クレー(英語表記)Clay, Cassius Marcellus

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

クレー
Clay, Cassius Marcellus

[生]1810.10.19. ケンタッキーマジソン
[没]1903.7.22. ケンタッキー,ホワイトホール
アメリカの奴隷制廃止運動家。 1845年ケンタッキー州レキシントンで奴隷廃止論の機関誌"True American"を創刊。 54年共和党の創立に参加し一時的な離党はあったが,共和党の政治家として活躍した。

クレー
Clay, Henry

[生]1777.4.12. バージニア,ハノーバー
[没]1852.6.29. ワシントンD.C.
アメリカの政治家。クレイとも表記される。 19世紀前半のアメリカ政治の最大の課題である南部と北部の対立の調停者であり,東部の工業的発展と西部の農業的発展を結合するアメリカ体制の主唱者。 1797年バージニアで弁護士の資格を取ったあとケンタッキーの政治家として,中央銀行設立,内陸開発,工業振興をスローガンに活躍。長く連邦下院議長をつとめ,アメリカ=イギリス戦争 (1812) では主戦派に属し,ガン平和会議に使節の一人として出席。戦後,国家支出による内陸開発,保護関税,中央銀行,公有地売却歳入の州への分配を唱え,これをアメリカ体制の構想にまとめた。連邦下院議長として 1820年のミズーリ妥協の成立に尽力。 24年の大統領選挙に立候補し第3位の票を得たが,下院での決選投票の際第2位の J.Q.アダムズの当選をはからい,国務長官の席を得たことから,第1位のジャクソン派から「腐敗取引」と非難された。 A.ジャクソンとは 19年にフロリダ侵入を非難して以来対立関係にあり,第2合衆国銀行の再特許問題についてもクレーはこれに反対。 32年のサウスカロライナ無効宣言による連邦分裂の危機に際しては,33年の妥協関税により回避に成功した。 32年の大統領選挙に敗退したあと,34年ホイッグ党を組織し指導。 44年の選挙で再び立候補したが民主党の膨張主義者 J.ポークに敗れた。調停者としてのクレーの最後の仕事は,カリフォルニアの連邦加入をめぐる南北対立を調停した1850年の妥協であった。

クレー
Clays, Paul Jean

[生]1819.11.27. ブルーヘ
[没]1900.2.9. ブリュッセル
ベルギーの海洋画家。パリで T.ギュデンに師事。主としてブリュッセルで制作。 G.クールベの影響を受けた写実主義的筆致でオランダやベルギーの港湾風景,特に漁船を好んで描いた。

クレー
Klee, Paul

[生]1879.12.18. ベルン近郊ミュンヘンブッフゼー
[没]1940.6.29. ムラルトロカルノ
スイスの画家。 1898年ミュンヘンに出て,美術学校で F.シュトゥックに学ぶ。 1901~02年のイタリア旅行後,06年までベルンの生家に滞在し,グロテスクな銅版画を発表。 06年ミュンヘンに定住,11年 W.カンディンスキーに会い,翌年「青騎士」展に参加,同年4月,パリに R.ドローネーを訪問しオルフィスムの影響を受ける。 14年のチュニジア旅行で色彩に開眼,児童画風の表意的形象で抒情的美の世界を展開した。 21~31年バウハウスの教授をつとめ,31年からジュッセルドルフ美術学校に移ったが,33年ナチス政権に追われベルンに帰った。晩年は象形文字のような作品を制作。代表作『鳥の島』『港』など。著書『造形思考』 Das bildnerische Denken (1956) ,『日記』 Tagebücher (57) 。

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百科事典マイペディアの解説

クレー

スイスの画家。ベルン近郊の生れ。音楽の才にも恵まれていたが,絵画を志しミュンヘンの美術学校に学ぶ。1911年ブラウエ・ライターの運動に参加。また1914年のチュニジア旅行で色彩に開眼し,透明感にあふれる水彩画を描く。1921年にはバウハウス教授に就任し,造形論を講義した。自ら〈ポリフォニー絵画〉と呼んだ色彩の繊細な組合せによる高度な造形性と,ペシミスムを秘めた詩的な幻想性・抒情性に富んだ作品を発表。晩年には児童画を思わせる単純な形象や記号による絵画に達した。著書に《クレーの日記》(1957年),《造形思考》(1956年)などがある。
→関連項目カリグラフィー古賀春江セゾン現代美術館ドローネー早川良雄宮城県美術館

