デジタル大辞泉 「サロン」の意味・読み・例文・類語
サロン(〈フランス〉salon)
2 ヨーロッパ、特にフランスで、上流階級の婦人が、その邸宅の客間で開いた社交的な集まり。
3 美術の展覧会。
4 美容や飲食などの接客を主とする業種・店舗につける語。「ビューティー
[類語](1)ロビー・広間・控え室・休憩室・待合室・談話室・ホール・ラウンジ/(2)団体・集団・一団・
翻訳|salon
フランスの近世住宅の中心をなす客間をいう。オテル形式の住宅では前庭(中庭)に設けられた入口を入り,前室を経て到達する。ほとんどの場合サロンは庭園に面しており,庭園に向かって張り出している場合も多い。家具調度も接客用に吟味されたものが用いられ,部屋の形は四角だけでなく,円形,多角形,楕円形などをなす場合がある。近世の住宅が居ごこちのよさを追求したところに生じた形式ということができ,中世住宅の大きな広間と現代住宅の応接間の中間の形式であり,時代的にも両者の中間期の産物である。フランス以外の諸国の住宅でも,同様の接客室をサロンと呼ぶことがある。
執筆者:鈴木 博之
〈客間〉を意味する〈サロン〉は,やがてその客間で催される〈会合〉の意味になった。文人・学者を集めた文化サークルは中世にもあり,マルグリット・ド・ナバールの宮廷にもその例が見られるが,本来の意味でのサロンはイタリア起源で,17世紀にリヨンを経てパリに伝わったものである。それは,主として貴族や金持ちの妻が(未婚女性や男性の文人を中心とする場合もあるが)日を定めて客間を開放し,文化万般についての自由で洗練された会話を楽しみながら,食事をし,朗読を聞き,ときには音楽や軽演劇の鑑賞もするという,きわめてフランス的な集いであった。そこでは,美しく機知に富み優雅で上品な婦人を中心に,言葉を磨き趣味を養い,芸術,宗教,文学を論じたのである。さらに時事問題が取り上げられることもあり,時の政治に影響を及ぼすこともあった。このように,フランス語の特色である明晰性も,フランス文学の特徴といわれる社交性や〈会話の精神〉も,サロンの婦人たちを通じて維持されたといえよう。また時代精神の中に見られる諸要素(17世紀における科学革命とバロック精神,18世紀における啓蒙主義とロココ趣味など)を融合し,その接点となったのもサロンである。
フランスでの起源は,宗教戦争(1562-98)の惨禍を忘れようとしたアンリ4世の宮廷にあるといわれるが,その背後にはルネサンス以後の我の自覚,自由検討の精神,女性の地位の向上などがうかがえよう。しかし,最初のサロンと称しうるのは,ランブイエ侯夫人カトリーヌ・ド・ビボンヌCatherine de Vivonne(1588-1665)が1610年ころルーブル宮殿の近くにあった自邸で開いたものである。リシュリュー,コンデ大公,コルネイユらを常連としたこのサロンは,約半世紀の間繁栄した。1629年に始まったコンラールValentin Conrart(1603-75)のサロンは,ボアロベールやシャプランの集会所となり,アカデミー・フランセーズ誕生(1635)の母体となった。フロンドの乱(1648-53)のころには政治サロンも開かれたが,以後はスキュデリー嬢のサロンを中心に,フランス語の洗練に主力が注がれた。それが行き過ぎ,あまりにも気取った表現が乱用されたので(このような気取りをプレシオジテpréciositéと呼ぶ),モリエールらの嘲笑を招く結果にもなった(《プレシューズ(才女気取り)》など)。この時期には,パリをまねた地方都市のサロンも多くなった。17世紀にはそのほか,ラ・ロシュフーコーの《箴言集》や,J.deラ・フォンテーヌの《寓話》を生み出したサブレ夫人のサロン,多少軽佻な趣があったスカロン夫人Mme.Scarron(1635-1719。のちのマントノン夫人marquise de Mantenon)のサロンなどがあり,17世紀末には自由思想家(リベルタン)たちを集めたニノン・ド・ランクロNinon de Lenclos(1620-1705)のサロンも出現した。
