クレー(読み)くれー(英語表記)Paul Klee

デジタル大辞泉 「クレー」の意味・読み・例文・類語

クレー(clay)

《「クレイ」とも》
粘土。また、粘土製の物。
クレーピジョン」の略。
クレー射撃」の略。
クレーコート」の略。

クレー(Paul Klee)

[1879~1940]スイスの画家・銅版画家。ドイツで活躍。豊かな想像力により、明澄な詩情をたたえた抽象画を描いた。

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精選版 日本国語大辞典 「クレー」の意味・読み・例文・類語

クレー

〘名〙 (clay)
① 粘土。また、それで作ったもの。
② クレー射撃の標的。石灰とピッチを混ぜて作った円盤状のもの。クレー‐ピジョン
※寝園(1930‐32)〈横光利一〉「素焼のクレーが鳥のように飛び立ち」

クレー

(Paul Klee パウル━) スイス生まれの画家。主にドイツで活躍。自己の心情に根ざした一種具体的な形象による抽象画を多く描き、ピカソ、マチスらとともに二〇世紀絵画の展開に大きな影響を与えた。(一八七九‐一九四〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クレー」の意味・わかりやすい解説

クレー
くれー
Paul Klee
(1879―1940)

スイスの画家。12月18日ベルン近郊ミュンヘンブーフゼーに生まれる。ドイツ人の父は音楽教師、スイス人の母は声楽家で、ひとり息子の彼は早くから音楽、絵画、文学に親しみ、器楽(バイオリン)を習う。1898年初めてミュンヘンに出て私画塾に通い、1900年ふたたび同地に出て美術学校のシュトゥックの教室で学んだ。01年スイスの彫刻家ヘルマン・ハラーとイタリアへ旅行、翌年までローマに滞在し、ナポリ、フィレンツェを経てベルンに帰る。バイオリン奏者としてベルン市管弦楽団のメンバーとなる。03~05年アール・ヌーボー風の幻想的な銅版画を制作、ブレーク、ビアズリー、ゴヤに共鳴する。06年ミュンヘンの女流ピアニスト、リリー・シュトゥンプフと結婚し、ミュンヘンに定住する。ミュンヘン分離派展に銅版画を出品、以後09年まで同展にガラス絵を含む作品を送るが落選を繰り返す。10年スイスで初の個展(ベルン、チューリヒウィンタートゥール、バーゼルを巡回)。11年ミュンヘンで個展。カンディンスキー、マッケ、マルクと親交を結び「青騎士」のグループに参加する。ボルテールの『カンディード』の挿絵を制作(1920出版)。12年パリ旅行、ドローネール・フォーコニエを訪問する。13年ドローネーの論文『光について』をベルリンの『シュトルム』誌に訳載する。シュトルム画廊で個展。14年マッケ、モワイエとともにチュニジアへ旅行し、水彩で多くの風物を描く。「色彩がぼくをとらえた。ぼくと色彩とは一体だ」と日記に書いているのはこのときで、彼の色彩開眼を記念する旅である。

 以後彼は彩色画へ移っていくが、それはかならずしも既成のタブローではなく、さまざまの混合技法を用いている。16~19年軍務に服する。21年ワイマールのバウハウスで教鞭(きょうべん)をとる。24年ニューヨークで初の個展。ファイニンガー、カンディンスキー、ヤウレンスキーと「青の四人」展を結成。25年バウハウスの移転に伴いデッサウに住む。パリで初の個展。シュルレアリスム展に参加する。『教育的スケッチブック』を出版。31年デュッセルドルフ美術学校教授となる。33年美術学校の職を辞し、ベルンに帰る。34年ロンドンで初の個展。皮膚硬化症の最初の徴候が現れる。37年ブラックとピカソの訪問を受ける。「退廃芸術展」が彼の作品17点を含めてドイツ各地で催される。40年チューリヒ美術館で35年以後の作品による個展。病状悪化し6月29日ロカルノ湖畔ムラルトの病院で死去。「芸術は目に見えないものを見えるようにすることだ」といい、「たいせつなのはあれこれの形態ではなく、形づくることだ」という彼は、目に見える対象に依存することもなかったし、またこれをまったく捨て去ってしまうこともなかった。彼はむしろ対象を、自然の形成力の根源に思いを潜めてつくりかえ、独自の造形言語に置き換えた。それは一種の記号もしくは符牒(ふちょう)のように、実在と現象とを一つに集約し、見る者の想像力のなかで限りない変容の翼を広げていく。音楽的な才能に恵まれ、音楽を生涯の友とした彼の作品には、四次元の世界に浮かび漂うものの澄んだ音色と寄る辺なさを宿しているが、晩年の絵は暗く激しい苦悩を反映している。作品は世界各地に収蔵されているが、スイスのベルン美術館にはクレー財団の約3000点が収められている。

