改訂新版 世界大百科事典 「ポーランド演劇」の意味・わかりやすい解説
ポーランド演劇 (ポーランドえんげき)
ポーランドでの近代的な意味での劇場の開設は,1765年ワルシャワの〈国民劇場Teatr Narodowy〉を始めとする。その演劇の源流はヨーロッパのラテン文化と流れを共にし,13世紀に始まる宗教劇も16世紀に興る学生劇も,ラテン語で演じられた。王室をはじめ,大貴族や各教団が芝居に凝りだすのは17世紀以降で,代々の国王は好みに応じ,イギリス,イタリア(オペラ,バレエを含む),フランスから長期にわたり劇団を招くならわしであった。こうして,数少ない上演ながら,シェークスピア劇もフランス古典劇もほぼ同時代に知られた。自国語による芝居も,奇跡劇,道徳劇の幕間劇の形で16世紀半ばには生まれ,コルネイユ(《ル・シッド》)やラシーヌ(《アンドロマック》)も17世紀後半に翻訳台本で演じられた記録がある。〈国民劇場〉は立憲君主制を目ざす進歩的な国王スタニスワフ・アウグストの創設で,命名は〈外国のではない〉という趣旨によるというが,政治思想宣伝の場としてロシア当局から警戒されながら,しだいに芸術性を高めていく。亡命詩人の諸作ばかりか,〈為政者に対する反逆の陰謀が目にあまる〉としてシェークスピアまで締め出し,〈国民劇場〉の名称さえ禁じたロシアの支配下に,演劇が教会と並んでポーランド語,ポーランド性を守りぬく底力は,この劇場で培われた。
祖国喪失の期間(1795-1918),自由の幅が最も広がったオーストリア領のルブフ(現,ウクライナ領リボフ),クラクフではロシア領と異なり,J.スウォバツキ,A.ミツキエビチ,Z.クラシンスキらの新作も上演できたのに対し,プロイセン領のポズナンではポーランド人劇場は1870年まで許されていない。ワルシャワなど各地の劇場は,ロシアの演目を拒否する姿勢を守り抜いた(ゴーゴリはウクライナの作家だから除外された)。この間,前記のほか,ボグスワスキWojciech Bogusławski(1757-1829),フレドロAleksander Fredro(1793-1876),S.ビスピャンスキらの劇作が目だち,作品は今日も上演される。
第2次世界大戦後は,〈国民劇場〉の再建された1949年には各地劇場の官有化が完成,社会主義リアリズムの押しつけもあったが,55-56年の〈雪どけ〉は演劇界にも本来の自由と自立を回復させた。その演劇界が政権と正面衝突したのは,68年と81年とである。68年の〈三月事件〉は,ミツキエビチ《父祖の祭》(K.デイメク演出)の上演禁止に端を発した知識人・学生の抗議に対して弾圧が下されたものであるが,伝統ある〈国民劇場〉がその火元であったのは象徴的である。戦時中,占領軍の保護下に発足した劇場を総ボイコットした精神は,81年,戒厳令強行に抗する俳優らの出演拒否に再現され,このため当局は〈舞台俳優組合(ZASP)〉を解散させた(1982)。
戦後40年,真にポーランド的な演劇を築いてきた功績は,劇作家S.ムロジェク,T.ルジェビチ,演出家A.ワイダ,アクセルErwin Axer(1917-92),ハヌシュキエビチAdam Hanuszkiewicz(1924- ),T.カントル,J.グロトフスキ,俳優ホロウベクGustaw Holoubek(1923- ),シフィデルスキJan Świderski(1916-88),エイフレルブナIrena Eichlerówna(1908-90),ミコワイスカHalina Mikołajska(1925-89),シロンスカAleksandra Śląska(1925-92),ウォムニツキTadeusz Łomnicki(1927-92),装置家J.シャイナら多彩をきわめる。彼らが好んで演ずるS.I.ビトキエビチ,W.ゴンブロビチ(ともに故人)のグロテスク劇の現代批判が演劇の主流であり,国際性もここに存する。ただ,演劇界が自由独立労働組合〈連帯〉に打ちこんだ一時期を除けば,労働者と演劇の結びつきは映画とテレビの枠を出ない。
ポーランド演劇の魅力は,(1)古典と前衛性,(2)伝統と民族性,(3)リアリズムと幻想性,などの多彩な共存と,演出・演技・美術面での個性的才能の存在である。たとえばカントルは設備の乏しい室内で素人(しろうと)演技者を使って,時空を超え黒と白だけのコラージュ的芝居を現出する。グロトフスキは肉体そのものが語る,いっさいの慣習から自由な〈貧しい演劇〉を追求するあまり非演劇へ向かい,シャイナはアウシュビッツの体験に出発して,音響と色彩の爆発するなかで演技や台詞(せりふ)さえ無意味と化する怪奇と混沌の世界へ観客を陥れる。ハヌシュキエビチは舞台狭しと駆けめぐるホンダのオートバイを古典劇にもちこみ,ワイダは歌舞伎の黒衣の群れに〈悪霊〉の手先どもを演じさせた。このほか屋外に,工場に,サーカスのテントに舞台を求める演出家,一人芝居を興行する役者の活動のみられたのが70年代の後半であった。
82年以降の軍政下では,ハヌシュキエビチが〈国民劇場〉,ホロウベクが〈ドラマ劇場〉,シャイナが〈スタジオ劇場〉から,それぞれ座長の席を追われると,少なからぬ役者が彼らに従って演劇界に沈滞が訪れるかにみえた。しかし,この人びとが演劇から締め出されたわけではなく,ポーランド演劇の活力は支配構造の変化を乗り越えて前進しつつある。それは民族的伝統に根ざしながら,つねに台本に新解釈を加えて実験を恐れない演劇人と,それを支える観客の健在ぶりに示されている。
執筆者:工藤 幸雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報