江戸後期の国学者。通称は大壑(だいがく)。秋田藩士大和田祚胤(おおわださちたね)(?―1819)の子。20歳で脱藩して江戸に出、備中(びっちゅう)松山藩士平田篤穏(あつやす)の養嗣子(しし)となり、独学によって国学者として自立し、初め真菅乃屋(ますげのや)、のちに気吹乃屋(いぶきのや)と称した。また本居宣長(もとおりのりなが)の生前に入門したと自称、宣長の学問を古道学と規定し、その後継者をもって自任した。しかし、その文献学的方法は継承せず、日本にのみ正しく伝わった古道を明らかにするという目的のみを共通としたが、宣長が古道を古代の事実とみたのに対して、篤胤は現実的規範と見立てるなど、思想、学問の性格には差異が大きい。その違いは初期の『古道大意』『俗神道(しんとう)大意』(1860)などにすでに現れているが、彼の学問が独特の姿を現すのは、天(あめ)・地(つち)・泉(よみ)からなる世界の始まりを説明して、人は死後、宣長のいうように夜見(よみ)に行くのではなく、大国主(おおくにぬし)神の支配する幽冥(ゆうめい)に行くとして死後の安心を説いた、1812年(文化9)の『霊(たま)の真柱(みはしら)』においてである。このことは、一方では本居門のひんしゅくを買ったが、独自の立場を確立して自信を深めた彼は、インド、中国さらには西洋の神話・伝説をも用いて世界の成り立ちを解明しようとして、『印度蔵志』『赤県(から)太古伝』などを著し、また幽界に往来したと称する少年や別人に生まれ変わったという者の言をも信じ、そこから直接幽界の事情を研究して『仙境異聞』(1822成立)『勝五郎再生記聞』などを書いた。こうして篤胤は宣長の影響を完全に脱し『霊の真柱』の主張を推し進めて、「此世(このよ)は吾人(われひと)の善悪(よきあし)きを試み定め賜はむ為に、しばらく生(あれ)しめ給(たま)へる寓世(かりのよ)にて、幽世(かくりよ)ぞ吾人の本世(もとつよ)」であるとの考えを核心とする『古史伝』を著述するに至る。『古史伝』は未完に終わるが、そこには天主教書の影響があるといわれる。篤胤の思想はむしろ在来の神道思想の系譜を引くものであり、垂加(すいか)神道に対抗するものでもあったが、その実践的な学問は多くの人の支持を受け、1841年(天保12)幕命で秋田藩が国元に帰らせてからも門人は増え続け、553人に達した。
篤胤の学問は養嗣子の銕胤(かねたね)(1799―1880)をはじめ大国隆正(おおくにたかまさ)、矢野玄道(やのはるみち)らに受け継がれ、明治初期には新設の神祇(じんぎ)官の主流となる。そして、死後の安心を中心とする純粋に宗教的な部分は消え、天皇中心の国粋主義的部分が著しく政治化されて国家神道を支える柱となっていった。
[田原嗣郎 2016年6月20日]
『田原嗣郎他校注『日本思想大系50 平田篤胤・伴信友・大国隆正』(1973・岩波書店)』▽『田原嗣郎著『平田篤胤』(1963/新装版・1986・吉川弘文館)』▽『子安宣邦著『宣長と篤胤の世界』(1977・中央公論社)』
江戸後期の国学者。幼名正吉。号は大角,気吹之舎(いぶきのや)など。秋田藩の大番組頭,大和田祚胤(おおわださちたね)の四男として久保田城下に生まれる。1795年(寛政7)20歳のとき脱藩して江戸へ出,仕事を転々として生計を立てながら苦学,1800年備中松山藩士平田篤穏(ひらたあつやす)の養嗣子となった。03年ごろ本居宣長の著書に接して感激し,夢の中で宣長から死後の門弟たる認可を得たと称して,05年(文化2)本居春庭に入門する。この間,《呵妄書(かもうしよ)》(1803)を著して太宰春台に反論し,《鬼神新論》(1805)を書いて有鬼論(《鬼神論》)を唱えるなど,後年の独特な学問体系の基礎をかためた。11年師と仰ぐ宣長の学問にふと疑念を抱くという一種の回心を経験したことから,《古史成文》を撰し,《古史徴》の草稿を作り,《古史伝》に着手するなど,師説とはまったく異質な篤胤学の形成に努力を傾注した。国学をいちじるしく宗教化し,宇宙開闢論,幽冥信仰,因果応報思想などを取り入れて,平田神道ともいわれる神秘的な神学体系を作り上げたことに特色がある。そのために宣長学の文献実証主義からは大きく逸脱した。その精力的な活動に猜疑の眼を向けた徳川幕府は,41年(天保12)江戸退去と著述禁止を申し渡し,郷里の秋田に帰った篤胤は,失意のうちに68歳で世を去った。門人約550といわれる平田学派が,幕末の思想運動に与えた影響は無視できない。上記のほか,おもな著作に《本教外篇》《仙境異聞》《霊能真柱(たまのみはしら)》など。
