フランスの映画監督。画家ピエール・オーギュスト・ルノアールの次男としてパリのモンマルトルに生まれる。俳優のピエール・ルノアールPierre R.(1885-1952)は兄,プロデューサーのクロード・ルノアールClaude R.(1901-69)は弟,そして撮影監督(カメラマン)のクロード・ルノアール(1914-93)は甥(兄ピエールの長男)という映画一家。父の絵のモデルをやっていたカトリーヌ・エスランと結婚,彼女を女優にするために映画をつくりはじめ,〈映画的トリック〉に興じた一種のアバンギャルド映画(《水の娘》1924)からエーリッヒ・フォン・シュトロハイム監督の《愚なる妻》(1921)の〈自然主義リアリズム〉に強烈に影響された《女優ナナ》(1926)に至るサイレント作品で注目され,トーキー時代に入るや,《牝犬》(1931)から《どん底》(1936)をへて《ゲームの規則》(1939)に至る数々の映画史上に残る名作をつくり,映画史家ジョルジュ・サドゥールによって〈詩的リアリズムréalisme poétique〉と名づけられた戦前のフランス映画を代表する巨匠の一人となった。また,マルセル・カルネ,ジュリアン・デュビビエ,ジャック・フェデル(もしくはルネ・クレール)とともにフランス映画の〈戦前の四巨匠〉とよばれることもある。
そのリアリズムの作風(とくにマルセル・パニョル製作の《トニ》1934)によって戦後イタリアの〈ネオレアリズモ〉の先駆者とみなされるとともに,自主製作(カトリーヌ・エスラン主演の一連のサイレント作品)や即興演出(《素晴しき放浪者》1932,《ピクニック》1936,等々)によってフランスの〈ヌーベル・バーグの父〉ともみなされる。代表作として世界的にもっともよく知られた《大いなる幻影》(1937)は反戦映画の名作であると同時に,フランスの人民戦線の思想的決算を行った歴史的な映画としても知られる。
第2次世界大戦中は,アルベルト・カバルカンティ監督の姪のディド・フレールと再婚して,アメリカに亡命。ハリウッドで《南部の人》(1945),《小間使の日記》《浜辺の女》(ともに1946)などを撮り,またハリウッドの花屋が製作資金を出してつくられたインド・ロケの《河》(1950)をへて,ヨーロッパに戻り,イタリアで《黄金の馬車》(1952)を撮ったあと,15年ぶりにフランス映画に復帰した。《フレンチ・カンカン》(1954),《恋多き女》(1955),《草の上の昼食》(1959)という,おおらかで豊かな人間味あふれるロマンチック・コメディ(ルノアールはみずからこの3作品をハリウッドの伝統的なジャンルに則った〈スクリューボール・コメディ〉とよんでいる)をつくった。晩年は〈映画の都〉ハリウッドですごし,ハリウッドで死んだ。《自伝》(1974)のほかに,オーギュスト・ルノアールを回想した《わが父ルノアール》(1958),戯曲(とくにレスリー・キャロンのために書いた《オルヴェ》は,1955年にパリの舞台でみずから演出もした),小説,シナリオ,エッセー集も出版している。
執筆者:広岡 勉
フランス印象派の画家。リモージュに仕立屋の息子として生まれる。一家はまもなくパリに出,13歳のときから陶器の絵付師としての修業をし,のちに家具や扇子にロココ風の装飾をして生計を立てる。21歳のとき,エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の生徒となり,グレールM.G.C.Gleyreのアトリエに入り,バジール,モネ,シスレーらと親交を結ぶ。1863年ころフォンテンブローの森で戸外制作を試み,そこで会ったディアズN.Díaz de la Peñaの影響もあって,色彩は明るさを増す。友人たち,とくによくいっしょに制作したモネが風景画に強い関心を示したのに対し,ルノアールは戸外人物にひかれる。64年のサロン(官展)初入選作《踊るエスメラルダと山羊》(自身の手で破棄),《狩猟のディアナ》(1867)は物語性が強く,人工的な不自然さを残すが,68年にサロンに出品した《日傘の女》では,戸外に立つ白い服の女性に当たる光と影の効果を,きわめて自然なままに追求して新しい一歩を開いた。