スウェーデン(読み)すうぇーでん(英語表記)Sweden

翻訳|Sweden

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スウェーデン」の意味・わかりやすい解説

スウェーデン
すうぇーでん
Sweden

ヨーロッパ北部、スカンジナビア半島東部を占める立憲王国。面積45万0295平方キロメートル、人口908万1000(2006国連推計値)、927万6509(2009年4月末現在)。首都はストックホルム。スウェーデン語ではスベリエSverigeとよばれるが、これは「スベア人の国」の意。正称スウェーデン王国Konungariket Sverige。国歌「祖国よ、自由よ」Det Gamla, det Friaは、自由を愛する国民性を歌い上げたものである。スベア人は9世紀前後よりビーキング(バイキング)Vikingの名で知られ、交易を求めて遠征した海洋民族であったが、10世紀ごろキリスト教の普及に伴ってスカンジナビアに定着した。中世にはストックホルム、カルマルなどがハンザ同盟に加盟して商業の発展をみたが、政治的にはカルマル連合(デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの同君連合)のもとでデンマーク王の支配に脅かされた。1523年グスタフ・バーサ王(グスタフ1世)のときに独立した。1810年フランスよりベルナドット(カール14世)を皇太子に迎えて以来、第一次、第二次の両世界大戦とも中立を維持し、平和を保持している。鉄鉱、森林、水資源の活用と国民の堅実な努力により、かつてアメリカに次ぐ世界第2位の1人当り国民所得を維持した時期もあった。1973年の石油危機以後は経済停滞を招いたものの、なお1人当りの国民総所得(GNI)はEU(ヨーロッパ連合)加盟諸国中、比較的上位にあり、高度の生活水準を保つ福祉国家となっている。中立と人道主義を掲げて国際外交上も特異な立場にたつとともに、国民は冷静で創意に満ち、ノーベルをはじめ多くの科学者を世に送る文化国家でもある。

[中島香子]

自然

スカンジナビア半島の東側を占めるスウェーデンの国土は、その南西部が北海に通ずる海峡部に臨む以外は、内海のバルト海とボスニア湾に面している。南北に1574キロメートルと細長く、北部は北極圏に入るが、北緯60度以南の部分が半分を占める。

[式 正英]

地形・地質

ノルウェー国境に沿う北西部は、ノルウェーから続くスカンジナビア山脈が走り、北部が高くサレク山塊(2090メートル)やスウェーデンの最高峰ケブネカイセ山(2123メートル)があって、2000メートルを超える。スカンジナビア山脈は古生代のカレドニア造山運動による古生層の褶曲(しゅうきょく)山地で、東側のバルト楯状地(たてじょうち)に押しかぶせ断層によって接し、その境はグリント・ラインとよばれる。バルト楯状地は地球最古の始生代、原生代の岩石からなり、これが国土の80%を占めている。おもに花崗(かこう)岩、片麻(へんま)岩、結晶片岩などからなり、古生代以前の数回の造山運動によって著しい変成作用を受けた複雑な地質構造である。

 バルト楯状地の大部分は南東に傾く500~200メートルの高さのノールランド台地で、山脈の東側に南北に長く続き、国土の半分を占める。ノールランド台地の南はベーネルン、ベッテルン、メーラレンの三大湖を含むスウェーデン中央低地となり、その南側にふたたび高度を増してスモーランド台地(270メートル)があり、南縁は中生層を断ち切る準平原のスコーネ低地となる。更新世(洪積世)氷期には全体がボスニア湾に中心をもつフェノスカンジア氷床に覆われ、解氷したのが約1万年前のため、氷食によって削磨されて生じた基盤岩の円丘や凹地が明瞭(めいりょう)に残り、これが地形の基調となっている。その上を氷流の方向に関連して配列するモレーンやエスカーなどの氷河に由来する堆積(たいせき)物が覆う。凹所は無数の湖沼や湿地となり、内水面の面積は全土の10%を占める。ダール川、クラール川など河川はこれらの湖をつなぐ形をとり、水系発達の初期段階にあって、ノールランドの河谷はいずれも北西から南東の流路をとり、平行して流れる。解氷後、一時的に海水面が上昇、浸入したが、アイソスタシー(地殻均衡)による年数ミリメートルの地盤隆起運動が継続して、最高260メートルの所まで海進の痕跡(こんせき)を残す。沿岸にはこれによって生じた粘土質の海岸平野が分布し、肥沃(ひよく)な農地を提供する。この種の平野やスコーネ地方を除いては、氷床の侵食が表土をはぎ取った結果、土壌はやせている。バルト楯状地の岩石には、鉄をはじめ銅、鉛などの鉱石が含まれ、北部のキルナ地区、中部のベリエスラーゲン地区で採掘が進んでいる。

[式 正英]

気候・植生

気候はやや大陸的であり、夏の月平均気温は7月北部で15℃、南部で17℃とあまり変わらないが、北部の農地は夏霜の影響を受ける。冬の気温は2月南西部で零下1℃だが、北部では零下12℃となり、差が大きい。

 植物の成長期間は南部で240日、北部で100日、ボスニア湾の凍結期間も北部で長く数か月間凍結し、寒さが続く。同湾が結氷しやすいのは塩分濃度が低いためでもある。降水は夏にわずかに多いが年間を通じてほぼ平均に降り、冬は積雪となる。スカンジナビア山脈の雨陰(レイン・シャドー。湿った風が山にぶつかって雨を降らせ、山を越えるときには乾いた風となる現象)効果により、北東部で年降水量500ミリメートル以下、その影響のない南西部では700ミリメートルを超える。降水量は高さとともに増加し、ノルウェー国境付近の山地で2000ミリメートルほどになる。南端では小麦が育つが、中央低地とその北部では小麦は育たず、大麦や牧草栽培が主となる。スウェーデンの森林面積は国土の50%を超え、シベリアのタイガ(針葉樹林帯)に続く高緯度針葉樹林帯に属し、ノルウェーモミとスコットランドマツが主で、一部にシラカバやポプラが加わる。山地には小氷河が残り、ツンドラ(永久凍土帯)がみられるが、一方、南西部沿岸にはブナを含む落葉広葉樹林帯がある。

[式 正英]

地誌

スウェーデンは一般に三大地区に分けられる。すなわち、南部のイョータランド、中部のスベアランド、北部のノールランドの3地区で、その名は、古くに異なった種族が住んだ土地であることに由来している。この分け方とは別に、民族学的考察による文化圏の境として、ダール川河口とベーネルン湖北岸とを結ぶ線によって南北に分けられる。この境は地形的にみてもスカンジナビア山脈の末端と一致し、南北で差異をみせている。

 北部は、工業化以前においては耕作面積が小さく、人々は主として酪農、林業、狩猟を生業としていた。寒冷な気候はライムギ、大麦の栽培に適し、したがってイースト菌を使わない硬いパンとヨーグルト状のミルクを食糧とし、男性が林業や狩猟で家を留守にするため酪農が女性の仕事であった。日本の若者宿に似た配偶者選択の風習も、鉄道普及以前のこの地方では許された社会風俗であり、針葉樹林の豊富な地であることから、建築様式は校倉(あぜくら)式に似た木組みを採用していた。隣国のフィンランドにかけて極北の山地やツンドラ地帯に住むサーミ人は、トナカイを追って冬は海岸地方に、夏は山岳地帯に移動し、北ゲルマン系のスウェーデン人とは異なる特殊な言語文化をもっている。

 これに対して南部は耕作面積も大きく、南スウェーデンのスモーランド地方を除いては気候も温暖で、小麦を産し、イースト菌を用いた膨らんだパンの文化といえる。建築様式も木材を柱に粘土の壁であり、南端のスコーネ地方は大農が多く、したがって結婚も財産を考慮に置いた仲人(なこうど)式であった。

 このほかに、歴史上存在した国境の影響によっても、地域的な差異が生じている。イョータランド南部は1660年までデンマーク領であったため、言語風習にデンマークの影響が残っている。また、イョーテボリを中心とした地域には古くからイギリス、オランダの文化の影響がみられ、ストックホルムを中心とした東海岸地域には東欧諸国およびドイツ文化の影響がみられる。両地域は西ヨーロッパと東ヨーロッパの文化の境界をなし、都市形成上あるいは年中行事などの面で差異が残っている。これらの文化圏の差は交通通信網の発達により平均化されつつあるとはいえ、20世紀に入っても農業の機械化など新しい情報の伝播(でんぱ)の仕方にその特徴を示した。

 産業の発達についての地域的な特徴をみれば、ストックホルム、イョーテボリ、マルメの各市を中心に商工業が発達し、南部は農業、北部は林業、中部のスベアランドが中間帯として双方の特徴を示す。北部は海岸地方に水と森林資源を生かしたパルプ・製紙工業が発達し、また豊富な鉄鉱資源を有するが、距離的に西ヨーロッパ市場から遠いため、政府の工業誘致政策にもかかわらず伸び悩み、人口流出が問題となっている。

[中島香子]

歴史

スウェーデン人が自らの歴史を『年代記』という形で記録するようになるのはだいたい14世紀ごろからのことであり、それ以前の歴史について知るためには、考古学史料、ルーン碑文、ヨーロッパ大陸で書かれた文献(古代ローマのタキトゥス、ゴート人のヨルダネスらの著述)などに頼らなければならない。

[本間晴樹]

原始および古代

スウェーデンに人間が定住し始めたのは、氷河が後退してからまもなく、おそらく紀元前1万~前8000年ごろと推定される。その痕跡(こんせき)として、とくに南部には多くのドルメン、石室墓などが残されている。その後、前2000年ごろインド・ヨーロッパ語族が移住し、定着した。

 ローマ時代には大陸との交易が盛んに行われるようになり、おもに琥珀(こはく)、毛皮などが輸出された。5~6世紀になると多くの部族国家が形成され始め、そのなかでウプランド地方のスベア人はとくに繁栄し、海上貿易にも進出した。この時期を「ベンデル時代」とよぶ。9~10世紀までに、スベア人を中心として多くの部族国家が連合し、スウェーデンの原型が形成されたが、この国の部族連合としての性格はかなりあとまで残った。

 9世紀から北欧人の海外進出、すなわち「ビーキング(バイキング)」Vikingの活動が始まる。スウェーデン人はおもにバルト海を東に越え、内陸水路を経て黒海、カスピ海に達し、ビザンツ、アラブ世界と通商関係を結んだ。彼らの輸出品は木材、毛皮、スラブ人奴隷などで、その見返りはおもにアラブ、ビザンツの銀貨であった。こうして輸入されたと思われる貨幣が、近年ゴトランド、メーラレン湖畔などから多数出土している。海外進出者のうち、ある者は通商経路に土着し、やがてスラブ人と同化した。またある者はデーン人らとともに西方へも進出した。11世紀以後、スラブ人の勃興(ぼっこう)およびヨーロッパの貿易情勢の変化などにより、しだいにこのような活動は衰退した。

[本間晴樹]

中世

スウェーデン史においては、中世の開始時期は通例ヨーロッパの他の諸国の場合よりかなり後、すなわち統一王国がほぼ形成された11世紀ごろに求められている。1000年前後からキリスト教が漸次浸透し始め、土着宗教の根強い抵抗を排して、12世紀にはほぼ全国に定着し、司教座、修道院が設置された。また12~13世紀にはキリスト教布教を名目としたフィンランド侵略が進められた。13世紀前半までは王位をめぐる内乱が相次いだが、この間に地方ごとの法典の編纂(へんさん)が始められた。1250年ビルイェル・ヤールは息子のバルデマールを王位につけ(在位1250~1275)、大領主層の勢力を削り、王権の確立に努めた。その後14世紀前半にかけて、マグヌス1世Magnus Ⅰ(1240―1290、在位1275~1290)および2世(1316―1374、在位1319~1356、1359~1364)の治下に国家機構がかなり整備され、また1350年全国的な法典が制定された。この間、ハンザ同盟をはじめとするドイツ人勢力が北欧に著しく進出し始めた。14世紀中ごろから貴族と国王との抗争がしばしば生じ、1364年マグヌス2世は廃位され、メクレンブルク公アルブレクト(在位1364~1389)が国王に推戴(すいたい)された。しかしアルブレクトもドイツ人官僚を重用したため、まもなく貴族との抗争に陥った。デンマークおよびノルウェーの摂政マルグレーテ1世は、このような情勢を利用して1389年アルブレクトを破り、廃位させるとともに貴族の力を巧妙に抑え、1397年甥(おい)の子エーリク(エーリク7世Erik Ⅶ。1382ころ―1459、デンマーク王(在位1396~1439)、ノルウェー王(エーリク3世、在位1389~1442)、スウェーデン王(エーリク13世、在位1396~1439))を名目上の王(在位1397~1439)として北欧三国を合同させ、自らその支配権を握った。

