シャルパンティエ(英語表記)Charpentier, Emmanuelle

精選版 日本国語大辞典 「シャルパンティエ」の意味・読み・例文・類語

シャルパンティエ

(Gustave Charpentier ギュスターブ━) フランスの作曲家。一八八七年ローマ大賞受賞。働く女性のためにミミ‐パンソン音楽院を設立した。管弦楽組曲イタリアの印象」、オペラ「ルイーズ」など。(一八六〇‐一九五六

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シャルパンティエ」の意味・わかりやすい解説

シャルパンティエ
Charpentier, Emmanuelle

[生]1968.12.11. ジュビジー=シュロルジュ
エマニュエル・シャルパンティエ。フランスの生物学者。フルネーム Emmanuelle Marie Charpentier。ジェニファー・ダウドナとともに,ゲノム編集の遺伝子改変技術クリスパー・キャスナイン CRISPR-Cas9を開発した。2012年のクリスパー・キャスナインの発見は,ゲノム編集技術の基礎を築き,それ以前の遺伝子配列組み換えの手段に比べ,はるかに効率的で,かつ技術的に簡易な方法でデオキシリボ核酸 DNA配列に精密な変更を加えることができるようになった。これらの功績により,シャルパンティエとダウドナは 2020年ノーベル化学賞(→ノーベル賞)を受賞した。
ピエール &マリー・キュリー大学(現パリ第6大学。→パリ大学)で学び,1992年に生化学の学位を取得した。1995年に微生物学の博士号を取得。博士研究員として,パスツール研究所ニューヨークロックフェラー大学に所属した。ニューヨーク大学医療センターの研究員を務めたあと,テネシー州メンフィスのセントジュード小児研究病院で,その後はニューヨークのスカーボール分子生物医学研究所で研究を続けた。
2002年にヨーロッパに戻り,ウィーン大学に研究職を得た。この時期に,化膿レンサ球菌(→球菌)の毒性因子を制御するリボ核酸 RNA分子を発見した。その後,化膿レンサ球菌のゲノム内に新規の小分子RNAを特定し,化膿レンサ球菌の免疫システムの一種であるクリスパーシステムの研究を始めた。研究の結果,化膿レンサ球菌のクリスパーシステムは,クリスパーRNA(crRNA),トランス活性化型クリスパーRNA(tracrRNA),キャスナイン Cas9と呼ばれる蛋白質の三つから構成されていることがわかった。
2009年からは,スウェーデンのウメオ大学で研究を続けた。ウィーン大学で自身の研究室の大学院生だったエリツァ・デルチェバの助力を得て,クリスパーシステムがゲノム内の特定の位置で DNAを切断できる可能性を示した。2011年にシャルパンティエはダウドナと出会い,共同研究を開始した。2人は 2012年,キャスナインが DNA配列を切断できることを発見した。のちに,この原理はゲノム編集技術に応用され,大きな成功を収めた。2015年からは研究室をドイツのマックス・プランク研究所に移し,その後,同感染生物学研究所所長を務めた。
ガードナー国際賞(2016)やカブリ賞(2018)など,多数の賞を受賞。2015年にスウェーデン王立科学アカデミー会員,2018年にヨーロッパ科学芸術アカデミーの会員にそれぞれ選出された。

シャルパンティエ
Charpentier, Marc-Antoine

[生]1643?. パリ
[没]1704.2.24. パリ
フランスの作曲家。ローマでジャコモ・カリッシミの教えを受けた。のちパリに帰り,イエズス会学校の楽長を務め,1698年サント・シャペルで楽長となる。作品には『メデー』(1693)をはじめとするオペラ,『ペテロの否認』ほかのオラトリオ,多数の教会音楽がある。

シャルパンティエ
Charpentier, Georges

[生]1846
[没]1905.11.15.
パリの著名な出版業者。父ジェルベ・シャルパンティエ (1805~71) の跡を継ぎ,夫人とともに同時代の文学,音楽,美術の保護者として名をはせた。夫人の主宰するサロンにはゾラ,ドーデ,フローベールゴンクール兄弟,ロスタン,メーテルランク,ベルレーヌ,マラルメなどが集った。ルノアールもこのサロンの常連で,『シャルパンティエ夫人像』 (1877) ,『シャルパンティエ夫人と子供たち』 (1878) を描いている。

シャルパンティエ
Charpentier, Gustave

[生]1860.6.25. デューズ
[没]1956.2.18. パリ
フランスの作曲家。リール音楽院で学んだのち,1881年パリ国立音楽院に入学,85年から J.マスネに師事。 87年カンタータ『ディドン』で,ローマ大賞受賞。 1900年代表作『ルイーズ』がパリのオペラ・コミック座で初演される。 02年「コンセルバトアール・ポピュレール・ドゥ・ミミ・パンソン」を創設,一般の貧しい人々に音楽を楽しむ機会を与えた。

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百科事典マイペディア 「シャルパンティエ」の意味・わかりやすい解説

