生没年不詳。中国古代の道家(どうか)思想の開祖とされる人物。またその著作とされる書物。
[金谷 治 2015年12月14日]
老耼(ろうたん)ともいう。姓は李(り)、名は耳(じ)、字(あざな)は耼。春秋時代に楚(そ)の苦(こ)県(河南省鹿邑(ろくゆう)県)に生まれる。周の王室の守蔵室の吏(り)(図書役人)となり、孔子(こうし)が訪れて礼の教えを受けたこともあった。やがて周の衰微をみて隠棲(いんせい)を決意して西方に旅立った。途中、関所で関守り(関尹喜(かんいんき))の請いによって、上下2編の書を著して去ったが、行方はついに不明であったという。しかし、この伝説には疑問が多く、それを伝える最古の資料『史記』の「老子伝」でも疑問を表明している。孔子の先輩として紀元前6世紀に活躍した人物の実在性は薄い。今日の学説としては、前479年没の孔子より100年ほど後輩とする説や、架空の人物として実在を否定する説などもある。要するにはっきりせず、現存の書物との結び付きで考えれば、戦国中期(前4世紀)よりさかのぼることはできない。
[金谷 治 2015年12月14日]
『老子』2編はまた『道徳経』ともよばれる。上編が「道」の字で始まるので道経、下編が「徳」で始まるので徳経で、それをあわせた名称である。儒教の道徳とは違って、宇宙人生の根源とその働きとを表すことばである。内容は約5000字。現在は81章に分けられているが、これは原初の形ではない。文章は簡潔な格言的表現の集積で、対句(ついく)や脚韻(きゃくいん)を多く用い、意表をつく逆説的なことばにも特色があって、民間に広く口誦(こうしょう)で伝えられてきた諺(ことわざ)や格言を集めたような趣(おもむき)がある。したがって、世俗的なことばとともに比喩(ひゆ)的な難解な語句も多く、古来の解釈も異説が多い。成立はほぼ戦国末期であろう。注釈の数もきわめて多いが、魏(ぎ)の王弼(おうひつ)(226―249)の注が現存最古で、無の哲学としての立場から解釈し、河上公(かじょうこう)注は治身治国(ちしんちこく)の現実的な解釈のほか、養生にかかわる神仙道教への傾斜をみせていて、この二つが古注の代表である。日本では河上公注本の古鈔(こしょう)が多い。敦煌(とんこう)からは想爾(そうじ)注が発見され、古道教での解釈をうかがわせる。この後、唐では玄宗(げんそう)皇帝の御注、宋(そう)では林希逸(りんきいつ)(1193―1271)の注が有名で、とくに林の『口義(こうぎ)』は江戸時代にもっとも広く読まれた。日本の注釈としては太田晴軒(せいけん)(1795―1873)の『全解』が優れる。なお1973年に中国の馬王堆(まおうたい)で発見された2種の『老子』はほぼ前200年ごろのもので、現存最古の書写本文である。
[金谷 治 2015年12月14日]
『老子』の思想の中心は、個人的あるいは政治的な成功をかちとるための「無為」の術を説き、そのための根拠づけとして考えられた形而上(けいじじょう)的な根源、「道」を説くことであった。まず「道」とは、「これを視(み)れども見えず、これを聴(き)けども聞こえず……混じて一となる」といわれるような、感覚を超えた一者で、天地万物の存在に先だって独立自存しており、しかも大きな現実的な働きを遂げている。すなわち「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」とあるように、万物生成の根源として「天下の母」であった。いいかえれば、人間を含む世界の存在はすべて「道」によってこそ、それぞれのあり方を遂げている。そこで、万物は「道」に従ってあるがままに(自然に)あるのだが、人間は私的な意欲をもってしばしば「道」を逸脱する。それが人間の不幸である。そこで、「ただ道にのみ従って」、人としてのさかしらを棄(す)て、ことさらなしわざを避ける「無為」の立場に身を置き、「無欲」になって、他人にぬきんでて自分を顕(あら)わすようなことをせずに、弱々しくへりくだっていくのがよいとする。「無為にして為(な)さざるなし」――「無為」であればすべてが成し遂げられるのである。「道」の大きな働きは、その働きの跡を残さない自然なあり方であるから、人はそれを模範として「道」の絶対世界に「復帰」せよともいう。
[金谷 治 2015年12月14日]
