19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパとアメリカに広がった装飾芸術および建築の様式。フランス語で〈新しい芸術〉の意。この名は,ドイツ出身の美術商ビングSamuel Bing(1838-1905)が1895年にパリで開いた,東洋の工芸品や新しいデザインの品を売る店〈アール・ヌーボーL'art nouveau Bing〉にちなむもので,主としてフランスとイギリスで用いられる。ほかにフランスとベルギーではスティル・モデルヌstyle moderne(現代様式),ドイツではユーゲントシュティールJugendstil(青春様式),オーストリアではゼツェッシオン(分離派)など種々の名で呼ばれたが,そこには同質の形態と精神を見いだすことができる。
19世紀には貴族社会が崩壊し,都市化・工業化が進んだ。このような社会状況に対応する新しい造形を生み出すことが,この時代の芸術家の課題であり,アール・ヌーボー様式もその一つの解決であったといえる。ラスキンは工業社会が生み出す醜悪な生活環境に抗議し,ゴシックの時代の工人の伝統をよみがえらせようとした。これに呼応してW.モリスは,家具や衣服など身のまわりのもののデザインに関心を向けた。また19世紀後半は,万国博覧会の時代でもあり,パリやロンドンで開かれた博覧会には世界中から出品され,ヨーロッパは自分たちの芸術だけが唯一ではないことを知った。また写真やカラー印刷をはじめとする複製技術がこの時代に発達した。
19世紀のアカデミズムや自然主義に抗して出発したこの傾向は,油絵などアカデミズムの強い領域ではなく,ポスターや挿絵,工芸など,周辺の応用芸術,装飾芸術の分野にあらわれた。そのため,アール・ヌーボーの表現には強い装飾性がみられる(ビアズリー,ミュシャなど)。また,アール・ヌーボーは平面そのものの独自な意味をとりもどし,それを明快に分割することで,新しい視覚的秩序をつくり出そうとする。たとえばビアズリーの,余白を大きく使った簡潔な平面は,モダン・デザインへとつながってゆく。アール・ヌーボーはイタリア語で〈花のスタイルstile floreale〉ともいわれるように,植物的曲線の多用も特徴の一つに挙げられる。このような曲線が好まれたのは,時代が〈ベル・エポックbelle époque〉という女性的な文化にあふれていたためであろう。また,このような様式の形成にジャポニスム(日本趣味)の果たした役割も見のがせない。浮世絵の平面性と新奇な構図が与えた影響のほかに,É.ガレに影響を及ぼした山林学技師で画家の高島北海(ほつかい)(得三)(1850-1931)なども見直されている。今日,埋もれていたアール・ヌーボーは再発見され,予想以上に総合的な様式であったことが明らかにされつつある。
アール・ヌーボーは,最初イギリスにおいてあらわれる。工業化が最も進み,それだけに機械と芸術の矛盾が最も激しかったこの国に,いち早く,アール・ヌーボーが起こったのもふしぎではない。19世紀半ばに始まるラファエル前派や,1870-80年代のモリスとアーツ・アンド・クラフツ運動などが,イギリスのアール・ヌーボーの直接的な源泉となっている。さらにブレークの反アカデミズム的で,ダイナミックな曲線も刺激になっている。80年代以降,クレーン,ドレッサー,マクマードArthur Mackmurdo(1851-1942)といったイギリスのデザイナーたちが,本の挿絵,ガラス器,銀器,家具などにおいて,それまでの重苦しい装飾ではなく,すっきりと整理された曲線による作品をつくり始めた。マクマードがデザインした《レンの市教会》(1883)の扉ページは,つる草のような曲線によって,アール・ヌーボーの起源をなす作品の一つとされている。マクマードは84年にホーンHerbert Horneと《ホビー・ホースHobby Horse》誌を発刊した。89年にリケッツCharles Rickettsは《ダイヤルDial》誌を創刊し,さらに94年に《イェロー・ブックYellow Book》,95年に《エバーグリーンEvergreen》など続々と新しい芸術誌が出されている。これらのアート・ジャーナリズムは,アール・ヌーボーを欧米各地へ波及させる役割を果たした。