執筆者:野口 武彦
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(飯倉洋一)
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1776.8.24~1843.閏9.11
江戸後期の国学者。通称は大角・大壑(だいがく),号は気吹之舎(いぶきのや)。出羽国秋田郡久保田生れ。秋田藩士・備中国松山藩士をへてのち致仕。江戸に出て独学で国学を学び,本居宣長没後の門人となる。1813年(文化10)著の「霊能真柱(たまのみはしら)」以後,死後の霊は大国主命の主宰する幽冥にいくとする死後安心論を展開して宗教化を強め,儒教・道教や洋学の知識を用いて古伝説の再編を行い,独自の立場をうちだした。神官・豪農を中心に553人に及ぶ門人がいたが,晩年は幕府から譴責をうけるなど不遇だった。幕末期の尊王攘夷運動に大きな影響を与え,近代では国家神道を支えるものとして宣揚された。著書「古道大意」「古史成文」「古史伝」「古史徴」。「新修平田篤胤全集」全22巻。
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…宣長学がその核心部分に一つの思想原理を所有していたゆえんである。まさにその〈道〉への志向性を強烈に,また極端におしすすめたのが,文化年間,宣長の死後の門弟と自称し,宣長学の正統を継承したと揚言して一家言をとなえた平田篤胤(ひらたあつたね)であった。この篤胤学は多くの点で宣長学とは異質である。…
…平田篤胤(あつたね)の国学書。1819年(文政2)刊。…
…平田篤胤(あつたね)の国学書。1812年(文化9)ごろ初稿が成ったが,生前未完,死後門人の手で完成された。…
…平田篤胤の古道すなわち日本古来の道についての講説を,門人が筆録した書。2巻。…
…その後まもなく心霊主義と袂を分かった心霊研究psychical researchは,やはり霊媒を対象に研究を続けたが,死後生存の証明は結局できないまま,その後確立された超心理学的方法にしだいに道を譲り,現在に至っている。 日本でも古くから心霊現象の存在が報告されてきたが,江戸末期の国学者平田篤胤らの客観的な記述による調査研究(例えば《仙境異聞》《勝五郎再生記聞》)はあったものの,科学的な研究が開始されたのは明治期以降である。1884年,東京帝国大学の井上円了は,文明開化の風潮の中で,妖怪学の研究に着手,86年には同大学に〈不思議研究会〉を開設した。…
…平田篤胤(ひらたあつたね)の神道書。別名《寅吉(とらきち)物語》。…
…それが契沖らによって唱導された国学の勃興である。国学は伏見稲荷大社の祠官荷田春満(かだのあずままろ),春満の門人賀茂真淵,真淵門人本居宣長,宣長門人平田篤胤によって学派的に継承され,この4人を世に国学の四大人と称する。この4人の学風にはそれぞれ相違があるが,いずれも古語・古文辞の実証的研究者つまり日本のフィロロジストphilologistであった。…
…平田篤胤の神道書。別名《本教自鞭策(じべんさく)》。…
※「平田篤胤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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