日本古来の神への信仰と、仏教信仰が融合・調和すること。奈良時代には神を仏教による救済対象ととらえ、神宮寺が建てられた。平安時代に入ると、神は仏の仮の姿であるとした
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神道(しんとう)信仰と仏教信仰とを融合調和すること。習合とは、本来相異なる教義・教理を結合また折衷することであり、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説がそれにあたる。よって、厳密な意味での日本における神仏習合は、10世紀初期よりのち1868年(明治1)までに存したものであり、それ以前は単に神仏調和とでもいうべきであろう。
日本への仏教伝来以降、聖徳太子の積極的な仏教奨励策、また仏教そのものの同化性のあったことも影響して、白鳳(はくほう)時代ころより神前で読経(どきょう)・写経などが行われ、天平(てんぴょう)時代より日本の神は仏道に帰依(きえ)し、福業を修行しようと欲しているものとみて、そのための場として、神社に付属して神宮寺を建立したことなどは、神仏調和というべきことである。神仏習合、本地垂迹説の成立時期について、『説法明眼論抄』には聖徳太子によってと記し、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』では行基(ぎょうき)よりと説き、『東大寺要録』『東大寺縁起』などでは空海(くうかい)また最澄(さいちょう)らよりと説くが、いずれも否定されるべきものである。その当時にすでにそのような思想、信仰が存したとのような証拠はない。
その本地垂迹説とは、本地すなわちインドにおける絶対的な仏陀(ぶっだ)が、人間を利益(りやく)し、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんがために、日本では神となって迹(あと)を垂れるという説で、日本の神祇(じんぎ)は、もとを尋ねるとみな仏であり、仏も神もみな、もとは一つであるとの説であり、中国ではその古代信仰と仏教との習合は、隋唐(ずいとう)以前六朝(りくちょう)時代よりあったとされるが、日本でその基礎となるような神観、仏観が生じ、本地垂迹説が生じたのは、10世紀に入ってからのことである。『三代実録』のなかに「垂迹」の語はみられるが、ここでいう意味とは別の意であり、本地垂迹説としての実質的なその語の初見は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)所蔵文書中の承平(じょうへい)7年(937)10月4日付けの大宰府牒(だざいふのちょう)のなかでである。すなわち、そこで筥崎(はこざき)宮・宇佐(うさ)宮の祭神に関連して「権現菩薩(ごんげんぼさつ)垂迹」と記されているのがそれである。これよりして、およそそのころ本格的な神仏習合思想が生じたものとみられる。それがだれによって、いつ唱えられたか正確にはわからないが、その教団、教義より推して、仏教者側から唱えられたことは確かであろう。また、その当時においてそれはなお漠然としたものであり、どの神がどの仏の垂迹とのような段階はもう少し後のものとみられる。
それより前、『延喜式(えんぎしき)』神名帳常陸(ひたち)国(茨城県)のなかに、大洗磯前(おおあらいいそさき)薬師菩薩神社、酒列(さかつら)磯前薬師菩薩神社、筑前(ちくぜん)国(福岡県)に八幡大菩薩筥崎宮、豊前(ぶぜん)国(大分県)に八幡大菩薩宇佐宮とのように菩薩号の4社がみられる。この菩薩が仏教で唱える意味どおりに使用されたのかどうかに疑問はあるが、このような名が神につけられ、神社名とされることがあり、このようなことからしだいに本地垂迹説が生じてきたものとみられる。寛弘(かんこう)(1004~1012)ころには熊野権現、熱田(あつた)権現などの名もみえるようになり、『長秋記(ちょうしゅうき)』長承(ちょうしょう)3年(1134)の条に、熊野本宮の家津王子(けつみこ)の本地は阿弥陀仏(あみだぶつ)、結宮(むすびのみや)(牟須美(むすびの)神)の本地は千手観音(せんじゅかんのん)、早玉(はやたま)明神の本地は薬師如来(にょらい)と記すように、一般にその本地がはっきりと示されるようになる。以降、1868年、王政復古の実現とともに、復古神道(ふっこしんとう)を基礎理念とした明治維新政府が発令したいわゆる神仏判然令(神仏分離令)によって神仏が分離されるまで、神仏習合した信仰や思想は、国民の間に広く浸透していたのである。
[鎌田純一]