ルイ14世が死んで(1715)摂政時代になると,〈古代人と近代人の優劣論争〉(新旧論争)などが行われたランベール夫人marquise de Lambert(1647-1733)のサロン(1710ころ-33),華やかな文学遊戯や奔放な風俗で名高いデュ・メーヌ公夫人duchesse du Maine(1676-1753)のサロン(パリ南郊のソーSceauxの邸で開かれた)などが現れる。18世紀のサロンは概して啓蒙思想家(フィロゾーフ)たちの集会場の観を呈する。それは新思想の温床であり,政治・宗教の批判,科学上の新発見などが話題の中心となる。アンビル元帥夫人やエギュイヨン夫人のサロン,ブフレール夫人を中心としたル・タンプルのサロン,オペラ上演の日に開かれたパレ・ロアイヤルのサロンなども思想家,政治家を集めたが,文学的にはタンサン夫人marquise de Tencin(1682-1749。ダランベールの母),デファン夫人(ルソー以前の古典派を代表する),レスピナス嬢(デファン夫人の下から分離独立して客をさらった,前期ロマン派の代表),ジョフラン夫人Mme.Geoffrin(1699-1777。〈サン・トノレ街の王国〉を築いた),デピネ夫人,キノー嬢らのサロンが有名である。彼女たちはおおむね進歩的なブルジョアジーの出身で,百科全書派(アンシクロペディスト)や美術家を保護した。18世紀後半にはドルバック男爵のサロン(百科全書派の中心地),エルベシウス夫人,リュクサンブール元帥夫人らのサロンがあり,革命直前にはシエイエス,コンドルセ,タレーランなども出入りしたネッケル夫人Mme.Necker(1739-94。財務長官の妻)のサロンがにぎわった。フランスでは,革命とナポレオン戦争を通じてサロンは凋落するが,そのころベルリンでは,ドロテーア・メンデルスゾーン(哲学者M.メンデルスゾーンの娘),ファルンハーゲン・フォン・エンゼRahel Varnhagen von Ense(1771-1833),ヘルツHenriette Julie Herz(1764-1847)など(いずれもユダヤ女性)のサロンが開かれ,ドイツ・ロマン主義の発生基盤を提供した。
19世紀初頭フランスで再開されたサロンは,社会状況の変化のため影響力は減少したが,スイスのコペで開かれたスタール夫人(ネッケルの娘)のサロンなどはさまざまな国籍の文化人を集めた国際色豊かなものであった。この時期にはなおタリアン夫人,シュアール夫人,ジャンリス夫人らのサロンもあり,文学的にはシャトーブリアンらが訪れたルプランス・ド・ボーモン夫人のサロン(1800-03)が有名である。ロマン主義時代にはユゴーやノディエもサロンを開き,七月王政期にはジラルダン夫人のそれも知られるが,最後の文学サロンといわれたのはレカミエ夫人dame Récamier(1777-1849)のサロンである。第二帝政期になると,公女マティルドのサロン(フローベール,ゴンクール兄弟などが出席),プルタレス伯夫人のサロンなど貴族的サロンが再び現れ,第三共和政下ではジュリエット・アダン夫人,劇作家アルマン・ド・カイヤベなど作家自身の開くサロンが目だつようになる。文学サロンは現在も存在するが,内容は多様化し,規模は小さくなっている。
執筆者:安斎 和雄
美術史の用語として,サロンはフランスの公の機関によって行われる定期的な展覧会をさす。しばしば〈官展〉と訳される。出品対象は絵画,彫刻,建築,素描,版画など。この名は,展覧会がルーブル宮殿の〈サロン・カレsalon carré(四角の間)〉で開かれたことに由来する。最初のサロンは,J.B.コルベールの発案によって王立アカデミーの主催で1667年に開かれ,以来2年ごとに行われたが,やがて不規則になり,1737年より再び隔年ないしは毎年開かれるようになった。出品者は17~18世紀を通じてアカデミーの会員か準会員,あるいは美術学校の教官に限られ,その範囲では自由に出品できたが,1748年より出品作の検閲が始まり,おもに道徳面でのチェックを行った。91年,フランス革命に伴う改革があり,出品者をアカデミー関係者に限るという条項を撤廃し,一時自由に出品できたが,その代りに98年より出品者の投票による審査員を設けた。19世紀になると審査員はアカデミーからの指名制になり,その規準は厳しく,保守的価値観に固執して,しばしばロマン派や写実主義の芸術家たちを排除した。これに対する巻返しも激しく,二月革命(1848)後のサロンは無審査とし,翌年から革命側に好意的な人々を審査員に選ぶなどしたが,ナポレオン3世の政権獲得とともに再び保守的傾向に戻った。