[野村太郎]

『南原実訳『クレーの日記』(1961・新潮社)』『中原佑介解説『現代世界美術全集13 クレー』(1971・集英社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「クレー」の意味・わかりやすい解説

クレー
Paul Klee
生没年:1879-1940

スイスの画家。ベルン市外のミュンヘンブフゼーに生まれる。音楽の才にも恵まれていたが,画家を志し,1898年にユーゲントシュティール全盛期のミュンヘンに赴く。1901-02年にイタリア旅行。古典芸術の巨匠の末裔として生きる悲哀を故郷ベルンで風刺的銅版画に託し,最初の成功作となる。06年の結婚後ミュンヘンに定住,特に線描の領域で独自のスタイルをひらく。11年に〈青騎士(ブラウエ・ライター)〉の仲間となる。14年のチュニジア旅行で色彩に開眼し,30点余の水彩画を描く。そこでクレーは,すでに確立していた線描の自律からさらに飛躍して,〈色彩のとりこ〉になる。光あふれる南方の風景を透明な色階の方形色面で構成した作品は,セザンヌ,ピカソ,カンディンスキーおよびR.ドローネーの色彩キュビスムとの対決を経て独自の抽象芸術へと踏み出している。この傾向は,その後自ら〈ポリフォニー(多声音楽)絵画〉と呼ぶ,色調と色彩を重ね合わせた作品に発展し,《いにしえの響き》(1925)のような傑作を生む。他方線描はしだいに記号化し,文字や音符の記号,矢印などを伴って,色彩平面の組成と結合する。第1次大戦で16年に入隊。終戦後,20年バウハウスに招かれ,造形論の講義を担当。その結果20年代の作品には,造形の動力学的組成論が展開され,目の前の像ではなく原像の表現へ向かう。それは〈思い出を伴う抽象〉(1915年の日記)の具現であり,視覚化である。思い出の内容は顔,庭,建築などさまざまだが,例えば《本通りと脇道》(1929)では,幾何級数的な組成の色面に,前の冬のエジプト旅行の思い出が凝集されている。31年にデュッセルドルフ美術学校に転任,その時代の《パルナッソス山へ》(1932)は,ポリフォニー絵画と詩的連想がみごとに調和した成熟の頂点である。33年末ナチスに追われてスイスへ亡命。皮膚硬化症を患う。死を予感した晩年の作品では,単純で記号的な太い線描が再び優位を占め,書法(カリグラフィー)に似た様式が成立する。それは,クレーの生涯における全制作の究極目的が描くことと書くことの結合にあったことを示唆している。

 クレーの作品は,大画面でなく,おおむね小画面で成り立っており,また画面となるカンバスの材質や絵具にも細心の注意を払うなど,造形行為は緻密で繊細である。また芸術上の特質は,線描,明暗の色調,色彩などの造形諸要素の単純化と複合を継続的に積み重ね,それを詩的連想と結びつけることによって,西洋絵画の言説に未知の領域を切り開いた点にある。作品はそのための道程ないし過程であり,それ自体完結目標ではない。このような生成としての作品を,《クレーの日記》(1957。邦訳1961),《造形思考》(1956。邦訳1977)をはじめとする彼の膨大な芸術理論的著作と並行的に読み取り,解釈していく仕事は,今なお残されている課題である。この課題には,クレーの芸術を通して近代絵画の意味の変化を解き明かすひとつの鍵が秘められている。

