江戸幕府第14代将軍。紀州11代藩主徳川斉順(なりゆき)(将軍家斉の子)の長子。弘化(こうか)3年閏(うるう)5月24日、赤坂の江戸藩邸に生まれる。幼名菊千代、のち慶福(よしとみ)と称す。12代藩主斉彊(なりかつ)(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)4歳で家督を継いだ。将軍継嗣(けいし)問題で一橋(ひとつばし)派の推す一橋慶喜(よしのぶ)に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。結局、1858年(安政5)慶福を推す南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したのち、継嗣と定まり、同年徳川家定(いえさだ)の死去により将軍職を継ぎ、家茂と改めた。
桜田門外の変による井伊大老横死ののち、老中久世広周(くぜひろちか)、安藤信正(あんどうのぶまさ)らの画策により、1862年(文久2)孝明(こうめい)天皇の妹和宮(かずのみや)を夫人に迎え、公武合体による幕府権力の回復を計ったが、同年の島津久光(しまづひさみつ)の率兵(そっぺい)上京、久光と勅使大原重徳(おおはらしげとみ)の東下によって幕政改革を迫られ、慶喜を将軍後見職に、松平慶永(まつだいらよしなが)を政事総裁職に迎えた。翌1863年、慣例を破り、自ら上洛(じょうらく)、幕権回復を計ったが、朝廷は尊王攘夷(じょうい)派の勢力下にあり、攘夷祈願の賀茂社(かもしゃ)行幸に供奉(ぐぶ)させられた。しかし4月の石清水社(いわしみずしゃ)行幸には随行を固辞して東帰した。その後、八月十八日の政変によって公武合体派が勢力を回復し、1864年(元治1)再度上洛した。ついで、長州藩が、第一次長州征伐ののちにふたたび抗戦の構えをみせたため、第二次の長州征伐となり、1865年(慶応1)三たびの上洛ののち、大坂城の征長軍本営に入った。翌年6月に開戦された長州藩との戦争に、幕軍敗戦の報が相次ぐうちに、7月20日、21歳で城中に病死した。法号昭徳院。
[井上勝生]
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江戸幕府14代将軍。紀州藩主徳川斉順の長子。1849年(嘉永2)紀州藩主,58年(安政5)13代将軍家定の継嗣となり,同年の家定死去により将軍位を継いだ。藩主時代の名は慶福(よしとみ),将軍になって家茂と改める。最初の後見職は田安慶頼。大老井伊直弼は家茂と慶頼を上に戴いて安政の大獄を強行した。井伊暗殺翌々年の62年(文久2),公武合体の一方策として皇女和宮と結婚,その年田安慶頼を罷免したが,勅使の干渉により将軍継嗣問題でのライバルだった一橋慶喜を2人目の後見職に任命せざるをえなかった。翌63年に上京して攘夷実行を約束させられただけでなく,京都で人質状態に陥り,老中格小笠原長行の率兵上京でやっと救出された。翌64年(元治1)2度目の上京,65年(慶応1)長州親征を呼号して3度目の上京を遂げ,そのまま大坂城に滞在したが,条約勅許,兵庫開港問題で辞表を書くという騒ぎもあった。66年大坂城の家茂は幕府軍を長州へ攻めこませようとしたが敗退し,収拾がつかない状況下に病没する。
執筆者:松浦 玲
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(井上勲)
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1846.閏5.24~66.7.20
江戸幕府14代将軍(在職1858.12.1~66.8.20)。父は和歌山藩主の斉順(なりゆき)。母は側室実成院。幼名菊千代。法号昭徳院。斉順の遺領を相続した斉彊(なりかつ)の養子となり,1849年(嘉永2)4歳で藩主。元服して慶福(よしとみ)。時の13代将軍家定は病弱で,世子誕生の期待が薄かったため将軍継嗣問題が発生し,慶福を推す門閥譜代の南紀派(なんきは)と,一橋慶喜(よしのぶ)を擁する一橋派の対立が激化。58年(安政5)4月,南紀派の井伊直弼(なおすけ)が大老に就任,6月慶福が継嗣と決定。7月家定が没し,同年末将軍職を継ぐ。公武合体のため孝明天皇の異母妹和宮(かずのみや)と婚姻。63年(文久3)・64年(元治元)の2度上洛し,公武の融和に尽力。66年(慶応2)第2次長州戦争では進発し,大坂城に入ったが幕府軍の敗報の中で病死。8月20日発喪。
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…江戸幕府15代将軍。烈公斉昭(なりあき)を父として水戸徳川家に生まれたが,12代将軍家慶(いえよし)に見込まれて1847年(弘化4)一橋家を相続した。家慶には実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を講ずる余裕がないままペリー来航の恐慌状態下に家慶が死ぬと,13代将軍となった家定の後嗣をめぐって大きな政争が起こり,慶喜は改革派の大名や幕臣から能力ある将軍候補として推され,保守血統主義派にかつがれた紀州の慶福(よしとみ)(家茂)と対立関係に入った(将軍継嗣問題)。…
※「徳川家茂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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