頼山陽(読み)らいさんよう

精選版 日本国語大辞典 「頼山陽」の意味・読み・例文・類語

らい‐さんよう【頼山陽】

江戸後期の儒者、史家。安芸国(広島県)の人。名は襄。字は子成。春水の子。柴野栗山の勧めで、一四歳の時、米子の「通鑑綱目」を読む。一八歳で江戸に出て尾藤二洲山崎闇斎に師事。のち京都に塾を開き、梁川星巖、大塩平八郎らと交わった。国史を研究、尊王思想の影響のもとに「日本外史」を著わす。また、詩文・書画もよくした。著は他に「日本政記」「日本楽府」「山陽詩鈔」など。安永九~天保三年(一七八〇‐一八三二

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デジタル大辞泉 「頼山陽」の意味・読み・例文・類語

らい‐さんよう〔‐サンヤウ〕【頼山陽】

[1781~1832]江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人。大坂の生まれ。春水の長男。名はのぼるあざなは子成。18歳のとき江戸に出て経学国史を学び、のち京都に上って私塾を開き、梁川星巌大塩平八郎らと交わった。著「日本外史」「日本政記」「山陽詩鈔」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「頼山陽」の意味・わかりやすい解説

頼山陽
らいさんよう
(1780―1832)

江戸後期の漢詩人、史家。名を襄(のぼる)、字(あざな)を子成、号を山陽・三十六峰外史、通称を久太郎という。広島藩頼春水(しゅんすい)を父に、大坂の町医者飯岡義斎(いのおかぎさい)(1717―1789)の娘静子(1760―1843。号を梅颸(ばいし))を母に、その長男として安永(あんえい)9年12月27日大坂・江戸堀に生まれる。幼時より神経症に悩まされ、治療を兼ねて、18歳のとき叔父杏坪(きょうへい)に伴われて江戸に遊学したが、翌1798年帰郷した。21歳、突如脱藩出奔したが、探し出され、24歳まで自宅の一室に監禁された。この間に『日本外史』の草稿執筆が始まったという。1803年(享和3)廃嫡のうえ、幽閉を許された。1809年(文化6)30歳、父の友人菅茶山(かんさざん)の廉塾(れんじゅく)の塾頭になったが満足せず、1811年、京都に出て塾を開いた。父春水の没後、1818年(文政1)には西遊の旅にたち、約1年間九州各地を遊歴して見聞を広めた。「雲か山か呉(ご)か越(えつ)か 水天髣髴青一髪(ほうふつせいいっぱつ)」という詩句で有名な『天草洋(あまくさなだ)に泊す』という詩は、この旅中の絶唱である。このころから山陽の名も高まり、小石元瑞(こいしげんずい)、篠崎小竹(しのざきしょうちく)、浦上春琴(うらかみしゅんきん)(1779―1846)などの親友や多くの門人に囲まれ、京都の文人界の中心人物となっていった。日本の武家の歴史を記した『日本外史』は、1826年(文政9)に成り、死後出版され幕末の志士たちに読まれて山陽の名を有名にした。ほかに『日本政記』(1832)、『山陽詩鈔(ししょう)』(1833)、『日本楽府(がふ)』(1828)、『山陽遺稿』(1841)などの著作がある。天保(てんぽう)3年9月23日、肺結核により53歳で没した。墓は京都東山長楽寺に現存する。幕末の志士三樹三郎は山陽の三男。

[揖斐 高 2016年7月19日]

頼山陽の思想

山陽はまず歴史家であり、そして文学者であるとともに政論家であった。内憂外患が発生し拡大していった歴史の転換期に生きた山陽は、歴史叙述に自己の天職をみいだして、情熱的な名文によって自己の所信を披瀝(ひれき)した。

 すなわち、歴史過程を倫理的に支配する「天」の応報を、(1)「勢(せい)」に即し政治の得失によって変化する応報と、(2)皇室の祖先の偉大なる積徳と結び付き天皇の君主としての地位を永遠に保障する不変の応報の二つに分け、この二つの「天」の応報観念によって、為政者栄枯盛衰、政権の交替が不可避であること、それにもかかわらず天皇ないし皇室が無窮の存在であること、そして時勢と時機を知ることの重要性などを力説したのである。

[石毛 忠 2016年7月19日]

