デジタル大辞泉 「万里の長城」の意味・読み・例文・類語
ばんり‐の‐ちょうじょう〔‐チヤウジヤウ〕【万里の長城】
[補説]中国政府は2009年、重複して建てられたり分岐したりした部分、また天然の地形を利用した部分を含めると、明代の長城の総延長は8851.8キロメートルであると発表。2012年には秦・漢時代のものも含め2万1196.18キロメートルと発表した。
中国で外敵防御のために築かれた長大な城壁。現存の長城は明代,とくにその後半期に築造されたもので,東は渤海湾岸の山海関から,中国本土の北辺を西に向かい,北京と大同の北方を経て,南流する黄河を越え,陝西省の北端を南西に抜けて再び黄河を渡り,いわゆるシルクロードの北側を北西に走って嘉峪関(かよくかん)に至る。地図上の総延長約2700km,あるいはそれ以上といわれ,人類史上最大の建造物とされている。この間,北京の北西,八達嶺付近から居庸関を経て,大同の南,雁門関に至る部分は二重に築かれているほか,2700kmのすべてが同じ構造をもつわけではない。もっとも堅固なのは山海関から黄河に至る区間で,長城の外面は焼いて造ったうすねずみ色の煉瓦でおおわれている。いわゆる塼(せん)であるが,内部は粘土をつき固めた造り方である。八達嶺付近の長城は高さ約9m,幅は上部で約4.5m,底部で9mにおよび,上には鋸歯状の女牆(ひめがき)を設けて銃眼とし,約100mごとに墩台(とんだい)が置かれている。これに対し,黄河以西の部分はかなり粗雑で,塼の代りに粘土を型に入れて乾燥させただけの日乾煉瓦が使われたところが多い。清代に入ってから補修がほとんど行われなかったため,日乾煉瓦造りの部分は破損がひどく,すでに原形を想像できぬほど崩れた個所もある。
長城の起源は春秋時代に遡るが,この語が文献にあらわれるのは戦国時代である。当時の長城は北防に限定されず,いわゆる中原の地に建国した国々も,長城を築いて外敵の侵入に備えた。斉,中山,楚,燕,趙,魏,秦などの諸国である。このうち,燕・趙・秦の3国の北辺の城壁については文献に記載があるだけであったが,近年内モンゴル自治区の赤峰付近で遺址らしきものが見つかったと報告されている。
前221年,中国を統一した秦の始皇帝は燕や趙のつくった北辺の長城を連結し,さらに西方へと延長して,北方遊牧民族に対する防衛線とした。西方は甘粛の岷県付近を起点とし,黄河の北をまわって趙の長城に合し,その東端を燕の長城につなぎ,赤峰から遼陽付近に至るのが始皇帝の長城であった。前漢時代の長城は,その東部についてはほぼ秦代のままであったが,西方では甘粛の回廊地帯を匈奴の侵攻から守るため,武帝の時代に武威・酒泉の2郡を置き,その北に長城を築いた。のちさらに張掖・敦煌の2郡を設け,これにともなって長城も酒泉から西へ,玉門関にまで延長された。後漢時代になると匈奴の勢力は衰え,中国と争う力を失ったので,長城の補修は行われなかった。
三国から晋代にかけては,いわゆる五胡の動きが活発となり,大挙して中国に侵入するにいたった。彼らは自由に長城を越えて出入し,内地に定住する者もあらわれた。漢族の晋は長江(揚子江)流域に南遷し,南北朝時代が始まった。華北に入った鮮卑は北魏を建てたが急速に中国化し,外モンゴリアにおこった柔然の侵攻に対抗するため,長城の修築を大がかりに実施した。これは始皇帝時代のものを補強したと考えられている。北魏の領土を受け継いだ北斉と北周も巨費を投じて大規模な築造を行った。この長城は山西省離石県付近から渤海湾岸まで,ほぼ1500kmにわたる規模で,現在の長城線の位置に新たに築かれたものである。かくして,このころから北方の古代の長城,つまり春秋戦国時代にはじまり,漢や北魏の時代に補修されてきた旧長城は放棄され,遺址もわからなくなっていくのである。
隋は中国統一後,長城の補修につとめるとともに,オルドス南縁に新しい長城を設けている。唐代になると,北方遊牧民族に対する姿勢が積極的かつ攻撃的となったため,長城の補修・新設などのことはなかった。五代以後は長城一帯の地が,遼,金,西夏など異民族の領土となったから,長城はほとんど手を加えられることなく放置された。金代には,以上とは別の長城が築かれている。金はモンゴル高原の東端に住むタタール部の侵入を防ぐため,新たに興安嶺の西側に大規模な長城を築造した。現在のチチハル(斉斉哈爾)の北西,興安嶺を越えたあたりから,南あるいは南西にのび,陰山山脈北側の草原を西に走り,包頭(パオトー)の北方に達していたらしく,その遺址は今も断続的に残っている。元はモンゴリアと中国を統一的に支配したため,長城を必要としなかった。元代の記録に長城のことはまったく見当たらない。何度も長城線を越えたマルコ・ポーロも《東方見聞録》に長城のことは一行も記していない。おそらく建設以来数百年を経,すでに破壊されて,長城の姿をとどめていなかったからであろう。
