毛利元就(読み)モウリモトナリ

デジタル大辞泉 「毛利元就」の意味・読み・例文・類語

もうり‐もとなり【毛利元就】

[1497~1571]戦国時代の武将。陶晴賢すえはるかた大内義長尼子義久らを滅ぼし、山陰・山陽10か国を領有する戦国大名となった。隆元・元春隆景の三子に与えた一族団結を説く教訓は、三本の矢の教えとして有名。

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精選版 日本国語大辞典 「毛利元就」の意味・読み・例文・類語

もうり‐もとなり【毛利元就】

  1. 戦国大名。毛利氏はもと安芸国吉田荘地頭。天文九年(一五四〇)、大内・尼子両氏の対立に、大内義隆に属して尼子晴久を破った。また二男元春を吉川氏に、三男隆景を小早川氏の嗣として勢力を広め、義隆に背いた陶晴賢を討ち、弘治三年(一五五七)大内義長を破って周防・長門を平定した。その後、出雲、因幡、伯耆などを平らげて山陰・山陽に勢威を振るった。隆元・元春・隆景の三子にあてた自筆の教訓状は三本の矢の教えとして有名である。明応六~元亀二年(一四九七‐一五七一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「毛利元就」の意味・わかりやすい解説

毛利元就
もうりもとなり
(1497―1571)

戦国時代の武将。安芸(あき)国高田(たかた)郡吉田郡山(よしだこおりやま)城(広島県安芸高田市吉田町)主、毛利弘元(ひろもと)の二男。のちに父が兄興元(おきもと)に郡山城を譲って多治比猿掛(たじひさるがけ)城(安芸高田市吉田町)に隠退した際、それに従った。興元とその子幸松丸(こうまつまる)が相次いで早世したため、1523年(大永3)重臣に推されて家督を継ぎ、郡山城に入った。大内・尼子(あまご)両勢力の対立する状況のもとで、安芸における大内方の中心として活動し、40年(天文9)には尼子晴久(はるひさ)の率いる大軍に城を囲まれたが、よくこれを撃退した。以後、内にあっては、50年の重臣井上氏一族誅伐(ちゅうばつ)を契機に家中支配権を確立し、外に向かっては、51年に陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆(よしたか)を弑(しい)したのに乗じ安芸・備後(びんご)に支配を広げ、続いて55年(弘治1)の厳島(いつくしま)の戦いで陶氏を滅ぼし周防(すおう)・長門(ながと)を手中に収めた。さらに66年(永禄9)には出雲(いずも)富田(とだ)城(島根県安来(やすぎ)市)の尼子義久(よしひさ)を降伏させ、68年には大友氏攻撃の軍をおこすなど、諸方面に支配の手を伸ばし、その領域は西は長門から東は備中(びっちゅう)・因幡(いなば)まで10か国に及んだという。死後、嫡孫輝元(てるもと)がその跡を継いだ。

 元就がもっとも腐心したのは、広大な領国の統治策である。毛利氏が国人(こくじん)領主出身であり、その版図が急激に拡大したものであったため、そこには支配の統一的原則がなかったからである。とりわけ、もともと毛利氏と対等の関係にあった国衆(くにしゅう)とよばれる有力家臣の存在は、その困難をいっそう大きくした。そこで元就は、征服地の検地などを通じた知行(ちぎょう)制の整備、在地小領主層の家臣への取り立てによる軍事力基盤・在地支配体制の強化、官僚制機構を通じた行政支配の充実などを図った。なかでも特徴的なのは、子供の多いことを利した、養子・婚姻による有力家臣との縁組政策である。その中核が、吉川(きっかわ)家の養子となった二男元春(もとはる)、小早川(こばやかわ)家の養子となった三男隆景(たかかげ)の「毛利両川(りょうせん)」である。彼らは有力家臣家の当主として、また毛利氏一族として、本宗家をよく支えた。

 元就は、その経歴ゆえか、性格が非常に細心・慎重で、子供たちにも盛んに訓戒を与えていた。配慮は微細に及び、親・兄が酒のために早世したことから自身は下戸となり、孫の輝元にも飲酒がすぎぬよう戒めた書状が残っているほどである。とりわけ有名なのは、養家に目を向けがちな元春・隆景に、毛利家をおろそかにしてはならぬとして嫡子隆元(たかもと)への協力を諭した書状で、これが、矢は1本では簡単に折れるが、3本束ねれば折れにくいことを示して、三兄弟の結束を説いたという、かの3本の矢の逸話の源となったとも考えられる。

[池 享]