『老子』の思想は列子や荘子に承(う)け継がれたとされる。ただ老子の現実的世俗的な成功主義と荘子の観念的思弁的な哲学とには違いがある。漢の初めは老子と黄帝を結び付けた「黄老(こうろう)の術」が無為の政治思想として栄え、魏晋(ぎしん)のころからは、老子と荘子とが折衷された老荘思想の全盛時代となる。なお後漢末からは、仏教の理解のために『老子』のことばや思想を借りることも行われ、それに対応して老子の神格化も進んできた。初め「黄老浮図(ふと)」という呼び方で黄老と仏教とをあわせて信仰されていたのが、やがて老子だけをとくに尊崇するようになって、道教の成立へと続くことになる。後漢(ごかん)の桓(かん)帝は晩年(165)に老子を祀(まつ)って「老子銘」をつくらせたが、すでにそこに道教の教祖に連なる老子の神仙化、神格化がみえている。道教での老子は天地に先だつ無始無終の存在であり、太古以来の歴代に帝師として化現(けげん)するとされるほか、多くの神怪な説話が付加され、太上老君(たいじょうろうくん)、玄元(げんげん)皇帝のほか種々の称号でよばれた。老荘思想として、儒教思想と対抗する形で、宇宙自然の広がりのなかでの高踏的な精神的超脱を開く思想的意義とともに、また道教の信仰のなかに生きた宗教的意義も重要である。
[金谷 治 2015年12月14日]
『『津田左右吉全集13 道家の思想とその展開』(1964・岩波書店)』▽『『武内義雄全集5 老子原始』(1978・角川書店)』▽『楠山春樹著『老子伝説の研究』(1979・創文社)』
道家の開祖とされる人物。生没年不詳。その著述と伝えられる書物も《老子》と呼ばれる。老子に関する最古の伝記資料である《史記》老子列伝によれば,姓は李,名は耳,字は聃(たん)といい,楚の苦県(こけん)(河南省鹿邑県)の人。かつて周の王室図書館の役人となり,儒家の祖孔子の訪問を受けて礼を問われたこともあるが,周室の衰運を見定めるや西方へと旅立ち,途中関を通った際に,関守の尹喜(いんき)の求めに応じて〈道徳〉に関する書上下2編を書き残し,いずくへともなく立ち去ったといわれる。しかし,《史記》の記述はあいまいで,これをそのまま歴史事実とすることはできない。現在では,孔子にややおくれる前400年前後の人物とする説や,その実在を否定し架空の人格とする説などが有力であるが,前5世紀に道家思想の先駆的実践者としての老聃なる隠君子の存在を想定することは十分可能である。
この老子の伝記のあいまいさは,後漢から六朝時代にかけての仏教の流入盛行と道教の成立とにつれて,老子は関を出たあと天竺(てんじく)に行って仏教を興したという老子化胡説話や各朝代ごとに転生して歴代帝王の師となったという老子転生説話を生んだ。また,後漢時代にはその神格化が始まり,宮廷での祭祀が行われたが,やがて道教の始祖として〈太上老君〉なる神格にまつりあげられた。一方老子書については,全体がわずか5000余字の短編であること,ごく短い有韻の断章の集積で,あたかも箴言(しんげん)ないし格言集的性格をもつこと,全編を通じて固有名詞や作者の個性を感じさせる表現が皆無であることなど,他の先秦諸子の書には見られない特徴が存し,もともと口承されてきた道家的成句,箴言のたぐいが漸次敷衍(ふえん)されて,ある時期に一書にまとめられたものと考えられる。その原型は前4世紀末には成立していたと推定されるが,現行本の成立は漢代にまで下る。《老子》は,内容が難解なことや多様な解釈が可能なことから,古来おびただしい注釈書が著されたが,その代表的なものには魏の王弼(おうひつ)注とそれにややおくれる河上公注とがある。なお,近年湖南省長沙の馬王堆漢墓から発掘された帛書(はくしよ)本《老子》は現存最古のテキストとして重要である。
老子の思想の根本概念は,一切万物を生成消滅させながらそれ自身は生滅を超えた超感覚的な実在ないしは宇宙天地の理法としての〈道(どう)〉である。その道の在り方を示すのが〈無為自然〉であり,それを体得した人物を〈聖人〉という。老子は形而上的道を説く一方で,現実世界で真の成功者となるにはどうすべきかという現実的観点から,聖人の処世,政治の具体相をくり返し説き,他と争わない濡弱(じゆじやく)謙下,外界にあるがままに順応してゆく因循主義の処世や,人為的な制度によらず人民に支配を意識させない無為無事の政治などを強調する。この現実的成功主義こそ老子の思想の本来的核心であったが,魏・晋以後は玄学の流行にともなってその形而上的側面が強調深化されるようになった。
