東欧演劇(読み)とうおうえんげき

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

東欧演劇
とうおうえんげき

東欧の中世以降の演劇史は、ほぼ西欧のそれと軌を一にするが、19世紀以降はそれぞれ独自の民族的演劇が生まれた。第二次世界大戦後の東欧諸国では社会主義国家建設のもとで国家の助成が行われ、人形劇や児童劇も盛んであった。しかし、1989年以降の体制変革後は国家の支援も減少するなど、低迷している。なお、旧東ドイツは「ドイツ演劇」の項目を参照されたい。[山田正明]

ポーランド

他の西欧諸国と同様に、中世の教会内のラテン語の対話劇がポーランド演劇の起源となっている。それがやがて世俗化し、ラテン語がポーランド語にとってかわられた。初期の劇作家としては、カトリックの影響を受けた教訓劇を残したレイMikoaj Rej(1505―69)と、初めて政治的主題を舞台にのせたコハノフスキJan Kochanowski(1530―84)がいる。17世紀のスウェーデン軍の侵入とコサック戦争までは、国王や貴族の保護などが幸いして町人階級の演劇なども順調に発展した。1772年から始まる諸外国のポーランド分割によって、演劇は文化のうえで特別な役割を担うことになる。分割期に登場したロマン派の作家ミツキェビッチAdam Mickiewicz(1798―1855)、スウォワツキJuliusz Sowacki(1809―49)、ノルビッドCyprian Kamil Norwjd(1821―83)は、格調高いその詩的作品のなかで、愛国心と民族の誇りを歌い上げ、同胞に大きな力を与えた。ポーランド演劇の大きな特徴である政治性とロマン性はこの期に醸成され、喜劇の祖フレドロAlksander Fredro(1793―1876)も活躍した。
 19世紀末には優れた劇作家・実践家のウィスピヤンスキStanisaw Wyspianski(1869―1907)が現れて後世に絶大な影響を与えた。独立(1918)後の第一次、第二次両世界大戦間、不条理劇の祖ビトキェビッチStanisaw I. Witkiewicz(1885―1939)が登場し、ポーランド演劇に不条理性とアイロニーという特徴を加えた。第二次世界大戦後の演劇界は、イギリスのクレイグの影響を受けた演出家シレルLeon Schiller(1887―1954)、モスクワ芸術座の影響を受けた俳優ヤラチStefan Jaracz(1883―1945)、演出もしたオステルバJuliusz Osterwa(1885―1947)らを中心に復興した。シレルの「記念碑的演劇」と後二者の「心理的写実主義演劇」が社会主義時代のポーランド演劇の二大潮流を形成した。
 1960年代から70年代にかけてポーランド演劇は絶頂期を迎える。劇作家では、ビトキェビッチの不条理性をくむムロジェクSawomir Mroek(1930― )、ルジェビッチTadeusz Rewicz(1921― )が登場し、演出家ではスビナルスキKonrad Swinarski(1929―75)をはじめ、アクセルErwin Axer(1917― )、デイメックKazimierz Dejmek(1924― )、ハヌシュケビチAdam Hanuszkiewicz(1924― )、モスクワ芸術座の影響を受けながらも独自の密教的世界を創造したグロトフスキJerzy Grotowski(1933―99)、主流から外れ独自の世界を構築するカントルTadeusz Kantor(1915―90)など多彩な才能が国の内外で活躍した。
 1980年代前半は軍政の強い統制下で1970年代の活況は失せ、忍従を強いられた。後半はしだいに活気を取り戻しつつあったが、話題性の強い娯楽的な作品が多くみられた。89年の自由化以後は「連帯」政権の文化政策の後退などで、補助金が大幅に削減されたりして、活動は低迷している。さらに文化政策の迷走で政治的な問題に翻弄(ほんろう)され、多くの有能な才能が生かされていない。政治の対立図式のなかで発展してきたポーランド演劇は、長い再生への苦しみのなかで新たな道を模索している。[山田正明]