『三卿伝編纂所編『毛利元就卿伝 上』(1944・六盟館)』『河合正治著『安芸毛利一族』(1984・新人物往来社)』『河合正治編『毛利元就のすべて』(1996・新人物往来社)』


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百科事典マイペディア 「毛利元就」の意味・わかりやすい解説

毛利元就【もうりもとなり】

戦国時代の武将。弘元の次男。庶子(しょし)であったが,兄興元,その子幸松丸の没後,1523年毛利氏家督を継ぐ。初め尼子晴久,のち大内義隆に属した。1529年,安芸石見(いわみ)国人(こくじん)領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼしその位置を継承,1541年安芸守護家の武田氏を滅亡させて広島湾に進出した。大内義隆がその家臣陶晴賢(すえはるかた)に殺されると,1555年厳島の戦で晴賢を破り,周防(すおう)・長門(ながと)・安芸(あき)を支配下においた。九州豊前にも進出,大友氏と戦い,さらに山陰に進出,益田氏らを帰属させた。1566年尼子氏を降し備後(びんご)・石見・出雲・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)を平定,ついに山陽・山陰10ヵ国と豊前(ぶぜん)・伊予(いよ)の一部を領する戦国大名の雄となった。1569年には尼子勝久が出雲に,大内輝弘が山口に侵入したが撃退,蜂起した国人層を討伐して領国支配を確固たるものとした。元就は,大内氏・尼子氏という強大な勢力の間隙で戦い抜く優れた情勢分析と果断さを持ち,領国構造が国人連合に依拠することへの配慮と彼らとの交流に意を用いた。1557年毛利隆元(たかもと)・吉川元春(きつかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の三子に結束を説いた教訓状は有名。信仰篤く文芸も愛好した。歌集に《春霞集(しゅんかしゅう)》がある。元就画像は重要文化財。→毛利家文書
→関連項目月山城吉川氏小早川氏大寧寺豊栄神社益田氏毛利氏

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改訂新版 世界大百科事典 「毛利元就」の意味・わかりやすい解説

毛利元就 (もうりもとなり)
生没年:1497-1571(明応6-元亀2)

戦国時代の武将。少輔次郎,右馬頭,陸奥守を称する。弘元の次男。兄興元,甥幸松丸の相次ぐ早世により,1523年(大永3)安芸高田郡吉田の国人領主として家督を継ぎ,郡山城主となる。25年以降出雲の尼子氏と絶って周防大内氏に属し,40年(天文9)には尼子晴久の大軍に郡山城を包囲されたが,籠城戦の末に翌年これを撃退した。引き続き従軍した大内義隆の出雲遠征では敗退したが,大内氏の援助のもとに芸備両国の経略を進めた。安芸守護職を伝える武田氏を銀山(かなやま)城に滅ぼしたほか,安芸の有力国人で石見口を押さえる大朝の吉川(きつかわ)家を次男元春に,同じく瀬戸内に臨む竹原・沼田の両小早川家を三男隆景に相次いで相続させ,芸備国人層の主導的地位を占めた。また50年には老臣井上元兼一族の誅伐を断行して,家中に対する絶対権を確立し権力基盤を整えた。翌年に起きた陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆を倒した反乱には,一時静観の態度をとったが,55年(弘治1)厳島の戦で陶軍に大勝し晴賢を自刃させた。その後防長に侵攻し,57年晴賢の擁立した大内義長を滅ぼして防長2国を征服した。引き続き石見経略を進め,大森銀山をめぐって尼子氏と対立し,他方豊前でも大友義鎮と戦った。その後出雲に侵攻して富田月山城を包囲し,66年(永禄9)これを陥れ尼子義久を降伏させた。この間,1563年には嫡子隆元を失ったが,孫の輝元に家督を継がせて後見するとともに,吉川元春小早川隆景の両川にも宗家を支えさせた。国人領主から一代にして中国地方一帯を支配する戦国大名に成長した元就は,計略に優れた知将であり,その細心さは57年隆元ら3子に結束を説いた教訓状にうかがうことができる。晩年の69年には,大友氏の支援をうけた大内輝弘が周防に,山中鹿介幸盛に擁立された尼子勝久が出雲に相次いで侵入したが,輝元らの平定戦を見守りながら郡山城に病没した。
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朝日日本歴史人物事典 「毛利元就」の解説