現在の長城はほとんどが明代に築かれたものである。明は永楽帝の時代まで,北方民族に対し攻撃的であったが,以後しだいに防御的となり,彼らの侵入を防ぐため,歴代しばしば修築を行った。主として北斉時代の遺址を基礎としたが,地域によってはかなりの部分を新設したところもある。長城の築造はすでに永楽帝時代(1403-24)に始まっている。まず,山海関から大同にかけての区間が強化され,ついで正統年間(1436-49)には北京の正面部分が二重となった。さらにオルドス南縁の長城が改修されたが,この部分は隋の長城をもとにしている。しかしモンゴル族の侵寇は防ぎきれず,嘉靖時代(1522-66)以後,あらためて大がかりな修築を行った。工事は東部から着手され,今日見られるような塼造の堅固な長城ができあがった。西方部分は漢代に築かれて以来,ほとんど放棄されたままであったが,オルドス南縁の長城に続けて甘粛に至る部分が築かれ,ついで蘭州から嘉峪関に延長された。こうして今日に残る長城がほぼ完成したのが,16世紀末のことであった。
明は長城を北防の第一線として膨大な駐屯軍を配備し,区域を分けて防衛を担当させたが,これを九辺鎮と称する。明代には長城を辺牆とよんだが,北辺の辺牆のほかに,遼東辺牆とよばれるものがあり,山海関から東へ進み,遼寧省瀋陽・開原付近に及び,南下して鴨緑江岸に達していた。これは満州民族の侵掠に備えて設けられたものである。清代になると,満州(東北地方),モンゴリアから新疆に至る地域が中国と統一して支配されたから,長城は軍事的意味を失い,中国本土と満州,モンゴリアを分ける政治的境界にすぎなくなった。このため修理されることもなく,荒れるにまかされて20世紀の前半にいたったが,中華人民共和国成立以後,整備の手が加えられ,山海関や八達嶺は観光地として内外に有名である。
古い時代の長城はもっぱら版築とよばれる工法で,土でもって築造された。両側に板を塀のように立て,上から土を入れ,杵などでつき固めていく工法である。長城地域の大部分は黄土地帯であり,黄土は乾燥すると非常に固くなる粘土であったから,簡単な工法ではあるが,雨量が少ないこともあって,相当の耐久性をもっていた。黄土を型にはめて乾燥させると日乾煉瓦ができ,これを焼くとじょうぶな煉瓦となる。これが塼である。塼で長城の外部を築くようになったのは明代,とくに嘉靖・万暦以後,つまり16世紀後半以後のことであり,地域的には山西以東の区間に限られている。山西以西では塼のほか,日乾煉瓦の部分と版築らしい部分も存在する。一説によると,八達嶺の長城に用いられている塼の重さは1個あたり20~30kgであるという。
長城には一定の間隔をおいて墩台が設けられ,道路と交叉するところには門が開かれて守備兵が駐屯していた。このような場所を関(かん),あるいは口(こう)とよぶが,山海関,古北口,居庸関,独石口,嘉峪関などはとくに有名である。歴史的にみると,万里の長城にはいろいろな意味があった。一般的には,農耕地帯と遊牧地帯をわける境界線であるとか,遊牧民族の侵入を防ぐための設備であるとかいわれているが,最も重要なのは,やはり防衛線としての軍事的意味であった。しかし実際的には,期待されたほどの効果を発揮することなく,北方民族の勢力が強くなると,彼らはどの王朝の時代でも簡単に長城を越えて中国の農耕地帯に侵入し,華北の農村は大きな被害を受けるのが常態であった。大同・殺虎口間,張家口付近,独石口,古北口などが,彼らの主要な突破地点であったが,ただ明代の山海関だけは清軍の攻撃に耐え,ついに突破されなかった。つまり長城はほとんど役に立たず,漢人には堅固な防備があるという安心感を与える程度のもの,北方民族に対しては,その巨大な建築構造によって心理的な威圧感を与える程度のものであった。さらに平和な時代には,長城はまったく無用の長物であった。漢人は長城線を越え,商業的利益を求め,あるいは農地を探して北に向かった。遊牧民族も生活必需品の入手を目的に関口をくぐった。長城をはさんでモンゴリアや満州方面との貿易は古くから行われていた。小規模なものは長城付近の村落で行われる物々交換であるが,大規模なものは長城内の都市を基地とし,隊商を組んで奥地に入った。明末以降の帰化城のように,長城外にありながら商業都市として繁栄したところもある。清代には政府の意に反して,中国商人とくに山西商人は帰化城からモンゴル高原の奥深くまで足をのばした。長城越えの貿易路としては,熱河(承徳)・満州方面に通ずるものがある。このルートが長城を抜ける地点は,唐以前は古北口であったが,遼代に山海関が開かれてからは2点となった。モンゴリア方面へは大同から北上し,得勝口あたりの関口を通るのが主要ルートであるが,明末からその中継基地となったのが帰化城である。
