エジプト音楽(読み)エジプトおんがく

改訂新版 世界大百科事典 「エジプト音楽」の意味・わかりやすい解説

エジプト音楽 (エジプトおんがく)

古代エジプト社会における音楽の重要性は,神殿や王墓に残された絵画,浮彫などの豊富な図像学的資料,発掘された種々の楽器とその断片など考古学的資料,およびエジプト文字で書かれた文献,古代ギリシア・ローマの著述家の文献からもうかがい知ることができる。神話上の神々の多くも音楽となんらかの関連をもつ。オシリスは優れたシストルム奏者であった。第21王朝の時代に至上神アメンに仕えた王女たちの聖務の一つは,神前でシストルムを奏でることであり,典礼に音楽は不可欠のものであった。

 楽器の種類としてはシストルムをはじめ拍子木,シンバル,鈴のような体鳴楽器が圧倒的に多いが,太鼓やタンバリンのような膜鳴楽器,リラ,リュート,ハープのような弦鳴楽器,竪笛,双管のリード・パイプ,トランペットなどの気鳴楽器など,きわめて多様な楽器が存在し,これらが古代エジプト人の社会生活の中で決まった方法で用いられ,それぞれの機能をもっていたことがうかがわれる。

 アレクサンドロス大王のエジプト征服(前332)後,エジプトのギリシア化が始まったが,この時期にギリシアとエジプトの音楽・楽器の交流があったと想像される(ギリシア音楽)。次いで前30年にエジプトはローマ帝国の属州となり,ローマ人の支配が以後つづく。このグレコ・ロマン時代の考古学的発掘品の中に青銅製のシンバル(大,中,小各サイズ)とクロタル(鈴)が見られる。青銅製の鐘もやはりこの時期以後エジプトで用いられるようになったと考えられる。3世紀末からビザンティン帝国時代が始まり,これが7世紀前半までつづくが,この時代のエジプトでキリスト教とりわけコプト教会の典礼音楽が行われていたことは特筆に値する(コプト音楽)。641年イスラム教徒がエジプトに侵入し,以後エジプトの音楽のアラブ化・イスラム化が始まり,16世紀から約300年つづいたオスマン・トルコの支配を経て,今日に至る。

 今日のエジプトの伝統音楽は,各地方の民俗音楽と,都会で行われているアラブ古典音楽の二つに大別される。前者は様式上さらに四つのタイプに分けられる。(1)ナイル川が地中海へ注ぐデルタ地帯,(2)ギーザ以南の上エジプト,(3)アスワンから南のスーダン国境に至るヌビア地方,(4)東部および西部の砂漠地帯である。

 デルタ地帯は首都カイロをはじめ大都会を含むいわゆるマスリー(エジプト方言)地域で,この地方の民俗音楽にはアラブ古典音楽の影響が見られる。結婚式その他の祭事に雇われる専業音楽家・舞踊家ガワージーの存在は注目される。民俗楽器としてミズマールチャルメラの一種)とタブラ・バラディー(両面太鼓)があげられる。上エジプトの民謡には5音音階的な節回しが目だつ。楽器はサラーミーヤ(尺八タイプの竪笛),タール(枠太鼓),小型のミズマール,タブラなど。さらに南のヌビア地方では5音音階による民謡が圧倒的に多くなる。楽器としてタールとタンブーラ(5弦のリラ)が見られる。東西の砂漠地帯にはシワ,ハールガ,ファラフラをはじめとする大小のオアシスの町が点在するが,そこの住人の大半はベルベルで,彼らの民謡には長3度や短3度のペンタコルド(5度枠の4音列)を基本とした節回しが多い。

 エジプトの大衆音楽は20世紀になってから,各地方の民謡,流行歌,アラブ古典音楽,そして西洋音楽からさまざまな要素を採り入れつつ,独自の発展を遂げた。とりわけ半世紀以上にわたって歌の女王として君臨したウンム・クルスームと彼女のために数多くの歌を作曲したM.アブド・アルワッハーブ(1910- )は,エジプトの大衆音楽の様式に一時代を画した。
アラブ音楽 →イスラム音楽
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エジプト音楽」の意味・わかりやすい解説

エジプト音楽
えじぷとおんがく

古代エジプトの音楽については、当時の諸王朝の遺跡に残された楽器、絵画、彫刻、浮彫りなどの考古学的・図像学的分析を通して、楽器の形態や演奏法などは、かなりの程度明らかにされている。