毛利元就

没年:元亀2.6.14(1571.7.6)
生年:明応6.3.14(1497.4.16)
中国地方の戦国大名。室町幕府御家人毛利弘元の次男として安芸郡山城(広島県吉田町)に生まれる。母は福原広俊の娘。幼名松寿丸。次郎。官は治部少輔,右馬頭,陸奥守。幼少時に父母を失い,兄興元没後の家督は甥幸松丸に譲られるなど不遇であったが,大永3(1523)年幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぐ。この段階の毛利氏は尼子氏の被官で,吉田盆地を拠点とする一国人に過ぎなかったが,翌々年大内義興の配下に入り,近隣の群小土豪をあわせて安芸中央部をほぼ統一した。天文6(1537)年,長男隆元を大内義隆へ質子として差し出す。同9年9月,尼子晴久に郡山を包囲されたとき,元就は城下の老幼すべて籠城させて5カ月の重囲に耐え,翌1月には尼子軍を敗走させた。同11,12年義隆の尼子攻めに従軍。15年,隆元に家督を譲って隠居するもその後見として実権は放さず,芸備両国の経営に専念,義隆から両国を預けられて事実上大名化する。同19年3男隆景を小早川家の入婿とし,次男元春を吉川家督に据えて芸備支配を磐石とし,家老井上一族を滅ぼすなど家中の専制体制を確立した。 翌天文20年8月,義隆が陶晴賢に滅ぼされると晴賢に従ったが,同22年石見の吉見正頼の反陶蜂起に呼応して翌5月晴賢と断交,弘治1(1555)年陶氏2万の大軍を厳島の海峡におびき寄せ,小早川,村上水軍の援を得てこれを全滅させた(厳島の戦)。翌々年には陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させ,版図は防長芸石備5カ国に拡大。幕府は守護職を与えて懐柔,元就と尼子との講和を図るが,元就は正親町天皇即位の費用を献じて朝廷に接近し,尼子領国を蚕食した。一方で大友氏と和を結んで防長の背後を安全にし,大挙して出雲富田城に尼子氏を攻撃。永禄9(1566)年11月に富田を陥れ,その領国は中国地方全域におよんだ。以後は,豊後大友氏を主たる敵として北九州経営を目指すが果たさず,75歳で病死。元就の真骨頂は戦術よりも謀略と外交戦にあったが,幼少時の辛苦から学んだ忍従の人生訓が盛られた家訓は,組織の維持に資するものとして今なお重宝される。

(今谷明)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「毛利元就」の解説

毛利元就
もうりもとなり

1497.3.14~1571.6.14

戦国期の武将。安芸国郡山城(現,広島県安芸高田市吉田町)城主。父は弘元。1523年(大永3)家督となり,25年以後大内氏に属した。50年(天文19)までに子元春・隆景をそれぞれ安芸吉川(きっかわ)氏・備後小早川氏の継嗣とするなど,両国における勢力の拡大につとめた。同年,不服従のめだつ家臣井上元兼らを討ち,主君としての勢威をみせつけた。51年陶晴賢(すえはるかた)が大内氏の実権を握ると,まもなくこれと敵対。55年厳島の戦で大勝し,晴賢を敗死させた。以後領国拡大を進め,大内義長を倒して周防・長門,さらに石見を掌握。62年(永禄5)からは尼子氏を攻め,66年これを滅ぼして出雲をも制圧。内政面では,まとまった法典の制定などはみられなかったが,五人奉行制とよばれる官僚機構を整備。元春・隆景に嫡子隆元・嫡孫輝元を補佐させた「毛利両川体制」は有名。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「毛利元就」の意味・わかりやすい解説

毛利元就
もうりもとなり

[生]明応6(1497).3.14. 安芸
[没]元亀2(1571).6.14. 安芸
戦国時代の武将。弘元の子。幼名,松寿丸。少輔次郎と称した。大永3 (1523) 年家督を継ぎ郡山城に拠った。初め尼子晴久に仕えたが,天文3 (1534) 年大内義隆に属して尼子氏に対抗。義隆が家臣陶晴賢に殺されると,その弔い合戦と称して弘治1 (1555) 年厳島の戦いで晴賢を討ち,その余党も撃滅して長門,周防をその勢力下に収め,さらに永禄9 (1566) 年までに尼子氏ならびにその余党を討って山陰,山陽 10ヵ国と九州,四国の一部をも領有する一大勢力を形成した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「毛利元就」の解説

