精選版 日本国語大辞典 「イプセン」の意味・読み・例文・類語
イプセン
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ノルウェーの劇作家。3月20日、テレマークの港町シーエンの裕福な商家に生まれたが、8歳のときに家が破産、手のひらを返すように市民が一家に冷淡になるのをみて人間不信と孤独癖を深めた。上級学校に進めず、堅信礼(けんしんれい)を受けると家を飛び出し、グリムスタの町の薬屋に住み込んで6年を送るが、陰気で反抗心が強く、町の人々に嫌われた。その間に、同家の年上の女中と性関係を生じて一子をなしたが、そのために長らく扶養料を支払うはめになり、このことが彼の人生観、女性観に微妙な屈折を与えたようだ。
大学の医科に入るため独学で受験準備をしながら、町の小新聞に風刺的な漫画や詩を寄せ始め、パリの二月革命(1848)に感激して国王に詩を献じて変人扱いにされるが、それが却下されるとさらに奮い立って、古代ローマの失敗した革命家カティリナに取材した劇にとりかかる。完成したが出版者がみつからず、同じく大学受験を志していた友人が見かねて出版してくれるが全然世評に上らず、わずか30部ほどしか売れなかった。首都クリスティアニア(現オスロ)に出て、その友人の下宿に転がり込んで予備校に通い、ビョルンソン、ビニエらを友人に得たが、金が続かず、苦し紛れに書いた一幕物『戦士の墓』が劇場に採択されて上演されたのを機に、大学進学を断念し、作家としてたつ決心をする。友人たちと『人』という週刊誌を始めるが、社会主義的傾向のために圧迫を受けてまもなく廃刊、貧困のどん底に落ちる。
1851年秋、ベルゲンに音楽家オーレ・ブルが開設した国民劇場に、座付き作者兼舞台監督として招かれ、ようやく苦境を脱する。監督としては失敗だったが、この間に、のちに夫人に迎えたスザンナ・トーレセンと知り合ったことと、つぶさに舞台技巧を研究したことが後の大成に役だった。『エストロートのインゲル夫人』(1855)、『ソルハウグの宴(うたげ)』(1856)は、フランスのスクリーブ、デンマークの浪漫(ろうまん)詩人エーレンシュレーガーなどの影響を受けたが、『ヘルゲランの戦士』(1857)あたりから作品は力強くなる。それは古代北欧サガを研究した結果とみられる。
1857年クリスティアニアに新設されたノルウェー劇場の支配人に転じたが、経営困難で劇場は5年で閉鎖され、ふたたびどん底に落ちる。この間に最初の現代劇『恋の喜劇』(1862)と力強い史劇『王位をうかがう者』(1863)を書くが認められず、自分の才能に深い疑惑を抱くとともに、故国に愛想をつかす。議会からわずかの補助金やビョルンソンらの援助を得て、二度と帰らぬ決意で外遊、ドイツを経てイタリアに行き、明るい南国の空とギリシア・ローマの古美術に触れて生き返った思いをする。「一切(いっさい)か無か」をモットーに理想に献身して倒れる牧師ブランを主人公にした大作『ブラン』(1866)を渾身(こんしん)の力を込めて書き、ようやく名声があがる。ついで『ファウスト』風の遍歴劇『ペール・ギュント』(1867)、前後10年をかけて書いたキリスト教とローマ帝国の争闘に取材し、「肉の王国」と「霊の王国」を経て霊肉一致の「第三帝国」を求める世界史劇『皇帝とガリラヤ人(びと)』(1873)などで思想的立場を確固とさせる。やがて目を現代に向けて、社会の虚偽不正を鋭く暴く社会劇の方向に進む。『青年同盟』(1872)、『社会の柱』(1877)に続いて出した『人形の家』(1879)は、「妻であり母である前に一個の人間として生きたい」とする新しい女ノラの目覚めを描いて、全世界を沸き立たせ、名実ともにイプセンは近代劇の第一人者となった。「生きるとはおのれの中に巣くう悪の力と戦うこと/創作するとはおのれ自身に審(さば)きをくだすこと」と、その詩の一つで歌った彼は、その後もいよいよ深く自己と社会を凝視していき、『幽霊』(1881)、『民衆の敵』(1882)、『野鴨(のがも)』(1884)、『ロスメル屋敷』(1886)、『海の夫人』(1888)、『ヘッダ・ガブラー』(1890)と、一作ごとに新しい境地を開いて世界を熱狂させる。