インカ文明(読み)インカブンメイ

デジタル大辞泉 「インカ文明」の意味・読み・例文・類語

インカ‐ぶんめい【インカ文明】

インカ帝国

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精選版 日本国語大辞典 「インカ文明」の意味・読み・例文・類語

インカ‐ぶんめい【インカ文明】

  1. 〘 名詞 〙 ( インカはInca ) インカ帝国に栄えた文明。青銅器が使用され、農耕が発達。石造建築土木工事、織物、金細工にすぐれ、また、脳の手術が行なわれるなど、医学も進んでいた。文字による記録はなかったが、少数の知識人集団がキープという結節縄を補助手段として歴代の事績を伝えた。宗教は、太陽を中心とする自然崇拝多神教。また、神権的社会主義ともいうべき独特の政治社会機構が注目される。

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改訂新版 世界大百科事典 「インカ文明」の意味・わかりやすい解説

インカ文明 (インカぶんめい)

ペルー南部高原にあるクスコを宇宙の中心とさだめ,15世紀から16世紀初めにかけて,アンデス一帯に大帝国をうちたてた南アメリカのインディオの創造した高文明。最大の版図は,北はコロンビア南部パストのアンカスマユ川から,南はチリ中部マウレ川に至る全長4000kmに及ぶ海岸地帯と高原,内陸部は東をアマゾン熱帯密林に接し,ボリビア,北部アルゼンチンを含む約300万km2にも及ぶ。インカincaはもともとインティ(太陽)の神の子で,部族の首長を意味し,唯一最高の絶対的な権力者を指す語であった。しかし征服者のスペイン人は皇帝も国家も,また帝国を支えた部族までをも,インカの名で呼んだ。

 インカでは記録のためにキープ(結縄)を用いたが,最後まで文字を使用しなかったので,みずからの手で記された歴史を残していない。そのためインカの歴史や生活慣習の解明は,スペイン人による詳細な記録文書や考古学上の遺跡・遺物を手がかりとして進められた。王朝の起源は,一説には1200年ころクスコ周辺に住み,太陽神を崇拝した農耕民ケチュア族に端を発するとする。初代マンコ・カパク王は多分に伝説的であるが,周辺部族との抗争の末,平定,連合し,内部反乱をもおさえて,急速に強大化した。大帝国を築いたのは,9代パチャクティ王(在位1438-71)から,11代ワイナ・カパク王(在位1493-1525)の時代である。ワイナ・カパク王の死とともに,正妻の子ワスカルがクスコで,側妻の子アタワルパエクアドルのキトで,それぞれ王位を継ぎ,5年間にわたる内乱がつづいた。ピサロの率いるスペイン人が侵入したのは,ちょうどそのころで,奸計によりアタワルパ王は捕らえられ,莫大な身代金を積んだにもかかわらず処刑され(1532),大帝国はもろくも滅びた。

 インカ帝国は皇帝を頂点とし,底辺の広いピラミッド形の社会組織をとる。血縁者である貴族,占領地の王族,族長,戦功あった指揮官から昇格した貴族,そして人民の大部分を占める農民の階層から成る。農民は親族的なまた地縁的な集団であるアイユに属し,行政体はアイユが集まってサーヤ(郡)を,いくつかのサーヤが集まってワヌン(県)を,ワヌンが一つになってスーユ(地方)をつくる。帝国の広大な領土はタワンチン・スーユ(四つの地方)から成り立っていた。首都クスコには,太陽信仰のための諸神殿,皇帝が政治をつかさどる宮殿や公共建造物,貴族・神官・軍事指揮官の住宅,広場,街路が配置される。こうした都城設計の完全な姿は,1911年に発見された有名なマチュ・ピチュ遺跡にうかがうことができる。主要建造物群とともに,倉庫,アンデーネス(段々畑),水路,水浴場,墓地などが加わる。石造建築技術の発達は目ざましく,一分のすき間もない切石積みのみごとさは他に例をみない。経済活動と軍事目的から,海岸と山岳地帯を貫く幅6~8mの幹線の公道とそれを結ぶ道路網が整備された。ときにはトンネルや階段,渓流を渡る橋をかけ,1日行程の間隔でタンプ(宿場)が設けられ,チャスキ(飛脚)によって迅速なコミュニケーションが保たれた。皇帝は土地,鉱山,家畜などのいっさいの生産手段を掌中におさめていた。そしてミタと呼ばれる労力提供の義務を農民に課し,彼らをトウモロコシ,ジャガイモを中心とする農業,リャマ,アルパカ,ビクーニャなどの牧畜,金・銀・銅の鉱産,有事の軍役に従事させた。農民層からは,さらにヤナコナ(奴隷,召使)やアクリャ(選ばれた女性)が徴発され,アクリャは宮殿に入れられて,一生処女を守りながら太陽の神に奉仕し,皇帝のための織物を織った。