 マルグレーテの死後エーリクは、ハンザ同盟との戦争およびデンマーク人官僚による圧制によって、スウェーデン人の不満を引き起こした。1434年エンゲルブレクトが、鉱夫、農民とともにエーリクの支配に対する反乱を起こすと、乱はたちまち全国に広がった。1435年1月、彼がアルボガに招集した全国的集会は、後の議会の原型といわれている。翌年彼が殺害されると、反乱の主導権を握ったカール・クヌートソンKarl Knutsson(通称カール8世Karl Ⅷ。1408―1470、在位1448~1457、1464~1465、1467~1470)らの貴族はデンマーク側との妥協を進め、むしろ農民らの行動を抑圧するようになった。1471年以後、デンマークとの形式的合同の下でスウェーデン人の摂政が統治にあたるという体制が定着した。1477年ウプサラ大学が設立され、1483年印刷術が導入されている。

[本間晴樹]

近世

16世紀初頭、摂政(せっしょう)スチューレと大司教トロッレGustav Trolle(1488―1535)との抗争に乗じ、デンマーク王クリスティアン2世Christian Ⅱ(1481―1559、デンマーク・ノルウェー王(在位1513~1523)、スウェーデン王(在位1520~1523))は合同の強化を企て、1520年いったんスウェーデンを制圧した。しかしグスタフ・バーサの指導する反デンマーク闘争が1521年以後力を得、1523年合同は解体し、グスタフは王位についた(グスタフ1世、在位1523~1560)。彼は、独立後の財政難克服のため、1527年宗教改革を断行し、教会財産を没収した。また頻発する農民反乱に対し徹底的な弾圧を加えたので、1540年ごろまでは不穏な国内情勢が続いたが、財政の安定とともに政情も沈静し、中央集権化はかなり達成された。グスタフの死後、後継者たちはバルト海東岸への進出を始め、ロシアおよびデンマークとたびたび戦(いくさ)を交え、とくにポーランドとは、1599年ポーランド王を兼ねる国王シギスムンド(ジグムント3世。在位1592~1599)が旧教徒であるために廃位されてからは慢性的戦争状態に陥った。一方、16世紀初頭までに中央官制(コレギウム制)が整備され、また議会も頻繁に開かれるようになり、ともに国家機構として定着し、1634年憲法によってその権限を確立した。

 1630年、グスタフ2世(在位1611~1632)は自ら軍を率いて三十年戦争に介入し、自身は戦死したが、1648年の講和(ウェストファリア条約)により北ドイツに領土を得ることとなった。また1657~1660年のデンマークとの戦争の結果、スコーネ、ハランドおよびゴトランドがスウェーデンの領有となり、バルト海および沿岸に対する覇権は著しく強化された。しかしこの間、官僚機構の肥大化とたび重なる戦争のため財政は非常に悪化し、王領地が大量に貴族の手に渡り、貴族官僚の勢力が増大した。1680年カール11世Karl Ⅺ(1655―1697、在位1660~1697)は議会を利用して、貴族の勢力を削るとともに彼らに渡った土地を大部分回収し、王権を強化した。

 17世紀末、バルト海支配に伴う矛盾は増大し、周囲の諸国からの圧力も強まり、1700年ロシア、デンマーク、ポーランドなどとの間に戦争が勃発した(大北方戦争)。最初はスウェーデン側が優勢であったが、ロシア遠征の失敗後劣勢になり、1718年国王カール12世(在位1697~1718)は戦死し、1721年講和が結ばれ、バルト海東・南岸の領土は大幅に失われた。戦争末期、憲法改正により王権は著しく弱められ、議会の権限が強化され、戦後は議会を拠点とする貴族勢力が権力を握った。それ以後約半世紀を「自由の時代」とよぶ。この時期、議会に「メッサ党」「ハット党」の2党派が形成され、交替で政権を握った。のちに、この両派の政争の熾烈(しれつ)さとハット党の対外強硬策は、国の財政を疲弊させ、政情の著しい不安定を招いた。

 国王グスタフ3世(在位1771~1792)は1772年クーデターによって憲法を改正させ、王権を再強化し、また産業および文化の保護に努め、啓蒙(けいもう)専制的な統治を行った。1792年のグスタフ3世の暗殺ののち、その子グスタフ4世(1778―1837、在位1792~1809)はフランス革命の影響を恐れ、専制政治を強化した。

[本間晴樹]

近代および現代

1805年スウェーデンはナポレオン戦争に介入するが、敗北を重ねて北ドイツの領土を失い、1808年フィンランドをもロシアに占領され、国民の不満は増大した。1809年3月の革命によりグスタフ4世は追放され、議会は新憲法を制定し、講和を成立させた。1810年、新国王カール13世(1748―1818、在位1809~1818)の養嗣子(ようしし)としてフランスから招かれたベルナドット元帥は、カール・ヨハンと改名し、ただちに実権を握り、1812年反ナポレオン陣営に加わり、1814年ノルウェーを同君連合の形で併合した。1818年カール・ヨハン(カール14世、在位1818~1844)が即位すると、対外的には協調政策がとられて国力は回復したが、国内ではかなりの反動政治が行われた。しかし自由主義的改革要求は根強く続けられ、1840年内閣制度が改革され、1862年地方自治制、1866年二院制議会が成立した。

 19世紀後半には鉱工業が非常に発達し、都市人口が増え、一方、北アメリカなどへ大量の移民が渡航した。また労働運動、普通選挙運動が急速に発展し、20世紀初頭に普通選挙制、政党内閣制が成立した。また1905年ノルウェーの独立も平和裏に達成された。第一次、第二次の両世界大戦の際は、厳しい情勢のなかで中立が維持された。両大戦間の1932年、社会民主党内閣が成立し、世界恐慌の影響を克服するとともに多様な福祉政策を実現した。一時「農民連合」に権力を奪われたが、他の政党と連立を組みながらも1976年まで政権を維持、以後、保守党(穏健党)と交互に政権を担当している。政治面では、中立を守り通してきたが、共産主義の破綻(はたん)は、1980年代後半の冷戦の終結とヨーロッパの政治的分割の終結を導きだし、いやおうなく国際政治の荒波に洗われることとなった。現況では独自の政策を打ち出すことは困難で、1995年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟し、その一員として各国と連携を保って政策を遂行している。

[本間晴樹]

政治・外交・防衛

スウェーデンの政治は、立憲君主政体のもとに、議会制民主主義に基づく三権分立制を基本としている。現国王はカール16世グスタフCarl ⅩⅥ Gustav(1946― )で、1973年9月に即位した。

[中島香子・和田俊之]

憲法と議会

憲法は、統治法(1974制定)、王位継承法(1809)、出版の自由に関する法律(1949)、表現の自由に関する法律(1991)の四つの基本法からなる。1974年に憲法の改正が行われ、これにより、国王の地位は、閣議主宰を廃止するなど以前にも増して象徴的な存在となった。新憲法下における政治の基本理念はおおよそ以下のとおりである。(1)王位の継承は男女児を問わず第1子による世襲制とする。(2)議会は立法権と議決権を有するが、特定の目的については国民投票を行うことができる。また、国民の基本的人権は保障される。(3)言論の自由を認め、いかなる宗教および政治団体にも加入と脱退の自由を認める。

 議会は1971年の議会法(1866年制定)の改正により、それまでの二院制を廃して一院制となった。議員数は349人で、4年ごとに改選され、18歳以上のスウェーデン人に選挙権が与えられている。選挙は比例代表制で、一党が総投票数の4%を得られなければ国民を代表することができず、比例配分によって各党の議員数を決定する。1979年9月の選挙では投票率91%、社会民主労働者党、保守党(穏健党)、中央党、自由党、共産党(1990年に左翼党と改名)の各政党が議席を占め、政権は中央党と自由党の連立となったが、1982年9月の選挙では投票率91.4%、社会民主労働者党が6年ぶりに政権を奪回、党首オロフ・パルメが首相の座についた。同党を中心とする左派連合は1985年9月の総選挙で小差ながら勝利し、政権を維持した。パルメは1986年2月28日暗殺され、イングバル・カールソンIngvar Carlsson(1934― )が後を継いだ。1991年の選挙では保守党、中央党、自由党、キリスト教民主党の連立政権が誕生し、保守党党首カール・ビルトCarl Bildt(1949― )が首相になった。1994年の総選挙では(投票率86.8%)ふたたび、社会民主労働者党が政権をとったが、過半数には至らず、少数単独政権となり、中央党、左翼党と協力関係にあるイングバル・カールソンが首相になった。しかし、カールソンは1995年に引退を表明、同年ヨーラン・パーションGoran Persson(1949― )が後任の党首に選出され、首相の座についた。1998年、2002年の総選挙でも社会民主労働者党が少数単独政権を維持、左翼党、環境党(緑の党)の閣外協力を得て政権運営を行っていた。2006年の議会選挙(投票率80.4%)では、社会民主労働党が議席を減らしたが、第一党となった。しかし保守党、中央党、自由党、キリスト教民主党による中道右派連合「スウェーデン同盟」が過半数を獲得し、保守党党首フレデリック・ラインフェルトFredrik Reinfeldt(1965― )が首相に就任した。政党は社会民主労働者党のほか、保守党、自由党、キリスト教民主党、左翼党、中央党、環境党が国会に代表を送っている。政策としては、税金問題、社会福祉に関連する家族問題、給料基金(給料から天引きして基金を設立)問題が取り上げられ、論争されてきた。原子力発電所の全廃、EU加盟問題等は、表面的にはどうであれ、社会民主労働者党と保守党との意見はほぼ一致しており、EU加盟に関しては1995年に実現、原発に関しては2005年までに12基中2基が操業停止した。なお、2006年成立した中道右派連合政権において、原発の現状維持が表明されている。

[中島香子・和田俊之]

行政

内閣は22人の閣僚がおり、また政府は首相府と10省および中央行政庁からなる。国家公務員、地方公務員、その他公的団体の労働者数は約128万人(2002)であり、就業者人口の3割を占めている。労働組合は職業別で、ブルーカラーの労働総同盟(LO)とホワイトカラーの俸給職員中央団体(TCO)、おもに大学卒のホワイトカラー労働者のための専門組合連合(SACO)が三大組織であり、多大な政治的影響力をもっている。地方行政は21のレーンとよばれる行政区からなり、長官は政府任命制である。各レーンには医療をつかさどるランスティングといわれる機関があるほか、環境問題などの地方計画を行う。レーンはさらに290のコミューン(小自治体)に分かれ、福祉、教育、住宅などの問題を担当する。地方議会選挙は国会と同日であるが、これにはスウェーデン国籍以外の者も3年以上居住すれば、選挙権、被選挙権が得られる。国民は国税と住民税を収入に従って支払うが、住民税は各コミューンによって税率が異なるので福祉行政に差異を生ずることがあり、国費の補助が出されている。

[中島香子・和田俊之]

司法

司法権は政府から完全に独立している。一般裁判所と特別裁判所があり、後者は水利、建築、労働などの諸問題を扱い、特別の専門家の知識を必要とする。一般裁判所は地方裁判所、控訴院、最高裁判所に分かれる。死刑は1910年以後、戦時・平時を問わず禁止され、刑はすべて罪の更生を目的とし、外出、外泊も人権尊重上しばしば許され、公判における弁護士の斡旋(あっせん)、援助も行われる。司法制度のなかで注目すべきものにオンブズマン制度があり、これは個人の権利を誤った権力によって侵害されることから保護する処置である。それは法律弁護、消費者弁護、男女平等の確保、産業の弁護などに分かれている。また、政府の監視役としては特別な司法官が定められている。

[中島香子・和田俊之]

外交

1814年以来平和を維持しているスウェーデンは、他国から直接攻撃を受けない限りいかなる戦争にも参加しない絶対中立を外交の第一義としている。第一次、第二次世界大戦には種々の問題を含みつつも参戦拒否に成功した。第二次世界大戦後の米ソ間のいわゆる「冷たい戦争」にも中立を維持し、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)への参加も拒否しているが、ワルシャワ条約機構の解消、ソビエトの崩壊、ヨーロッパにおける民族主義の台頭に伴って、NATOがヨーロッパの安全化を図る手段(一つの例として平和のための協力協定Partnership for Peace)を講じるに従って、スウェーデンは1994年以降、それに積極的に参加するようになった。旧ユーゴスラビアにおいて、NATO指揮下のもとにスウェーデンの軍隊が参加したのはその一例である。