『木崎愛吉・頼成一編『頼山陽全書』全8巻(1931~1932・頼山陽先生遺蹟顕彰会/復刻版・1983・国書刊行会)』『植手通有校注『日本思想大系49 頼山陽』(1977・岩波書店)』『頼惟勤編訳『日本の名著28 頼山陽』(1984・中央公論社)』『中村真一郎著『頼山陽とその時代』(1971・中央公論社/中公文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「頼山陽」の意味・わかりやすい解説

頼山陽 (らいさんよう)
生没年:1780-1832(安永9-天保3)

江戸後期の儒学者,詩人。名は襄(のぼる),字は子成,通称は久太郎,山陽は号。別号三十六峰外史。朱子学者頼春水の長男として大坂に生まれ,1781年(天明1)春水の広島藩儒登用後,しばらくして広島に移居。叔父杏坪(きようへい)の指導で素読を始め,9歳で学問所に入学,早くより詩文に才をあらわした。1797年(寛政9)より約1ヵ年江戸に遊学し尾藤二洲(びとうじしゆう)に師事。この前後,ときに気鬱の病を発していたが,1800年脱藩,連れ戻されて一室に幽閉された。やがて読書を許され,この間史書執筆を志し,《日本外史》を起稿。03年(享和3)廃嫡となり,2年後に門外自由の身となった。09年(文化6)備後神辺の菅茶山(かんちやざん)の廉塾の後継者に招かれたが,1ヵ年余りの滞在で上京,やがて新町に開塾した。18年(文政1)西遊。京都文人社会でしだいに地歩を占め,22年には三本木の水西荘に移居,ここに書斎〈山紫水明処〉を営んで,門弟教育のかたわら多くの文人墨客と交わり,各地を遊歴し,詩文・書画をつくり愛好する自由な境涯を楽しみとした。26年《日本外史》を完成,翌年松平定信に献上。続いて《通議》《日本政記》の執筆にとりかかり,前者を完成,後者をほぼ脱稿して病没した。

 その学問は朱子学を奉じたが,実用の学たることを重視した。詩文にすぐれ,文は近世後期の第一人者と称され,詩は虚構を排し,つとめて実際を述べ,とくに詠史詩に巧みであった。書は円滑自在で一家をなし,儒学者の書としては最も高い評価を得ている。上記の史書三部作や自選の詩集《山陽詩鈔》などは死後の刊行で,生前の出版は《日本楽府》のみである。《日本外史》《日本政記》は簡潔な名文で多くの読者を得,その史観は幕末・維新期の思想界に大きな影響を及ぼしたといわれる。著述は以上のほか門弟たちがまとめた《山陽先生書後題跋》《山陽遺稿》などがあり,《頼山陽全書》に伝記とともに集大成されている。
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百科事典マイペディア 「頼山陽」の意味・わかりやすい解説

頼山陽【らいさんよう】

江戸後期の儒学者,詩人。安芸(あき)の人。名は襄(のぼる),字は子成,通称は久太郎。朱子学者頼春水の子。尾藤二洲に学ぶ。1800年脱藩するが連れ戻されて幽閉され,この間史書執筆を志し,《日本外史》を起稿した。のち廃嫡となり,菅茶山の塾の後継者として招かれ,1年余滞在ののち京都で開塾。詩文書画の名が高く,多くの文人墨客と交わった。簡潔な名文と名分論的な歴史観により幕末に愛読者を得た。著書は他に《日本政記》《通議》《日本楽府》《山陽詩鈔》《山陽遺稿》など。
→関連項目竹原[市]耶馬渓頼春水頼三樹三郎廉塾

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「頼山陽」の意味・わかりやすい解説

頼山陽
らいさんよう

[生]安永9(1780).12.27. 大坂
[没]天保3(1832).9.23. 京都
江戸時代後期の詩人。名は襄 (のぼる) 。字は子成。安芸藩の儒者春水の長子で広島で成人し,18歳のとき江戸に遊学して尾藤二洲の門に入った。のち病のため廃嫡の身となり,郷里を出て菅茶山の廉塾の塾頭となったが,文化8 (1811) 年京都に塾を開き,詩を教えた。文政1 (18) 年に九州を旅行して広く文人,儒者と交わり,詩才を発揮し,帰京後は詩文の両面で活躍した。彼は従来の風物詩のほかに新しく詠史のジャンルを開拓し,『日本楽府 (がふ) 』 (28) をつくった。また『日本外史』 (22巻,36) や『日本政記』 (16巻,32成立) などの通俗的な史書を書いたが,その力強く生気の躍動する文章は広く国民の間に愛好され,後世の人々に大きな影響を与えた。ほかに『山陽遺稿』や『山陽詩鈔』 (8巻,33) などがある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「頼山陽」の解説

