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第90代に数えられる天皇。在位1259-74年。後嵯峨天皇の第3皇子,名は恒仁。母は西園寺実氏の娘大宮院姞子。父天皇のはからいで兄後深草天皇の譲りをうけて即位し,ついで皇子(後宇多天皇)に位を譲って大覚寺統の皇統をひらき,持明院統との対立のもとをつくった。後宇多天皇の在位中は上皇として院政をしいた。この間1274年(文永11),81年(弘安4)にモンゴルの襲来があり,上皇は身をもって国難に殉ぜんとの祈願を伊勢神宮にささげた。87年鎌倉幕府は上皇が幕府に異心をいだいているということから,皇位を持明院統の伏見天皇にうつし,さらに89年(正応2)同天皇の皇子(後伏見天皇)を皇太子にしたことから,失意のあまり出家した。法名は金剛源(こんごうげん)といい,離宮を禅寺として南禅寺を創建し禅林寺殿とも呼ばれた。陵所は京都市右京区嵯峨天竜寺にある(亀山陵)。
→両統迭立(りょうとうてつりつ)
執筆者:飯倉 晴武
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鎌倉中期の天皇(在位1259~74)。名は恒仁(つねひと)。後嵯峨(ごさが)天皇の第3皇子。建長(けんちょう)元年5月27日生まれ。母は西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の娘大宮院姞子(おおみやいんきっし)で、後深草(ごふかくさ)天皇の生母。後嵯峨上皇は兄後深草天皇よりも弟亀山天皇を愛し、後深草天皇の子を差し置いて亀山天皇の子(後宇多(ごうだ)天皇)を立太子させた。大覚寺(だいかくじ)・持明院(じみょういん)両統迭立の端緒である。亀山天皇は在位15年で皇位を後宇多天皇に譲り、院政(1274~87)を開始して朝政の実権を握った。文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役のあった緊迫した時期である。鎌倉幕府の弘安の改革に呼応して「徳政」を進め、評定(ひょうじょう)制を大改革するなどその院政は意欲的であった。出家後離宮を禅寺としたが、これが南禅寺(なんぜんじ)の起源である。嘉元(かげん)3年9月15日没。陵墓は京都・亀山陵。
[黒田弘子]
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1249.5.27~1305.9.15
在位1259.11.26~74.1.26
後嵯峨天皇の皇子。名は恒仁(つねひと)。母は西園寺実氏の女大宮院姞子(きっし)。兄後深草天皇の皇太子となり,1259年(正元元)即位。72年(文永9)後嵯峨上皇が没し皇位継承問題がおこったが,鎌倉幕府の諮問に対し大宮院は亀山天皇を支持,幕府もこれに従った。74年皇子後宇多天皇に譲位して院政を始め,訴訟制度の改革などにとりくんだ。伝領した所領に八条院領などを加えて大覚寺統の所領の基礎をつくった。87年(弘安10)皇位が持明院統の伏見天皇に移ると,89年出家,法名金剛源。
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…鎌倉時代後半,天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争った時期に,妥協策として両統から交互に皇位につくとされた原則。後嵯峨法皇は第3子後深草上皇よりも第7子亀山天皇を愛し,後深草の皇子熙仁親王を退けて亀山の皇子世仁親王を皇太子に立てたが,承久の乱(1221)後鎌倉幕府が皇位継承問題に干渉することが多く,それを顧慮した後嵯峨法皇は死に際して後深草,亀山のいずれを〈治天の君〉(天皇家の惣領)とすべきかの決定を幕府の指示にゆだねた。…
※「亀山天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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