チェコとスロバキア

チェコとスロバキアは1918年から92年12月までチェコスロバキア連邦を形成していたが、93年にそれぞれ分離・独立した。しかし独立以前の連邦時代においても、言語、歴史の背景から2国の演劇は分けてとらえられていたので、そのように記述する。[村井志摩子]
チェコ
チェコ演劇は、12世紀にラテン語による宗教劇として発生、13世紀に最初のチェコ語による復活祭劇が上演され、15世紀には宗教劇の世俗化をフス派が攻撃、16世紀に宗教劇は学校劇へと移った。19世紀の文芸復興期までチェコ語の演劇は人形劇とともに農村でだけ上演された。19世紀にはテイルJosef Kajetn Tyl(1808―56)ら若い世代が近代劇を樹立、1883年プラハに創設された国民劇場はチェコ演劇の拠点となった。オペラではスメタナが活躍、その後にドボルザーク、ヤナーチェクが続いた。第一次世界大戦後の1918年にチェコスロバキア共和国が成立、チャペックKarel apek(1890―1938)の「ロボット」という言葉を生みだした四幕劇『R・U・R(エルウーエル)』(1920)は全世界の注目を浴びた。また、進歩的文化人の集団「デベトシル」設立(1925)の一環として、ホンズルJindich Honzl(1894―1953)とフレイカJi Frejka(1904―52)は、第一次解放劇場を組織して、チェコ前衛演劇は開花期を迎えた。第二次解放劇場は、ボスコベッツJii Voskovec(1905―81)とベリフJan Werich(1905―80)の風刺音楽劇と合流した。演出家ブリアンEmil Frantiek Burian(1904―59)の活躍など、1930年代はチェコ演劇の最盛期といわれたが、ナチスの台頭により活動停止を余儀なくされた。
 第二次世界大戦後の社会主義社会のなかで演劇の組織は国有化され、1960年代には戦後の最盛期を迎えた。しかし、68年「プラハの春」はチェコ事件によって挫折(ざせつ)、クンデラMilan Kundera(1929― )、トポルJosef Topol(1935― )、ハベルVclav Havel(1936― )らの劇作家や、演出家クレイチャOtomar Kreja(1921― )は国内での活動を禁止された。その後、89年の体制変革により禁止は解除され、新しい活動を展開している。
 チェコとスロバキアの人形劇の歴史は古く、とくにチェコはコペツキーMatj Kopeck(1775―1847)、スクーパJosef Skupa(1892―1957)、マリクJan Malk(1904―80)ら優れた人材を輩出し、1929年にはプラハに国際人形劇連盟ウニマが結成された。スペイブルSpejblとフルビーネックHurvnekの人形名は世界的に有名で、プラハの演劇大学には人形劇科が設置されている。[村井志摩子]
スロバキア
スロバキアの演劇は、15世紀から記録はあるが、スロバキア語による演劇活動は19世紀から始まった。第一共和国成立後の1920年にブラチスラバにスロバキア民族劇場、24年にコシツェに東スロバキア民族劇場、44年にはマルチンにスロバキア室内劇場が創設された。第二次世界大戦後は、チェコ戯曲の上演など交流も盛んになった。劇作家カルバシュPeter Karva(1920― )、演出家ブッツキーJosef Budsk(1911― )、舞台美術家ウイホジルLadislav Vychodil(1920― )らが活躍しているが、劇作家コホウトPavel Kochout(1928― )はチェコ事件で亡命した。89年の体制変革以後は活動を再開した。[村井志摩子]

