平安中期の廷臣,書家。〈こうぜい〉とも呼ばれる。父は藤原義孝(摂政伊尹(これただ)男),母は源保光女。祖父伊尹は彼の誕生の年に没し,父にも幼時に死別,また叔父義懐は花山天皇の外戚として力があったが,兼家一門の謀計で譲位が行われると出家したので,外祖父保光の庇護の下に成長した。やがてその才能を認められ,995年(長徳1)前任者源俊賢の推挙で蔵人頭に抜擢され,以後弁官も歴任し活躍する。一条天皇,左大臣藤原道長の信任厚く,道長女彰子立后の際の彼の上奏は効果があった。1001年(長保3)参議,以後中納言を経て権大納言に昇る。故実に精通し,執務ぶりはきわめて励精で,後世藤原公任,同斉信,源俊賢とともに四納言と称せられる。仏教信仰も深く,保光より伝領した桃園第を寺とした(世尊寺)。日記《権記(ごんき)》はこの時代の重要な史料の一つ。27年,道長と同日に没した。
執筆者:黒板 伸夫 書家としての行成は,三蹟の一人とされ,官位が権大納言であることからその筆跡を〈権蹟(ごんせき)〉といわれた。小野道風にはじまった書道の和様化が藤原佐理を経てさらに進行し,行成で円熟したとみることができる。行成の没後,その家系は世尊寺の名で呼ばれ,書道を家業として続いた。その流派が世尊寺流である。この流派が後の御家流に続くわけであるが,それが凡俗に陥るには流祖行成の書風の中にもその種がないとはいえない。行成は有能な官吏でもあり,時の権威道長に人柄を愛され,清少納言にもよく思われ,《枕草子》には行成があらわれる。行成と称する書跡は少なくないが,その筆跡判定の出発点は〈東南院文書〉長徳4年(998)12月16日太政官牒の彼の自署と御物寛弘2年(1005)2月10日付〈敦康親王初覲(しよきん)関係文書〉におくべく,これをもとに《舞姫帖》《拾遺納言定文草案》《行成詩稿》を自筆とみとめることができ,さらに《白氏詩巻》(東京国立博物館),《後嵯峨院本白氏詩巻》(正木美術館),《本能寺切》(本能寺)あたりまでひろげることができよう。しかし以上は真名(漢字)のみで,しばしば行成と鑑定されているかなについては,確実なものを得がたく,わずかに前記《拾遺納言定文草案》の紙背の二十数字を出発点として吟味すべきと考えられる。
執筆者:田村 悦子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安中期の公卿(くぎょう)、能書家。小野道風、藤原佐理(すけまさ)とともに「三蹟(さんせき)」の一人。「こうぜい」ともいう。右近衛(うこんえ)少将義孝(よしたか)の子、一条摂政伊尹(せっしょうこれただ)の孫。正二位・権大納言(ごんだいなごん)に上り、公任(きんとう)、斉信(ただのぶ)、俊賢(としかた)とともに「四納言」と称されて多芸多才で聞こえたが、とりわけ能書で名をあげた。23歳で宣命(せんみょう)の清書を奉仕したのをはじめ、上表文(じょうひょうもん)の清書、大嘗会悠紀主基屏風(だいじょうえゆきすきびょうぶ)の色紙形(しきしがた)や内裏(だいり)の殿舎・門額(もんがく)の揮毫(きごう)、願文(がんもん)の清書などと活躍し、輝かしい能書事蹟を残す。伝統的な王羲之(おうぎし)書法と私淑した小野道風の書法を規範としながら、洗練された優麗典雅な独自の書風で和様の完成者としての地位を築いた。その書は「権跡(ごんせき)」とよばれて尊重され、わが国書道史に多大な影響を与えた。万寿(まんじゅ)4年12月56歳で没。日記『権記』を残す。真蹟では書状のほか『白氏詩巻』(東京国立博物館)、『本能寺切(ぎれ)』(京都・本能寺)、『白氏文集(もんじゅう)切』(静岡・MOA美術館ほか)が伝存する。
また行成の一系は代々能書の家柄として栄え、つねに宮廷書道界を支配して和様の伝統を保ち続け、17代の行季(ゆきすえ)(1472―1532)にまで及ぶ。行成が外祖父源保光(やすみつ)の邸を伝領し、改築して世尊寺(せそんじ)を建立したが、8代行能(ゆきよし)がそれを家名としたことから後世、世尊寺流とよばれる。
[神崎充晴]
『中田勇次郎編『書道芸術 15 藤原行成』(1975・中央公論社)』▽『小松茂美監修『日本名跡叢刊 12 藤原行成/白氏詩巻・本能寺切』(1977・二玄社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(朧谷寿)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
972~1027.12.4
「こうぜい」とも。平安中期の公卿。義孝の子。摂政伊尹(これまさ)の孫。母は源保光の女。祖父・父を幼時に亡くして昇進が遅れたが,995年(長徳元)蔵人頭(くろうどのとう)となってからは一条天皇・藤原道長の信任厚く累進した。左中弁・右大弁をへて,1001年(長保3)参議,09年(寛弘6)権中納言,20年(寛仁4)権大納言。一条朝の四納言の1人に数えられる。能書家で三蹟(さんせき)と称され,世尊寺(せそんじ)流の祖。真跡として「白氏詩巻」「消息」(いずれも国宝)などが伝わる。日記「権記(ごんき)」は,政務手続きや一条天皇・道長との交渉をよく伝える。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…平安中期の廷臣,書家。〈こうぜい〉とも呼ばれる。父は藤原義孝(摂政伊尹(これただ)男),母は源保光女。祖父伊尹は彼の誕生の年に没し,父にも幼時に死別,また叔父義懐は花山天皇の外戚として力があったが,兼家一門の謀計で譲位が行われると出家したので,外祖父保光の庇護の下に成長した。やがてその才能を認められ,995年(長徳1)前任者源俊賢の推挙で蔵人頭に抜擢され,以後弁官も歴任し活躍する。一条天皇,左大臣藤原道長の信任厚く,道長女彰子立后の際の彼の上奏は効果があった。…
…藤原行成の日記。書名は行成の極官,権大納言にもとづく。…
…平安中期の能書家,小野道風,藤原佐理(すけまさ),藤原行成(ゆきなり)の3人,またその書をさす。中国や日本では名数が好まれたが,書道のうえでも平安初期の嵯峨天皇,橘逸勢(はやなり),空海が〈三筆〉と称され,〈三蹟〉はこれに対応する。…
…また,嵯峨天皇より約1世紀を経た醍醐天皇には,《白氏文集》を大字で揮毫した巻物が遺存するが,草書の率意の書でまったく和風の線質となり,小野道風の《玉泉帖》に通ずるところが見え,和様書道の成立期にいたったことを物語っている。この時期が三蹟(小野道風,藤原佐理(すけまさ),藤原行成(ゆきなり))の時代で,道風によって代表される。その筆《三体白氏詩巻》に見える和様の楷書は,滑らかな線質で唐風の鋭利な感触を払拭した丸やかな書体である。…
※「藤原行成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加