 第二次世界大戦後、国連に参加、ハマーショルドを事務総長(在職1953~1961)に送り、植民地問題の解決に尽力した。またオブザーバーとして朝鮮半島など各所に出兵したこともある。イラン・イラク戦争には平和使節として社会民主労働者党党首パルメが選ばれている。また軍備縮小、核兵器反対のアルバ・ミュルダール女史の働きは特筆すべきである。北欧の非核武装化実現には外交上力が注がれている。開発途上国援助にも努力し、目標であるGNP(国民総生産=1032億4000万ドル、1983)1%の援助費支出を1977年度に達成した。しかしその後、援助予算は削減され、2003年にはGNI(国民総所得)の0.7%となったが、2006年のODA(政府開発援助)は対GNI比1.02%となっている。経済外交面でも中立を守るべく努力をしてきたが、EUに加盟する国々が増えるにつれて、独自の経済外交の遂行は困難となった。1994年の国民投票により、EUへの加盟を決め、1995年1月から正式加盟国となった。以降、加盟国との人的、物的交流は活性化し、加盟国の一員として他の国々と歩調をあわせている。これにより1960年以来加盟していたEFTA(エフタ)(ヨーロッパ自由貿易連合)を脱退した。1952年に北欧5か国の評議機関として北欧会議が発足し、法律、経済、社会、交通・通信、文化などに関して共通する問題を各国間で協議する協定が結ばれた。

[中島香子・和田俊之]

防衛

中立を維持するため防衛力は国家規模のわりには強力で、国家予算のうえでも優遇されている。その防衛思想は総合的なもので、防衛体制は四つの組織から構成されている。すなわち、正規の国防軍のほかに民間防衛組織(国民保護)、経済防衛組織(自給体制)、心理防衛および完全自主防衛組織があり、これらを一体化した全体防衛という考え方にたっている。国防軍は陸・海・空軍と物資供給局、徴兵局、研究局よりなり、19歳から47歳までの男子の徴兵制で、7.5~18か月の兵役に服する。常備兵力3万2100人、総動員数は23万6000人(2003)、女性の希望者にも門戸を開いている。軍備費は国家予算の約6.2%が計上され、445億8800万クローナ(2002)に達する。軍備の83%は国産であるが、1980年代以降は部品の輸入増加が憂慮されている。民間防衛組織は核兵器対策として市街地に550万人収容可能の地下シェルターを用意し、約20万人の動員が可能である。経済防衛組織は食糧と石油の完全確保を実施し、心理防衛および完全自主防衛組織は100万を超える自発的協力者を擁するといわれる。

[中島香子・和田俊之]

経済・産業

スウェーデンは17世紀以来、銑鉄の輸出国としてヨーロッパに知られていた。19世紀なかばの蒸気機関を利用した木材業の発達は産業革命の口火となり、続いてノーベルのダイナマイト、エリクソンL.M.Ericsson(1846―1926)のクロスバー電話交換機をはじめ、牛乳分離機、ボールベアリングなどが発明された。キルナの鉄鉱石の採掘開始と鉄道敷設、電気の普及は工業化の歩みを速めるものとなった。1930年代の不況下に政権を得た社会民主労働党の経済目標は、完全雇用、適当な経済成長、価格の安定、国際収支の均衡であった。中立を維持した第二次世界大戦中にも航空機、自動車産業の発達をみ、1960年代に前記の経済目標を達しえて福祉国家を確立したが、しだいに高賃金は製造コストの上昇を生み、1973年の石油危機に至って輸出の停滞、インフレの高進を招いた。1976年、保守政権への交替以来インフレは年10%以上となり、生産および投資の低下をみ、公共経費は増大し、ついに国家予算の赤字を生むに至った。

 1972年秋に政府は「土地と水利」という国土開発基本法を打ち出した。地域計画を強化して、工場適地、住宅地、レクリエーション地区などを指定した。大都市への人口集中を防ぐため、政府機関の地方移転が行われ、補助金制度による北部への工場誘致などが行われた。新しいエネルギー源の開発として、太陽熱、地熱、風力利用とともに、ツンドラ地帯の泥炭の開発に力を注いでいる。鉱石探知も盛んで、有望な金・銀鉱も発見されている。

 1991年から1993年にかけて3年連続マイナス成長を記録するなど、戦後最悪ともいえる不況期を迎えたが、クローナの下落および世界的な景気の回復に伴い、1994年には輸出の高い伸び率に支えられてプラス成長(GDP成長率3.3%)に転換。さらに2000年に入り、成長率はさらに上昇(GDP成長率4.3%)、それ以降も堅調な伸びを示している。完全失業率は1994年8.0%であったが、2000年には5.6%に減小した。その後、2008年に発生した世界的な金融危機の影響を受けて、景気後退の局面を迎えている。また、金融機関の債務保証など、大規模な金融安定化のための政策がとられている。

[中島香子・和田俊之]

農林漁業

農業は第二次世界大戦以後、急速に機械化され、品種改良、新技術の導入により農業人口と耕作面積の低下にもかかわらず生産は増加した。農業人口は1920年に総生産人口の20%であったが、2002年ではわずか2.1%である。耕作面積は316万6000ヘクタール(2003)。農業人口の46%は55歳以上で、農業者の多くは中部以北に居住し、小規模経営による酪農、牧草栽培を主としている。中部以南では1世帯当りの耕作面積が大きく、おもに小麦、オート麦、ジャガイモ、テンサイを栽培している。養豚、養鶏、養肉牛も広く南部で行われる。政府と農業組合間では消費者価格と生産者価格の調節を計っており、農民の80%は協同組合に加入して食品工業にも参加している。

 国土総面積の60%は森林で、これは木材28億立方メートルに相当する。その43%はトウヒ、39%はマツ、残りは広葉樹である。年間成長は8000万立方メートルで、寒冷で成長率が不良のため、早成樹種への改良が研究されている。森林の5%は国有、8%は公有、37%は団体所有、50%は私有で、政府は森林の効率的な工業利用と植林に力を注いでいる。

 漁獲は年間30万5700トン(2001)で、西部のカテガット海峡ではニシン、タラ、エビをおもに産し、東部のボスニア湾や南部のバルト海ではニシン、タラ、ウナギ、サケ、淡水産のロブスターなどがとれる。漁業者は約2670人(1995)。漁業海域は200海里内で、バルト海の国際海域では沿岸国の協定により漁獲量の割合が決定される。漁業者にはローンによる新漁船の購入の便宜と魚の価格調整が計られ、給与所得者との所得の均衡を保つように配慮されている。

[中島香子・和田俊之]

鉱工業

地下資源は豊富で、その第一は鉄鉱石であり、キルナを中心に約30億トンの埋蔵量が見込まれる。鉄鉱石生産量においてスウェーデンは世界の生産量の約2%を占め、2001年の生産量は195万トン、その大半をキルナ付近から産出し、国営企業LKAB(エルコーアーベー)が採掘している。その他主要鉱産物生産量は亜鉛15万6000トン、銅7万4000トン、鉛8万6000トン、銀280トンとなっている。ダーラナ南部では鉄、銅、鉛、亜鉛を産する。ルーレオ南部のボーリデンBoliden地区では銅、鉛、亜鉛のほかに、銀と金も産出する。ウラン埋蔵量は約30万トンといわれるが、環境問題、採掘コスト問題、原子力発電反対運動により採掘されていない。水資源も豊富で、電源としては北部に集中しており、総電力の49%が水力発電、原子力発電で28%をまかなっている(2001)。

 鉄鋼業は約20の特殊鋼炉を有するが生産高は高くない。普通鋼の生産は年間100万~200万トンにすぎず、生産増加策として鉄鋼会社の合併統一が計られた。チタン、マンガン、アルミニウムの合金による硬金属はサンドビーケンSandvikenで生産され、岩石掘削機などに使用されている。製造業は全工業生産の40%を占め、製品の半数以上は輸出され、約41万人がこれに従事している。大手の約10社は海外に工場を有し、生産の約40%は外国で行われ、その従業員数は15万人を超える。この傾向は強まりつつあるが、労働組合側からの批判が強い。造船業は日本に次いで世界第2位を誇っていたが、現在は不況にみまわれ、造船会社は国営化されて年間300万トンの生産にとどまっている。航空機および兵器産業はサーブとボーフォーシ(ボフォース)の2社により、国内軍備の80%をまかない、重要輸出品目の一つにもなっている。

 自動車産業はスウェーデンの基幹産業の一つで、ボルボ、サーブ、スカニアが有名である。拠点は南部に集中し、トラックと高級車製造・開発が行われ、また、オートリブ、ハルデックスなど高い技術力をもつ自動車部品産業がある。

[中島香子・和田俊之]

貿易・財政・金融

総輸出額においてスウェーデンは世界20位、総輸入額では21位にランクされ、輸出額は1225億ドル、輸入額は993億ドルである(2004)。輸出入ともEU諸国、ノルウェー、アメリカとの取引が多い。重要輸出品目はパルプ、鉄、車両、機械、医薬品で、輸入品目は化学製品、車両、機械などである。輸出面で特筆すべきものに建築土木技術があり、サウジアラビアをはじめ各国に進出している。1973年の石油危機前後から輸出低下に伴う製品在庫の増加をみ、そのうえ公共費が増大して、1975年には国際収支が赤字となり、輸出市場は衰退した。以来2回にわたる平価切下げを断行した。1998年より黒字財政に転換、以後堅調な経済成長率をみせている。通貨であるスウェーデンクローナは、1991年5月からその交換比率を自主的にECU(エキュ)(ヨーロッパ通貨単位)に連動。1992年秋のヨーロッパ通貨危機に際し、同年11月に変動相場制へ移行した。その後、EUは共通通貨ユーロを採用、しかしスウェーデンはEU加盟国であるが、ユーロには不参加で、通貨はクローナのままである。

 金融機関は政府直属の国立銀行の管理下に各種銀行、保険会社、財団、債券などによる金融がある。通貨1クローナは約15円(2006)にあたり、その100分の1が1イョーレ(オーレ)である。税金は法人税のほか所得額に応じた所得税が課され、国税は高額所得者に適用される。消費税にあたる付加価値税は原則25%(食品、書籍等例外あり)、その他雇用者が負担する社会保障拠出金等があり、高い税はつねに国民の不平の種である。ローンが税控除の対象となり、貯金の利子が収入とみなされて課税対象となるため、国民には貯蓄精神が希薄である。その対策として政府は1984年から2通りの無税優遇措置(預金額7万5000クローナまで無税)を実施した(アッレマンススパールallemanssparとアッレマンスフォンドallemansfondという)。

[中島香子・和田俊之]

交通・通信

旅客運搬の90%は自動車によっているが、事故件数は車両数に比べて世界一少ない。これは、安全ベルトの使用、年1回の車体検査、ライトの昼間点灯が義務づけられていることにもよる。鉄道網は人口に比べてヨーロッパ第一の密度である。航空は北欧三国で運営するスカンジナビア航空のほか、スカイウェイズ、マルメ航空等がある。海運では362隻(自国籍168、外国籍194)、1034万2293トンの商船を有する(2001)。おもな港湾都市はイョーテボリ、ヘルシングボリ、ルーレオ、トレレボリ、ブローフォールデンである。電話の普及率は世界でもトップクラスであり、加入数は2002年で1452万8000、また携帯電話加入数は794万9000である。テレビは国営2、民間5の計7チャンネル。衛星放送とケーブルテレビのチャンネルは11ある。

[中島香子・和田俊之]

社会

住民・言語

住民はゲルマン系の白人スウェーデン人と、遊牧民族サーミ人(ラップ)からなる。サーミ人はスカンジナビア半島北部とコラ半島に分布し、現国境決定以前は自由に移動していたため、近年のダム建設などをめぐって土地の所有権が問題になっているが、法律上は他のスウェーデン人となんらの差別はない。移民としては、第二次世界大戦時にバルカン諸国からの避難民を大量に受け入れ、1960年代より経済成長に伴って北欧諸国および南ヨーロッパからも多くの移民を受け入れた。移民総数は約81万4176人、そのうち約30%は北欧諸国からの移民で、フィンランド人がもっとも多く約21万人、南ヨーロッパ人では旧ユーゴスラビア人が多く約4万5000人、ほかにイラン人4万3600人である(1991)。2002年現在39万9469人の外国人が居住し、うち北欧諸国とその他ヨーロッパ諸国がそれぞれ30%を占め、25.6%がアジア諸国、5.6%がアフリカ、4%が南アメリカ、3.2%が北アメリカからである。移民の推移をみると、2000~2005年にかけて毎年4万~5万人が数えられるが、特筆すべきはアジア人が多いことで、2005年入国した移民のうち28%がアジアからである。亡命希望者の受け入れも行っており、旧東欧諸国、中東・アジアからの移住者が多い。スウェーデン国内の失業率の改善が遅れている現在、移民との間に微妙な感情の動きがみられる。