ハンガリー

中世の宗教劇など西欧の演劇となんら変わることのなかったハンガリー演劇は、16世紀ごろプロテスタントの教義問答劇が現れてから独自性が出てきた。しかし18世紀末まではハンガリー語の演劇はもっぱら教会立の学校でたまに演じられるだけであった。世俗的な職業演劇が現れるのは18世紀の啓蒙(けいもう)時代になってからのことである。このころの劇団は、ハンガリー語を解する都市住民が少なかったこともあって、もっぱら旅回り一座であった。ハンガリー初の常設劇場はドイツ語で上演するもので、1768年にショプロン(エーデンブルク)に建てられた。ハンガリー語で公演する最初の常設劇場は1821年にエルデーイ(英語名トランシルバニア)のコロジュバール(ルーマニア語名クルージュ・ナポカ)に建てられた。1837年にはペシュト・ハンガリー劇場(後の国民劇場)が、1906年にはコロジュバール国民劇場(現在のルーマニア国立歌劇場)が完成し、世紀転換期にはウィーグ(喜劇)座をはじめとする多くの劇場が開場し、ハンガリー近代演劇が開花することになった。
 第二次世界大戦後には社会主義政権が成立し、劇場は国有化され(実際の運営には自治体があたった)、もっぱら教条主義的な演劇が奨励されることになった。しかし1956年のハンガリー事件を契機として教条主義は排され、民間の劇団まで復活するようになった。最近のハンガリーの演劇活動は国際的にも注目され、85年には若手の演出家ピンツェーシュPinczs Istvn(1953― )が日本でエルケーニュrkny Istvn(1912―1981)の『ザ・トート・ファミリー』を演出したほどである。なお、第一次世界大戦の敗戦でルーマニア領になったエルデーイではハンガリー人劇団が優れた活動を続けているが、ハンガリー劇場の統廃合が政府によって推し進められた。
 ハンガリーは1990年、平和裏に社会主義体制に終止符が打たれ、ルーマニアでは市民蜂起(ほうき)によりチャウシェスク独裁政権が倒された。これを契機にルーマニアでも紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながらハンガリー語劇場に対する抑圧は解消しつつある。体制転換後のハンガリーでは劇場の多くは国立から市町村立に移管されるか、民営化された。その結果、多くの劇場は財政難に苦しむことになったが、さまざまな実験劇場も盛んになった。
 ハンガリーが生んだ劇作家にはボルネミッサBornemisza Pter(1535―84)、キシュファルディKisfaludy Kroly(1788―1830)、カトナKatona Jzsef(1791―1830)、シグリゲティSzigligeti Ede(1814―78)、マダーチMadch Imre(1823―64)、チキCsiky Gergely(1842―91)、ヘルタイHeltai Jen(1871―1957)、モルナールMolnr Ferenc(1878―1952)、ネーメットNmeth Lszl(1901―75)らがいる。またエルデーイ在住のシュテーSt Andrs(1927― )をはじめ、若い世代にも優れた劇作家が輩出している。[深谷志寿]

