中国、日本の禅宗の一派。
[田中良昭]
中国の禅宗は、5世紀の後半にインドから渡来した菩提達磨(ぼだいだるま)を初祖とし、それから6代目の祖師である慧能(えのう)(638―713)によってその基礎が確立された。この慧能を祖とする系統を南宗禅といい、南宗禅はさらに、慧能門下の南岳懐譲(なんがくえじょう)の弟子馬祖道一(ばそどういつ)による洪州宗(こうしゅうしゅう)と、同門下の青原行思(せいげんぎょうし)の弟子石頭希遷(せきとうきせん)による石頭宗へと発展した。のちに洪州宗からは潙仰(いぎょう)、臨済(りんざい)の2宗、石頭宗からは曹洞、雲門(うんもん)、法眼(ほうげん)の3宗のつごう5宗が分派し、また臨済宗が楊岐(ようぎ)、黄龍(おうりょう)の2派に分かれたため、一般に五家七宗の名でよばれている。
中国の曹洞宗は、石頭宗の石頭希遷から薬山惟儼(やくさんいげん)、雲厳曇晟(うんがんどんじょう)を経て出現した洞山良价(とうざんりょうかい)(807―869)とその弟子曹山本寂(そうざんほんじゃく)(840―901)の2人によって大成された一派をさし、その名称もこの2人の祖師の活躍した洞山と曹山の二つの山号からつけられたものである。この派の特色は、学人の指導に際して五位(ごい)とよばれる偈頌(げじゅ)を用い、その宗風は綿密をもって知られた。宋(そう)代には臨済義玄(ぎげん)を祖とする臨済宗から出た大慧宗杲(だいえそうこう)が看話禅(かんなぜん)を、曹洞宗から出た宏智正覚(わんししょうかく)が黙照禅(もくしょうぜん)を宣揚し、それ以後はこの2宗によって中国禅宗が代表された。
[田中良昭]
日本の曹洞宗は、鎌倉時代に出現した道元によって中国から伝来されたものである。道元は13歳で出家し、比叡山(ひえいざん)や建仁寺で仏教を学んだのち、24歳で入宋(にっそう)し、26歳のとき、中国曹洞宗の祖洞山良价から数えて13代目の祖師にあたる天童如浄(てんどうにょじょう)のもとで開悟し、1227年(安貞1)如浄の法統を継いで帰国した。帰国後、建仁寺にて『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』1巻を著し、坐禅を根本とする正伝(しょうでん)の仏法を宣揚したが、これが日本曹洞宗の立教開宗である。ただ道元は自らの立場を曹洞宗の名でよぶことを退け、あくまで釈尊より達磨―慧能―良价―如浄を経て自らに伝承された正伝全一の仏法であるとの確信にたっていた。したがって日本の曹洞宗の宗名の由来としては、天童如浄が、洞山良价から曹山本寂の系統ではなく、洞山良价の弟子雲居道膺(うんごどうよう)の系統を引いていることからも、中国曹洞宗のそれとは異なって、六祖慧能が説法した曹渓(そうけい)と、洞山良价の活躍した洞山の二つの山名によるものとみることができる。その後、道元は34歳で山城国(やましろのくに)(京都府)宇治の極楽寺の旧址(きゅうし)に観音導利院興聖(かんのんどうりいんこうしょう)宝林寺を建立し、日本に最初の僧堂を開き、禅院の規矩(きく)を整えて本格的な修行者の育成にあたった。しかし道元の名声の高まりとともに、旧仏教側からの圧迫も加わり、1244年(寛元2)波多野義重(はたのよししげ)の招請を受けて越前国(えちぜんのくに)(福井県)志比庄(しびのしょう)に永平寺を開創し、それから入滅までの10年間、正伝の仏法の宣揚と『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をはじめとする著作に専念した。この道元の下には優れた人材が集まったが、孤雲懐弉(こうんえじょう)、徹通義介(てっつうぎかい)と継承したのち、第4代目に出現したのが瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)(1268/1264―1325)である。瑩山は加賀(石川県)の大乗寺に住し、釈尊以来の正伝の仏法の由来を明らかにした『伝光録』を開示し、その後能登(のと)(石川県)に永光寺(ようこうじ)、さらに総持寺(そうじじ)を開創して教団の基礎を固めるとともに、優れた人材を輩出して曹洞宗が全国的に教線を拡大する基盤を確立した。