シャルパンティエ

フランスの作曲家。17世紀後半のフランス音楽を代表する大家の一人。生地や家系は判っていない。若くしてイタリアに3年間留学し,カリッシミの門に学ぶ。フランス帰国後,リュリと袂(たもと)を分かったモリエールの依頼を受け,そのコメディ・バレエのために《気で病む男》(1672年−1673年)などを作曲。モリエールの死後も,劇上演上の全権を握るリュリの横槍(よこやり)にもかかわらず一座(コメディ・フランセーズの前身)の仕事を続けた。1684年にイエズス会の教会楽長に就任し,《イエズス会のためのミゼレーレ》(1685年)などを作曲。1692年からはオルレアン公フィリップの作曲教師を務め,1698年サント・シャペル楽長となり生涯を閉じる。フランス楽壇に君臨したリュリに地位の上では及ばなかったものの,イタリアの様式を引き継ぐ,より洗練された作曲技巧をみせ,生前から広く尊敬を集めた。巧緻な対位法,大胆な半音階と転調など,豊かな表現をたたえた宗教音楽を中心に,オペラ,器楽曲などあらゆるジャンルに膨大な数の作品を残し,オラトリオカンタータをフランスで最初に作曲した一人とされる。その作品は生前には一部しか出版されず,20世紀に入って徐々にその全貌を明らかにした。

シャルパンティエ

フランスの作曲家。パン屋の息子として生まれ,バイオリンクラリネットを学ぶ一方,15歳から製糸工場で働く。その才能に驚嘆した工場社長の肝いりでリール音楽院に入学。奨学金を得てパリ音楽院でも学び,マスネーらに師事した。ローマ大賞を得てローマ滞在中に代表作の一つ,管弦楽曲《イタリアの印象》(1890年)を完成。翌年のパリ初演で大成功をおさめ,その名を高めた。自作の台本による3幕の交響劇《詩人の生活》(1891年,のちオペラ《ジュリアン》に改作),ボードレールベルレーヌの詩による歌曲を発表してさらに地歩を固め,オペラ《ルイーズ》(1889年−1896年。1900年パリのオペラ・コミック座で初演)を発表。市井の男女を主人公に,自由恋愛と女性の自立をリアリスティックに描いたこのオペラは聴衆の圧倒的な支持を集め,近代フランス・オペラの古典の一つとなった。1902年,働く女性のための〈ミミ・パンソン音楽院〉を設立。

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改訂新版 世界大百科事典 「シャルパンティエ」の意味・わかりやすい解説

シャルパンティエ
Marc-Antoine Charpentier
生没年:1645から50ころ-1704

フランスの作曲家。オルレアン公フィリップに音楽教師として仕えるかたわら,イエズス会の教会や修道院の音楽監督,またサント・シャペルの楽長を歴任し,これらのために宗教音楽や劇音楽を作曲した。1660年代ころに数年間,ローマでカリッシミに音楽を学び,帰国後もイタリア音楽を好むサークルに出入りした。彼は,フランスでオラトリオならびにカンタータを作曲した最初の一人とされ,ローマ楽派の様式をフランスに導入したといわれるが,とくに宗教音楽に,イタリア音楽の影響が顕著にみられる。作品には,テ・デウム,マニフィカトなど多数の宗教音楽,《聖ペテロの否認》などのオラトリオ(彼はこれを聖書物語と呼ぶ),《地獄に下るオルフェ》(1683)などのカンタータ(彼自身はこの名称を用いない),《メデ》(1693)などのオペラ,《気で病む男》(1672-73)などのコメディ・バレエのための音楽のほか,器楽曲がある。
執筆者:

シャルパンティエ
Gustave Charpentier
生没年:1860-1956

フランスの作曲家。リールとパリの音楽院で学び,1887年にカンタータ《ディドン》によってローマ大賞を受けた。管弦楽組曲《イタリアの印象》(1890),3幕の交響劇《詩人の生活》(1891。これをもとに4幕のオペラに拡大した《ジュリアン》1913),とりわけ自由恋愛と女性の自立を主題にしたオペラ《ルイーズ》(1900初演)で知られている。師マスネーの抒情的な作風にワーグナーの示導動機法,半音階法も加味して,ロマン主義と現実主義の混ざり合ったオペラを作曲した。勤労女性のための〈ミミ・パンソン音楽院L'œuvre de Mimi Pinson〉を1902年に設立し,また〈民衆劇場〉を計画したが,後者は挫折した。12年マスネーの後任として芸術アカデミー会員となる。
執筆者:

シャルパンティエ
Alexandre Charpentier
生没年:1856-1909

フランスの彫刻家,アール・ヌーボーの家具デザイナー。パリに生まれ,1890年代初期には生硬なイギリスのアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの影響を示していたが,世紀末ころから曲線のアール・ヌーボー様式に共鳴し,曲がりくねった裸婦のレリーフを加えた,彫塑的でリズミカルな様式の家具を設計した。ブリュッセルの〈レ・バン(20人展)〉(1895)および〈自由美学展〉(1899)に出品,またパリでは装飾美術家ジャン・ダンなどと1895年に〈5人展〉を結成,応用美術の刷新を試みた。
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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「シャルパンティエ」の解説

シャルパンティエ

フランスの作曲家。1634年生まれ説もあるが、近年の研究では1643年生まれとされる。パリに生まれ、ローマでジャコモ・カリッシミに師事。ルイ14世には仕えなかったが、1680年代初めに王太子に仕え、こ ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

世界大百科事典(旧版)内のシャルパンティエの言及

【フランス音楽】より

…その壮美な趣は,王(ルイ14世)の威信を輝かすのにふさわしいものであった。以後リュリの後にM.A.シャルパンティエ,カンプラ,デトゥシュAndré Cardinal Destouches(1672‐1749)らが出て,イタリアの影響におりおりさらされながらも,フランス歌劇は偉大な作曲家であり理論家であったラモーを迎える。 しかしラモーのころ,時代は反古典主義の兆しをみせはじめていた。…

※「シャルパンティエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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