毛利元就 もうり-もとなり

1497-1571 戦国時代の武将。
明応6年3月14日生まれ。毛利弘元の次男。大永(たいえい)3年(1523)家督をつぎ,安芸(あき)(広島県)郡山城主となる。大内義隆に属し,義隆をたおした陶晴賢(すえ-はるかた)を天文(てんぶん)24年(1555)厳島(いつくしま)の戦いで撃破。ついで大内義長,尼子(あまこ)氏を討ち,中国全域を支配する戦国大名となった。隆元ら3人の子にあてた教訓状が有名。元亀(げんき)2年6月14日死去。75歳。
【格言など】智,万人に勝(すぐ)れ,天下の治乱盛衰に心を用うる者は,世に真の友は一人もあるべからず

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旺文社日本史事典 三訂版 「毛利元就」の解説

毛利元就
もうりもとなり

1497〜1571
戦国時代の武将
もと安芸国(広島県)の土豪。1555年,長子隆元 (たかもと) ・2男元春と協力し,陶晴賢 (すえはるかた) を厳島 (いつくしま) に討ち滅ぼした(厳島の戦い)。ついで周防 (すおう) ・長門より備中・備後・石見 (いわみ) を平定。正親町 (おおぎまち) 天皇に献金を行い,'66年には出雲尼子 (あまこ) 氏を滅ぼし,中国10カ国を支配する大名となった。

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防府市歴史用語集 「毛利元就」の解説

毛利元就

 戦国時代の武将で、安芸[あき]国の吉田を本拠地とします。一時、大内[おおうち]氏に属していましたが、陶晴賢[すえはるかた]が大内氏の実権をにぎると、大内氏をほろぼしました。また、尼子[あまこ]氏もほろぼし、勢力を広げていきました。

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デジタル大辞泉プラス 「毛利元就」の解説

毛利元就〔ドラマ〕

1997年放映のNHKの大河ドラマ。全50回。原作は、永井路子の小説『山霧』。戦国大名、毛利元就の生涯を描く。脚本:内舘牧子。音楽:渡辺俊幸。出演:3代目中村橋之助、富田靖子、緒形拳ほか。

毛利元就〔小説〕

山岡荘八の歴史小説。1964年刊行。

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367日誕生日大事典 「毛利元就」の解説

毛利元就 (もうりもとなり)

生年月日:1497年3月14日
戦国時代の大名
1571年没

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世界大百科事典(旧版)内の毛利元就の言及

【安芸国】より

…翌年義隆の出雲遠征失敗後も両陣営の対立は続くが,尼子の勢力は衰え,その間に毛利氏が勢力を拡大した。51年陶隆房が義隆打倒の際佐西郡を占領すると,毛利元就は佐東郡の全域を掌中におさめ熊谷・天野をはじめ多くの国衆を従えた。元就は54年5月陶と断交し金山・桜尾等の諸城を奪い厳島を掌中におさめ,翌年厳島を占拠した陶軍を滅ぼし,安芸における覇権を確立した。…

【厳島の戦】より

…1555年(弘治1)毛利元就が,安芸国厳島に進駐した陶晴賢(すえはるかた)を討った戦い。これ以後毛利氏の中国地方制覇の道がひらかれる。…

【吉川氏】より

…1508年(永正5)の大内義興上洛の際には国経も随従し,船岡山合戦では元経とともに活躍した。15,17年の武田元繁の山県郡侵入に際して,元経は毛利元就らと協力してこれを破った。40,41年の尼子晴久の安芸侵入の際に興経は尼子方として活躍しており,惨敗した尼子軍は興経の援護をうけて潰走した。…

【陶晴賢】より

…1539年(天文8)父の跡を継いで大内義隆の重臣となり,周防守護代。翌年尼子晴久が毛利元就の安芸郡山城を囲むと,大内軍の総大将として救援に赴き,尼子軍を撃退した。さらに出雲遠征を主張,42年義隆の出陣を促して尼子氏の富田城を囲んだが,翌年敗退した。…

【毛利氏】より

…(1)西中国の雄族で中・近世大名(図)。大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り,季光がここを苗字の地としたのに始まる。季光は宝治合戦(1247)で三浦氏に荷担したため同荘を没収されたが,その第4子経光は荷担せず越後国佐橋荘,安芸国吉田荘等を保持した。経光は1270年(文永7)両所を第4子時親に譲った。吉田荘では96年(永仁4)領家・地頭間で下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,時親は吉田,麻原(おはら)を領した。…

【吉田[町]】より

…可愛川沿いに水田が開け,米作のほか野菜やシイタケ栽培が行われ,工業団地も造成されている。郡山城跡(史)など毛利氏に関わる史跡が多く,毛利元就はじめ一門の墓所もある。臨済宗の大寺で,元就が京より観世太夫を招いて能狂言を催したという興禅寺の跡地は,郡山公園となっている。…

※「毛利元就」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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