フランスの代表的喜劇作家,俳優,演出家。本名Jean-Baptiste Poquelin。王室御用室内装飾業者の長男としてパリに生まれる。コレージュ・ド・クレルモン,オルレアン大学で学びシャペルらの自由思想家と親交を結ぶ。家業を継ぐ予定だったが,1642年ころ女優マドレーヌ・ベジャールと恋に落ち,芝居の道に入る。43年ベジャール兄妹(ベジャール一家)らと〈盛名座〉を結成するが2年たらずで破産。45年末,一同は旅回りの一座に加わって都落ちし,13年余にわたる南フランス巡業を行った。この期間に彼は役者修業のかたわらイタリアの筋立て喜劇,コメディア・デラルテ,スペイン喜劇,ゴロア笑劇,ラテン喜劇を学び作品を書き出す。初期は一幕物の笑劇が大部分だが,本格喜劇としてイタリア物の翻案《粗忽者》(1655),《痴話喧嘩》(1656)がある。座長となった彼は58年,一座に〈王弟殿下の劇団〉の名をもらい,ルイ14世の御前公演で演じた《恋する博士》によって面目を施し,パリの劇場に進出を許される。サロンの衒学趣味にかぶれた田舎娘を通じて浅薄な流行を風刺した《才女気取り》(1659)でまず成功,翌年,笑劇《スガナレル》では,いわゆるモリエール的人物の嚆矢(こうし)である滑稽で醜悪,殻に閉じこもって他を顧みぬ主人公を自演する。
傑作《女房学校》(1662)は前年発表の《亭主学校》を発展させ,結婚問題をテーマとした作品。人間性をねじ曲げようと試みるアルノルフの敗北に,風俗を描く画家と称された作者の鋭い視座がある。作品の大成功はライバルの反発を買い,その後1年ほど対立劇団の役者・作者らとの間に〈喜劇の戦い〉が起こる。62年,マドレーヌの末妹(あるいは娘?)アルマンドと結婚。64年ベルサイユ宮での大饗宴〈魔法の島の楽しみ〉6日目に上演された《タルチュフ》は宗教的偽善批判の激しさに物議をかもし上演禁止となる(1669解禁)。翌年発表の《ドン・ジュアン》も前作の延長線上にあり,15回上演後打ち切られて19世紀半ばまで再演されない。当時の大貴族をモデルにしたドン・ジュアンと無責任で迎合的な下僕スガナレルのコンビが鮮やかである。
66年の《人間嫌い》は性格喜劇で,古典喜劇形式を完璧の域に高めた。これ以後モリエールは健康状態の悪化,妻との不和などの悪条件にめげず多様な作品を次々と発表する。ヘラクレス誕生伝説による《アンフィトリヨン》,貴族と町人の結婚を槍玉にあげた《ジョルジュ・ダンダン》,吝嗇漢(りんしよくかん)の典型を描いた《守銭奴》(いずれも1668)をはじめ,70年舞踊喜劇《町人貴族》,71年笑劇《スカパンの悪だくみ》,72年本格韻文喜劇《女学者》,73年医者を徹底的に風刺した《病いは気から》などである。この作品上演4日目,舞台で発作を起こした彼は数度の大喀血の後死去。真の演劇人として舞台に己れのすべてを賭した生涯であった。古典喜劇の完成者として良識,理性,自然,安定したバランス感覚を示す一方で,笑劇や道化芝居の技法に裏打ちされた豊かではつらつたる笑い,風俗の綿密な観察に基づく性格描写と風刺精神がモリエール劇の中核を成している。喜劇役者として一流であったが,悲劇役者としては成功しなかった。
モリエールの作品は1680年創立のコメディ・フランセーズの演目の重要部分を占め,彼自身は《人間嫌い》に象徴される静かな笑いの代表者とみなされた。17世紀末,ダンクール,ルニャールらの風俗喜劇の手本とされるとともに,18世紀後半,ボーマルシェの《セビリャの理髪師》《フィガロの結婚》における劇作術,主人公の人物像に大きな影響を及ぼした。19世紀末までは,彼の文学性がもっぱら重んじられたが,20世紀に入って,コポーをはじめ,ジュベ,プランション,ムヌーシュキンらの努力で,彼の多彩な劇的宇宙が再構築されている。
執筆者:鈴木 康司
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1622~73
