア〉に属する19歳の青年プリンツィプGavrilo Princip(1894-1918)により射殺された。このサラエボ事件を直接の契機として第1次世界大戦が勃発した。
第1次大戦の結果,オーストリア・ハンガリーが崩壊し,18年12月にボスニア・ヘルツェゴビナは〈セルビア人クロアティア人スロベニア人王国〉(1929年にユーゴスラビア王国と改称)に統一された。第2次大戦において,森林の多いこの地方は,ドイツ・イタリア枢軸軍やその傀儡(かいらい)政権に対するパルチザン戦争の激烈な舞台となった。43年11月,ユーゴスラビア全土でパルチザン解放戦争を闘っていた人々の代表がボスニアのヤイツェに集まり,ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議の第2回大会を開いた。この大会において,王制の廃止とともに国内の全民族の平等と連邦制による国家体制の基礎がつくられた。こうして,45年11月には憲法制定議会が開かれ,ユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言された。92年3月に独立を宣言したが,民族抗争,宗教対立がかえって激化し,内戦に陥った。
執筆者:柴 宜弘
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