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世界大百科事典 第2版の解説

クレー【Henry Clay】

1777‐1852
アメリカの政治家。19世紀前半の西部を代表する政治家であるが,J.C.カルフーンやD.ウェブスターと並んで大統領になれなかった一人。バージニア生れで,1797年にケンタッキーに移り州政界で活躍後,1806年連邦上院へ,11年以降もっぱら下院で議長をつとめた。1812年戦争では好戦的〈タカ派〉の代弁者となり,内政では国内開発,保護関税,工業の保護・育成,合衆国銀行支持,軍備強化を主張した。それは24年に〈アメリカ体制〉論として体系化された。

クレー【Paul Klee】

1879‐1940
スイスの画家。ベルン市外のミュンヘンブフゼーに生まれる。音楽の才にも恵まれていたが,画家を志し,1898年にユーゲントシュティール全盛期のミュンヘンに赴く。1901‐02年にイタリア旅行。古典芸術の巨匠の末裔として生きる悲哀を故郷ベルンで風刺的銅版画に託し,最初の成功作となる。06年の結婚後ミュンヘンに定住,特に線描の領域で独自のスタイルをひらく。11年に〈青騎士(ブラウエ・ライター)〉の仲間となる。

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大辞林 第三版の解説

クレー【clay】

粘土。
クレー射撃で、標的として飛ばす皿状のもの。粘土の素焼き、または石灰とピッチをまぜて固めたもの。クレー-ピジョン。
「クレー射撃」の略。
クレー-コートの略。

クレー【Paul Klee】

1879~1940) スイスの画家。素朴で自由な想像の世界を抒情詩的な美しさで表現し、二〇世紀幻想芸術に大きな足跡を残した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

クレー
くれー
Paul Klee
(1879―1940)

スイスの画家。12月18日ベルン近郊ミュンヘンブーフゼーに生まれる。ドイツ人の父は音楽教師、スイス人の母は声楽家で、ひとり息子の彼は早くから音楽、絵画、文学に親しみ、器楽(バイオリン)を習う。1898年初めてミュンヘンに出て私画塾に通い、1900年ふたたび同地に出て美術学校のシュトゥックの教室で学んだ。01年スイスの彫刻家ヘルマン・ハラーとイタリアへ旅行、翌年までローマに滞在し、ナポリ、フィレンツェを経てベルンに帰る。バイオリン奏者としてベルン市管弦楽団のメンバーとなる。03~05年アール・ヌーボー風の幻想的な銅版画を制作、ブレーク、ビアズリー、ゴヤに共鳴する。06年ミュンヘンの女流ピアニスト、リリー・シュトゥンプフと結婚し、ミュンヘンに定住する。ミュンヘン分離派展に銅版画を出品、以後09年まで同展にガラス絵を含む作品を送るが落選を繰り返す。10年スイスで初の個展(ベルン、チューリヒ、ウィンタートゥール、バーゼルを巡回)。11年ミュンヘンで個展。カンディンスキー、マッケ、マルクと親交を結び「青騎士」のグループに参加する。ボルテールの『カンディード』の挿絵を制作(1920出版)。12年パリ旅行、ドローネー、ル・フォーコニエを訪問する。13年ドローネーの論文『光について』をベルリンの『シュトルム』誌に訳載する。シュトルム画廊で個展。14年マッケ、モワイエとともにチュニジアへ旅行し、水彩で多くの風物を描く。「色彩がぼくをとらえた。ぼくと色彩とは一体だ」と日記に書いているのはこのときで、彼の色彩開眼を記念する旅である。
 以後彼は彩色画へ移っていくが、それはかならずしも既成のタブローではなく、さまざまの混合技法を用いている。16~19年軍務に服する。21年ワイマールのバウハウスで教鞭(きょうべん)をとる。24年ニューヨークで初の個展。ファイニンガー、カンディンスキー、ヤウレンスキーと「青の四人」展を結成。25年バウハウスの移転に伴いデッサウに住む。パリで初の個展。シュルレアリスム展に参加する。『教育的スケッチブック』を出版。31年デュッセルドルフ美術学校教授となる。33年美術学校の職を辞し、ベルンに帰る。34年ロンドンで初の個展。皮膚硬化症の最初の徴候が現れる。37年ブラックとピカソの訪問を受ける。「退廃芸術展」が彼の作品17点を含めてドイツ各地で催される。40年チューリヒ美術館で35年以後の作品による個展。病状悪化し6月29日ロカルノ湖畔ムラルトの病院で死去。「芸術は目に見えないものを見えるようにすることだ」といい、「たいせつなのはあれこれの形態ではなく、形づくることだ」という彼は、目に見える対象に依存することもなかったし、またこれをまったく捨て去ってしまうこともなかった。彼はむしろ対象を、自然の形成力の根源に思いを潜めてつくりかえ、独自の造形言語に置き換えた。それは一種の記号もしくは符牒(ふちょう)のように、実在と現象とを一つに集約し、見る者の想像力のなかで限りない変容の翼を広げていく。音楽的な才能に恵まれ、音楽を生涯の友とした彼の作品には、四次元の世界に浮かび漂うものの澄んだ音色と寄る辺なさを宿しているが、晩年の絵は暗く激しい苦悩を反映している。作品は世界各地に収蔵されているが、スイスのベルン美術館にはクレー財団の約3000点が収められている。[野村太郎]
『南原実訳『クレーの日記』(1961・新潮社) ▽中原佑介解説『現代世界美術全集13 クレー』(1971・集英社)』