イギリスのアール・ヌーボーがまず波及したのはベルギーであった。オルタはタッセル邸,ソルベー邸などの建築・室内装飾で,鞭あるいはつる草のような曲線を多用した。またバン・デ・ベルデは,あらゆる領域を手がけた総合的なデザイナーで,後にバウハウスにも大きな影響を与えている。フランスでは,ギマールが99年から翌年にかけてパリの地下鉄駅入口をデザインし,鋳鉄によって植物的な曲線をあらわした。ガレはナンシーで,ガラス器や家具をつくった。またラリックは蛇やトンボをかたどった宝石細工をデザインしている。
また,ポスターや挿絵など街角を飾る複製芸術の分野でも,すばらしい作家が輩出した。フランスでは,シェレJules Chéret,ロートレック,グラッセEugène Grasset,ミュシャなどが出た。1893年にイギリスの《ステューディオStudio》誌はビアズリーの挿絵《サロメ》を紹介した。ビアズリーやグラスゴーのマッキントッシュなどは,ドイツやオーストリアにまで影響を及ぼした。ベルリンでは《パンPan》(1895-),ミュンヘンで《ユーゲントJugend(青春)》(1896-),ウィーンで《フェル・ザクルムVer Sacrum(聖なる春)》(1898-)などの雑誌が出された。ミュンヘンではエックマンOtto Eckmann,オブリストHermann Obrist,ベーレンスなどの工芸家,建築家が活躍した。ウィーンではクリムト,ホフマン(ウィーン工房),モーザーKoloman(Kolo) Moserなどを中心にゼツェッシオンが結成された。アール・ヌーボーはアメリカにも広がり,ガラスのティファニー,ポスターのブラッドリーW.H.Bradley,〈シカゴ派〉の建築家L.H.サリバンなどが知られる。スペインのバルセロナでは,《ジョベントゥットJoventut(青春)》誌が発行され,同地のモデルニスト,ガウディが有機的な建築を残している。しかし1900年を過ぎると,アール・ヌーボーは過剰な装飾性のうちに衰弱し始め,より機能主義的なスタイルが模索され始めてゆく。
→アール・デコ
19世紀後半の万国博覧会などによって,日本とヨーロッパの文化交流が盛んになり,ジャポニスムが一つの刺激となって発生したアール・ヌーボーも日本に逆輸入された。最も反応が早かったのは染織の分野で,1872年(明治5)からフランスに留学生を送っていた西陣では,いちはやく洋風文様をとりこんでいる。明治30年代にはアール・ヌーボーは本格的に日本に入ってくる。1900年のパリ万国博には多くの日本人が出かけて,アール・ヌーボーに触れ,その資料を持ち帰った。黒田清輝や浅井忠もそのなかにいた。黒田から刺激を受けた杉浦非水(1876-1965)は,日本でグラフィック・デザインの分野を切り開いた。1900年に発刊された《明星》では,一条成美(1877-1910),藤島武二らがアール・ヌーボー様式の表紙,挿絵を描いた。また,1903年ロンドンから帰国した夏目漱石は橋口五葉に,新しい装飾の傾向を伝えている。ややおくれて始まった日本のアール・ヌーボーの時期は短く,すぐに埋もれてしまったが,日本のモダン・デザインの黎明として重要な意味をもっている。
→世紀末
執筆者:海野 弘
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19世紀末から20世紀初頭にかけ、欧米各地で一斉に流行した装飾様式。多用されるしなやかな曲線と曲面に特色がある。「新しい芸術」を意味するこの名称は、1895年末に美術商サミュエル・ビングがパリに開いた店の名「アール・ヌーボー」に由来する。ビングの店はベルギーのバン・デ・ベルデによって豊かに装飾されたうえ、新時代の到来を思わせる工芸品を展示した。ビングがド・フール、ガイヤール、コロンナの3人の工芸家の協力を得て、1900年のパリ万国博覧会に六つの部屋を出陳して大成功を収めるころ、「アール・ヌーボー」という店名が人々の間で様式名に転化し、定着したのであった。1900年にパリ市内百数十か所に設置されたギマール設計の幻想的な地下鉄入口も、アール・ヌーボーという様式のイメージを決定づけた。ギマールは「カステル・ベランジェ」をはじめ数多くの集合住宅によっても、アール・ヌーボー様式の確立を導いた。このほかポスターの領域におけるミュシャやグラッセ、宝飾品のラリック、とりわけナンシーの地でアール・ヌーボーを盛り立てた工芸家ガレの名前があげられる。