フランス古典喜劇作家。座長,俳優として旅回りののち『才女気取り』で成功。その描く人物のいくつかは永遠の典型として残っている。代表作『ル・ミザントロープ』『タルチュフ』『守銭奴』など。
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…75年には現代の移民労働者と資本家の対立を,アルレッキーノを主人公とするコメディア・デラルテの即興性を生かした集団創作によるパロディ劇《黄金時代L’âge d’or》に仕立てあげ,すり鉢形に傾斜した客席が舞台を囲む特殊な空間構造が再び評判となった。76年には初めて4時間に及ぶ大作映画《モリエール》を製作,その後劇団の運営方法をめぐって創立メンバーが脱退したりしたが,81年には東洋演劇の手法をとり入れたシェークスピアの《リチャード2世》《十二夜》《ヘンリー4世》を連続上演,以後も再び活発な活動を続けている。【利光 哲夫】。…
…モリエール作,韻文5幕,1672年初演。作者最後の本格喜劇で,主題は女性の浅薄な学問流行を批判するもの。…
…だがいうまでもなく,そのことが,いわゆる〈喜劇〉の中に含まれる特有の精神的価値を損なうわけではなく,その本来的な批判精神とそれが人々に及ぼす精神的な効果(笑い,思考への刺激)というものは,今日の社会においても,なんらかの意味を持つといってよいであろう。
[ギリシア喜劇からモリエールまで]
コメディcomedyの語源は,ギリシア語のkōmos(祭宴の行列)とōidē(歌)を重ねたコモイディアkōmōidiaに由来する。古代ギリシアのディオニュソスをたたえ豊饒を祝う祝祭行列,男根儀礼,為政者に対する風刺批判の歌などが劇形式に発展し,前5世紀には,喜劇として完成した形式をもつようになる。…
…モリエール作の舞踊喜劇。5幕散文。…
…フランスの劇作家モリエール作の性格喜劇。5幕韻文。…
…中世から現代に至るフランス演劇の大きな特徴は,(1)歴史的には,17世紀に起こった一連の変化・断絶を軸として,それ以前とそれ以後に大別され,17世紀以降の演劇の多くのものが,劇場における上演という形にせよ,劇文学の読書という形にせよ,今日まで一応は連続して共有されてきたのに対し,17世紀以前の演劇は,少数の例外を除いて,演劇史あるいは文学史の〈知識〉にとどまること,(2)構造的には,17世紀に舞台芸術諸ジャンルの枠組み(〈言葉の演劇〉,オペラ,バレエ等)が成立し,国庫補助を含むその制度化(王立音楽アカデミーは1669年,コメディ・フランセーズは1680年に開設された)が進むと,演劇活動のパリの劇場への集中化が行われ,演劇表現内部における〈言葉の演劇〉の優位とそれに伴う文学戯曲重視の伝統が確立したことである。特に最後の点は,コルネイユ,モリエール,ラシーヌに代表される劇文学が,一般に諸芸術の内部で規範と見なされるに至ったことと相まって,以後300年のフランス演劇とフランス文化に決定的な役割を果たした。
【中世――宗教劇と世俗劇】
中世フランスは,ヨーロッパの中でも,宗教劇・世俗劇ともに隆盛を見た地域だった。…
…モンドリーの病気引退(1636)後,力を取り戻し,座長フロリドールFloridor(?‐1672)の率いる〈ブルゴーニュ座国王付き劇団〉が発足し人気を得た。58年モリエールがパリに戻ると一時人気を奪われたが,J.ラシーヌの傑作悲劇を次々に初演して再び全盛時代をつくった。73年モリエールの死により,マレー座とモリエール一座が合併しゲネゴー座Théâtre Guénégaudとなったが,80年には王命によってこのゲネゴー座とブルゴーニュ座劇団が合体し,コメディ・フランセーズが生まれた。…
※「モリエール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...