日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮が朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。8世紀になって気比神宮,若狭比古神社,多度神社などに神宮寺ができたが,東大寺大仏造立にあたり,伊勢神宮に祈願がこめられ,仏法帰依の神託を得,八幡神も大仏造立援助のため上京して東大寺鎮守となった。こうした朝廷の積極的な習合政策と地方民間修行僧の布教活動によって神前読経・神宮寺建立は全国的に広がった。平安前期には政界の暗闘と社会不安から御霊(ごりよう)(怨霊)信仰が盛行しそのたたりを鎮めるため密教徒は御霊会(ごりようえ)などを通じて読経・加持祈禱につとめ,御霊の成仏と利益(りやく)神への昇化を説いた。この風潮のなかで大陸伝来の疫神である牛頭天王(ごずてんのう)をまつる祇園社や道真をまつる天満天神が,祟(たたり)神から一転した利益救済の神として進出し,神祇界は個人利益的なものへと信仰を変化させ,仏像にならって神像を彫刻や絵画にあらわしまつる偶像崇拝的方向を帯びるにいたった。伊勢以外の神社はおおむね神宮寺別当の支配する宮寺組織になり,また原始的山岳信仰と密教が習合した修験道(しゆげんどう)が広まって修験者は加持祈禱による病気治療や信者の団体による社寺参詣の先導役(御師(おし))として民間に進出した。その代表的なものは紀州熊野信仰である。
中世,習合思想のスローガンであった和光同塵(わこうどうじん)の語はその源は中国の道教にあるが,仏菩薩がその慈悲広大の光を隠し人間俗界の塵に交じって神とあらわれる化身的意味に用い,これを各地の神社について民衆にわかりやすく説くため歴史物語化した縁起の類がつくられ,これが絵巻物や本地物とよばれる一群の御伽草子となっていっそう普及した。また密教の曼荼羅(まんだら)をまねて神祇の姿あるいは本地となる仏の像を並べ,これに社頭の風物を配した習合(垂迹)曼荼羅図がつくられたのは,社参の労を省き,日常生活のなかで御利益を祈る礼拝対象とせんがためであった。春日,八幡,日吉,熊野などの曼荼羅はとくにその数も多く遺存している(垂迹美術)。
日本仏教は天台・真言両宗を中心として本覚門思想に重点をおき,衆生はすべて本来仏性を有し,人間も草木山川もそのままの形で成仏することを教えたところから修業練成より加持祈禱偏重に陥りやすく,その呪術的要素の重視が神仏習合に大きな地盤を提供した。そこには体系的理論よりも現実的でしかも直観的多神教的な思考や生活慣習を好む日本人の民族性が背景となっていたのである。1868年3月17日政府は社僧の禁止,神社の別当あるいは社僧の還俗を令し,同28日重ねて神社より仏教的要素をいっさい撤去すべきことを通達し,ここに廃仏毀釈(はいぶつきしやく)の運動が起こり習合的宗教慣習はついに終止符を打った。
→神仏分離 →本地垂迹
執筆者:村山 修一
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仏教思想と神祇思想の融合のなかで提唱された宗教思想。本来は別な宗教である仏教と神道の一体化をはかったもので,奈良時代頃に出現した神宮寺にその起源をみることができる。越前国気比(けひ)神宮寺や若狭国若狭彦神宮寺が代表例であり,平安時代にかけて全国的な広まりをみせた。平安時代になると,仏が仮に神の姿で現れて功徳(くどく)を示すとする本地垂迹(すいじゃく)説が唱えられ,習合神道や仏教を中心にこの思想が展開され,祇園信仰や八幡信仰などの僧による神祇信仰も一般化した。これに対し,鎌倉時代以降は神道側から神を主とする神本仏迹説や種々の神道説が提唱された。習合思想は近世まで継承されたが,明治初年の神仏分離政策で制度的には終焉をむかえた。
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…社僧(宮僧(くそう),供僧(ぐそう),神僧とも呼ぶ)が住み,仏事をもって神に奉仕した。神宮寺は,日本固有の神祇信仰と外来の仏教信仰が融合ないし混交した文化現象である神仏習合の思想にもとづいて出現した。文献上の初見は,《藤氏家伝(とうしかでん)》に藤原武智麻呂(むちまろ)が715年(霊亀1)越前の気比(けひ)神の託宣をうけて建てたという気比神宮寺であろう。…
…転じて心理学(混同心理)や言語学(融合)の用語としても使用された。日本の宗教では平安時代になって発達した神仏習合の試みがそれにあたる。外来の〈仏〉を本地(原型),土着の〈神〉をその垂迹(変型)とみて,神信仰と仏信仰の融合を説いたものである。…
…日本の土着の信仰を,神道と呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさすことばとして用いている例は少なくない。他方,神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すことばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめると,神道という語が土着の信仰とその教説をあらわすものとして用いられるようになった。中世の末に大きな力を持つようになった吉田神道は,その例であるが,日本の民族宗教の代表的なものとして吉田神道の教説に接したキリシタンの宣教師が,日本人の信仰をXinto(中世の神道家の中には濁音を嫌う人々が多く,神道の二字をシンドウではなくシントウと読むことが主張されていた)ということばでとらえたことに端を発して,神道の語は外国に知られることになった。…
※「神仏習合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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