説話の諸形式を基礎として自由に創作された、子供をおもな読者とする文学の一形式。ことばそのものは、江戸期の山東京伝(さんとうきょうでん)が随筆『骨董(こっとう)集』上編(1814)のなかで「むかしばなし」と読ませ、曲亭馬琴(ばきん)も同じく随筆『燕石襍志(えんせきざっし)』(1810)で「わらべものがたり」と読ませて使っている。ともに子供にふさわしい昔話をさしていた。
明治期に使われた最初の例は、木村小舟(しょうしゅう)の『少年文学史』明治篇(へん)下巻(1942)によれば、1899年(明治32)に開発社という出版社が「修身童話」という幼児向きの読み物を発刊したときであるという。木村は同書で「同じく昔物語、或(あるい)は伝説口碑の類も、これを文学的に取扱ふ時は、お伽噺(とぎばなし)といひ、それが教育的に描かれた場合には、お伽噺といはずして童話と称する――中略――かういふ一種の見方も、もはや今日よりすれば、亦大(またおほい)に異論もあらうが、此(こ)の当時は、大体かやうに区別を立てたものであつた」と述べている。事実、蘆谷蘆村の『教育的応用を主としたる童話の研究』(1913)および『童話及伝説に現れたる空想の研究』(1914)での童話は昔話をさしている。
童話が新しい意味をもって使われたのは1918年(大正7)創刊された雑誌『赤い鳥』からである。創始者鈴木三重吉(みえきち)は発刊パンフレットに「童話と童謡を創作する最初の文学的運動」と創刊の主旨を述べたが、この場合の童話とは、小川未明(みめい)のいう「……子供の心境を思想上の故郷とし、子供の信仰と裁断と、観念の上に人生の哲学を置いて書かれたものは私達の求める『童話』であります」(『金の輪』序文、1919)とほぼ同じものであっただろう。これは、子供を無垢(むく)な心の持ち主とする児童観と、新しいものの考え方が生まれた大正という時代が生んだ子供の文学の概念であった。
1918年の米騒動や小作争議、労働争議、1920年の第一次世界大戦後恐慌などは人々の目を現実に向けさせた。子供の文学にも現実への関心が深まり、童話にもたとえば千葉省三(しょうぞう)の『虎(とら)ちやんの日記』(1925)、坪田譲治(じょうじ)の『善太と汽車』(1927)など子供の日常を描き、非現実的要素のないものが増えた。そして、それは、プロレタリア児童文学運動などによってさらに進み、写実的な短編小説に近いものまで生まれるに至った。大まかな意味で昔話的形式を用い、非現実的要素が容認された想像の世界の物語から、写実的、日常的な世界の物語への童話の内容の変貌(へんぼう)であった。だが、写実的なのはいわば表面であり、内実は純粋に現実でない理想の小世界という意味で、やはり童話の枠内であった。
第二次世界大戦後、小説的方法の発達で長編のリアリズムが主流になるとともに童話は子供の文学全体の名称でなく、本来の範囲を示す名称となった。
[神宮輝夫]
『『日本の児童文学』(『菅忠道著作集1』1983・大月書店)』▽『日本児童文学学会編『日本児童文学概論』(1976・東京書籍)』
子どものための物語の呼称であるが,概念に広狭の差があり,時代の変遷によってもさまざまである。現在はメルヘンMärchenの意,または空想性を主とした創作の意に限ろうとしているが,かならずしも適切とはいえない。種類,様式別に,幼年童話,生活童話などと呼ぶこともある。童話という言葉の意味を時代順にたどると,次のようになる。江戸時代には昔話の意に使った。曲亭馬琴は《燕石雑志》(1811)の中で,〈昔より童蒙(わらわべ)のすなる物語〉と呼び,山東京伝は《骨董(こつとう)集》(1814-15)の中で〈むかしばなし〉としている。明治・大正期には,高木敏雄,松村武雄らの学者は,昔話の意にとった。巌谷小波(いわやさざなみ)はメルヘンの意に解し,〈お伽噺(おとぎばなし)〉と呼んだ。小川未明はアンデルセン風の創作物語に限定して,明治中期からのお伽噺の啓蒙調に対抗した。鈴木三重吉はより広く子どものためのフィクションを指したが,フェアリーテールfairytale(妖精譚)風の語感を童話に与えたことも否めない。以後,写実的な物語一般にも乱用され,児童文学の代称に近い。
執筆者:岡村 直子
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…田山花袋,小川未明,久保田万太郎らに誌面を開放し,優れた作品を掲載したが,一方,営利主義的傾向がしだいに強まり,編集への制約がはたらくようになったことも見逃せない。 大正期には《赤い鳥》を中心とする,格調の高い芸術志向の童話・童謡誌と,主として講談社から刊行された大衆的児童雑誌という二つの流れがあった。明治以来の国家教育の圧力から脱し,子どもの個性と創造性を尊重し解放しようとする新しい教育の動きを背景に,鈴木三重吉の理想が実を結んでできたのが《赤い鳥》である。…
…栃木県に生まれ,宇都宮中学校を卒業後,代用教員をへて編集者になった。1920年4月からはコドモ社の児童雑誌《童話》の編集にあたり,小川未明,西条八十らを擁して《赤い鳥》に対抗した。かたわら創作に手を染め,25年9月号の《童話》に代表作《虎ちゃんの日記》を発表,日本の児童文学にはじめて存在感のある児童像をもたらした。…
…1918年7月創刊から29年3月までと,31年1月から36年10月の〈三重吉追悼号〉までの前後期を通じて合計196冊発行。三重吉は自分の娘に読んで聞かせる子どもの読みものが〈実に乱暴で下等なのに驚きあきれ〉,〈純情的な興味から〉童話を書き出したという。俗悪,下劣な読みものや雑誌の現状に対して,〈世間の小さな人たちのために,芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する,最初の運動〉をめざし,島崎藤村,徳田秋声,野上弥生子,芥川竜之介,泉鏡花,小川未明,有島武郎ら当時,文壇で活躍していた人たちを執筆に動員した。…
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