このようにして74年の第1回印象派展を迎えたルノアールは,光あふれる戸外での幸福そうな人々の集いを描きつづけ,ドガと並んで印象派における人物画家として,1,2,3,7回目の印象派展に出品した(《船遊びの人々の昼食》1880-81など)。81年のアルジェリア旅行のあと,イタリアに旅立ち,ラファエロの作品に強い感銘を受ける。それはちょうど彼が,感覚を通して移ろいやすい視覚的効果を描き留めようとする印象派のやり方に疑問を持ちはじめ,より堅固で永続的なものを表そうとしていた時期であった。彼の様式は,輪郭線と冷たい色調で特徴づけられる〈酸っぱい様式Manière aigre〉に変わっていく。しかし88年,この様式に行き詰りを感じたルノアールは,再び輪郭線のない,あふれるような豊かさを示す色彩の開花へ,すなわち〈真珠色の時代Période nacrée〉へと移行していく。1903年,地中海岸のイタリアとの国境に近いカーニュ・シュル・メールCagnes-sur-Merにコレット荘を買い取り,持病のリウマチに苦しめられながらも,裸婦や肖像画の制作を続け,意欲は衰えることを知らなかった。親しみやすい小作品がほとんどであったが,《水浴の女たち》(1918ころ)のような大画面に,晩年の裸婦研究の成果を結実させた。
執筆者:馬渕 明子
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フランスの機械技術者。ルクセンブルクに生まれ、1838年パリに出た。1859年、ガスと空気の混合気体を燃焼させて動かす実用的な内燃機関を発明、翌1860年特許を得た。この機関は、構造的にはシリンダー、ピストン、連接棒、はずみ車などをもち、横型複動蒸気機関と似ていた。気体圧縮装置はなく、混合気体が、適当な瞬間に電気火花によって点火されるもので、その後の内燃機関発達に重要な契機を与えた。ほかに電動機、自記発信機などの発明もある。1870年フランスに帰化した。
[渡辺 伸]
…ブレヒトが自分の戯曲(およびシナリオ)の映画化で唯一気に入っていた作品だったという。フランス時代はジャン・ルノアールと親交を結び,初期の短編《可愛いリリー》(1928),《赤ずきんちゃん》(1929)にはルノアールと女優のカトリーヌ・エスラン夫妻が出演している。ルノアールがカトリーヌ・エスランと別れたあと再婚したディド夫人はカバルカンティの姪(めい)である。…
…幼児から完ぺきな貴族教育を受け,父親の影響で早くから演劇,オペラに興味をもつが,長じては家出を数回も繰り返したほどの反逆精神の持主であったため,反動的に新しい芸術である映画にのめりこんでいった。30歳のとき,服飾デザイナーのココ・シャネルの紹介でフランスの映画監督ジャン・ルノアールの助監督となり,多くのフランスの映画人と知り合い,彼らを通じて人民戦線にもかかわりをもった。そんなことから,のちに〈赤い公爵〉と呼ばれるようになる。…
…(3)主題 主題の選択においては,一世代前の写実主義の画家たちが宗教画,神話画,歴史画に背を向けたのを受けて,彼らは特に同時代の風俗や,肖像,静物といった市民的なジャンル,身辺のありふれた風景などをその主題として取り上げた。
[グループ展]
印象派のグループとなる画家たちが知り合ったのは,1863年ころグレールCharles Gleyre(1806‐74)のアトリエ(モネ,シスレー,ルノアール,バジール)であり,それにアカデミー・シュイスAcadémie Suisseでかねてからモネと知り合っていたピサロ,セザンヌが合流した。ピサロを通じてモリゾも参加し,彼らはマネやバジールのアトリエ,またブラッスリー・デ・マルティール,ゲルボア,ヌーベル・アテーヌといったカフェで出会い,批評家たちとも親交を結び,戸外に制作に出かけるなど,しだいにグループを形成していった。…
…08年田中喜作とともに渡仏。はじめアカデミー・ジュリアンに入学したが,翌09年南仏カーニュのアトリエにルノアールを訪れ,以後その指導を受けた。その成果は《黄金の首飾り》(1913)などの作品にみられる。…
※「ルノアール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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