旧ユーゴスラビア

旧ユーゴスラビアが統一国家として存在したのは1918年から92年までである。旧ユーゴでは文化としての演劇は社会主義体制を敷いた連邦共和国成立(1945)以降に始まり、劇場が国有化されたり、新しい劇場が次々と建設された。48年にはベオグラードに演劇の国家的統一の意味をもつユーゴスラビア・ドラマ劇場が開設された。しかし92年以降、相次いで5共和国に分裂・独立した。ここでは各国ごとに記述する。[田中一生]
スロベニア
長らくハプスブルク家の支配下にあったスロベニア人が圧倒的なドイツ化政策に抗しえたのは、民族のアイデンティティ(独自性)としてスロベニア語を維持してきたからだといわれる。そうした文脈のなかで、演劇もきわめて重要な役割を果たしてきた。18世紀末のリンハルトAnton Linhart(1756―95)はその先駆者である。19世紀のユルチッチJosip Juri(1844―81)は戯曲ばかりか、スロベニア語初の小説も書いた。しかし真の近代演劇はツァンカルIvan Cankar(1876―1918)の出現に負っている。シェークスピアを訳し、イプセンばりの社会劇を発表した。さらにシェークスピアの名訳者としては、詩人のジュパンチッチOton upan i(1878―1949)がいる。両世界大戦間期は、ボールMatej Bor(1913―93)、クレフトBratko Kreft(1905―96)らが活躍し、第二次世界大戦後も解放戦争を扱った作品で成功を収めた。ポトルチIvan Ptor(1913―93)、トルカルIgor Torkar(1913― )、スモレDominik Smole(1929―92)らはテーマを広げ、現代生活の矛盾を暴く作品を発表している。[田中一生]
クロアチア
クロアチアの文化は、イタリアの影響を受けたアドリア海沿岸部と、中欧の影響を受けた内陸部の総合によって豊かになった。文学や演劇も例外ではない。中世に海洋都市として繁栄したドゥブロブニク出身のドゥルジッチMarin Dr i(1505―67)は戯曲家として成功し、喜劇『マロエ小父(おじ)さん』は今日もしばしば上演されている。続くグンドゥリッチIvan Gundul i(1589―1638)は多くの牧歌劇を書き、自由をたたえた。内陸部ではロマン主義時代、ブレゾバチュキTito Brezovaki(1757―1805)、デメテルDimitrija Demeter(1811―72)が現われ、シェノアAugust enoa(1838―81)が活躍した。その後ボイノビッチIvo Vojnovi(1857―1929)、両世界大戦間期はクルレジャMiroslav Krlea(1893―1981)が旺盛(おうせい)な演劇活動を展開した。史劇『コロンブス』、第一次世界大戦を扱った『ゴルゴダ』、ブルジョア社会の崩壊を描く『グレンバイ家の人々』などは今日でも好んで上演される。彼の意欲は第二次世界大戦後も衰えず、クルレジャ時代が長く続いた。同時代のツェサレツAugust Cesarec(1893―1941)、デスニツァVladan Desnica(1905―67)、マリンコビッチRanko Marinkovi(1913― )も佳作を残している。[田中一生]
ボスニア・ヘルツェゴビナ
約400年間もトルコの占領下にあったため、ムスリム人(スラブ系イスラム教徒)とセルビア人、クロアチア人が混在する。トルコの影響で人形劇カラジョズが1930年ころまで人気を博した。ユーモアと風刺をきかせて、当代の事件や農民のメンタリティを笑いとばしたのである。近代演劇をもたらしたのは、コチッチPetar Koi(1877―1916)である。オーストリア・ハンガリー帝国の圧制をしたたかなボスニア農民が痛烈に皮肉る『むじな裁判』で、人びとは溜飲(りゅういん)を下げた。両世界大戦間には、サラエボ(サライエボ)のユダヤ人社会を描いたサモコブリヤIsak Samokovlija(1889―1955)、チョロビッチSvetozar orovi(1875―1919)らが出た。第二次世界大戦後は、チョピッチBranko ovi(1915―84)が加わり、青少年向けの小説や戯曲で第二次世界大戦中のパルチザン戦争をユーモアたっぷりに描いた。名画『パーフェクト・サークル』(1997)を監督し、脚本も協力したケノビッチAdemir Kenovi(1950― )ら若手も台頭してきた。[田中一生]
マケドニア
現代マケドニア語が独立言語として認められたのは第二次世界大戦が終了する直前であった。しかし、それ以前から民族意識の覚醒(かくせい)に影響を与えたマケドニア語の演劇活動は活発に行われていた。その代表格はチェルノドリンスキーVojdan ernodrinski(1875―1950)で、自ら戯曲を物し(『頭が痛い』、『ロボットと主人』)、マケドニア初の劇団を結成した。両大戦間はイリョスキーVasilj Iljoski(1902―95)、クルレRisto Krle(1900―75)、パノフAnton Panov(1906―68)らが活躍した。いずれもトルコの圧制や貧困、出稼ぎがおもな主題で、郷土色の強い民謡や民舞が加わったわかりやすい筋で、大衆の人気を博した。第二次大戦後はスコピエの人民劇場の支配人も務めたチャシュレKole aule(1921― )らが人民解放戦争や現代生活の矛盾を描いた。若手では、映画『ビフォア・ザ・レイン』(1994年度ベネチア国際映画祭グランプリ受賞作)の脚本、監督のマンチェフスキーMilo Manevski(1959― )が注目される。[田中一生]