1863年のサロンは5000点の応募に対し3000点を落選させるという厳しいものであった(前回は4000点入選)ため,ナポレオン3世の助言で落選展Salon des refusés(マネ,ピサロ,ファンタン・ラトゥールらが出品)が行われ,結果としてサロン批判の声を高めることとなった。74年にはサロン入選を果たせない若い世代が印象派展を企画し,81年にはフランス芸術家協会Société des artistes français,84年にはアンデパンダン展Salon de la Société des artistes indépendantsなど,次々に独立分派活動が発足した。20世紀になってからは個性の乏しい展覧会の一つとして存続するにすぎなくなった。
サロンの出品作は1675年より目録に記載されているが,このほかに批評家たちが自分の批評を一種の案内のようにして売ったり,開催中に新聞・雑誌に掲載したことから,〈サロン批評critique des Salons〉というジャンルが形成された。これは観客への説明や啓蒙から,美学上の論争まで多岐にわたるが,著名なものにグリムFriedrich Melchior von Grimm,D.ディドロ,プランシュGustave Planche,T.トレ,C.ボードレール,T.ゴーティエ,ゴンクール兄弟によるものがある(美術批評)。
サロンの果たした役割はおおよそ以下のとおりである。第1は,それまで個別に注文を受け制作していた芸術家が一定期間公の場に自分の最良の新作を発表でき,他の芸術家との交流,影響,対立意識が芽生え,比較されることで芸術家としての自覚が生まれたこと。第2に作品を購入できない庶民も含めて,人々に広く芸術に接する機会を与えたこと。第3にブルジョアジーの興隆と相まって,注文制作という枠が取り払われ,サロンの場が芸術家と顧客をつなぐ市場になっていったこと。第4にアカデミーを通じてサロンを支配することで,芸術の領域を政治的にコントロールするところとなり,為政者の目的がかなりの範囲で可能となったこと。これら諸点について,サロン批評はその問題点を明らかにし論争を展開したことで,その役割を評価しうる。他の各国においてもアカデミーがサロンを開き,日本では文展,帝展(官展)などがそれに当たる。
執筆者:馬渕 明子
ジャワのガムランの中で用いられる青銅製の旋律打楽器。サルンsarunとも呼ばれる。数枚の肉厚・長方形の青銅板の両端にそれぞれ孔をあけ,共鳴体である箱形の木の台に取り付けた支柱に差し込む。木または水牛の角でできた桴(ばち)で青銅板をたたく。よく通る力強い音色をもつ。中部ジャワの大編成のガムランでは,1オクターブずつ音高の違う大中小のサロンが用いられ,低音のものは定旋律を,高音のものは細かい修飾旋律を奏する。同種の楽器がバリではガンサ・ジョンコと呼ばれ,幾種類かのガムランに用いられてきたが,近年ではグンデルに取って代わられてきている。
執筆者:田村 史子
東南アジアのマレー半島からインドネシアにかけて男女に用いられる腰巻衣の一種。語源はマレー語で袋を意味するsārungに由来。長さ2~4m,幅1mの布の両端を縫い合わせ筒状にして体を入れ,あまった布をひだをとったり折り返したりして腰にはさみこんで着用する。同種のものをミャンマーではロンジーlongyi,タイではパーシンphâ sînなどと呼ぶが,素材,文様,着装法など国や民族で異なり,それぞれに特色がある。また,布を縫い合わせないで単に巻きつけて着るものにジャワ島のカイン・パンジャンkain panjang,タヒチ島のパレオpaléoなどがある。
執筆者:松本 敏子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
本来は、客間を意味するフランス語で、イタリアのサローネsaloneから転化したもの。歴史的には、サロンとは、貴族やブルジョアの夫人が日を定めて客間を開放し、同好の人々を招き、文学・芸術・学問その他の文化全般について、自由に談話を楽しむ社交界の風習をいう。
[福井芳男]
17世紀フランスで確立された、一つのタイプをもつ文学で、風習、文体などにさまざまの影響を与えた。