 言語はゲルマン系のノルド語の一つスウェーデン語を公用語とし、学校、報道機関においてもこれを使用している。話しことばには各種の方言があるが、ラジオ・テレビの普及により均一化されつつある。方言は大別して南北に分けられ、イョータランド北部がその境界とされる。スウェーデン語は17世紀にはドイツ語の、18世紀にはフランス語の、20世紀には英語の影響を受けて変化している。このため政府は国語委員会を設けて正しい国語の普及に努めており、学士院から国語辞典が発行されている。移民にはスウェーデン語を無料で教え、その子弟にはそれぞれの出身国の母国語を教える政策をとり、移民子弟の精神的負担の緩和を計っている。サーミ人はサーミ語を通用語とし、また北部の一地方ではフィンランド語が通用語として話されている。

[中島香子・和田俊之]

国民生活

人口密度は1平方キロメートル当り20人で、その密度は極端に南部に偏り、その約83%は都市とその周辺に集中している。政府は対策として政府機関の地方移転などにより、職場の地域配分の調整を実施している。1930年代の不況と産児制限の普及による出生率の低下で、人口増加率は1983年には0.12%に落ちた。当局は憂慮のすえ、1982年度より3人以上の児童をもつ家庭は付加手当をうけられるようにした。これらの給付は所得に関係なく、誰にでも例外なく支給される。現在では児童(原則16歳未満)の数に限らず第1子より児童手当が支給されている。1993~2002年の年平均の人口増加率は0.2%と上昇した。平均寿命は男性78.0歳、女性82.6歳であり(2002)、人口の約17%が65歳以上である。労働人口は約424万人で、その平均所得は年間約7万クローナである。結婚または同棲(どうせい)している女性の70%近くが労働に従事しているので、1世帯当りの収入はかなり高くなるが、女性の就業形態は35%がパートタイム労働者である。週労働時間は40時間、地下鉱山勤務者36時間で、1991年より年間5週間と2日の有給休暇が法律で定められている。自家用車の普及率は2.2人に1台、テレビは2.2人弱に1台の割であり、一戸建ての住宅、夏の家、ボート、車を所有することが人々の理想とされている。住宅は大都市においては不足しているが、地方によっては余剰がある。収入の少ない人には、一戸建て住宅に居住する者にも住宅補助金が支給される。一戸建て住宅には率のよいローンが借りられ、種々の税控除もあるため、アパート入居者との間に不平等が生じ、問題にされている。

[中島香子・和田俊之]

教育・宗教

教育制度は1962年から義務教育の9年間を低・中・高の3段階に分け、その上に3年の高校を置くことと決定された。2学期制で、8月末から翌年の6月中旬までを2期に分ける。私立学校はきわめて少数で、ほとんどが公立、大学はすべて国立である。義務教育段階と高校では授業料、教材および昼食が無料、大学では授業料が不要で校友会費を100クローナ前後納入するだけで入学金も不要である。幼児教育は、1975年からすべての子供が就学前1年間は幼稚園に入ることができる権利を得た。働く両親をもつ子供は6か月児から6歳児まで保育所に預けられ、その費用は両親の収入によって異なる。1976年より授業改革案が提出され、生徒の自発性を促す新教育法が試験的に実施されている。成人学校は100年の伝統があり、全国に100か所ある。労働団体も成人教育機関をもち、文化活動に参加している。

 宗教はキリスト教プロテスタントの福音(ふくいん)ルーテル派に属する人がもっとも多く、総人口の87%、約770万人が所属している。人口の10%が定期的に教会に通い、5%は日曜礼拝に参加する。出生児中78%は洗礼を受け、約50%が堅信礼を受ける。結婚の62%が教会で、5%は他宗派のしきたりによって行われるが、32%は届け出結婚である(同棲はスウェーデンでは一般的)。葬儀の90%は教会、5%が他宗派によって、2%は届け出によるものである。13の大教会区と2544の小教会区がある。牧師は引退も含めて約5000人いる。うち900人が女性。

 スウェーデンは他の北欧諸国に比べ、自由教会に属する人が多い。ペンテコスタル派が8万9000人、ミッション派が6万5000人、エホバの証人、救世軍などがそれに続く。他宗教では、ユダヤ教1万8000人、イスラム教25万人などがある。イスラム教徒のほとんどが第二次世界大戦ののち、トルコや中近東、旧ユーゴスラビアからの移民である。

[中島香子・和田俊之]

福祉

福祉は世界最高の水準にあるが、スウェーデンの高福祉社会は国民の税負担によって支えられており、そのシステムとしては地方行政の最小単位であるコミューンが社会サービスを、保険医療は20のランスティングと三大地区のコミューン(ゴットランド、イョーテボリ、マルメ)が責任を負っている。この二つは徴税権をもち、自治権も大きい。

 スウェーデンに住む人はすべて国民健康保険に加入し、国籍にかかわらず、助成された料金で医療を受ける権利をもつ。2002年の保険、医療サービス費は987億クローナで、その90%がランスティングと三大コミューンからまかなわれている。入院料金は、1日80クローナ。診療代や薬代は年1600クローナまでを負担し、それ以上は無料となる。16歳以下の子供は、病院のケアを無料で受けられる。

 家族政策も重要視され、育児休業の収入補填制度があり、給付率は1998年より休業前の収入の80%(390日間)が給付される(子供が8歳になるまでに分散取得可能。なお、収入のない親にも一定額が保証される)。16歳未満の児童には1人当り年間1万1400クローナの児童手当があり、3人以上の児童をもつ家庭は付加手当を受けることができる。これらの給付は所得に関係なく誰にでも例外なく支給される(2001)。国民年金には基礎年金と収入に基づく付加年金が含まれ、65歳以上のすべての人に支給される。高齢者や障害者への社会サービスや健康管理はコミューンが責任をもつ。高齢者の大多数が一般住宅に住んでいるが(その半数は持ち家)、自宅での生活が不可能になった場合はケア付きの施設を利用できる。また、ホームヘルプ・サービスの利用も増えている。

[中島香子・和田俊之]

文化

自由と平等はスウェーデン文化の根本精神である。権力を恐れずに築き上げた人道主義や言論の自由は、1960~1970年代の経済成長を背景に、さらに国民の意識のなかに深く根づいた。17世紀にはドイツ文化の、18世紀にはフランス文化の影響を受けてはきたものの、スウェーデンの文化はこの土地に根づいた独自のものである。1800年代初期まで農業従事者は人口の95%を占め、貧困のために100万人ものアメリカ移民を余儀なくされた。1930年代の不況時にはストライキで死者を出したこともある。このような社会がその50年後には高い生活水準と高福祉を実現し、いまや欧米の消費・商業文化の洪水からいかにして子供たちを守るかに人々の関心が注がれるようになった。それほどにスウェーデン社会の変化は著しかった。そのため、農業国であったころの大家族制は工業化するにつれて核家族化し、福祉の発達は権利主張を強め、すべての責任を社会に転嫁する傾向がみえ始めるなど、深刻な社会現象をも生じ、文化的影響を及ぼしている。

[中島香子・和田俊之]

国民性

親子関係はもともとドライで、古くから農村では、子供が老いた親に与える食糧や金銭を契約書にしたためて親子間で取り交わす風習があり、現在も遺産はもちろん、結婚の際に個人の所有物や財産の明細をつくり、所有権を明らかにすることが多い。男女の共同生活世帯の64%は結婚しているが、近年事実婚(サムボ)の割合が増え、36%となっている(2004)。離婚率は1000人当り2.4(2001)。クリスマスは最大の行事で、家族内で祝い合うが、宗教的な意味は薄れ、伝統として持続している面が強い。気質はまじめで、人に頼まれれば親切に助けるが、自発的に個人では行動をおこさない。理論的であり議論が好きで、平等の精神が行きわたっている。普段は冷静だが、スポーツには熱中する傾向が強い。人々の生活のなかで、仕事と余暇とは明瞭(めいりょう)に区別されている。

[中島香子・和田俊之]

芸術

古代にゲルマン民族が用いた文字で書かれたルーン碑文は、北欧諸国のなかでこの国にもっとも多く残っているが、アイスランドのエッダ(叙事詩)やサガ(散文物語)のようには後世に影響を及ぼすものではなかった。地方文化の伝統が強く、スカルド(詩人)の父といわれるシャーンヒエルムGeorg Stiernhielm(1598―1672)が活躍したのは、宗教改革の波がこの国に押し寄せたのちの17世紀になってからである。文学においてもっとも名声が高いのは『令嬢ジュリー』のストリンドベリであるが、『ニルスのふしぎな旅』のラーゲルレーブ女史もよく知られる。ノーベル賞作家にはラーゲルクビスト(1951年受賞)がおり、女流童話作家のリンドグレーンの『長くつ下のピッピ』などの作品は日本での翻訳も多い。美術では、ストックホルム王宮の建築者テッシン父子(父Nicodemus Tessin the Elder(1615―1681)、子Nicodemus Tessin(1654―1728))が建築史上名高く、印象派の画家でエッチングの大家でもあるソルンZorn(1860―1920)もよく知られる。第二次世界大戦後のスウェーデン映画の国際的評価を確立したといわれるのはアルフ・シェーベルイAlf Sjöberg(1903―1980)であるが、日本でもっともよく知られるのは1983年『ファニーとアレクサンデル』でオスカーを獲得したイングマール・ベルイマンであろう。映画俳優のグレタ・ガルボやイングリッド・バーグマンはスウェーデンの出身である。なお、ガラス器、陶器、家具などの工芸デザインには優れたものが多い。

[中島香子・和田俊之]

文化施設

図書館とスポーツ施設はどの町にも備えられており、多くの都市は民俗博物館と自然博物館を設置して伝統文化の持続に努めている。歴史的建築物には文化財指定がなされ、重要度により国または地方自治体が管理にあたる。環境局は、石造建築物の大気汚染による被害からの防止、動植物の種の保存に保護を与えている。各都市には各種団体経営の公園があり、国立劇場の巡回公演、ダンス、音楽会がしばしば行われる。選ばれた芸術家と作家には、国から最低の生活費が支給される。ベトナム戦争前後から現代社会批判の精神があらゆる文化面に表れ、文化センターや近代美術館を中心に多くの主張がなされている。演劇界ではストリンドベリが再認識されたが、国家補助金の引締めから小劇場は経営難に陥っている。

[中島香子・和田俊之]

言論・出版

スウェーデン人の新聞購読率は高く、日刊紙168紙、平日の平均部数合計約406万部が発行されている(2002)。これは人口1000人当り454部に相当する。新聞によって政治、税金、収入、雇用、失業、物価などすべてを国民は知り、税金の使われ方や要人の発言に敏感に反応する。言論・出版の自由は国民の権利と平等を守る武器となっているが、どぎつい個人攻撃の報道には人権侵害を許さない公平な立場をとり、ガラス張りのなかでの自由を感じさせる文化をもつ社会である。

[中島香子・和田俊之]

日本との関係

1650年代に日本を訪れたビルマン(ウィルマン)Olof Eriksson Willman(1623ころ―1673)の手で、1667年ごろ『日本旅行記』『日本王国略史』が刊行されている。しかし1700年代初期に設立された東インド会社によってもたらされた伊万里焼(いまりやき)や漆器類は、スウェーデンの上層階級の身近に日本の文化を紹介した最初のものであった。その後、植物学者チューンベリ(ツンベルク)が1775年(安永4)に来訪し、1年間滞在、帰国後『日本植物誌』(1784)を刊行した。また1879年(明治12)にはノルデンシェルドの北西航路探検船ベーガ号が日本に寄港、ついでスウェン・ヘディンの来訪と、文化交流は年とともにその密度を増した。