セルビアおよびコソボ

近代セルビアの演劇は、当時ハプスブルク帝国の支配下でブルジョア社会を形成しつつあったボイボディナ地方で発達した。その代表者ポポビッチJovan Sterija Popovi(1806―56)は「セルビアのモリエール」と称され、『守銭奴(しゅせんど)』は今でも上演される。セルビア地方ではヌシッチBranislav Nu i(1864―1938)とスタンコビッチBorisav Stankovi(1875―1927)が今なお人気を博している。前者は、市民生活や官僚を風刺した『容疑者』、『大臣夫人』、後者は没落階級と村の風俗を描いた『コシュタナ』が代表作。第二次世界大戦後はパルチザン文学の劇化や映画化が流行し、シュチェパノビッチBranimir epanovi(1937― )、名画『ジプシーの唄(うた)をきいた』(1967)の脚本、監督のペトロビッチAleksander Petrovi(1929―94)、東京映画祭グランプリ受賞の『ホワイト・ローズ』(1989)で脚本を手がけたペキッチBorislav Peki(1930―92)などが活躍した。しかし、ベオグラードのアテリエ212など、世界的な前衛劇場で活躍する若手の台頭が今後は期待される。アルバニア人が圧倒的に多いコソボでは、スレイマニHivzi Sulejmani(1912― )やシュクレリAzem krelji(1938― )が戯曲にも手を染め、アルバニア語の演劇を育成している。

モンテネグロ

モンテネグロでは、19世紀に聖俗界の首長ニェゴシュPetar Petrovi Njego(1813―51)が、叙事詩劇『栄光の山並み』(1847)をウィーンで出版した。国内の意思を統一し、国家を建設するため、イスラム教に走った同胞と闘わざるをえない主教の悩みを描いたレーゼドラマ(上演せず読むためのドラマ)であるが、いまなお人々に愛誦(あいしょう)されている。[田中一生]