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精選版 日本国語大辞典の解説

クレー

〘名〙 (clay)
粘土。また、それで作ったもの。
② クレー射撃の標的。石灰とピッチを混ぜて作った円盤状のもの。クレー‐ピジョン
※寝園(1930‐32)〈横光利一〉「素焼のクレーが鳥のように飛び立ち」

クレー

(Paul Klee パウル━) スイス生まれの画家。主にドイツで活躍。自己の心情に根ざした一種具体的な形象による抽象画を多く描き、ピカソ、マチスらとともに二〇世紀絵画の展開に大きな影響を与えた。(一八七九‐一九四〇

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世界大百科事典内のクレーの言及

【射撃競技】より

…射撃競技は,散弾銃を使用するクレー射撃とライフル射撃に大別される。さらにライフル射撃は,銃腔(じゆうこう)に腔旋(こうせん)が切ってある銃を使った射撃であり,いわゆるライフル射撃とピストル射撃に分類される。…

【グローマン】より

…1907年にドレスデンで,当時結成されてまもない表現主義グループ〈ブリュッケ(橋)〉の展覧会を組織したのをはじめ,以後作家との交友に基づく数多くのすぐれた研究や評論を発表し,現代ドイツ美術の声価を国際的に高めるうえでも大きな功績を残した。著作としては,友人でもあったクレーとカンディンスキーの大部のモノグラフ(それぞれ1954,1958)がよく知られ,その他戦後ヨーロッパ美術を総観した《現代の美術》(1966)などもある。【千足 伸行】。…

【ブラウエ・ライター】より

…翌年の第2回展には,ピカソ,ブラック,ドラン,マレービチ,ラリオーノフらをも招待した。しかし普通ブラウエ・ライターと呼ばれているのは,ベルリンの〈嵐(デア・シュトゥルムDer Sturm)〉画廊展など,その後のブラウエ・ライター展参加者をも併せ考え,カンディンスキーを中心にしたマルク,マッケAugust Macke(1887‐1914),クレーの4人,およびヤウレンスキーらをいう。彼らはそれぞれロシア正教の神秘主義,ドイツ・ロマン主義,ドローネーのオルフィスムOrphismeなどにつながりながら,造形の根源を追求し,目に見えぬ世界の視覚化を志した。…

※「クレー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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