ランブイエ夫人のサロンが非常に成功したのにつれて、17世紀中葉から後半にかけて、多くの女性が自邸にサロンを開き、貴族、上級ブルジョア層、文人たちがそこに出入りした。このサロンの流行が、ことば、風俗の洗練に尽くした功績は大きかった。著名なサロンで多くの詩人たちが自分の作品を読み、そこでの評判がその作品の成功・不成功を決することにもなった。しかも、サロンにおいて人を楽しませ、喜ばせる独自の文学がここで発達することとなったのである。たとえば、サロンの常連が各自中世の伝説騎士の名をとり、古語で手紙を交換する。あるいは古い詩形であるロンドーを復活させ、すべての詩人が競作することも流行した。こういった流行のほかにも、書簡、短くて軽い詩などに独特の軽妙さ、軽い皮肉、優雅さが盛り込まれる文学作品が支配的になった。ボアチュールがその代表的作家とみなされるが、このほかにもサラザンJean-François Sarasin(1615―54)、バンスラードIsaac de Benserade(1613?―91)などが名高かった。
サロンの主人は女性であるゆえ、女主人やそこに集まる女性たちをたたえる恋愛詩が多いのは当然であるが、それも熱烈な、誠心を告げるといったたぐいのものではなく、気の利いた軽い詩句でなければならなかった。まじめなようで、しかも浮気な恋愛詩が好まれたのである。これが、中世以来受け継がれた恋愛詩、理想の女性にあこがれ、ただひたすら女性をたたえ、仕えるという恋愛詩の伝統から、フランスの詩を解放するのに大いに役だった。またサロンの人々に容易にわかることばを用いる必要から、衒学(げんがく)趣味を排し、新奇な表現を拒み、あまりにも奇異な隠喩(いんゆ)を捨て、わかりやすい優雅なフランス語をつくることに大いに貢献したといえる。ただ、狭いサークルでの会話、文章といった性格上、用語を洗練させたあまり、独特なことば遣いを流行させ(とくにスキュデリ嬢の周辺)、プレシューprecieux(気どった)とよばれる風潮をつくった。その反面、文学に扱う題材が、サロンでの小さな事件、前記の恋愛遊戯に限られて、政治、宗教あるいは深刻な哲学的問題などが排除されてしまったため、文学の次元が著しく狭くなってしまったことは否めない。しかしこのサロンで心理分析が進歩し、人間の行動を支える心理的メカニズムの解明が進んで、いわゆるモラリスト文学が発生したことは特記する必要があろう。ラ・ロシュフコーの『箴言(しんげん)集』はサブレ夫人Madame de Sablé(1599―1678)のサロンでできたもので、後のラ・ブリュイエール、ボーブナルグ、シャンフォールら著名なモラリストたちの作品はみなサロンで発表され、論じられ、サロン文学の一種といえよう。
また17世紀末からサロンの女性たちの関心が科学的な問題に向かったので、フォントネルらがやさしく科学的諸問題の解説を行い、それが近代科学の浸透に役だち、18世紀のデファン夫人、タンサン夫人marquise de Tencin(1682―1749)らのサロンで啓蒙(けいもう)思想の諸作品が生まれたこと、ロマン派文学の胎動がスタール夫人、レカミエ夫人のサロンでつくられたことなどを考えると、狭い意味でのサロン文学の枠を越えて、フランス文学・思想の潮流のなかで演じたサロンの役割は大きかったのである。
[福井芳男]
美術用語としてのサロンは、公募展、官展の意味で用いられる。17世紀、ルイ14世時代、王立美術アカデミーの設置を契機として開催されることとなったいわゆるル・サロン(官展)がその最初で、展覧会場としてルーブル宮の「サロン・カレ(方形の間)」があてられたためにこの名が一般化した。この展覧会は1667年第1回展を開催し、1675年まで隔年ごとに開催され、その後1699年、1704年の開催後は1725年まで中断する。その後、比較的頻繁に開催され、1737~48年は例年、48~91年は隔年展となっている。出品者はアカデミー会員および招待者に限られていたようであるが、18世紀にはしだいに出品数は増加して数百点を数え、訪問者も増加し、美術の批評と大衆化という両面で重要な役割を果たした。フランス革命後、出品は自由化され、そのかわりに審査制度が設けられた。しかし、その後の出品者の増加、審査に対する不満から、1863年には「落選展」Salon des Refusésが開かれ、1881年には政府およびアカデミーから独立したフランス国民美術協会による「サロン・ナショナル」が生まれる。さらに完全な出品の自由、審査の撤廃を趣旨とする「アンデパンダン展」Salon des Indépendantsが設立される。20世紀には「サロン・ドートンヌ」「サロン・ド・メ」など、そのほか多くのサロンが生まれた。