 第二次世界大戦後は日本の皇太子(現上皇)のスウェーデン訪問(1953)があり、東京オリンピック、大阪万国博覧会は両国間の交流を深めるのに役だった。水俣(みなまた)病、スモン病、排気ガスなどの環境問題や捕鯨問題によって、スウェーデン人の日本に対する印象は悪化した感があったが、1970年代における日本経済の発展にスウェーデン人は驚異の念を示し、日本への関心が多大となった。1971年(昭和46)には日本・スウェーデン科学研究財団がストックホルムにおいて結成され、科学者の交流を行っている。スウェーデンの研究所には毎年1名の学者が日本から招かれ、日本の国際交流基金によってスウェーデンから2名が日本へ招待される。また独立行政法人日本学術振興会を通じ、研究者の海外派遣、あるいは受け入れを行っている。ストックホルム大学とイョーテボリ大学には日本語科が置かれ、各地の成人学校でも日本語コースが開かれている。日本人を親にもつ学童に対しては、市が日本人教師による日本語教室を開いている。1980年代に入ってからは、日本より空手チーム、囲碁使節、陶芸家などの派遣があり、建築展「間(ま)」や和紙展は日本への関心を高めた。近代美術館では河原温(かわらおん)のコンセプチュアル・アート(概念芸術)が紹介され、日本文学の翻訳出版も増加している。スウェーデン王室と日本の皇室との交流は多くみられ、2000年と2007年に天皇・皇后がスウェーデンを訪問、またカール16世グスタフ国王が2001年と2007年に来日している。

 経済面の交流では、近年とみに日本との交易が盛んとなり、1993年を境に日本との貿易では輸出額が上回った。輸出額は155億3100万クローナ、輸入額は154億4600万クローナである(2004)。スウェーデンの全貿易に占める日本との貿易額シェアは輸出1.7%、輸入2.1%であり、日本への輸出品のおもなものは、木材、医薬品、乗用車、日本からの輸入品のおもなものは乗用車、通信機械、化学品である。

[中島香子・和田俊之]

『スウェーデン社会研究所編、高須裕三他著『スウェーデン――自由と福祉の国』(1971・芸林書房)』『在スウェーデン日本国大使館編『スウェーデン王国』(『世界各国便覧叢書26』1973・日本国際問題研究所)』『角田文衛編『北欧史』(『世界各国史6』1973・山川出版社)』『能登志雄著「スカンディナヴィア三国およびフィンランド」(木内信藏編『世界地理6 ヨーロッパⅠ』所収・1979・朝倉書店)』『P・トールステンソン他著、塚田秀雄訳『スウェーデン』(『全訳世界の教科書シリーズ28』1980〈原著は1975年〉・帝国書院)』『百瀬宏著『北欧現代史』(『世界現代史28』1980・山川出版社)』『ジャクリーヌ・シンプソン著、早野勝巳訳『ヴァイキングの世界』(1982・東京書籍)』『熊野聰著『北の農民ヴァイキング』(1983・平凡社)』『善積京子編『スウェーデンの家族とパートナー関係』(2004・青木書店)』『ペール・ブルメー、ピルッコ・ヨンソン著、石原俊時訳『スウェーデンの高齢者福祉』(2005・新評論)』『内閣府経済社会総合研究所・家計経済研究所編『スウェーデンの家族生活――子育てと仕事の両立』(2005・国立印刷局)』『小澤徳太郎著『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」――安心と安全の国づくりとは何か』(2006・朝日選書)』『武田龍夫著『福祉国家の闘い――スウェーデンからの教訓』(中公新書)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「スウェーデン」の意味・わかりやすい解説

スウェーデン
Sweden

基本情報
正式名称=スウェーデン王国Konungariket Sverige 
面積=45万0295km2 
人口(2010)=938万人 
首都=ストックホルムStockholm(日本との時差=-8時間) 
主要言語=スウェーデン語 
通貨=スウェーデン・クローナSwedish Krona

スカンジナビア半島の東半を占め,北部の15%は北極圏に入る。東はボスニア湾,南東はバルト海,南西は北海に面し,北東はフィンランド,西はノルウェーと接する国。バルト海にはエーランド島,ゴトランド島があり,湖が多くその面積は国土の8.5%を占める。

国土の土台は25億~10億年前の岩石からなり,スウェーデン鋼の原料である北部の鉄鉱床は,16億年前の火山作用の産物である。ノルウェーとの国境山地は,約4億年前のカレドニア造山作用で形成された。その後,この地域は陸地となり侵食を受けつづけ準平原になり,第四紀の氷河作用で現在の地形がつくられた。今から200万年くらい前に始まった氷河期にスウェーデンは完全に氷床に覆われた。氷は1.3万年前からとけはじめ,ストックホルム付近では約1万年前にとけた。氷の消失によりスカンジナビア半島は150~250m隆起し,東・南部の広い地域が陸化した。多数の湖は,基盤岩の弱い部分が氷に選択的に削られてできた。

 この国は地形的に,(1)西部の高山,その東に広がる台地と低地帯,(2)ストックホルムとイェーテボリを結ぶ幅120~150kmの中央低地帯,(3)南部丘陵地域,(4)バルト海の二つの島に四分される。西部山地の北極圏には,最高峰ケブネカイセ山(2111m)や,サレクトヨッコSarektjåkkå山(2089m)があり,これらの山地から東流する川は山麓でモレーンにせき止められ細長い湖をつくる。今から1万~7000年前には現在とちがって中央低地帯が海峡となり,バルト海と北海をつないでいた。

 北欧は西岸を洗うメキシコ湾流の運ぶ暖気団のおかげで一般に気候が比較的温暖であり,高緯度にもかかわらず森林が広がり農業もある程度可能であるが,スウェーデンは南北に長い国なので,北と南の差は著しい。北(北緯68°30′の地点)では5月26日から7月18日まで白夜で日が沈まず,冬は50日以上日が昇らない。北では冬8ヵ月積雪があるが,南では約1ヵ月である。ボスニア湾は1~4月の間凍結するが,バルト海や北海は凍らない。植生は緯度と高度で異なり,北からツンドラ永久凍土帯,高山帯,カバ林,針葉樹林,広葉樹混合林の順で分布する。北極圏のツンドラには湿原が広がり,夏はカの大群が発生する。高山帯は苔と地衣が主で,低くなると小型のカバとヤナギが混じり,白緑色のトナカイ苔が露岩を覆う。針葉樹林は国土の57%を占め,北ではカバ,ナナカマド,ドロヤナギが混じり,南ではオーク,カエデ,ニレが混じる。ツンドラや高原地域では,トナカイの大群がサーメ人(いわゆるラップ人)によって放牧されており,オオカミ,クマ,ヤマネコはひじょうに減少して保護されている。中・南部ではヘラジカや小型のシカが狩猟動物で,アナグマ,ホッキョクギツネ,ユキウサギ,カワウソなども毛皮用に捕獲される。鳥は種類,数ともに多く,湿原のツル類,海岸のカモメ,アジサシ,カモ類などが特に多い。湖や川にはサケ,マス,ヤマメの類が豊富で,南部の湖には大型のザリガニが多い。北海では,タラ,ニシン,エビ,サバ,カレイがおもな漁業資源である。

 住民は,国民の98%がスウェーデン人で,このほか,フィン人,サーメ人などが居住する。宗教は,16世紀末に国王がルター派新教をとり入れて以来,同派が国教とされている。
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歴史的時代区分は古代(-1060ころ),中世(1060ころ-1521),近代(1521-)に大別される。前1万年ころと推定される最古の住居趾が南部地方で発見されたが,人類が活発に生活を始めたのは前7500年ころとされる。新石器時代(前3000ころ-前1500ころ)に農耕文化が伝わり,西南ヨーロッパからは巨石文化が伝播した。青銅器時代(前1500ころ-前500ころ)に入るとイングランドやヨーロッパ大陸との交渉が一段と密接になった。その後,北方に膨張するローマ帝国との交易が盛んとなり,タキトゥスの《ゲルマニア》で文献史料上初めてスウェーデン人の祖と考えられるスウィオネス族Sviones(スベア族)が言及された。それ以降文献史料は沈黙を保ったが,6世紀中ごろにヨルダネスの《ゴート人の起源と偉業》,プロコピウスの《戦記》の中で,スベア族Svearをはじめスカンジナビア半島の諸部族について記された。5世紀末からウプサラ地方を中心に勢力をふるうスベア族は東西ヨーロッパと交易をもち,現在のラトビア付近で植民活動を続け,後の時代に拡大する交易路の礎を築いた。9世紀から11世紀中ごろまでバイキング時代と呼ばれ,この時代の初めにメーラル湖上のビルカは東西交易の中継地として大いに栄えた。封建制度の促進,商業路の拡大などヨーロッパ史上多大な影響を及ぼしたバイキング活動は,おもにイングランド,フランスに向かう西ルートと,ロシア,ビザンティン帝国,アラブ世界に遠征する東ルートに大別されるが,スウェーデンからは,この両ルートに従事して略奪,建国,商業活動が行われた。

 中世初期,キリスト教が徐々に定着しはじめる中で部族統合が進み,スベア族と南部に勢力をもつイェート族Götarとの対決となったが,しだいに統一の気運が高まり,有力な王たちが出現して騎士制度を大陸から導入するなど身分制度も固まった。中世前半は王と貴族との争いが絶えなかったが,14世紀後半に王に反対する貴族がデンマーク・ノルウェーの摂政マルグレーテに支援を求めたことから,摂政は内乱に介入し,スウェーデン王を駆逐した。1397年,摂政は姉の孫にあたるエリクを北欧三国の共通の王に即位させることに成功し,カルマル同盟が成立し,スウェーデンは実質上デンマークの支配下におかれた。1434年に苛斂誅求を行うデンマークの代官に反抗してエンイェルブレクトは一揆を起こし,翌年,貴族,聖職者,市民,農民代表を招集して国民会議を開いた。これは他のヨーロッパに類をみない四身分制議会で,同国の国会の祖型となり,19世紀後半まで存続した。その後デンマーク支配から脱却するためたびたび解放戦争を行ったが,決定的打撃を与えることはできなかった。

 16世紀,貴族のグスタブ・エリックソンがリューベック市およびダーラナ地方の農民の支援を得て,ついに1523年祖国を解放した。彼はグスタブ1世バーサ王として即位し,新教(ルター派)の採用,軍隊の整備,経済復興,国王の世襲制の確立など精力的に国力の回復に努めて同国の基盤を築き,バーサ王朝を開いた。同王の子息は次々と王位を継承し,国内を整備するかたわら東方外交を積極的に推進した。特にヨハン3世(在位1568-92)とポーランド王女との成婚以来,東方関係がいっそう強化されてロシアと争うまでになり,1595年にはテウシナTäyssinaの講和でエストニアとナルバの割譲を得て,バルト帝国建設への第一歩を踏みだした。1611年,グスタブ2世アドルフ(在位1611-32)が17歳で親政を執り,名宰相オクセンシェーナと一致協力して近代的行政機関の基礎をつくり,経済,社会,教育等々の改革を断行し,また貴族政治を確立した。外交面で国王は三十年戦争に介入し,新教徒の英雄として活躍し,バルト帝国を確固たるものにした。国王の戦死後,一人娘のクリスティーナ(在位1632-54)が王位を継いだが(44年までは後見人がおかれた),学芸を愛好して政治に関心を示さず,財政危機に陥らせ,みずから退位したためバーサ朝は絶えた。その後の王は財政再建を試みて諸改革を行ったが,貴族との対立を深めた。1697年,カール12世(在位1697-1718)が17歳で親政を開始したが,国際的緊張が高まる中で,ロシア,ポーランド,デンマークはスウェーデンの拡大を封じるため同盟を結んだ。これに対抗して王はオランダ,イギリスと同盟して,1700年にデンマークを攻撃して屈服させ,続いてロシアに進攻し,ピョートル大帝軍をナルバで破った(北方戦争開幕)が,09年のポルタバPoltava(現,ソ連邦ウクライナ)の戦で大敗を喫した。その後スウェーデン支配下のバルト海沿岸諸国も反旗を翻し,18年,国王の戦死も重なって,ついに同国のバルト海支配も終りを告げた。翌年,王の妹ウルリカ・エレオノーラUlrika Eleonora(在位1719-20)が即位したが,専制政治が廃止され,実権が国会に移ったことから貴族による二大政党のハット党Hattarna(三角帽子の意)とメッサ党Mössarna(ナイトキャップの意)が出現し,国王に権力がないため〈自由の時代〉(1719-72)と呼ばれたが,外交政策に一貫性を欠き,官僚制度が定着し,また,両党に外国勢力が結びつき,国連を危くする事態に陥った。その反面,平和時が続いたため学芸の進展が著しく,特に自然科学の分野では,植物学者のリンネ,摂氏の創始者セルシウス,化学者のシェーレなどが輩出した。1772年,グスタブ3世(在位1771-92)は熾烈化する二大政党の勢力争いに終止符を打つため,無血革命を成功させ,実権は国会から国王に移った。王は啓蒙君主として経済復興,社会改革,特に学芸振興に功績を残したが,貴族との溝が深まり,92年に暗殺された。