道元によって宣揚された只管打坐(しかんたざ)による正伝の仏法は、純粋な宗教性と高度の哲学性をもった独特のものであったが、瑩山以後になると民衆の要請にこたえるために呪術(じゅじゅつ)的要素が加味され、教団的には大いに隆盛をみた。江戸時代の宗統復古運動や明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などを経たが、現在では釈尊を中心とし、道元を高祖(こうそ)、瑩山を太祖(たいそ)と仰ぐ一仏両祖を信仰の中心とし、永平寺と、1898年(明治31)能登から神奈川県鶴見に移転した総持寺を両大本山として、全国に1万4687か寺、171万7000の檀家(だんか)を擁する一大宗団に発展している。その宗団では、両大本山のほかに宗門行政をつかさどる機関として東京都港区に宗務庁が置かれ、両大本山の貫首(かんす)が2年交代で就任する管長の下に、宗務総長と7人の部長からなる内局によって宗務が運営されている。とくに宗立の教育機関として駒沢大学、愛知学院大学、東北福祉大学の3大学を経営し、出版活動としては寺院向けの『曹洞宗報』、檀信徒向けの『禅の友』、一般向けの『禅の風』を発行し、婦人会を中心とした梅花(ばいか)流の詠唱活動も盛んである。また、内外からの禅に対する関心の高まりに対し、大本山をはじめ各地に参禅道場が開設される一方、南・北アメリカ、ヨーロッパなど海外への曹洞禅の普及にも積極的な努力が払われている。
[田中良昭]
『河村孝道・石川力山編『日本仏教宗史論集 第8巻 道元禅師と曹洞宗』(1985・吉川弘文館)』▽『広瀬良弘著『禅宗地方展開史の研究』(1988・吉川弘文館)』▽『竹内道雄著『道元』(1992・吉川弘文館)』▽『鏡島元隆著『禅入門2 道元 正法眼蔵・永平広録』(1994・講談社)』
中国禅宗五家七宗の一派。日本では禅宗三派(曹洞,臨済,黄檗(おうばく))の一つ。中国禅宗は菩提達磨より6代目の曹渓山宝林寺慧能(えのう)によって南宗禅として大成された。この慧能の弟子の一人青原行思より,石頭希遷(きせん)-薬山惟儼(いげん)-雲巌曇晟(どんじよう)-洞山良价(りようかい)と伝わる洞山(807-869)を派祖とする。同じく慧能の弟子南岳懐譲(えじよう)の系統の臨済義玄を派祖とする臨済宗とともに,禅宗の二大主流となった。曹洞の名の由来は,洞山とその弟子曹山本寂(840-901)の洞と曹をとったもので,洞曹宗という表記もある。しかし曹山の系統は長く続かず,その禅風は,洞山下雲居道膺(どうよう)の系統によって後世に伝えられた。日本曹洞宗の伝統では,曹洞は曹渓山慧能の曹と洞山の洞をとったものともされる。その禅風は《人天眼目三》に〈曹洞宗は家風細密にして言行相応し,機に随って物を利し,語に就いて人を接す〉とあり,奔放な禅機を用いず,綿密に弟子たちを指導することにあり,教説は五位説を基礎として,差別即平等,円融無礙(むげ)の理を自覚することを内容とする。
日本曹洞宗には3伝あり,まず道元は,宋に留学して天童山景徳寺の如浄に師事し,雲居道膺-同安道丕(どうひ)-同安観志(かんし)-梁山縁観(えんかん)-大陽警玄(きようげん)-投子義青(ぎせい)-芙蓉道楷(どうかい)-丹霞子淳(しじゆん)-真歇清了(せいりよう)-大休宗珏(そうかく)-足庵智鑑(ちかん)-如浄(によじよう)と伝わる法灯を継いで,1227年(安貞1)帰国した。道元はまず建仁寺にとどまり《普勧坐禅儀》を著して正しい座禅の行法を示し,只管打坐(しかんたざ)の禅風を宣揚せんとし,33年(天福1),山城宇治に観音導利院興聖宝林寺を開き,日本で初めて清規(しんぎ)にのっとった叢林(禅の修行道場)の生活指導を行った。43年(寛元1)越前に移り,翌44年には大仏寺(後の永平寺)を開いてここを根本道場とし,《正法眼蔵》などを示して弟子たちを養成した。