在外28年でようやく故国に帰ったあとは、生涯を回想する象徴的作風に進み、『建築師ソルネス』(1892)、『小さいエヨルフ』(1894)、『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』(1896)が書かれ、ついで自らエピローグとした『われら死者の目ざめる時』(1898)を最後に沈黙。1906年5月23日、クリスティアニアでその波瀾(はらん)に富んだ生涯を終えるが、祖国は国葬をもって彼の業績に報いた。彼ほど一筋に生きた作家は世界にも珍しく、その力強い凝縮された思想と作品によって近代劇を確立させただけでなく、近代思想、婦人解放運動にまで深い影響を及ぼした。日本でもその影響は劇の方面だけではなく、広く多方面に及んでいる。
[山室 静]
『『近代劇全集1・2』(1927、31・第一書房)』▽『内村直也他訳『イプセン名作集』(1956・白水社)』▽『坪内逍遙著『イプセン研究』(1948・大河内書店)』▽『中村吉蔵著『イプセン』(1926・東方出版社)』▽『毛利三弥著『イプセンの劇的否定性』(1977・白凰社)』▽『ブランデス著、布施延雄訳『ヘンリック・イプセン』(1926・新潮社)』
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1828~1906
ノルウェーの自然主義の劇作家。ノルウェーの社会に不満を持ち,1864年以降27年間に及ぶ海外生活を送る。代表作は『人形の家』『ペール・ギュント』『幽霊』など。「近代劇の父」と呼ばれる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…彼と同年生れのC.F.ヘッベルは近代特有の運命悲劇の可能性を唱えた。大工親方一家の新旧道徳観の衝突による悲劇を描いた《マリア・マグダレーナ》(1844)は,イプセンの家庭劇に直接つながるものである。他方,日常的な散文台詞や筋立ての巧妙さなど形式面のリアリズムを推進したのは,18世紀末から19世紀前半にかけての娯楽劇作家たちで,ドイツのA.vonコツェブー,フランスのR.C.G.deピクセレクールに続いて〈うまく作られた芝居〉(ピエス・ビアン・フェット。…
…フランスのデュマ・フィスやÉ.オージェの劇は〈問題劇pièce à thèse〉と呼ばれたが,問題の掘下げ方は表面的だった。C.F.ヘッベルの《マリア・マグダレーナ》(1844)やB.ビョルンソンの《新婚夫婦》(1865),《破産》(1875)などに続いて,イプセンが社会劇を確立したとされる。彼は《社会の柱》(1877)で資本家の偽善をあばき,《人形の家》(1879),《幽霊》(1881)で現代の夫婦関係を批判,《人民の敵》(1882)で大衆の利己主義を告発した。…
…もちろん,性格のあり方は行動を通してうかがい知るほかないのであるから,両者の関係は相互依存的ではあるが,近代的な人間観においては人間の性格はひとつの実体としてとらえられるため,行動は性格に従属すると考えられる。イプセンの作品を典型とする近代リアリズム劇は,この意味で性格劇であるといえる。これに対して,人間の個性を認めない不条理劇などには,性格劇という概念は当てはまらない。…
…イプセンの3幕戯曲。1879年12月出版,同月コペンハーゲンで初演。…
…イプセンの問題劇《人形の家》(1879)のヒロイン。日本ではノラと呼ばれたが,原発音はノーラ。…
…1814年ノルウェーは独立を回復するが,それ以後,ノルウェー独自の国語の確立は次の二つの道をたどった。一つはデンマークとの連合時代以来存在する文語を,発音・語彙に関してノルウェー語化する方法であり,H.イプセンなどの作家が使用した,このいわゆるデンマーク・ノルウェー語はリクスモールriksmålと呼ばれた。他の一つは,ノルウェー語のデンマーク語からの解放を目ざすオーセンIvar Aasen(1813‐96)が提唱した,特に西ノルウェーの諸方言を基礎とした文語の創造であり,この文語はランスモールlandsmålと呼ばれた。…
※「イプセン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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