 19世紀初頭,ヨーロッパはナポレオン戦争で大きく揺れ動き,同国も戦乱に巻きこまれたが,グスタブ4世(在位1792-1809)は優柔不断な態度に終始したためクーデタが起こり,王は幽閉され,後に廃位された。一方ナポレオンの意を受けたロシアに攻撃され,フレデリクスハムンの和議で13世紀来領有してきたフィンランドを失った(1809)。同年,国王と国会で権力を二分することを定めた新政体書が公布され,また翌年に国会法,出版の自由法,王位継承法などの基本法が刷新されて新生スウェーデンが誕生し,その骨子は1970年代まで効力を発揮した。新国王のカール13世に世継ぎがいなかったことから国会はナポレオンの元帥ベルナドット(後のカール14世)を皇太子に選出してフィンランド奪回の夢を託したが,国民の期待に反してロシアと同盟を結び,フランスと対決し,同国と同盟関係にあったデンマークから1814年にノルウェーを割譲させた(キール条約)。その後,親露的外交が推進されたが,19世紀中ごろの複雑な国際関係の中でオスカル1世(在位1844-59)は西欧寄りの外交に転換させ,その伝統は今日にまで至っている。このころから近代工業化が徐々に進み,社会の変革がみられ,1866年には旧来の四身分制議会が廃止されて二院制が採用された。ドイツの社会民主主義思想の導入により,89年には社会民主労働党(以下社民党)が結成され,98年にはスウェーデン労働総同盟(LO)が誕生した。

 1905年にノルウェーが分離独立し,国内問題のみに専念することになった。08年,長年議論されてきた男子普通選挙法が国会を通過し,18年には婦人参政権も成立して民主主義がしだいに浸透した。第1次世界大戦が勃発するといち早く中立を宣言し,戦時中は輸出入が極度に落ちこみ,国民は耐乏生活を強いられたが,国土は蹂躙(じゆうりん)されることはなかった。その後防衛論争が活発となり,国防軍も急速に整備された。20年に失業問題解決のためグスタブ5世(在位1907-50)は初めて社民党に政権を担当させ,都市労働者の支持を得て同党はしだいに勢力を伸展させた。20年代末から30年代にかけての世界的不況の波は同国にも押し寄せて失業者が増大し,32年の下院選挙で同党は大躍進を遂げて政権の座を獲得,以降76年まで単独,連立で同国を指導してきた。第2次大戦開始後,中立を宣言し,社民党を中心に挙国一致内閣が結成されて難局を切り抜けた。戦時中,隣国への公式援助をいっさい拒否する一方,親ナチス政策をとるフィンランド,ノルウェーに移動する延べ200万人以上のドイツ兵の同国内通過を許すなど,きわめて柔軟な中立政策を貫いた。戦後,社民党政権下で経済復興や福祉政策が強力に推進され,60年代には世界に冠たる福祉国家に成長した。しかし高負担に対する国民の不満が高まり,また経済不況から76年には保守連合政権が誕生した。以降,経済的回復をみないまま,82年に再度社民党が与党に返り咲いた。95年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟した。

三権分立主義の確立した立憲君主国で,憲法にあたる基本法grundlagは政体法,国会法,王位継承法,出版の自由法の4法からなる。現国王は1973年に即位したカール16世グスタブで国家元首であるが政治権力のない象徴的存在である。1979年の王位継承法の改正で男女を問わず長子が王位継承権を有する。政治決定権は旧基本法下では国王が掌握していたが,1974年の改正で内閣が有する。内閣は単独または連立の政党により組閣される。

 国会は1866年以来二院制を施行してきたが,1971年に一院制に移行し,国会議員の任期は3年で,議員数は349名である。直接選挙で満18歳より選挙権を有し,比例代表制を採る。1970年代初頭から社民党,共産党からなる社会主義ブロックと残る3党が結集して非社会主義ブロックを結成し,この二大ブロックの対決が明確化して同国の新しい政治動向として注目された。76年には1933年来政権を担当してきた社民党が野党に転じたが82年に与党に返り咲いた。その後,両ブロックはイデオロギー的な論争には発展しなかったが,対決が続き,91年の選挙では非社会主義ブロックが勝利したが,94年度は社会主義ブロックが政権の座に着いた。国会(349議席)の政党勢力は,94年の選挙では以下の通りである。社民党(161),左翼党(22),緑党(18),キリスト教民主社会(15),自由党(26),中央党(27),保守党(80)。左翼党は,〈共産左翼党〉から1990年に改名する。緑党は〈緑の環境党〉の略。自由党は1990年〈国民党〉から〈自由国民党〉に改名。キリスト教民主社会は,96年に〈キリスト教民主〉に改名。97年12月現在,349名のうち154名が女性議員である。

 基本法に定められた国民投票はいわゆる直接決定権を有しないが,1922年以来5回実施され,行政府や立法府に大きく影響を及ぼしてきた。禁酒法制定(1922),右側通行導入(1955),付加年金導入(1957)のほか,1980年の原子力発電に関する国民投票で,国民は廃止の方向を選び,政府もこれに影響され,将来の建設中止,廃棄を決定し,エネルギー政策を変換せざるをえなかった。また,94年にはEU加盟に関する国民投票が行われ,この結果を踏まえて加盟することになった(賛成52%,反対47%)。

 行政の行過ぎを阻止するためいわゆる護民官的存在のオンブズマン制度があり,また防衛,外交関係,プライバシーなどある程度の制限つきで情報公開の原則を採っている。おもな地方行政区には23県län,288の自治体kommun,保健・医療・特殊教育などが主要な業務の23の医療・保健区landstingがある。自治体には議会があり,選挙で直接選出され,任期は3年である。3年以上住民登録を有する外国人も選挙権が認められている。

同国の防衛理念は平和時には非同盟,戦時は中立の立場をとることにある。防衛の骨格は軍事,民間,経済,心理の四つを組み合わせた総力防衛である。軍事防衛に必要な国防軍は陸海空軍からなり,動員兵力は国防市民軍を含めて85万人で,三軍を統帥する総軍司令官は内閣にのみ責任を負う。国土は6軍管区に分かれている。18~47歳の男子は兵役義務があり,基礎軍事教練期間は320日から741日である。民間防衛の目的は市民の生命を守ることにあり,民間防衛会議がこれを統轄し,現在では地下などのシェルターが整備され,550万人が収容できるといわれている。また,民間防衛は平時と戦時に分けられ,前者の目的は避難所の建設,防具の製造,警報装置の設置・実験,疎開場所の設定計画,市民が自衛できるための教育などがあり,16歳から65歳までの男女は民間防衛義務を負う。後者のそれは生命を守り,救うことであり,また,商品の生産やサービス部門が正常に活動し,そのほかの社会機能が働くように,さらに,敵に対して抵抗する意志を高揚させておくことである。経済防衛とは戦時に産業,商業活動を守り,また平和時から燃料,食料その他の原料を地下などに貯蔵する目的があり,現在相当量の原油が備蓄されている。経済防衛国民会議がこれを統轄する。心理防衛は,心理防衛国民会議がその任務を掌握し,戦時に敵側の宣伝を封じ,国民の抵抗志気高揚をはかり,迅速かつ正確な情報を流すのがねらいである。この総力防衛は国民防衛会議が統率する。国防費は国民総生産の2.5%(1993),国家予算の7.1%を占める(1994-95年度)。兵器の大半は国産でまかなわれ,85%の自給率を誇っている。

19世紀中ごろのクリミア戦争で大国のエゴイズムの苦汁を味わったオスカル1世は親露的外交から西欧寄りの政策に転移させたが,その後非同盟,中立を堅持してきた。1946年に国際連合に加盟してから各党とも国連憲章に賛意を示し,外交問題が選挙争点になることは少なく,国連を通して特に軍備縮小に積極的に取り組んでいる。経済的には,経済協力開発機構,ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加盟し,また欧州共同市場と自由貿易協定を締結している。その他欧州会議,北欧会議の成員でもある。発展途上国への援助も盛んで,国民所得の0.96%を供出している(1994)。

19世紀中ごろから徐々に近代工業化が進み,農業国から工業国に転じたのは19世紀末ころである。国土の52%がおもにモミ,マツ,シラカバからなる森林地帯のため林産業は重要な産業の一つで製紙,パルプ,ボード,製材が盛んである。水力,鉄鉱石などの天然資源が豊富で,また世界で有数のウラン産出国でもある。耕地面積は国土の10%で,気候条件が寒冷な北部と温暖な南部と異なるため,農業の大半は南部に集中し,麦類,ジャガイモ,テンサイがおもに栽培され,養豚,酪農も行われている。漁業はおもにニシン,タラ,ヒラメを漁獲するが,漁業人口はわずか6000人程度である(1981)。第1次産業(農・林・漁業)人口は全就業人口の約3.1%だが,同国の食料自給率は80%を誇っている(1995)。

 地下資源で最も重要な鉄鉱石は中部地方と北部のラップランドが主産地で,特に後者の推定埋蔵量は30億tといわれ,同国の鉄鉱石総輸出量の95%がこの地方で採掘されたものである(1981)。鉄鉱石の年産は1087万t(1994)。エネルギー源の石油,石炭はほとんど産出しないため輸入に依存しており,電力供給率は,稼働中の原子力発電12基で47%,水力が46%,火力7%である。製鉄・非鉄,自動車そのほかの輸送機などの製造業,電機,造船などの金属・機械工業は,伝統的な製紙・パルプ業と同様に同国の重要産業で,全就業労働人口の約9.2%を占めている(1995)。

 1994年度の総輸出入の主要国別の割合は以下の通りである。ヨーロッパ共同体(EC)=輸出53.2%(輸入55.1%),アメリカ=8%(8.5%),欧州自由貿易連合(EFTA)=16.4%(5.6%),日本=2.7%(4.8%),ロシア=0.73%(1.4%)。95年1月からオーストリア,フィンランドとともに,スウェーデンはEUに加盟したので,EFTA(1997年,スイス,アイスランド,リヒテンシュタイン,ノルウェーの4ヵ国が加盟)は,事実上,機能を発揮できず終焉の場を迎えている。国民総生産の輸出額の占める割合は35%と高い(1995)。

 輸入品の主要なものは,食料品,原油,化学製品,皮革,ゴム,紙などの加工製品,自動車・輸送機器などを含む機械類等で,輸出品には医薬品を含む化学製品,毛皮・木材・パルプなどの原料品,鉄鉱石,鉄鋼・鉄鋼製品,貨物車・乗用車,機械類などがある。人口900万人弱であるが,自動車メーカーのボルボ社,サーブ社,電器製造業のエレクトロルックス社,ベアリング製造業のSKF社,通信機器のエリックソン社などの国際企業がある。

 スウェーデンは混合経済で,国家・地方公務員は全就労人口の約35%を占めている。福祉国家はおもに市民サービスを主業とする公務員を大量に雇用し,民間の生産部門を圧迫すると考えられるが,スウェーデンは,特に国家公務員の削減に力を注いできている。1985年の42.4万人から,95年には23.3万人と半減近くになっている。それに対して,地方公務員は1980年の112万人から95年の114万人へと微増している。

 1995/96年度国家予算は歳入が78億7600万クローネ,歳出が98億5900万クローネで,1990/91年度から一貫して赤字となっている。1994/95年度予算の21.3%は国債の利払いで,財政を大きく圧迫し,1993/94年度に比して,1995/96年度は教育・大学研究費や医療保険費などが削減され,福祉行政にも影響を及ぼしている。歳入で注目すべきは,わずかながらもEUからの財政援助金や追加基金が組み込まれていることである。

 社会福祉国家の理想は,失業者を出さないことであるが,1980年代の失業率は比較的2%台と低かったが,90年代からは,5.2%(1992),8.2%(1993),8.0%(1994),7.7%(1995)と上昇した。特に若年層(16歳から24歳)が打撃をうけ,失業率は11.4%(1992),19%(1993),16.7%(1994),15%(1995),また,中高年層にも6.1%(1995)と厳しくなっている。