頼山陽
らいさんよう

1780.12.27~1832.9.23

江戸後期の儒学者・詩人・歴史家。父は春水。母は梅颸(ばいし)。名は襄(のぼる),字は子賛・子成,通称は久太郎。山陽・三十六峰外史と号す。大坂生れ。広島藩儒の父に従って広島に移る。叔父杏坪(きょうへい)に学び,江戸遊学後,一時情緒の安定を欠き,1800年(寛政12)脱藩したため座敷牢に幽閉される。のちに菅茶山(かんちゃざん)の廉塾をへて上京。篠崎小竹や梁川星巌(やながわせいがん)などと交わり,歌作の旅での交友も多い。歴史家としても著名で,「日本外史」「日本政記」で展開した史論は,幕末の志士たちの歴史意識・尊王思想の形成に多大な影響を与えた。「新策」「通議」などの政策論や,「日本楽府」「山陽詩鈔」などの著書もある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「頼山陽」の解説

頼山陽 らい-さんよう

1781*-1832 江戸時代後期の儒者。
安永9年12月27日生まれ。頼春水の長男。母は頼静子。江戸で尾藤二洲(じしゅう)らにまなぶ。21歳で安芸(あき)広島を出奔,脱藩の罪で自宅幽閉となる。赦免ののち,京都で開塾。詩,書に才能を発揮。幽閉中に起稿した「日本外史」は,幕末の尊攘派につよい影響をあたえた。天保(てんぽう)3年9月23日死去。53歳。大坂出身。名は襄(のぼる)。字(あざな)は子成。通称は久太郎。別号に三十六峰外史。著作はほかに「日本楽府(がふ)」など。
【格言など】われに一腔(いっこう)の血あり。其(その)色はまさに赤く,其性は熟す(結核闘病中にうたった「喀血の歌」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「頼山陽」の解説

頼山陽
らいさんよう

1780〜1832
江戸後期の儒学者・史論家・詩人
広島藩の儒学者春水の子。18歳のとき江戸に出て尾藤二洲に師事し朱子学・国学を学んだ。21歳のとき広島藩を脱藩した罪で一時監禁された。その後京都に出て,『日本外史』22巻を書き,松平定信に献じた。史論とともにすぐれた詩才でも有名。格調の高い情熱的な文章は幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。その他の著書に『日本政記』『日本楽府』など。

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367日誕生日大事典 「頼山陽」の解説

頼山陽 (らいさんよう)

生年月日:1780年12月27日
江戸時代後期の儒学者
1832年没

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世界大百科事典(旧版)内の頼山陽の言及

【日本外史】より

…源平両氏から徳川氏に至る歴史を,司馬遷の《史記》世家の体裁にならい漢文体で叙述した歴史書。頼山陽の著。1800年(寛政12)脱藩後の幽閉中に執筆を始め,その後推敲(すいこう)を重ね,論賛を加えて26年(文政9)完成。…

【日本政記】より

…神武天皇から後陽成天皇に至る編年体の歴史書。頼山陽の著。山陽没年の1832年(天保3)にほぼ脱稿,門人の関藤藤陰らが完成。…

【フランス】より

…この頃,オランダ商館からのニュースによる《風説書》や斎藤拙堂(正謙)の著作でナポレオンの活躍は日本人の注目を浴びた。佐久間象山も憧れ,頼山陽は1818年(文政1)に在世中のナポレオンをたたえる詩《仏王郎詩》を書いている。 松代藩の蘭学者,村上英俊はスウェーデンの学者ベーセリウスの《化学提要》を注文したところ,フランス語の原本が届いたことからフランス語を独学で覚え,1854年(嘉永7)《三語便覧》3巻,64年(元治1)《仏語明要》4巻を刊行し,仏学の祖といわれた。…

【文章軌範】より

…一方,日本へは室町時代の末に伝来し,江戸時代にはひろく普及した。頼山陽に《謝選拾遺》6巻の補選および《評本文章軌範》7巻がある。そのほか海保漁村の《補注文章軌範》など多くの注釈書が刊行された。…

※「頼山陽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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