サロンは本来官展として生まれたため、本質的に保守的、アカデミックであり、しばしばそれが在野の画派やそれを支持する批評との間に摩擦を生み、しばしば新しい優れた画家を無視する結果となったが、芸術家たちの熾烈(しれつ)な競合の場としても、多くの大衆への展示といった点でも、近代美術史のうえに果たした役割はきわめて大きい。さらに、次々に成立したサロンはそれぞれ特徴をもち、たとえばアンデパンダン展はスーラやアンリ・ルソーを、サロン・ドートンヌはフォーブの画家たちを、1939年創設の「サロン・デ・レアレリテ・ヌーベル」Salon des Réalités Nouvellesは非具象の画家たちを送り出すなど、それぞれの時代の新たな傾向を世に問う役割をも担った。
[中山公男]
インドネシア、ジャワの旋律打楽器。装飾を施した木製の共鳴台の上に金属製(多くは青銅)の分厚い板を6~8枚、木琴状に並べたもの。木または角(つの)製の槌(つち)でたたき、打奏後、一方の手で板を押さえ消音しながら奏する。ガムランとよばれる打楽器を中心とした合奏のなかで、大小2~4種(音域の低い順に、サロン・ドゥムン、サロン・バルン、サロン・パヌルスなどとよぶ)が、それぞれスレンドロ音列用、ペロ音列用に調律され、2台1組(計4~8台)で使われ、主要旋律およびその分割装飾を受け持つ。調律には、板の裏面の両端または中央を削る。
[川口明子]
マレー半島からインドネシア諸島にかけて広く着用されている腰衣の一種。サロンはマレー語で「筒鞘(つつざや)」を意味する。普通、幅1メートル、長さ3メートルから4メートルほどの多彩な1枚の布で、脇(わき)にしわを寄せ、スカート風にウエストに巻き付けて用いる。地方によっては、筒形に縫い合わせたものを着用することもある。用布には、多彩な文様が織り出されたり染め出されたりした上質綿布、絹布が使われる。インドネシアではバティック(ジャワ更紗(さらさ))のサロンが特徴的。丈は腰で調節されるが、膝(ひざ)からくるぶしまでの間の長さが普通である。男女ともに用いられる。
[深井晃子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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フランスで特に17~18世紀に流行した社交団体。貴婦人を主催者として上流人士が会合し,洗練された会話,振舞いを追求して「プレシオジテ」と呼ばれる気取りの態度を生んだが,18世紀には啓蒙思想の温床となるなど,文学,学術,政治,思想などの多方面に影響を及ぼした。大革命後は衰退に向かい,ブルジョワジーの間では,貴族的なサロンに代わって,イギリスのクラブをまねた男性だけのサークルが普及した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ギルド主催の美術展覧会の形式は18世紀初めまで残っているが,ギルドの独占的で排他的な形式が束縛となってきて,フランスでは1667年にJ.B.コルベールがパリの王立絵画・彫刻アカデミー創立19周年記念にギルドとは離れた美術展覧会を開催し,その後もつづいて開かれた。ルイ15世(在位1715‐74)時代にルーブル宮殿の〈サロン・カレ(四角の間)〉で定期的に美術展覧会が開催されてからは,この展覧会は〈サロン〉と呼ばれ,現在もそう呼ばれている。ここでは出品はアカデミー会員(または準会員)の特権となっていたが,フランス革命の直後J.L.ダビッドの提案でこの特権は廃止されることになった。…
…複数の男子がおのおの音高の違う楽器を持ってかけ合いで打ち鳴らして用いる。インドネシアのジャワ島とバリ島では,共鳴管を持つもの(グンデル),共鳴管を持たないもの(サロン)の両者を包括する青銅製打楽器の総称である。この種の楽器は,旋律打楽器を中心に編成される器楽合奏ガムランの骨格をなす。…
※「サロン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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