ブルガリア

ブルガリア演劇は教訓的内容をもった対話劇が始まりで、作者はそのなかに自分の教育法を盛り込んだ。ブルガリア語作品の最初の上演は、教師であるドプロプロドニSava Dobroplodni(1820―94)作の喜劇『ミハイル』で、1856年にロムとシューメンで行われた。このとき主役を演じたのが教え子のドゥルメフVasil Drumev(1840/42―1901)で、シェークスピア、プーシキン、ゴーゴリの影響を受け、『イバンク――アセン世の暗殺者』(1872)など芸術性の高い作品を通して、ブルガリア演劇の発達史上重要な役割を果たした。また、やはり教え子のボイニコフDobri Voinikov(1833―78)も、喜劇、史劇、ドラマをもってルーマニアとブルガリアで演劇活動をした。こうして5世紀に及ぶトルコの支配下でようやく演劇が芽生えたわけであるが、その後は、この2人の影響を受けたバーゾフIvan Vazov(1850―1921)が、史劇、政治風刺、コメディ、ロマンチック・ドラマを多数書き、リアリズム路線の先駆けとなった。公演も初期にはいくつもの劇団が地方巡業をしていたが、国家の文化政策の一つとして、1881年プロブディフに、92年にはソフィアに劇場が建てられた。後者は1904年にバーゾフ記念国民劇場の名称を受け、バーゾフの作品をはじめ、ロシアや西ヨーロッパの戯曲も上演された。そしてシーズンのはじめはブルガリアの新作劇で開幕するという伝統もできた。20世紀初頭には民族の伝統を扱ったオリジナルの戯曲、象徴主義の影響を受けたストラシミロフAnton Strashimirov(1872―1938)のコメディ『姑(しゅうとめ)』(1906)をはじめ、ヤーボロフPeyo Yavorov(1878―1914)の『ビトシャ山麓(さんろく)にて』(1911)などが人気を博した。当時の演劇界では俳優兼演出家のポポフIvan Popov(1865―1966)、女優兼演出家のポポバRoza Popova(1879―1949)、演出家スタマトフGeorgi Stamatov(1869―1942)らが活躍した。1920、30年代にはファシズム政権により劇場を追われた俳優もあって苦難を強いられたが、そのことがまた芸術への関心を強め、地方諸都市にも劇場が建てられた。43年には、ソフィアの劇場に二年制の付属演劇学校が創設された。演劇人のモスクワ留学も多く、社会主義政権下で、社会主義リアリズムが主流となる。50年代はスターリン批判の影響で低迷したが、60年代には多くの演劇集団や人形劇団が生まれ、その後、リアリズムの枠を外した作品がみられるようになってくる。国立ブルガス劇場座付き作家で社会問題を取りあげたヨルダノフNedyalko Yordanov(1940― )の『原則の問題』(1972)、造語を得意とし、ユーモラスかつ辛辣(しんらつ)な筆遣いをしたラジチコフYordan Radichkov(1929― )の『夏の体験』(1979)、政府批判をしたストラチエフStanislav Stratiev(1941― )の『バス』(1979)、『朴念仁(ぼくねんじん)』(1983)などが次々と出た。なかでもストラチエフの戯曲は未曽有(みぞう)のロング・ランを続け、諸外国にも巡業して好評を得た。これには俳優バリイスキKiril Varijski(1954―1996)、女優コラロバNina Kolarova(1958― )、作家でもある演出家キセロフMladen Kiselov(1942― )らが好演した。89年に東欧に起こった変革でブルガリアも混迷状態にあったが、ストラチエフが『うさぎの冬の過ごし方』(1995)などを著すほか、イリエフKonstantin Iliev(1937― )、ミンコフMargarit Minkov(1947―97)らが体制移行後の時代を代表するドラマ作家として活躍し、注目を集めた。[真木三三子]

ルーマニア

ルーマニアでは18世紀末までは、世俗の風習や習慣を扱った見世物や外国劇団による宮廷演劇などがみられたにすぎず、民族的職業演劇が成立したのは19世紀前半であった。多数のアマチュア劇団が活躍、ブクレシュティ(英語名ブカレスト)やヤーシにあったルーマニア文化協会や民族解放運動を通じての援助が行われ、民族的演劇活動の核となった。それは1830年代より始まり、52年の「国民劇場」の創設まで続いたが、その指導者がカラジアーレCostache Caragiale(1815―77)であった。19世紀後半には多くの職業劇団が生まれ、M・ミロ、M・パスカリらの名優を輩出し、レパートリーも民族的なものが広がっていった。20世紀初頭から両世界大戦間へと多様な展開をみせ、劇作家のカラジアーレIon Luca Caragiale(1852―1912)をはじめ多くの優れた演劇人を生んだ。第二次世界大戦後はリアリズム演劇がおこり、目覚ましい発展を遂げた。国内には40以上の劇場と20以上の人形劇の劇場があり、ブクレシュティには演劇大学がある。1948年以来演劇祭が開催され、外国との交流も盛んになった。しかし、89、90年の体制変革後、旧共産主義政権の残したさまざまな矛盾が露呈し、経済的な困窮のなかで、その動きは低迷している。[山田正明]
『岩淵達治他著『現代世界演劇の展望』(1972・白水社) ▽松本小四郎著『ヴィトキェヴィッチの世界』(1985・パルコ出版局) ▽ポロニカ編集室編『ポロニカ』(1990・恒文社) ▽タデウシュ・カントール著、鵜英良訳『芸術家よ、くたばれ!』(1990・作品社) ▽パヴェル・コホウト著、大竹國弘訳『愛と死の踊り』(1993・恒文社) ▽沼野充義監修『中欧』(1996・新潮社) ▽スタニスラフ・ストラチェフ著、真木三三子訳『ローマ風呂騒動』(1997・恒文社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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