執筆者:寺田 隆信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国本部の北側に築かれた防御用の城壁。この城壁は1987年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。その延長は地図の上からは約2700キロメートルであるが、重複している部分を加えるとその倍以上になる(2009年の発表では、現存する明代の長城の総延長は8851.8キロメートル)。
春秋時代の斉(せい)が領土防衛のため国境に築いたのが長城の起源で、戦国時代の諸国もこれに倣った。秦(しん)の始皇帝は中国統一(前221)後、匈奴(きょうど)の侵入を防ぐため、甘粛(かんしゅく/カンスー)省南部から北へ、黄河(こうが/ホワンホー)大屈曲部の北を巡って東に延び、東北地区の遼河(りょうが/リヤオホー)下流に至る長城を築いたが、なかば以上、戦国時代の燕(えん)、趙(ちょう)などの長城を利用したものであった。この長城の東部の遺址(いし)が東北地区で発見されている。
前漢の武帝(在位前141~前87)のころ、河西(かせい/ホーシー)回廊を匈奴から守るため、長城を蘭州(らんしゅう/ランチョウ)北方から西に、敦煌(とんこう/トゥンホワン)の西の玉門関まで延長した。南北朝時代には北方民族の活動で長城の位置は南下し、6世紀中ごろ、北斉(ほくせい)は大同の北西から居庸関(きょようかん)を経て山海関に至る長城を築き、隋(ずい)は突厥(とっけつ)、契丹(きったん)に備えてオルドス南辺に長城を築いた。長城が現在の規模になったのは明(みん)代で、モンゴルの侵入を防ぐためであった。ほぼ北斉以来の線に沿ったもので、15世紀の前半には河北(かほく/ホワペイ)、山西(さんせい/シャンシー)の北部の長城が強化され、内長城もつくられてこの付近の長城は二重となり、後半にはオルドス南部から蘭州を経て嘉峪関(かよくかん)までの長城が修築され、16世紀中ごろには大同北西から山海関までが堅固に改修された。
長城の構造は、古くは版築で、楊柳(ようりゅう)(ヤナギ)やアシなどを束ねて土と交互に重ね、突き固めてある。日干しれんがも一部に用いられていたが、山西方面より東方は明代以後、焼いたれんがで被覆されるようになった。首都北京(ペキン)防衛のためもあるが、モンゴルの侵攻がこの方面で激しかったことを示している。現在観光の対象となっている八達嶺(はったつれい/パーターリン)付近の長城は、高さ8.5メートル、厚さは底部6.5メートル、頂部5.7メートル。頂部上には高さ1.7メートルの連続した凸字状の垣である女牆(じょしょう)を築き、銃眼が開く。また120メートル間隔で墩台(とんだい)(一種の見張り所)が設けられ、軍の駐留と監視に役だてた。
長城が交通路と交差する要地には堅固な城壁で囲んだ関城が設けられていた。山海関、古北口、張家口、雁門関(がんもんかん)、殺虎口(さっここう)、嘉峪関などがそれである。清(しん)代に入ると長城は軍事的意味を失い、中国本部とモンゴルとの間の政治的境界にすぎなくなった。なお歴史的事実のうえからみると、外敵防御という長城構築の目的はほとんど達成されておらず、単に威圧感を与えた程度といってよかった。
[青木富太郎]
『青木富太郎著『万里の長城』(1975・近藤出版社)』
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秦の始皇帝が統一後に匈奴(きょうど)防御のためつくった。戦国時代の趙(ちょう),燕で部分的に築かれたものを修理し連結したといわれ,西は臨洮(りんとう)から東は遼陽に及んだ。漢の武帝のとき西方は玉門関まで延長。現存の長城はそれより南にあり,明代の15~16世紀に修復,完成したもので,西は嘉峪関(かよくかん)から東は山海関に達する。全長約2400km。長城地帯は南北両民族の交錯線であった。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…幹道の建設はまた郵,亭,置などの駅站制度の整備をもたらし,唐代以降いっそう発達した(駅伝制)。 同じく秦の始皇帝による大規模な土木工事として,万里の長城の建設がある。前214年,北方匈奴(きようど)の南侵から防衛するために,秦,趙,燕3国の北辺の長城を修築,統一したもので,西は臨洮(りんとう)(甘粛省岷県)から東は遼東にまで及んだ。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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