道元下3世の瑩山紹瑾(けいざんじようきん)は能登に永光(ようこう)寺,総持寺(後年横浜に移転)を開き,民衆教化をめざし,その弟子峨山韶碩(がさんじようせき)の門下からは五哲あるいは二十五哲と呼ばれる多くの俊秀が出て,教団は全国的発展を遂げ,寺院数1万4700余を有する,単独教団としては日本最大の宗派となった。現在福井永平寺,横浜総持寺を二大本山としている。次に,真歇清了と兄弟弟子の宏智正覚(わんししようがく)の法系の東明恵日(えにち)(1272-1340)や東陵永璵(えいよ)によって伝えられた,宏智派と通称される曹洞宗の一派があり,円覚寺や建仁寺を中心に五山文学界に重きをなし,また越前朝倉氏の外護を得て隆盛を誇ったが,朝倉氏の滅亡によりその法灯も絶えた。最後に,丹霞子淳と同門の鹿門自覚の系統で,1677年(延宝5)に日本に来朝した心越興儔(しんえつこうちゆう)(1639-96)によって伝えられた曹洞宗の一派があり,徳川光圀の帰依を得て水戸祇園寺を中心に教線を展開し,曹洞宗寿昌派と称されたが,その法灯も数代にして絶え,祇園寺も道元派下の曹洞宗に編入された。
執筆者:石川 力山
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中国禅宗五家七宗の一派で,日本では禅宗3派の一つ。中国の曹洞宗は,雲巌曇晟(うんがんどんじょう)の弟子洞山良价(とうざんりょうかい)と良价の弟子曹山本寂(そうざんほんじゃく)を派祖とする。宗名は,洞山と曹山から1字ずつをとって倒置したとする説と,曹渓慧能(えのう)の曹と洞山の洞をとったとする説がある。洞山は高安県(現,江西省)に住んで禅を広め,曹山は江西省の荷玉山で禅を盛んにした。日本の曹洞宗は入宋して天童山の如浄(にょじょう)の法をついだ道元によって開かれた。道元は1243年(寛元元)に大仏寺(のち永平寺)を開いたが,3世徹通義介(てっつうぎかい)の弟子瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)によって曹洞禅は大いに広まった。
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…日蓮は祈禱を重んじて末法行者のため《祈禱抄》を著しただけあって,後世宗派では種々の護符を出し,呪法を行った。曹洞宗では南北朝ころより宗風の民衆化をはかって加持祈禱の傾向を強め,医療や土木事業等にこれを修した。また平安朝以来陰陽道でも現世利益的なさまざまの祭法の中で盛んに祈禱を行い,これが修験者にとりいれられ,行脚(あんぎや)修行の際,在家を訪れて医療その他の災厄除祓に活躍した。…
…近世に各宗派教団が確立すると,この傾向は著しくなり,多様な寺格が制定された。曹洞宗では別格寺院を常恒会,片法幢会,随意会に,法地(普通寺院)を一~四に分け,その下に平僧地があった。真宗では院家,内陣,余間,飛檐,平僧に区分したのに始まり,きわめて複雑な寺格が定められ,礼金によって昇進することができた。…
…黄檗山は日本の中の中国であった。黄檗僧が伝える近世中国の学問や医学,文人趣味の書画や煎茶など,かつての臨済宗の禅文化と,まったくちがった傾向をもって,近世日本文化に与えた影響は大きいし,日本臨済禅のみならず,曹洞宗もまた自派の伝統を再編することとなる。 日本の曹洞宗は,永平寺を開創する道元希玄が入宋し,天童如浄に参じて,その正法眼蔵を伝えるのに始まる。…
…鎌倉中期の禅僧で,日本曹洞宗の開祖。内大臣源通親を父,摂政太政大臣松殿藤原基房の娘を母として,宇治木幡(京都)の松殿山荘で生まれたが,はやく両親に死別した。…
※「曹洞宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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