朝鮮古代の王朝名。いわゆる古朝鮮の一つ。衛氏朝鮮が正史所見の実在の王朝として認められているのに対し,箕子朝鮮は伝承的・説話的色彩がつよい。《史記》などの古文献によれば,箕子は名を胥余(しよよ)といい,殷の貴族で箕国に封ぜられ子爵であったという。殷末,紂王の太師となり,王の無道をいさめて,かえってうとんぜられ,やがて殷が滅亡すると朝鮮半島西北部,おそらく現平壌付近に亡命して国を建て,有名な〈八条の教訓〉を制定して人民を感化したとされている。しかし箕子についての《史記》や《漢書》などの記述は矛盾が多くそのまま信頼できない。その〈八条の教訓〉も後世になって中華美化思想が投影されたものと解するのが妥当のようである。高麗や李朝,ことに後者の場合儒教が国教的立場にあったので箕子追慕の思想がつよくみられるにいたった。箕子朝鮮王朝の最後の王は箕準とよばれている。箕準は朝鮮侯を自称していたが,前2世紀初めころ衛氏朝鮮の開祖,燕人衛満によって追放されたことになっている。ただし最近の朝鮮の学界では,この箕子東来説には批判的な傾向がつよく,むしろ当時すでに半島西北部に朝鮮王を自称する在地韓族の大きな存在があった,と解釈する立場が有力である。
執筆者:村山 正雄
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古代朝鮮の王朝。衛氏(えいし)朝鮮とあわせ古朝鮮という。紀元前1100年ごろ、中国、周の武王が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を滅ぼしたとき、紂王の親族である箕子は朝鮮に走ったが、武王は箕子をその地に封じたと伝えられる。これより箕子朝鮮が始まり、前2世紀に燕(えん)の亡命者衛満によって最後の王箕準(きじゅん)が滅ぼされた。箕子の東来については伝説的色彩が強く、史実とは認めがたい。箕子朝鮮については『漢書(かんじょ)』以後中国の歴史書に記述があり、とくに『魏略(ぎりゃく)』に詳細な記述がある。また、朝鮮においても、高麗(こうらい)、李(り)朝と時代が下るにつれて、その内容は慕華(ぼか)、崇儒思想の高揚とともにしだいに潤色が加えられていった。史実として認められる点は、中国の戦国時代より漢族が東方に進出し、さらに朝鮮北西部に流入して、やがて大同江下流域を中心に周辺の土着民を支配するに至ったことであろう。なお、このような性格の王朝そのものの実在性を否定し、箕子朝鮮の主体勢力を朝鮮の土着社会の氏族とみる説もある。
[李 成 市]
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朝鮮古代の伝説的王朝。周の武王が殷(いん)を滅ぼしたとき,殷王族の賢人箕子を朝鮮王に封じたと伝えられる。前3世紀頃から中国人が,半島北西部に移植し勢力を築いた事実のうえに造成されたものであろう。前190年頃40余世を称する箕準(きじゅん)のとき,衛満(えいまん)に国を奪われた。
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…漢の武帝によって楽浪ほか3郡が設立される以前の朝鮮古代の総称。通常は《史記》《漢書》所見の箕子(きし)朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝をいうが,《三国遺事》の伝える檀君朝鮮(檀君)を上述の2王朝に先行させて,三つを古朝鮮という場合もある。《三国遺事》の伝えるところによると紀元前約2000年以前に檀君王倹が都を阿斯達に定め,朝鮮を建国したことになっている。…
…この神話は北方の熊信仰,南方の聖地信仰などを基礎としたもので,はじめ平壌地方の固有信仰であったが,モンゴル侵略に抵抗した高麗農民が檀君を開国の始祖神として民族的な団結をはかった。朝鮮王朝(李朝)の国号採用に当たっても,箕子朝鮮と並んで檀君朝鮮の朝鮮が有力な根拠とされた。19世紀末の民族意識の高揚期に,檀君は再び開国神として信仰され,大倧教や檀君教という新宗教が成立して現在にいたっている。…
※「箕子朝鮮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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