 なお,クレーの作品はベルンのクレー財団が素描を含め3000点ほど所蔵しているほか,ニューヨークのグッゲンハイム美術館やデュッセルドルフ,バーゼルの各美術館も多くの作品を所蔵している。日本では神奈川県立近代美術館所蔵の素描と友人たちのサイン帳(1923)や,宮城県美術館所蔵の《緑の中庭》(油彩,1927)ほか数点がある。クレーの現代美術への影響はすでに第2次大戦前および大戦中から現れているが,戦後は特にボルス,ミショー,ザオ・ウー・キーZao Wou-ki(1921- )などに著しい。前田常作ほか日本への影響も大きく,それにはベルン美術館または息子のフェリックス・クレーの所蔵作品の日本展が1961年以来数度開かれたことが刺激となっている。
執筆者:

クレー
Henry Clay
生没年:1777-1852

アメリカの政治家。19世紀前半の西部を代表する政治家であるが,J.C.カルフーンやD.ウェブスターと並んで大統領になれなかった一人。バージニア生れで,1797年にケンタッキーに移り州政界で活躍後,1806年連邦上院へ,11年以降もっぱら下院で議長をつとめた。1812年戦争では好戦的〈タカ派〉の代弁者となり,内政では国内開発,保護関税,工業の保護・育成,合衆国銀行支持,軍備強化を主張した。それは24年に〈アメリカ体制〉論として体系化された。24年の大統領選挙でJ.Q.アダムズを支持し国務長官の職を得たことが〈腐敗取引〉として政敵A.ジャクソンに非難された。28年の高関税をめぐって南北の対立が激化した際には33年に妥協関税を成立させ,また49年の奴隷制をめぐる南北間の対立に際しては50年の妥協の成立に貢献し,妥協政治家としての真骨頂を示した。ジャクソンとは彼のフロリダ侵入を非難(1819)して以来,終始敵対関係にあった。クレーには熱烈な支持者と憎悪を燃やす敵がいた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クレー」の意味・わかりやすい解説

クレー
Clay, Henry

[生]1777.4.12. バージニア,ハノーバー
[没]1852.6.29. ワシントンD.C.
アメリカの政治家。クレイとも表記される。 19世紀前半のアメリカ政治の最大の課題である南部と北部の対立の調停者であり,東部の工業的発展と西部の農業的発展を結合するアメリカ体制の主唱者。 1797年バージニアで弁護士の資格を取ったあとケンタッキーの政治家として,中央銀行設立,内陸開発,工業振興をスローガンに活躍。長く連邦下院議長をつとめ,アメリカ=イギリス戦争 (1812) では主戦派に属し,ガン平和会議に使節の一人として出席。戦後,国家支出による内陸開発,保護関税,中央銀行,公有地売却歳入の州への分配を唱え,これをアメリカ体制の構想にまとめた。連邦下院議長として 1820年のミズーリ妥協の成立に尽力。 24年の大統領選挙に立候補し第3位の票を得たが,下院での決選投票の際第2位の J.Q.アダムズの当選をはからい,国務長官の席を得たことから,第1位のジャクソン派から「腐敗取引」と非難された。 A.ジャクソンとは 19年にフロリダ侵入を非難して以来対立関係にあり,第2合衆国銀行の再特許問題についてもクレーはこれに反対。 32年のサウスカロライナの無効宣言による連邦分裂の危機に際しては,33年の妥協関税により回避に成功した。 32年の大統領選挙に敗退したあと,34年ホイッグ党を組織し指導。 44年の選挙で再び立候補したが民主党の膨張主義者 J.ポークに敗れた。調停者としてのクレーの最後の仕事は,カリフォルニアの連邦加入をめぐる南北対立を調停した1850年の妥協であった。

クレー
Klee, Paul

[生]1879.12.18. ベルン近郊ミュンヘンブッフゼー
[没]1940.6.29. ムラルトロカルノ
スイスの画家。 1898年ミュンヘンに出て,美術学校で F.シュトゥックに学ぶ。 1901~02年のイタリア旅行後,06年までベルンの生家に滞在し,グロテスクな銅版画を発表。 06年ミュンヘンに定住,11年 W.カンディンスキーに会い,翌年「青騎士」展に参加,同年4月,パリに R.ドローネーを訪問しオルフィスムの影響を受ける。 14年のチュニジア旅行で色彩に開眼,児童画風の表意的形象で抒情的美の世界を展開した。 21~31年バウハウスの教授をつとめ,31年からジュッセルドルフ美術学校に移ったが,33年ナチス政権に追われベルンに帰った。晩年は象形文字のような作品を制作。代表作『鳥の島』『港』など。著書『造形思考』 Das bildnerische Denken (1956) ,『日記』 Tagebücher (57) 。

