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スペインの作曲家。カディス生まれ。バレンシア地方(父方)とカタルーニャ地方(母方)の血を継ぐファリャは、フランスの友人デュカース、ドビュッシー、ラベルらに強い影響を受けたものの、スペインの民俗的素材をよりどころにした独自の作風を築き、ハンガリーのバルトークにも匹敵する功績を残した。
幼少より母にピアノの手ほどきを受け、ショパンを好んだ。1890年代後半からマドリード王立音楽院でショパンの孫弟子ホセ・トラゴにピアノを、1902年からは同地で作曲をペドレルFelipe Pedrell(1841―1922)に学び、オペラ『はかなき人生』(1905)によって作曲家の地位を築いた。07年から7年間パリに住み、スペイン生まれのピアノ奏者ビニェスや、デュカースらと親交を結んだ。交響的印象『スペインの庭の夜』(1911~15)は印象派の影響を示すが、二つの傑作バレエ『恋は魔術師』(1914~15)と、ディアギレフと組んで作曲した『三角帽子』(1918~19)には、スペイン色が濃く出ている。また人形劇オペラ『ペードロ親方の人形芝居』(1919~22)や、チェンバロ協奏曲(1923~26)にはストラビンスキーへの接近がみられる。しかし、スペイン内戦の勃発(ぼっぱつ)した36年に病を得てからは人前を避けるようになり、39年にはアルゼンチンに渡り、二度と祖国に戻ることなく、アルタ・グラシアに没した。晩年にはみるべき作品は少ない。
[船山信子]
『興津憲作著『ファリャ』(1987・音楽之友社)』
スペインの作曲家。同国近代の民族主義楽派を代表する存在。カディスに生まれ,ピアノをよくした母につき幼い頃より音楽を学ぶ。20歳のときマドリードへ転居,ピアノをショパンの弟子のトラゴーに,作曲・理論をペドレルについて修得。1905年,オペラ《はかなき人生》がマドリード音楽院主催の作曲コンクールに1等賞を得て注目され,07-14年パリに留学。同地でドビュッシー,デュカース,ラベルらと交遊,近代的な美的感覚に根ざす高度な作曲技法を身につけた。
帰国後,ピアノと管弦楽のための《スペインの庭の夜》(1915),歌曲《七つのスペイン民謡》(1914),バレエ曲《恋は魔術師》(1915),同《三角帽子》(1919)などの傑作を発表,スペイン国内のみならず世界的に名声を挙げた。ことに民族的素材の洗練された扱い方と,色彩的な管弦楽法は卓越しており,彼によって初めてスペインは世界に誇る演奏会用管弦楽曲をもったといえる。しかし生来,健康には恵まれなかったファリャは,20年ころからグラナダ市近くの山荘に引きこもり,よりいっそう20世紀的な感覚を強めた意欲作(人形劇《ペドロ親方の人形芝居》1922,《ハープシコード協奏曲》1926ほか)を発表したのち,大作カンタータ《アトランティダ》の作曲に専念した。スペイン内乱後,39年にアルゼンチンへ渡り,《アトランティダ》を未完のまま死去した。
執筆者:浜田 滋郎
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