中国においては《老子》に〈玄之又玄衆妙之門〉とあるように幽玄の道の入口という意であったが,転じて禅学に入門するという意味に使われた。日本においても字義どおり使われたこともあるが,転じて禅宗寺院の方丈の入口を指すようになり,ついで,武家住宅の式台(戸口の前につけた低い板敷きの縁)付きの入口,さらには一般住宅の主要な入口を指すようになり,今日では一般住宅の入口の意味が定着している。
日本の禅宗寺院では,鎌倉時代末期に書かれた建長寺の伽藍指図中に,伽藍の中軸線にそって方丈西隣の得月楼にいたる廊の中扉に玄関の書込みがあり,方丈への入口を意味していたことがわかる。室町時代末期の遺構では,方丈前庭の下手に土間に瓦を敷いた廊を設け,その先端に扉をつけたものを玄関と呼んでおり,桃山時代から江戸時代になると,屋根を唐破風にするなど,表現がいくぶん派手になってくる。近世においては,玄関は武家住宅の表入口として威容を誇るようになるが,その成立過程ははっきりしない。武家住宅の入口に式台付きの土間を設け玄関と呼んだ例は,1627年(寛永4)に改造された二条城二の丸御殿のものが最も古い。玄関と呼ばれていたかどうかはわからないが,同じ形式の建物は1612年(慶長17)に建てられた名古屋城御殿表座敷や《匠明(しようめい)》所収の〈当代屋敷の図〉にも見られる。同じ形式の建物は室町時代末の内裏にもあり,車寄(くるまよせ)と呼ばれていた。公家の宸殿の建築における玄関の源流は,この,内裏の車寄にあると考えられる。平安時代の寝殿造では,建物への主要な入口は中門の横についた廊にあけられた妻戸であった。鎌倉時代になると,この妻戸は廊の側面にまわされ,軒に唐破風を設け,中門廊の車寄と呼ばれる。室町時代後期の武家住宅では,中門は退化して屛中門(へいぢゆうもん)になり,中門廊の車寄が正規の入口になるが,同時に副次的な入口として遠侍の表口が使用されるようになる。この遠侍の入口の前に軒唐破風付きの車寄をつければ,その形は二条城二の丸御殿の玄関になる。近世武家住宅の玄関は,このような遠侍前の車寄の形が禅宗方丈の玄関に類似しているところから玄関と呼ばれるようになったものと推測される。
17世紀の中ごろになると,武家住宅の平面も変化し,玄関は門の正面にあたる中央の位置を占めるようになる。また一般の武家屋敷も門の正面に式台付きの玄関を構えるが,家族や身分の低い来客のため,脇玄関が併せて設けられ,身分に応じて入口も使い分けるといった封建的な空間構成が定着した。庶民の住宅である民家には原則として玄関を設けることが禁止されていた。しかし,庄屋層の民家など,領内の巡見の役人を接待する家では,座敷の前に庇(ひさし)を差し掛け,式台を設けた玄関を作ることが許された。その形式は武家住宅に比べれば簡素であるが,家格を示す象徴的な意味合いを持った。寺院においては玄関を設けることが許されたため,庫裡(くり)と客殿や本堂との間に,1間四方の式台付きの玄関を設け,入母屋造の屋根を置く例が多い。
明治維新以後は,家作に関する禁令も廃されたので庶民の住宅も競って玄関を設けた。また,西洋風の住宅の入口も玄関と呼ばれ,大きな住宅では表玄関,内玄関が設けられることもある。明治末期から大正期にかけては,玄関を構えるということがひとかどの社会人として認められる,といった意味合いを持ったこともあって,小規模な借家にも玄関と座敷が設けられるようになった。身分制度が廃止され,それにともなう家作制限が取り払われた後に,玄関や座敷が持つ格式的な意味は増幅されたといってもよい。第2次世界大戦後,住宅の持つ封建的構成を取り除くということで,玄関という呼称や床の間の廃止などが提唱された。また,中高層建築の集合住宅では,1枚の扉で出入りするなど,住宅の形も出入口の形も大きく変化した。しかし,呼称としては玄関という語が一般的に用いられている。
執筆者:鈴木 充
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住宅の正面の出入口。禅宗寺院の方丈への入口。公共建築の正面出入口も玄関とよばれることが多い。仏教における玄妙の道に入る入口、すなわち仏門に入る入口を意味することから、方丈への入口を玄関とよんだのが初めである。
住宅の入口にそのための施設を設けたのは平安時代の寝殿造の中門(ちゅうもん)廊につくられた車寄(くるまよせ)や板扉が初めであろう。中門廊の車寄は、柱間に両折板扉を用い、軒唐破風(のきからはふ)をつけ、縁に昇るための段を設けている。これらの施設は中世の主殿造の中門に受け継がれ、主殿では短く突き出した中門の付け根の柱間に車寄を設け、続いて連子(れんじ)を横に入れた連子窓である刎上(はきあげ)連子、端の柱間に両開きの板扉を入れ、その先の落縁(おちえん)に妻戸をつける。これら車寄、端の板扉、妻戸を身分によって使い分けていた。近世になると中門は形式化し、式台および玄関が出入口になる。初め突き出た駕籠(かご)を下ろすための低い板床を玄関、取次の部屋を式台とよんでいたが、江戸時代に入って全体を玄関とよぶようになった。公家(くげ)住宅では近世にも輿(こし)や車を使っていたので、正面入口は玄関ではなく、輿寄あるいは車寄である。
民家では玄関をつくることが許されず、町屋(まちや)では通り庭の入口に大戸を設け、農家でも土間への入口が出入口であったが、庄屋(しょうや)など上層の民家では役人を迎えるために玄関をつくることが許された。明治になってその禁がなくなり、庶民の住宅にも玄関がつくられるようになった。しかし、敗戦まで玄関には格式が残っていて、主人や客のための表玄関と、家族のための内玄関、使用人のための勝手口が使い分けられていたが、近年の都市住宅では区別がなくなり、玄関一つの家も多くなった。公共建築では、小学校などわずかな例を除いて屋内でも下足のままであるが、いかに洋風が取り入れられても日本の住宅では下足のまま生活することはなく、近い将来日本の住宅から現在のような玄関がなくなることは考えられない。
[平井 聖]
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(1)禅宗寺院やその塔頭(たっちゅう)の方丈にみられる出入口。主屋の隅から突きだした形式は中世住宅の中門に似るが,南正面を出入口にする点や土間である点が異なるから,禅宗とともに中国からもたらされた形式であろう。(2)転じて,建物正面の出入口。江戸時代には,式台を構えた出入口をいい,玄関をもつことは武家や村役人などの特権だったが,近代には住宅形式を問わず出入口を玄関とよぶようになった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…これは大名の居館などの訪問者はほとんどが家臣であり,用途上の必然的な変化である。17世紀中ごろになると,遠侍の車寄は式台付の玄関となり,対面の場も納戸を取り去った床,棚,書院を備えた上段と,次の間が1列に並ぶ形式へと変化してゆく。
[数寄屋造]
近世初期の上層階級の住宅のもう一つの注目しなければならない変化は,数寄屋造の普及である。…
※「玄関」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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