 勤労所得は,全国平均(1994)146.5万クローネで,男子175.2万に対して女性119.2万で,依然として男女賃金格差がみられ,16万クローネ以上の所得者が男性の51.9%,女性は23.8%と,高額になればその差が顕著に現れている。

 消費者物価は1980年を100とした場合,96年は256で,15年ほどで約2.5倍ほど上昇している(通貨単位は,1クローネ=100オーレ=約17円,1997年12月現在)。

産業革命の影響が徐々にスウェーデンに浸透しはじめたのが19世紀中ごろであったが,当時,全就業人口の約80%が農業およびその関連産業の従事者で,都市人口も総人口(350万人)の約10%に過ぎなかった。20世紀の初頭(1910)には農民人口は50%を割り,都市生活者も25%に増加した。つまり,約半世紀間に,同国は農業国家から近代工業国家の基礎を築いたといえる。この間に同国は教育,労働,社会福祉等の諸問題に直面し,この時期につくられた制度が現在の基礎となっている。

教育に関してみると,その後いろいろな改革が加えられてきたが,1950年に国会決議によって9年制の義務教育が確立された。義務教育は1997年現在,満6歳から始まり,低学年(1~3学年),中学年(4~6学年),高学年(7~9学年)と一貫教育が行われている。高等学校は総合制高等学校と呼ばれ,人文・社会系列(2年コース,3年コース),経済・商業系列(同),科学・技術系列(2年,3年,4年コース)とに分かれており,卒業後,即社会に実践的に活躍できるしくみで,もちろん大学に備えたカリキュラムも組みこまれている。同国には各種専門単科大学があるが,総合大学はウプサラ,ルンド,ストックホルム,ウーメオ,イェーテボリ,リンシェーピングの6大学があり,その他ストックホルム工科大学,ストックホルム教育大学,スウェーデン農業大学などの単科大学がある。1997年現在,初等教育から大学まですべて公費でまかなわれているので,授業料は無料で教育を享受することができる。また同国の特徴として成人教育が盛んで,特に1912年に創設された労働者教育協会Arbetarnas Bildningsförbund(ABF)は最大の組織で,任意団体であるが国庫補助を受けている。そのほか自治体による成人教育,テレビ,ラジオを利用した放送学校,通信教育も盛んである。

19世紀後半に近代工業化が徐々に進むにつれ,同国では労働運動が盛んになり,1898年スウェーデン労働総同盟(LO)が結成された。この組織に対抗し,1902年には経営者連盟Svenska Arbetsgivare Föreningen(SAF)が結成された。LOは社会民主労働党の指導で作られたため,両者の結びつきは緊密で,いわゆる二人三脚的に発展した。LOはブルーカラーを中心とした同国最大の組合組織(約221万組合員,1995)で,ホワイトカラーを中心にした最大組織には,サラリーマン中央組合(TCO)(130万,同)があり,また教員,医師,技術者および国家公務員の組合として専門職中央組合(SACO/SR)(40万,同)がある。労使協定では,賃金,労働環境,休暇,勤務時間,年金,医療給付等々幅広い交渉が行われている。労使関係の法律で特に同国で特徴のあるのは,25人以上雇用する企業は,2人の労働者代表を経営者会議に参加させるという労働者の経営参加の法規や,一方的な労働者の解雇を禁じた雇用保護法など,労働者が手厚くまもられていることである。

スウェーデンは世界的に福祉国家として名声があるが,その基盤は19世紀末から20世紀初頭にかけて形成された。1891年に健康保険法,1913年には年金法が成立したが,充実をみるのは第2次世界大戦後である。スウェーデンの社会保障制度の柱は年金,健康保険を主とした社会保険制度,児童・老人を対象とした社会福祉制度,医療,保健制度がその主たるものである。年金には,国民および同国に居住する外国人に対して一率に支給される国民基礎年金があり,その種類には老齢,障害,寡婦,児童の各年金がある。老齢年金は65歳から給付されるのが原則であるが,それ以前に労働が不可能になった場合には,早期年金を受給できる。また上にみた年金を補充するものとして国民付加年金があり,収入に応じた支給が特徴である。そのほか1976年に創設された部分年金,企業年金などがあり,労働者が老齢あるいは事故で退職後,最低の生活保障をするのが同国の年金制度の特色である。
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スウェーデン,ノルウェー,デンマークの3国は,北ゲルマン人を祖とし,共通にバイキング時代を経験し,王室同士が血縁関係にあるため,通常北欧三国としてまとめて扱われることが多いが,その間には相異なる点も少なくない。特に,16世紀にデンマークから独立して以降,戦乱を重ねてきたスウェーデンが18世紀はじめの北方戦争での敗北以降,〈大国〉たろうとする望みを捨て,ナポレオン戦争後はさらに戦争不介入,平和中立の立場を貫いてきたこと,第2に,20世紀初頭以降,社民党の主導のもとに,経済中心の社会改革によって福祉国家の建設が目ざされたこと,このことは,スウェーデンの文化や文学を大きく特徴づけるものとなった。

 スウェーデン文学の特徴としてまず挙げられることは,その地方性,郷土性の強さである。スウェーデンは,地理的にみても,〈ヨーロッパの田舎〉に位置し,森林や鉱産資源に恵まれた風土を特徴としていた。19世紀後半以降の急速な工業化と都市への人口集中は,農村の過疎・荒廃をもたらしたが,反面,郷土の文化遺産を保存しようとする運動がおこり,民俗博物館としての〈北方博物館Nordiska Museet〉(1880)や野外博物館〈スカンセンSkansen〉(1891)が創設された。このような強い郷土意識の源をさかのぼれば,古代アイスランドのエッダサガにあり,テグネールの長編叙事詩《フリティヨフ物語》はそのことを端的に示す一例といえるし,北欧文学の散文の伝統が長編小説にあるのもここに由来する。その長編小説も日本の読者層にとって,ロシア,フランス,アメリカなどのそれほどにはなじみがないのは,読者の側の好みに左右されるといえばそれまでであるが,作品の底流にあるあまりにも強烈な郷土性が理解や鑑賞の妨げとなっている点もあろう。このような性格をになうスウェーデン文学の作品を国際的な評価の場に立たせるものとしてノーベル文学賞がある。その受賞作家についてみても,スウェーデン人女性として初の受賞者であるラーゲルレーブは,翻訳はもとより無声映画によって日本人にも早くから親しいものとなっていたが,その作品は,強い郷土性に支えられたものである。さらにカールフェルトに至っては,スウェーデンの詩人というよりも彼の郷里ダーラナの詩人という方が妥当で,その特殊な地方の香りから離れては彼の詩の鑑賞は成り立たない。

 これに対して,スウェーデン文学をヨーロッパ文学の中に位置させようとする作家がいることも当然である。ヘイデンスタムは病弱の身のために療養をかねて長く海外生活を送った後に祖国スウェーデンへ回帰したが,ラーゲルクビストは早くからパリに遊び,みずから海外の新風に触れてそれを摂取しようとしたのであった。ユーンソンマルティンソンは次に述べるプロレタリア文学を代表する作家,詩人であるが,前者はいち早く郷里の寒村をすてて一個のヨーロッパ人となることを目ざして大陸へ渡り,後者は天涯孤独の身を船員生活にゆだねて世界をまわり,ヨーロッパばかりか南アメリカ,アジア,中国の文化にまで強い関心を示したのであった。

 20世紀スウェーデン文学を特色づけるものにプロレタリア文学がある。ただし,この国のプロレタリア文学は,早熟の女流詩人ボイエKarin Boye(1900-41)を別とすると,他の国々のそれのように,イデオロギー先行の革命的性格をもったものではなく,無産階級の出で,独立独学のうちに詩人,作家としての素養を身につけた人々の文学というにとどまる。したがってプロレタリアという呼称から直ちに国際的な性格を思い起こすのは,この国の文学についていう場合妥当ではない。初期プロレタリア文学の代表的詩人アンデルソンDan Andersson(1888-1920)は宗教的境地をこそ求めはしたが,政治嫌いで革命思想とは結びつかない。他方,海外へ移民する貧窮化した農民を描いたムーベリ,零細農民をテーマに自伝的作品を精力的にものしてきたロー・ヨハンソンIvar Lo-Johansson(1901-90),多方面にその鬼才ぶりを発揮しながら若くしてみずから命を絶ったダーゲルマンStig Dagerman(1923-54),詩壇のチャップリンとの評もある風刺詩人フェリーンNils Ferlin(1898-1961)などもプロレタリア作家の範疇に入れることができる。

 またユーンソン,ムーベリ,マルティンソンらのプロレタリア作家やラーゲルクビストは第2次大戦下の全体主義を批判する作品を書いており,中でもユーンソンは最も精力的に実践的な活動をしたといえる。しかし,スウェーデンは最初に述べたように,外交面では戦争不参加,中立を貫き,国内的には革命ではなく改革の積重ねによって階級格差の少ない福祉国家への道を歩んできた国である。作家たちの戦争批判にしても,そのようないわばかなり微温的な政治的風土のうちにあってのそれであることを忘れてはならないし,その底にはヨーロッパ文化の伝統を守り抜こうという願望も強くうかがえる。第2次大戦後,国連が国際政治の舞台となり,スウェーデンも第2代事務総長ハマーショルドの活躍にも見られるように,そこで大きな役割を演ずるようになった。ベトナム戦争中スウェーデン首相パルメは幾度かアメリカ批判の発言をし,プロレタリア作家の一人に数えられるリードマンSara Lidman(1923-2004)のルポルタージュ《ハノイでの対話》(1966)は多くの読者を得た。このことは変転する国際政治の中にあって,微温的,傍観的と評されてきた従来のスウェーデンの立場とは一味違った印象を与えている。

 スウェーデン文学史に登場する作家の中で,世界的に最も知名度の高いのは,いうまでもなくストリンドベリである。彼は周囲への反逆で一生を終始した。文学はもちろん《令嬢ジュリー》や《死の舞踏》などの戯曲や演劇理論を通じてスウェーデン演劇の金字塔を築いたばかりでなく,神秘思想から自然科学まで多面的で振幅の激しい関心を示したストリンドベリが残した足跡は,巨人の名にふさわしいものである。彼が長く故国に容れられなかったのは,あまりにも強烈な彼の自我主張のゆえでもあるが,彼をいやが上にも反逆児,異端者たらしめるに足るほど,当時のスウェーデンの社会的風土が,閉鎖的,微温的であったことも併せて考えなければならぬ点である。

 なお,民族と言語を異にするフィンランドにおいて,フィンランド・スウェーデン文学ともいうべき特殊な文化領域が成立している。これは,フィンランドが,19世紀はじめまで長い間スウェーデンの領土であり,そこではスウェーデン語が用いられていたという事情によるものである。初期プロレタリア文学のアンデルソンや,一連の《ムーミン》もので知られる児童文学のヤンソンなどの作品は,このなかに入れられるものといえよう。
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キリスト教布教以前にはスカルド詩の詩人たちが活躍し,スペルマンspelmanと呼ばれる楽師がヒンメル(チター型の弦楽器),ノーレルール(樺の樹皮で巻かれた長大なホルン),フィオール(フィドル),ニッケルハルパ(4弦楽器),クラリネット,ロートピーパ(羊飼の笛)等の民俗楽器を演奏し,また農民たちも日常歌と踊りに親しんでいた。

