イラン南西部のザーグロス山脈西麓,フージスターン平原にある古代都市遺跡。ペルシア湾頭から北へ約240kmの地点に位置する。先史時代からメソポタミアとイラン高原をつなぐ交通の要所として重要な役割を果たしてきたが,アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世がここに首都を建設したことによって巨大な都市跡を残した。
遺跡の主要な部分は南北に長い菱形で,南北1400m,東西800m,北に〈アパダーナapadāna〉,西に〈アクロポリス〉,東に〈王の都市〉,南に〈天主閣〉と便宜的に名付けられた4地区からなり,最高のアクロポリスで周囲からの高さが35mある。東側には〈技術者の町〉とよばれる広くて低いテル,西側には〈ダニエルの墓〉,シャーウル川を隔ててさらに西側にシャーウル宮殿がある。J.deモルガンが組織的な発掘調査を1897年に始めて以来フランス隊が継続して,この都市とイランの歴史に関する史料はもちろんのこと,バビロニアの歴史にとっても基本史料であるハンムラピ法典碑,アッカド王朝のマニシュトゥシュ王のオベリスク,ナラムシン王の戦勝碑などを発掘し,考古学的にはスーサ第Ⅰ・第Ⅱ様式の彩文土器が1930年ころまで西アジア先史時代編年の基準であった。最近,層位的発掘に,グリッド・システムをとるウィーラー方式を採用して,メソポタミアとの交流関係のさらに詳細な検討が可能になりつつある。
スーサにおける先史時代は3期に分けられる。Ⅰ期は優れた彩文土器の多い時期で,その始まりは前4000年ころ,Ⅱ期はメソポタミアのウルク期に並行し,円筒印章や彫刻が登場する。Ⅲ期が原エラム期で,未解読の原エラム文字を印したタブレットが出土し,バビロニアのジャムダット・ナスル文化との関係が深い。いわゆるスーサ第Ⅱ様式の彩文土器は前3千年紀中ごろで,バビロニア初期王朝期に並行し,次のアッカド時代にスーサは征服されてその支配下にはいり,ウル第3王朝時代までバビロニアの支配者による神殿の建設活動が行われた。前2千年紀前半には,エラムにおける都市スーサの位置は低かったが,前14~前12世紀は栄光の時代で,アッカド時代やウル第3王朝時代に建設された神殿が復興され,シュトルクナフンテ王(前12世紀)はバビロニアを攻略して,ナラムシンの戦勝碑やハンムラピ法典碑を持ち帰りエラムの神インシュシナクにささげた。
アッシリアの略奪を受けたのち,ダレイオス1世が〈王の道〉の通るここに首都を建設すると,スーサの様相は一変した。エラム時代の堆積をならして,〈アクロポリス〉には城砦が,その北東に〈アパダーナ〉と呼ばれる謁見の間と宮殿が,この南に〈王の都市〉がつくられ,全体が堅固な城壁によって囲まれ,さらに濠をめぐらし,シャーウル川の水路を変えて水を導入した。首都の建設はさらに規模を拡大してペルセポリスに移り,前4世紀末のギリシア人の侵入以後はスーサは商業都市として,ササン朝ペルシア下では絹の産地として栄えた。シャープール2世が4世紀中葉にキリスト教徒の反乱を防ぐ目的で住民を殺害し町を破壊して廃墟となったが,イスラム化とともに再び商業活動が盛んになった。しかし13世紀にモンゴル族の侵略をうけて決定的に破壊された。
執筆者:小野山 節
スーサの遺跡は前4千年紀からイスラム時代までの層を含み,彩文土器,金工品,石製彫刻,古銭,彩釉煉瓦など各時代の遺物を多数出土している。とりわけエラム時代とアケメネス朝時代の出土品,建築が数も多く重要である。前者はメソポタミア文化の影響を強く受けているが,ビチューメン(歴青),アラバスター,青銅の動物小像,彩釉煉瓦に見られる動物文などは,非イラン系の原住民エラム人の神話とのつながりが見られ,彼らの美意識が反映している。後者においては,メソポタミア文化の影響が,中庭を中心に周囲に部屋を配する構成の宮殿建築,宮殿の日乾煉瓦の壁表面を飾る彩釉煉瓦(獅子,グリフォン,牡牛など)にみられるが,石製の列柱や動物を背合せにした柱頭などイラン系の建築形式やアニマル・スタイルもみられる。また,ダレイオス1世の宮殿址から出土した同王の肖像彫刻はエジプトのファラオを模したもので,丸彫の少ないアケメネス朝の彫刻の中では異例のものである。
執筆者:田辺 勝美
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イラン南西部のフーゼスターン地方にある、先史時代からイスラム時代にわたる遺跡。カールーン川に合流するシャーウル川左岸にあり、とくにアケメネス朝ペルシアの都市がもっとも有名である。遺跡の北端には玉座の間であるアパダーナとダリウスの宮殿、その南西にアクロポリスがあり、南東に王の都市と名づけられた計三つのテル(遺丘)が連続し、王の都市の東に技術者の都市とよばれるテルがある。アクロポリスからは、スーサI型と名づけられた彩文土器が出土しているが、それとともに動物文、人物文、幾何学文などの土器が出土し、それはシアルクⅢ期、ウバイド期と関係が深い。アパダーナ、ダリウス王宮のあるテルは、アパダーナの丘とよばれる。ダリウスの王宮からはバビロニア語、エラム語の粘土板文書が発見され、王の都市は、フランスのギルシュマンの発掘により、イスラムからエラム時代までの15層が確認されている。シャーウル川右岸でも大広間が発見されている。現在のスーサの東に接したアクロポリスの丘の麓(ふもと)には、出土品を収蔵した博物館がある。
[糸賀昌昭]
イラン西南部にある遺跡で,三つの遺丘からなる。1897年以来フランス調査隊により発掘されている。アクロポリスから先史時代の彩文土器やエラムの絵文字を刻む粘土板が出土した。前13世紀にはエラムの首都となり,バビロンから略奪したハンムラビ法典が運ばれた。のちにアケメネス朝のダレイオス1世が列柱や彩釉煉瓦のフリーズで飾った王宮を建てた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…工芸【中野 政樹】
【オリエント,西洋】
[オリエント]
オリエントで最も早く採取され利用された金属は銅で,主要な加工技法は鍛造と鋳造とであった。エジプトでは前5千年紀のバダーリの遺跡から銅製のビーズ,鎖,ピンなどの小品が出土しているし,一方,エラムのスーサでは,前3000年以前にさかのぼる鏡や斧が発見されている。青銅は前3千年紀の後半,西アジアにあらわれたが,エジプトにも輸入されて第12王朝ころから普及した。…
… キュロス2世はパサルガダエ,ダレイオス1世はペルセポリスに新しい王城を建設した。しかし,スーサ,エクバタナ,バビロンもまた王都として利用され,とくにスーサは事実上の首都の役割を果たした。王は政務に際して側近の重臣に意見を求めたが,重大な決定事項はすべての高官が出席する大評議会にはかった。…
※「スーサ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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