ショスタコービチ

精選版 日本国語大辞典 「ショスタコービチ」の意味・読み・例文・類語

ショスタコービチ

(Dmitrij Dmitrijevič Šostakovič ドミトリー=ドミトリエビチ━) ソ連の作曲家。ペテルブルクに生まれ、一九三七年社会主義リアリズムの興隆をたくましく歌い上げた「交響曲第五番」を発表して現代音楽担い手一人となった。交響曲一五曲、弦楽四重奏曲一五曲、オラトリオ「森の歌」など。(一九〇六‐七五

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百科事典マイペディア 「ショスタコービチ」の意味・わかりやすい解説

ショスタコービチ

ロシア(ソ連)の作曲家,ピアノ奏者。ポーランド人の血を引く父とピアノ奏者の母の間に生まれる。早くから並外れた天分を示し,1919年−1925年生地のペトログラード音楽院(在学中にレニングラード音楽院と改称,現ペテルブルグ音楽院)に学ぶ。卒業作品《交響曲第1番》(1924年−1925年,初演1926年)で世界的な注目を集め,続いてゴーゴリ原作のオペラ《鼻》(初演1930年)などで早くも才能を縦横に発揮。また劇付随音楽や映画音楽でも活躍し,演出家メイエルホリド交友を結ぶ。1934年,レスコフ原作のオペラ第2作《ムツェンスク郡のマクベス夫人》の初演が大成功をおさめ,作曲家としての地位を確立。翌年から欧米各地でも上演され名声を高めるが,1936年《プラウダ》紙の批判を浴び,上演禁止処分を受ける。以後1948年の〈ジダーノフ批判〉(ジダーノフ参照)をはじめ,〈社会主義リアリズム〉を掲げるソビエト当局による公式批判は生涯に十数回に及び,その応酬の中で創作活動は複雑な軌跡を描いた。1943年,代表作の一つ《交響曲第8番》を発表。1960年代半ばからは心臓疾患に苦しむが,音楽はさらに深みを増し,ガルシア・ロルカアポリネールらの詩を用いた《交響曲第14番・死者の歌》(1969年。親友のブリテンに献呈)などを頂点とする傑作群が書き継がれた。マーラーの業績を継ぐ15曲の交響曲(初演1926年−1972年),15曲の弦楽四重奏曲(初演1939年−1974年)をはじめ,オイストラフロストロポービチにより初演された各2曲のバイオリン協奏曲(1947年−1948年,1967年)とチェロ協奏曲(1959年,1966年),ブロークの詩による《7つのロマンス》(1967年)ほか数多くの歌曲,《バイオリン・ソナタ》(1968年)などの室内楽曲がある。→第九交響曲プロコフィエフムソルグスキー
→関連項目カバレフスキーグラズノフ交響曲ハルトマンピッコロポクロフスキーミヤスコフスキーリヒテルロシア国民楽派

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改訂新版 世界大百科事典 「ショスタコービチ」の意味・わかりやすい解説

ショスタコービチ
Dmitrii Dmitrievich Shostakovich
生没年:1906-75

ソ連邦の作曲家。技師でポーランドの血を引く父と,シベリア金山の監督官の娘でピアニストの母との間に生まれたひとり息子。少年時代に彼の異常な音楽的才能に気づいた母親はその才能をたいせつに育てた。彼は1919年ペトログラード音楽院に入学し,ピアノをL.V.ニコラエフ,作曲をM.O.シテインベルグに学んだ。卒業作品として書いた《交響曲第1番》(1925)はいち早く国際的な評価を受け,彼の出世作となった。卒業後劇音楽や映画音楽に広く接し,20年代ソ連の自由な雰囲気の中で職人的な腕を磨いた。ピアニストとしても第1回ショパン・コンクールに派遣されるほどの手腕を発揮した。32年に完成したオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》はモスクワ,レニングラードだけでなく外国でも上演され大成功を収めた。しかしこのオペラは36年1月,大粛清時代の綱紀引締政策の中で厳しい批判を受け,彼は苦境に立った。すでに完成していた《交響曲第4番》を撤回してしばし筆を休めたあと,現在では〈革命〉の名で知られる《交響曲第5番》(1937)を書いて名誉を回復した。引き続き,《ピアノ五重奏曲》《交響曲第7番》《ピアノ三重奏曲第2番》など,第2次世界大戦中もすぐれた作品を残し,いくども国家賞に輝いた。大戦後48年のジダーノフ批判を受けるが,オラトリオ《森の歌》(1949)や映画音楽《ベルリン陥落》(1949),混声合唱曲《10の詩》(1951)などで批判に応え,繰り返し国家賞を与えられた。スターリンの死の直後に発表した《交響曲第10番》は悲観的な内容が論議を呼んだ。その後もエフトゥシェンコの詩による《交響曲第13番バービー・ヤール》(1962)がフルシチョフの批判を受けたり,死後には〈証言〉と称する反体制的な遺書を発表されたりして,常に話題となる生涯を送った。15の交響曲と15の弦楽四重奏曲が主要な作品とされるが,35にのぼる映画音楽をはじめ,あらゆる分野に数多くの作品を残し,現在なお最もしばしば演奏される20世紀作曲家の一人である。技法はきわめて保守的であるが,チャイコフスキー以来のロシアの劇的な交響曲の伝統を発展させた功績は高く評価されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ショスタコービチ」の意味・わかりやすい解説

ショスタコービチ
しょすたこーびち

ショスタコビチ

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世界大百科事典(旧版)内のショスタコービチの言及

【映画音楽】より

…(1)ピアニストが画面を見ながらイメージに合わせて即興で演奏する。ショスタコービチも無名時代には家族を養うためにこうした映画館のピアニストをやっていたという。(2)やがて,映画のシーンの性格(愛のシーン,悲しみのシーン,追跡シーン等々)と音楽との関係に一定のパターンができて,伴奏音楽のために選曲,抜粋された小曲集が編まれ(1913年に初めて出版されたが,もっとも有名なものは19年にベルリンで発行されたジュゼッペ・ベッチュ編の《キノテーク》であったといわれる),それを基に映画館で演奏されるようになる。…

【社会主義リアリズム】より

…しかし,一部に見られたリアリズム万能論への傾斜は,スターリン体制確立の過程で,世界観,イデオロギー強化の立場から強い反撃を受ける。30年代半ばにはバーベリ,ピリニャークら,独自のスタイルをもつ作家が粛清で大量に抹殺され,さらに作曲家ショスタコービチ批判,メイエルホリド劇場解散など,芸術界全般に及ぶ〈形式主義〉批判キャンペーンもあって,社会主義リアリズムはソビエト文学画一化のための具と化していく。〈内容において社会主義的,形式において民族的〉というスターリンの定義は,この方法のいっそうの教条化につながった。…

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