クレー
Clay, Cassius Marcellus

[生]1810.10.19. ケンタッキー,マジソン
[没]1903.7.22. ケンタッキー,ホワイトホール
アメリカの奴隷制廃止運動家。 1845年ケンタッキー州レキシントンで奴隷廃止論の機関誌"True American"を創刊。 54年共和党の創立に参加し一時的な離党はあったが,共和党の政治家として活躍した。

クレー
Clays, Paul Jean

[生]1819.11.27. ブルーヘ
[没]1900.2.9. ブリュッセル
ベルギーの海洋画家。パリで T.ギュデンに師事。主としてブリュッセルで制作。 G.クールベの影響を受けた写実主義的筆致でオランダやベルギーの港湾風景,特に漁船を好んで描いた。

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百科事典マイペディア 「クレー」の意味・わかりやすい解説

クレー

スイスの画家。ベルン近郊の生れ。音楽の才にも恵まれていたが,絵画を志しミュンヘンの美術学校に学ぶ。1911年ブラウエ・ライターの運動に参加。また1914年のチュニジア旅行で色彩に開眼し,透明感にあふれる水彩画を描く。1921年にはバウハウス教授に就任し,造形論を講義した。自ら〈ポリフォニー絵画〉と呼んだ色彩の繊細な組合せによる高度な造形性と,ペシミスムを秘めた詩的な幻想性・抒情性に富んだ作品を発表。晩年には児童画を思わせる単純な形象や記号による絵画に達した。著書に《クレーの日記》(1957年),《造形思考》(1956年)などがある。
→関連項目カリグラフィー古賀春江セゾン現代美術館ドローネー早川良雄宮城県美術館

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旺文社世界史事典 三訂版 「クレー」の解説

クレー
Henry Clay

1777〜1852
アメリカの政治家
西部発展および米英戦争では主戦論を提唱。内陸貿易と保護関税を軸とした「アメリカ体制」を主張した。「天性の妥協政治家」と呼ばれ,南北の対立をやわらげるため,1820年のミズーリ協定,33年の関税法問題,50年のカリフォルニアの加入に伴う妥協などをまとめた。第6代アダムズ大統領(在任1825〜29)のとき,国務長官に就任。

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デジタル大辞泉プラス 「クレー」の解説

クレー

イサキ科の海水魚、アジアコショウダイの沖縄名。沿岸の岩礁域・サンゴ礁域に生息。食用。

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世界大百科事典(旧版)内のクレーの言及

【射撃競技】より

…射撃競技は,散弾銃を使用するクレー射撃とライフル射撃に大別される。さらにライフル射撃は,銃腔(じゆうこう)に腔旋(こうせん)が切ってある銃を使った射撃であり,いわゆるライフル射撃とピストル射撃に分類される。…

【グローマン】より

…1907年にドレスデンで,当時結成されてまもない表現主義グループ〈ブリュッケ(橋)〉の展覧会を組織したのをはじめ,以後作家との交友に基づく数多くのすぐれた研究や評論を発表し,現代ドイツ美術の声価を国際的に高めるうえでも大きな功績を残した。著作としては,友人でもあったクレーとカンディンスキーの大部のモノグラフ(それぞれ1954,1958)がよく知られ,その他戦後ヨーロッパ美術を総観した《現代の美術》(1966)などもある。【千足 伸行】。…

【ブラウエ・ライター】より

…翌年の第2回展には,ピカソ,ブラック,ドラン,マレービチ,ラリオーノフらをも招待した。しかし普通ブラウエ・ライターと呼ばれているのは,ベルリンの〈嵐(デア・シュトゥルムDer Sturm)〉画廊展など,その後のブラウエ・ライター展参加者をも併せ考え,カンディンスキーを中心にしたマルク,マッケAugust Macke(1887‐1914),クレーの4人,およびヤウレンスキーらをいう。彼らはそれぞれロシア正教の神秘主義,ドイツ・ロマン主義,ドローネーのオルフィスムOrphismeなどにつながりながら,造形の根源を追求し,目に見えぬ世界の視覚化を志した。…

※「クレー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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