 古い民俗音楽と踊りにはゴングロートgånglåtと呼ばれる行進の音楽や3/4拍子のポルスカpolska,バルスvals,カドリリュkadrilj(カドリーユのこと)といった舞曲などが土着のリズムに彩られ現在も聞かれる。一方,芸術音楽では民俗音楽を背景に11世紀以後キリスト教の普及にともなってウプサラ大聖堂を中心にグレゴリオ聖歌とこれにもとづくポリフォニーおよびオルガン奏楽が発達する。グスタブ1世バーサによる宗教改革後は,礼拝音楽にラテン語とスウェーデン語が併用された。17世紀に入ると,クリスティーナ女王の熱心な芸術家保護の成果もあって宮廷音楽が栄え,ストックホルムに招かれた多くの外国人音楽家や,スウェーデン最大の音楽家の家系であるデューベンDüben家の人たちが活躍する。また宮廷楽長ローマンJohan Helmich Roman(1694-1758)が1731年から一般市民のための公開演奏会〈コンセール・スピリチュエル〉を始める。グスタブ3世(在位1771-92)による宮廷劇場と王立音楽学校の創設は国民楽派の基礎となり,ベルマンCarl Michael Bellman(1740-95),ベルワルドFranz Berwald(1796-1868),ノルマンLudvig Norman(1831-85)等が相次いで活躍。19世紀ロマン主義音楽は,リンドブラードAdolf Fredrik Lindblad(1801-78)等の歌曲を中心に展開された。スウェーデン語は日本語同様に高低アクセントをもち,それだけに詩(および劇)と音楽との結びつきは現代に至るまで特に深い。ステンハンマルWilhelm Stenhammar(1871-1927),ラングストレムAnders Johan Ture Rangström(1884-1947),アルベーンHugo Alfvén(1872-1960)に代表される近代スウェーデン楽派は,同じ世代の自国の詩や絵画の様式から強い刺激を受け,ワーグナーやR.シュトラウスからも多くを学んでいる。ローゼンベリHilding Rosengberg以降,ウィレーンDag Wirén,ニストレムGösta Nyström,ラルッソンLars-Erik Larsson等1900年代生れの世代はロマン主義と決別し,20世紀の新しい傾向を吸収し,さらに1950年代には国際現代音楽協会スウェーデン支部も設立されて音楽家たちの活動は完全に国際的水準に達し,ヨーロッパの主要な音楽思潮の中にある。
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百科事典マイペディア 「スウェーデン」の意味・わかりやすい解説

スウェーデン

◎正式名称−スウェーデン王国Konungariket Sverige/Kingdom of Sweden。◎面積−44万7420km2。◎人口−956万人(2012)。◎首都−ストックホルムStockholm(88万人,2012)。◎住民−スウェーデン人89%,フィンランド人2%,サーミ人など。◎宗教−ルター派(国教)95%。◎言語−スウェーデン語(公用語)が大部分,ほかにサーミ語,フィンランド語など。◎通貨−スウェーデン・クローナSwedish Krona。◎元首−国王,カール16世グスタフCarl XVI Gustav(1946年生れ,1973年9月即位)。◎首相−ステファン・ロベーンStefan Lofven(2014年10月就任)。◎憲法−1974年制定の政体法,1810年制定の王位継承法,1949年制定の出版の自由法が憲法を構成。◎国会−一院制(定員349,任期4年)(2015)。◎GDP−4800億ドル(2008)。◎1人当りGDP−4万3580ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−2.8%(2003)。◎平均寿命−男79.7歳,女83.9歳(2013)。◎乳児死亡率−2‰(2010)。◎識字率−99%以上。    *    *北欧,スカンジナビア半島の東半を占める立憲王国。〔自然・住民〕 国土は南北に長く(北緯55°20′〜69°04′),北西部は山地,南東部は丘陵,低地,湖沼地帯。東部はボスニア湾,バルト海に面し,西部のノルウェーとの国境は標高1500〜2000mの山脈で,最高点はケブネカイセ山(2123m)。ベーネルベッテルンなど多くの湖があり,湖の総面積は国土の約8.6%を占める。国土の約50%は針葉樹を主とする森林におおわれる。気候は緯度の割に温暖で,南部では年平均6〜7℃。〔歴史〕 6−9世紀ころゲルマン系諸部族の連合による統一王国を形成,9−11世紀のいわゆるバイキング時代には欧州諸国に遠征した。14世紀末−15世紀初頭ノルウェー,デンマークとカルマル同盟を結び,同君連合を形成,実質上デンマークの支配下に置かれた。1523年グスタフ・バーサ(グスタフ1世)がスウェーデン王に即位し,デンマークの支配から脱した。17世紀グスタフ2世治世下には三十年戦争に介入,バルト海一帯を支配する大強国となったが,18世紀初頭北方戦争に敗れて多くの領土を奪われ,その地位を失った。1814年ノルウェーを同君連合下に置いたが,1905年ノルウェーは分離・独立した。19世紀半ば以降は対外平和と国内民主化に努め,両大戦にも中立を守った。〔政治〕 国王は1974年制定の政体法で王権を大幅に縮小され,儀式上の役割だけが認められた。中立政策を外交の基調とし,パレスティナ和平,ボスニア和平などで調停役をつとめている。北大西洋条約機構(NATO)には加盟せず一貫して非同盟政策を維持しているが,防衛力の整備には力を入れており,義務兵役制により欧州有数の軍備をもつ。2010年9月の総選挙では穏健党,自由党,中央党などの与党中道右派連合が野党連合(社民党,環境党など)を上回る議席を獲得したが,過半数に至らず,安定した政権運営が課題となった。2014年9月の総選挙では,失業率の高止まり及び医療・福祉サービスや教育の質の低下に対する不満,長期政権への不満などから与党中道右派連合が敗北,ロベーンの社民党が第1党となり,8年ぶりに政権交代が実現した。しかし,社民党及び環境党を中心とした少数連立政権は,総議席数349議席中138議席に過ぎず,再び安定した国会運営が課題となっている。さらに移民規制強化を主張するスウェーデン民主党が第3政党へと躍進し,移民問題で対立が先鋭化しているEU諸国からもスウェーデンの今後の動向に注目が集まっている。〔経済・産業〕 森林,鉄鉱,水力資源に恵まれ,パルプ,製紙,鉄鋼,機械,造船などの工業が発達している。鉄鉱山はイェリバレキルナなど北部・中部に多い。耕地は南東部に集中し,農業の機械化が進んでいる。主要農産物は小麦,大麦,ジャガイモ。石油,石炭を欠き,食糧の自給ができないので貿易依存度が高く,海運業が発達している。近年ではIT産業も盛ん。1995年ヨーロッパ連合(EU)に加盟した。1人当り国民所得は高く,社会保障制度は完備している。第2次世界大戦後,労働力不足を補うため1960年代半ばまで大量の移民を受け入れ,今日まで人口の13%を占めている。民族差別禁止オンブズマンの設置(1986年)など多民族共生の政策が採られているが,移民規制強化を唱えるスウェーデン民主党などを支持する世論も増えつつある。1999年発足のユーロ圏には,前提となる為替相場メカニズム(ERM)に未加入であり,国民世論の反対も強いため不参加。2010年以降のユーロ危機,ソブリン危機に陥ったEU諸国では,スウェーデンをモデルに脱EUの世論が台頭している。スウェーデン経済自体は,2009年の世界金融危機でマイナス成長に陥ったが,低金利政策や減税効果で短期に高い成長を回復した。しかし,欧州債務危機によるEUを初めとする世界的な経済低迷の影響が及ぶことが懸念されている。2020年までに国内の原発11基を全廃する方針。
→関連項目環境税スカンジナビアストックホルムオリンピック(1912年)メルボルンオリンピック(1956年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スウェーデン」の意味・わかりやすい解説

スウェーデン
Sweden

正式名称 スウェーデン王国 Konungariket Sverige。
面積 44万7425km2
人口 1040万8000(2021推計)。
首都 ストックホルム

北ヨーロッパスカンジナビア半島東部を占める国。立憲君主制国家。国土の 8.5%をベーネルン湖ベッテルン湖,シリャン湖,ストゥール湖,メーラレン湖をはじめとする 10万にも及ぶ湖水が占める。北部ノルランド地方は森林地域で,南部イェータランド地方は低い丘陵性台地と沿岸低地からなる農業地帯。積雪期間は最北部のカレスアンドで 10月~5月にわたるが,緯度のわりに気候は温和。北部に住む少数のエスキモー系サミ人(いわゆるラップ),フィン人を除き,国民の大部分はゲルマン系(→北方ゲルマン人)のスウェーデン人。公用語はスウェーデン語で,少数民族はサミ語,フィン語(→フィン語派)を使用。有史以前からノルマン人が居住し,4世紀頃にはいくつかの小国家が形成され,10世紀末に統一国家が成立した。9~11世紀にキリスト教化され,国民の約 8割は福音ルター派に属する。1397年からデンマークの支配下に入ったが,1523年独立を回復。産業は豊富に産出する鉄鉱石と石炭を利用する重工業,特に鉄鋼生産を中心とするが,軽機械の製造,伝統の農業,林業と合わせ,きわめて高度に発達している。19世紀に始まった火薬などの化学工業も盛ん。社会保障制度の行き渡った福祉国家としても知られる。外交政策は非同盟,中立。1995年ヨーロッパ連合 EUに加盟。(→スウェーデン史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「スウェーデン」の解説

スウェーデン
Sweden

古くノルマン人が居住し,10世紀頃統一王国を形成,12世紀に東方に進出してフィンランド地方を併せた。1397年カルマル連合によりノルウェーとともにデンマーク王のもとで同君連合を形成したが,1523年独立を回復した。16世紀にルター派教義の影響下にプロテスタントを採用。17世紀前半グスタフ2世アドルフ王は近代化に努め,三十年戦争に介入,ドイツに侵入してこの国を一大強国たらしめた。しかし18世紀初めの北方戦争でバルト海東岸の地を失った。19世紀初頭ナポレオン戦争でフィンランドをロシアに奪われ,ウィーン会議でノルウェーを同君連合のもとに置いたが,1905年その分離独立を承認した。19世紀半ば以降,対外的平和と国内の民主化に努力し,独特の立憲王国として繁栄,再度の世界大戦には中立政策によって国内の安全保障を図った。NATO(ナトー)にも加盟せず,高度の社会福祉国家としての道を歩んでいる。95年にEUに加盟。

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旺文社世界史事典 三訂版 「スウェーデン」の解説

スウェーデン
Sweden

スカンディナヴィア半島の東部を占める立憲君主国。首都はストックホルム
9〜11世紀にはヴァイキングが活躍。13〜14世紀に王権が伸張したが,1397年デンマーク・ノルウェーと統一王国(カルマル同盟)を形成し,事実上デンマークの支配下に置かれた。1523年に独立し,ルター派の採用や軍隊の整備などにより国力を回復し,1630年には三十年戦争に参加。1700年北方戦争でロシアに敗れてバルト海の覇権を失い,ナポレオン戦争でフィンランドを失った。1814年ノルウェーを併合したが,1905年分離した。第一次・第二次の両世界大戦に中立を堅持し,戦後,社会福祉制度が充実した。1975年の憲法改正で国王の政治権限は大幅に縮小された。1976年の選挙で,44年間福祉政策を進めてきた社会民主労働党(社民党)が敗北し,中央党中心の保守連立政権が成立。その後は,社民党政権と保守中道連立政権の交代があり,1994年の国民投票でヨーロッパ連合(EU)加盟を決定し,95年1月EUに加盟(ヨーロッパ自由貿易協定〈EFTA〉からは離脱)。

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世界大百科事典(旧版)内のスウェーデンの言及

【ゲルマン人】より

…もっともそれ以前,前4世紀の末に,マッシリア(マルセイユ)にいたギリシア人航海者ピュテアスが,ノルウェーやユトランド半島に出向いた際の記録の一部が残っているが,そこではまだそこに住んでいた民族について,ゲルマンという呼称は使われていない。 考古学的出土品を根拠に,新石器時代までさかのぼって,ゲルマン人の居住分布が推定されるが,それによると,ゲルマン人の原住地は,南スウェーデン,デンマーク,シュレスウィヒ・ホルシュタイン,並びにウェーザー,オーデル両川にはさまれた北ドイツを含む一帯の地域であったというのが,現在の定説である。この原住地から,青銅器時代の末,ゲルマン人は東方に向かってはオーデル,ワイクセル(ビスワ)両川の流域に移動し,前200年ころにはその一部は遠く黒海沿岸にまで達した。…

【民族大移動】より

…その一つは,移動前,ゲルマニアの東部にいた東ゲルマン諸族,次はその西部にいた西ゲルマン諸族,そしていま一つは北方スカンジナビア半島やユトランド半島にいた北ゲルマン諸族である。東ゲルマンに属する部族としては,東ゴート,西ゴート,バンダルWandalen,ブルグントBurgunder,ランゴバルドLangobardenなどが数えられ,西ゲルマンでは,フランクFranken,ザクセンSachsen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなどが,また北ゲルマンでは,デーンDänen,スウェーデンSchweden(スベアSvear),ノルウェーNorwegerなどが挙げられる。このうち北ゲルマン諸族は,前2者よりやや遅れ,8世紀から11世紀にかけ,ノルマン人の名でイングランド,アイルランド,ノルマンディー,アイスランドならびに東方遠くキエフ・ロシアにまで移動し,それぞれの地に建国したため,通常これを第2の民族移動と称する。…

※「スウェーデン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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