しかしもとより、アール・ヌーボーはフランスに限定されない。ベルギーではオルタの活躍が著しく、タッセル邸やソルベー邸では「オルタの線」をほしいままにした。バン・デ・ベルデはベルギーでアール・ヌーボー工芸家として出発したのち、ビングの店などに力を貸し、さらにドイツの工芸界に圧倒的な影響を及ぼした。ドイツではほぼ同傾向の装飾様式に対して「ユーゲントシュティル」Jugendstilの名があてられるが、これは1896年にミュンヘンで創刊された雑誌『ユーゲント』(青春)にちなんでつけられたものである。これらより早くイギリスで進められた美術工芸運動の新風は、アール・ヌーボーの精神を先取りしていた。イギリスではこの動きは「モダーン・スタイル」(近代様式)と称された。ロンドンで進行した美術工芸運動とは別に、グラスゴーのマッキントッシュが特筆される。マッキントッシュの清新な感覚はウィーンの分離派運動と結び付く。このようにアール・ヌーボーという装飾様式は広範囲な国際性に大きな意義をもっている。アメリカにおける建築家サリバンの豊かな装飾、あるいはスペインの異才ガウディの熱狂も、ここに加えられる。
アール・ヌーボーは新時代にふさわしい装飾様式を目ざしたものであったが、各国各人それぞれに、ゴシック、バロック、ロココなどかつての装飾感情が再解釈された局面も多い。日本美術から得た教訓も随所に反映された。たとえばビングは「アール・ヌーボー」を開店する前に月刊誌『芸術的日本』36号を刊行している。なお明治末年から大正期にかけて、日本の美術工芸界がアール・ヌーボーを逆輸入し、独特の風潮をつくりだした意味も大きい。アール・ヌーボーの波打つような装飾は、表面の飾りに終わらず、深い神秘や象徴主義と複合する部分が多く、アール・ヌーボーに魅了されるのはこの相貌(そうぼう)においてである。しかし20世紀に入ってこれが速やかに退潮した理由もまた、機械時代の機能主義に相いれないこの相貌においてであった。20世紀の建築とデザインは、あるときは装飾を罪悪とまでに決めつけ、別の進路をとっていった。
[高見堅志郎]
『S・T・マドセン著、高階秀爾・千足伸行訳『アール・ヌーヴォー』(1970・平凡社)』▽『N・ペブスナー、J・M・リチャーズ編、香山寿夫訳『反合理主義者たち 建築とデザインにおけるアール・ヌーヴォー』(1976・鹿島出版会)』
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…しかし,実際の造形がゴシック様式や他の歴史様式を基調とする限りにおいては,それらを近代建築と呼ぶことはできない。
[近代運動の模索]
建築が歴史主義を脱した造形を模索し始めるのは,1870年代にイギリスの郊外住宅を中心にクイーン・アン様式あるいは〈フリー・クラシック〉と呼ばれる造形が現れて以降であるが,90年代からヨーロッパ全体にアール・ヌーボーが流行するにいたって,それは決定的になった。アール・ヌーボーの代表的作例であるオルタによるタッセル邸(1892‐93)やギマールによるパリの地下鉄入口では,創意に満ちた曲線的モティーフが見られた。…
…さらにボイジーCharles A.Voyseyは,時代的な様式主義のディテールから脱却して近代装飾へ前進した。1893年ブリュッセル市の博覧会に〈アール・ヌーボー〉という名称をつけて,独創的な様式の装飾を提案したバン・デ・ベルデは,大陸風のロココ的な有機的形態によって歴史様式を打ち破った。しかしアール・ヌーボーはドイツ,フランス,オーストリアなどにひろまったが,結果的には一種の様式主義に堕して消失した。…
…それは当然,新しい世代による文化更新の試みを含んでいた。90年代に流行したアール・ヌーボー(新しい芸術)は,ひとりヨーロッパにとどまらずアメリカから日本まで風靡したが,それが一名ユーゲントシュティール(青春様式)とよばれたのもこの間の消息を伝えるものである。ともあれゴーギャンはタヒチ島に渡り,ゴッホは片田舎のアルルで制作した。…
… 最初のものは1892年に設立されたミュンヘン・ゼツェッシオンで,その中心となったのは象徴主義の画家F.vonシュトゥックおよび自然主義の画家トリューブナーWilhelm Trübner(1851‐1917)であった。次いで97年にウィーン・ゼツェッシオンがG.クリムトを中心として創設されたが,これはJ.M.オルブリヒ,J.ホフマンら建築家,工芸家をも多く含み,オーストリアにおけるユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)の中心となった。ベルリン・ゼツェッシオンは99年に,ドイツ印象派の代表者M.リーバーマンを中心として設立され,ドイツ最大の美術組織へと育っていった。…