 先史時代から中王国時代にかけての前半期(前1780年ごろまで)に用いられた楽器には、骨製・木製の拍子木と鳴子、金属製シストルム(がらがらの一種)、葦(あし)製・籐(とう)製の縦笛(多くは4~6孔)、葦製の双管単簧(たんこう)パイプ(クラリネット属)、小型の弓型ハープ(3~9弦)、円形の両面枠太鼓、木製の円筒型太鼓、土製・青銅製の樽(たる)型太鼓などがある。これらの楽器の多くに動物装飾が施されていることから、初期における音楽とアニミズム信仰との関連が推測されており、またのちには、シストルムやハープなどは諸種の神々の象徴と考えられるようになった。新王国時代から末期王朝時代に至る後半期(前332年まで)には、アジアから多くの新しい楽器が流入し、それまで用いられていた楽器は変形もしくは消失した。新しい楽器には、葦製の双管複簧パイプ(オーボエ属)、金属製トランペット、大型のリュート(細い棹(さお)にはフレットがつけられ2~3弦が張られている。プレクトラム使用)、対称型リラ(プレクトラム使用)、大型の角(かく)型ハープ(21~23弦)、長方形の両面枠太鼓などがある。この時代の特徴としては、楽器が大型化したこと、女性の専門的音楽家が目だって活躍したこと、そしてそれまでの静かでおとなしい演奏が、にぎやかで刺激的な演奏に変わっていったこと、などがあげられる。

 アレクサンドロス大王のエジプト遠征(前332)以後、ギリシアとの相互影響関係が音楽面でも顕著になった。たとえばアウロス(オーボエ属複簧楽器)やキタラ(大型のリラ属撥弦(はつげん)楽器で、ギターやチターの語源となったもの)などの新しい楽器がギリシアからエジプトにもたらされた一方、エジプト音楽はギリシアの多くの哲学者や歴史家の関心をひき、その一部は実際にギリシア音楽に受け継がれていった。またこれに続くローマ時代(前30年以降)には、キリスト教の一分派であるコプト教会を中心とした音楽が大きな特徴となった。このいわゆるコプト音楽は典礼歌歌唱を主とするもので、これにトライアングル、鐘、金属製カスタネットなどによる簡単な伴奏がついた。

 7世紀になるとエジプトはアラビア人によって征服され、イスラム音楽圏内に入った。この時期以後、長期にわたってアラビア、トルコ、アルメニアなどからウード(リュート属)、カーヌーン(チター属)、ラバーブ(リュート属)、ネイ(笛)といったアラビア古典音楽の楽器が数多く流入し、同時に音楽家、作曲家、音楽理論家も移入してきて、演奏面でも理論面でもアラビア化が進んだ。さらに19世紀後半からのイギリスやフランスの支配時代には、西欧音楽の影響も受けるようになり、とくに音楽理論の近代的整備が進められた。今日では、こうしたアラビア系古典音楽のみならず、ミズマール(複簧木管楽器)、アルグール(双管クラリネット)、タブラ(両面太鼓)、タール(枠太鼓)などを用いる民俗音楽も各地で盛んに行われている。

[山田陽一]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エジプト音楽」の意味・わかりやすい解説

エジプト音楽
エジプトおんがく

古代エジプトの数千年にわたる音楽文化に関しては,諸王朝の遺跡から発掘された豊富な考古学的資料およびメソポタミア文化との比較により,かなり詳しく考察されている。前40世紀頃に拍子木の類が現れるが,これはアニミズムと結びついていた。シストルムは女神ハトルの楽器とされていた。古王国時代中王国時代を通じ宮廷音楽家は高い地位を占めていた。新王国時代(第18~20王朝)になると女性の楽人が宗教音楽と世俗音楽の両方で活躍するようになる。楽器は体鳴楽器類のほか,太鼓,尺八属の縦笛,双管クラリネットオーボエトランペット,各種ハープリラ,長い棹で皮張りのリュートなどその種類は多い。これらのいくつかは前4世紀にギリシアの支配下に入ると,ギリシア人に受け継がれた。聖マルコが教会を設立したアレクサンドリアはキリスト教典礼音楽の重要な中心地となり,コプト教徒(→コプト教会)によりその伝統は今日もなおうたい継がれている。7世紀以後のエジプトはイスラム化され,アラブ文化の一つの中心地となって,アラブ音楽が盛んに行なわれるようになる。16~19世紀のオスマン帝国治下で,エジプトの古典音楽はトルコ音楽の影響を受け,その伝統は今日まで続いている。1871年にはカイロにオペラハウスが建てられ,そのこけら落しのためにジュゼッペ・フォルトゥニノ・フランチェスコ・ベルディは『アイーダ』を書いたが,この頃よりヨーロッパ音楽の輸入が盛んになった。エジプト革命後,アラブ連合共和国(今日のエジプト・アラブ共和国)としてのエジプトは,アラブ古典音楽の重要な中心地となり,同時にその近代化にも力を入れた。

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