 インカ文明を形づくる諸技術は,プレ・インカ時代の地方文化の伝統を背景に発展したもので,かならずしもインカ時代に創出されたものではない。クスコ式と呼ばれる土器は,器形と文様にインカ特有の要素をもつ長頸壺,台付鉢,獣形把手をもつ埦,皿などである。赤地に幾何学的な文様を多く用い,シダ状文,松葉状文,三角形,直線を組み合わせる。宗教儀礼に深くかかわる長頸壺は,1.3mを超える大型のものがあり,朝顔状に強く外反した口縁部,丸く張った体部,急激にすぼまった円錐状の底部をもつ。インカの地方行政のあり方を象徴して,インカの土器が征服地に搬入されることもあった。土器と並んで〈ケロ〉と呼ばれる木製容器が盛んに製作された。刻文や油性顔料を用いて彩色され,宗教儀礼や戦闘などの情景を描き出している。貢物として重要視された織物は,獣毛と綿を材料に,つづれ織が盛んであった。また皇帝の管理下にあった金属細工は鋳造延展,鑞(ろう)づけ,鋲どめ,打出しなど,さまざまな技術を駆使し,クスコの主神殿の偶像,壁装飾にはふんだんに金・銀・財宝が用いられた。薬用植物の知識も深く,麻酔薬としてコカが用いられ,戦争による負傷者の脳外科手術も行われた。また来世を信じ死者を崇拝する風習をもち,歴代の皇帝はミイラにされ,太陽の神殿に祀られた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インカ文明」の意味・わかりやすい解説

インカ文明
インカぶんめい
Inca civilization

13~16世紀中葉に南アメリカアンデス地方に栄えた文明。アンデス地方には前2000年頃から穀物農耕が伝わり,チャビン文化モチーカ文化ナスカ文化ティアワナコ文化など諸文化が興ったが,インカ文明はその頂点をなす。旧大陸の文化と接触をもたず,独自の発展を遂げたが,16世紀にスペイン人に征服されて衰退した。インカ文明は大規模な灌漑施設による農業を基礎とし,その作物にはトウモロコシ,芋類,カボチャ,トマト,ラッカセイ,コカ,綿花などがありヨーロッパに未知なものが多かった。インカ帝国は政治組織,社会制度では卓越していたが,科学的学問の分野ではふるわなかった。ただし,建築,土木技術の面では高度の水準に達し,整然たる都市計画に基づく壮大な石造建築物や道路網が生まれた。各地に散在する太陽の神殿,80年間に毎日 2~3万人を動員して築いたといわれるサクサワマンの城塞(→サクサワマン遺跡),長い伝統をもつ巧みな灌漑水路などは,インカ建築技術の粋を集めたものといえる。工芸技術にも秀で,金銀銅細工,土器,織物などに優れたものを多数残している。しかし,意匠はおもに幾何学模様で規格化され,芸術的独創性に乏しかった。外科手術や薬学も発達し,麻酔剤コカを用いての頭蓋穿孔が行なわれた。インカの宗教は創造神ビラコチャのもとに太陽,月,星,雷,大地,海などの神々が君臨するアニミズムで,特に太陽神信仰が強かった。信仰の目的は,農作物収穫と病気の治療にあり,マヤ文明のような文化はみられなかった。系統的な文字はついに発明されなかったが,これに代わるものとして結縄文字(キープ)が案出され,数は十進法で記録されて,公の統計に用いられた。(→アンデス文明

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「インカ文明」の解説

インカ文明(インカぶんめい)

南アメリカ大陸西部の中央アンデス地方に,1430年頃から約1世紀間続いた文明。インカ人はペルー南部高原のクスコ盆地に興り,その北西に住むチャンカ人の侵攻を撃退したのを機に拡張政策をとって,数十年の間に,現エクアドルからチリ北部に至る4000kmにわたる広域を政治的に統一した。征服の過程で先進諸民族の文化を吸収したが,特にペルー北海岸の文化(チムー文化)から学んだところが多い。インカ国家は,文化の異なる多くの民族集団をかかえこんでいたが,言語教育,太陽神信仰を普及させ,神聖王サパン・インカの宗教的権威により政治的統合を図って,ある程度成功を収めた。毎年行う人口調査により人口を正確に把握してキープに記録し,公共事業や軍事のために要員を徴発して,首都クスコをはじめ各地に神殿,城塞,宮殿を建設した。また輸送や移動のため道路網,宿場,飛脚制度を設けた。こうした統合のための努力にもかかわらず,インカ国家は地域主義を克服することができず,エクアドル・インカとクスコ派に分裂して戦っている最中にスペイン人の侵入を受け,1532年に滅亡した。

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