なお日本では,早く聖徳太子の《三経義疏(さんぎようぎしよ)》中に《老子》の引用が見られるが,その思想に対する理解共感が深まりをみせるのは,鎌倉室町期の禅文化の隆盛が,禅思想と親近な老荘思想普及の契機をなしてからである。江戸時代には,当初《老子》を儒家的立場で解釈した宋の林希逸の注に基づく研究が林羅山らによって行われたが,やがて徂徠学派,折衷学派による文献学的研究が主流となり,その原義の追究に多大な成果が挙げられた。
→老荘思想
執筆者:麦谷 邦夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
生没年不詳
道家(どうか)の祖とされる中国古代の思想家。名は耳(じ),字は伯陽,諡は䎳(たん)。楚(そ)の人。孔子と同時代の人で周に仕え,のち西遊の途中函谷関(かんこくかん)で道家の宝典とされる『道徳経』(『老子』)を著したという。しかし,『道徳経』の思想は孟子(もうし)以後のものといわれ,またその伝記も多種多様であるため,実在性が疑われている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…自然という言葉は,もと中国に由来するものである。中国で自然という語が最初に現れてくるのは《老子》においてである。たとえば〈悠として其れ言を貴(わす)れ,功成り事遂げて,百姓(ひやくせい)皆我を自然と謂う〉(第17章),〈人は地に法(のつと)り,地は天に法り,天は道に法り,道は自然に法る〉(第25章)などである。…
…生没年不詳。その著述と伝えられる書物も《老子》と呼ばれる。老子に関する最古の伝記資料である《史記》老子列伝によれば,姓は李,名は耳,字は(たん)といい,楚の苦県(こけん)(河南省鹿邑県)の人。…
…この墨子の思想は,戦国時代には儒家とともに盛行したが,末期にはその戦闘性を嫌った秦によって強い弾圧を受け,ほとんど消滅してしまった。 以上の思想家はいずれも,弱肉強食の時代にあって,積極的に政治に影響を与えようとしたが,この態度を否定して,自然のなりゆきにまかせ,人為を排し無為を重視したのが老子である。彼は現実に存在する大国を否定し,自給自足の村落のごとき国を理想としたが,その根底には,有も無もともに一つの道(原理)によって成立し,つねに相通じ,有から無へ,無から有へと自然に変化するから,人為を必要としないのを最高とする考えがあった。…
…そのあとに出た儒家の孟子は,墨子の兼愛説を無君無父(君を無(な)みし父を無みす)の思想として激しく攻撃するとともに,他方では人間の自然の性のうちに善が内在するという性善説を唱え,これが永く儒家の正統思想となった。これに対して道家の老子は,儒家の道徳を不自然な人為の産物として否定し,無為自然こそ天の道であることを強調した。その際道を〈無〉として規定し,無を万物の根元であるとしたことは,中国に初めて無の哲学を導入したものとして注目される。…
…釈迦は母の摩耶夫人(まやぶにん)が無憂樹の枝を折ろうと右手をあげたときに右のわき腹から生まれた(《今昔物語集》天竺部)。これをまねてか,《神仙伝》は老子が胎内に72年(《芸文類聚》では81年)いた後に,母の左わき腹から生まれたとする説を述べている。また《シャー・ナーメ(王書)》によれば,イランの英雄ロスタムもブドウ酒で体が麻痺した母ルーダーベの右わき腹から生まれた。…
…〈耿〉〈耽〉〈聊〉〈聆〉〈聴〉などの字はいずれも,精神活動の多様性を表している。老子の名は耳(じ)(《列仙伝》)または重耳(《神仙伝》)で,漢の武帝の前に現れた仙人の耳は頭より上に出て,下は肩まで垂れていた(《神仙伝》王興)。《三国志演義》の著者は蜀の劉備をひいきにしていたので,劉備の耳は肩まで垂れていたとして,帝王の資質を力説している。…
…また竜の隠れるもの,変化きわまりないもの(たとえば竜は大きくも小さくもなれる)という特質から,大きな才能をもちながら世に現れぬ人物の比喩にも用いられる。孔子が老子を〈竜の猶(ごと)し〉と言ったのがそれである。 こうした超越的な動物である竜の原像となったのが何であったかについては,さまざまな推測がなされている。…
…中国において,仏教は老子が説いた教えであるという虚構の説。すなわち,西方の関所をこえて姿をかくしたと伝えられる老子は,実は胡地におもむいて性質のひねくれた胡人を教化するために仏教をはじめたのだといい,したがって仏陀は老子の変化身にほかならないと説かれる。…
※「老子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新