…印刷物ではモリスによるケルムスコット・プレス(1891設立)のタイポグラフィーが大きな影響力をもったが,それが機械生産と結びついて20世紀ドイツで新しい美学的(機能的)水準をひらく。またポスターは石版の発達と結びついて1860‐70年代に新しい都市の〈絵画〉を形成しはじめ,世紀末のアール・ヌーボーはポスターの黄金期をつくりだした。これらのグラフィック・デザインが近代デザインの中でもつ意義は,単に視覚表現の固有の領域の開拓という点だけではなかった。…
…19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米で展開したアール・ヌーボーの一流派。フランス東部の町ナンシーを中心に活動し,日本美術に強い影響を受けた草花鳥虫,とりわけ植物文様をモティーフに使った自然主義的な表現に特色があった。…
…ピカソ美術館,ミロ美術館もある。【五十嵐 ミドリ】
[世紀末のモデルニスモ]
モデルニスモModernismoは,アール・ヌーボー,ユーゲントシュティールと同様に,世紀末様式を指すスペイン語であるが,同時期(1890‐1910)のスペインで最も前衛的であったバルセロナでは,反中央的な民族意識の高揚を目ざす〈カタルニャ・ルネサンス〉運動と一致し,あらゆる分野においてカタルニャ人のアイデンティティを求める運動を意味した。なかでも最大の成果を収めたのが芸術分野,とくにブルジョアたちに支持され,市域の拡大期とも一致した建築で,孤高の天才ガウディのみならず,ドメネック・イ・モンタネール,エンリケ・サグニエール,プッチ・イ・カダファルクらが活躍し,ゴシックの町バルセロナを一新した。…
…同じく創立会員のアンソールは,独特の幻想世界を創造,強烈な色彩と大胆な筆致により,表現主義の先駆ともなった。 世紀のかわり目に主として工芸・建築に新風を吹き込んだアール・ヌーボーの運動においても,オルタとバン・デ・ベルデという傑出した建築家を生んだベルギーの役割は大きい。さらに後者は1901‐14年にドイツで活動して機能主義の美学を標榜するバウハウス運動を準備し,帰国後は装飾を排した近代建築の推進者となった。…
…それらのポスターのうちで,際だったスタイルをもっていたのは,ロートレックとミュシャである。二人はシェレの表現をさらに進めて,より平面的に画面を分割し太い輪郭線を使って,アール・ヌーボー様式のポスターをつくり,ポスターの黄金時代を築いた。アール・ヌーボーのポスター作家としては,他にボナール,ベルトンP.Berthon,ド・フールG.de Feure,グラッセE.Grasset,バロットン,オラジM.Oraziなどがいる。…
…同美術学校の仲間(一人はのちに結婚したマーガレット)と〈四人組〉を結成。93年ころから活発に活動し,ポスター,家具,工芸品などのデザインに,古代ケルト人のモティーフ,植物や人体に基づく曲線,さらに浮世絵に学んだ斬新な表現法等により,ヨーロッパ大陸のアール・ヌーボーに呼応する動きとして注目を浴びる。彼自身もウィーン・ゼツェッシオン展(1900),トリノの国際装飾展(1902)に出品し,高い評価を得た。…
…日本,中国,インドの陶器や絹など東洋の物産を扱うことから始め,しだいにアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの中から生まれた工芸作家と提携して,染織,家具その他のオリジナル商品を販売するようになる。それらが当時の東洋趣味や唯美主義的風潮の下にもてはやされ,リバティ風はアール・ヌーボーと同義とみなされ,イタリアで〈スティーレ・リバティStile Liberty〉の呼称を生んだ。現在も創作品,高級品を中心に扱っており,創立以来の東洋部門,毎年発表されるリバティ・プリントとともに,百貨店として特異な地位を保っている。…
※「アールヌーボー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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