ティグレ(英語表記)Tigre

デジタル大辞泉 「ティグレ」の意味・読み・例文・類語

ティグレ(Tigre)

アルゼンチンブエノスアイレスの北へ約30キロメートル、パラナ川のデルタ地帯にある町。水路縦横にめぐらされ、別荘も多い。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ティグレ」の意味・わかりやすい解説

ティグレ
Tigray; Tegray; Tigrai; Tigre

エチオピア北部の歴史的地域。西半を標高 1500~3300mのエチオピア高原が占め,東には海面より 116m低いコバル窪地 Kobal sinkを含む砂漠地帯ダナキルが広がる。域内をタカゼ川とガシュ川(マレブ川)が流れる。
古代王国アクスムの中心部に位置し,古都アクスムや都市遺跡イエハのほか,侵入してきたイタリア軍を 1896年に撃破した戦地アドワ(→アドワの戦い)がある。
植生はまばらだが,住民のほとんどが穀物や豆類,コーヒー,綿花の栽培や牧畜に従事している。皮革は重要な輸出品で,砂漠からとれる塩や炭酸カリウムも輸出される。古くからティグレ族が住み,ラヤ族,アゼボ族,アファール族,アガウ族も居住する。
紅海沿岸のマッサワ(ミツィワ)とアッサブ(ともに現在はエリトリア領)は隊商(キャラバン)の拠点であったが,16世紀にオスマン帝国に沿岸部を奪われてからは,ティグレ出身のヨハネス4世の統治時代(1872~89)を除き,この地は南方のゴンダルショアの首長たちに支配されてきた。また,エジプトやスーダン,イギリス,イタリアによる侵攻の脅威にも常にさらされた。エチオピア戦争後のイタリア占領時代(1935~41)にはアジスアベバから派遣された官吏が統治した。
1975年,反政府勢力のティグレ人民解放戦線 TPLFが当時のエチオピアの軍事政権に反発し武装闘争を展開,1984年から 1985年にかけては干魃飢饉が発生し,そのため政府は何十万もの農民をより水利のよい西部や南部に強制的に移住させようとした。国際的な非難を受けて計画は中止となったが,それまでに約 10万人が死亡し,数十万人が内戦や飢饉を避けて隣国スーダンやジブチに逃れた。TPLFはオロモ族ガラ族),アムハラ族などの民主派組織と共闘(→エチオピア人民革命民主戦線)して,メンギスツ・ハイレ・マリアム率いる軍事政権を打倒,その後エチオピアの支配権がアムハラ族からティグレ族に移り,1990年代における継続的な紛争の要因になった。また,1993年にエチオピアから独立したエリトリアとの国境をめぐる対立も原因となり,両国はティグレの領有を主張し,この争いは 21世紀に入っても続いた。

ティグレ
Tigre

アルゼンチン中部,ブエノスアイレス州北東部の都市。首都ブエノスアイレスの北西郊にあり,ブエノスアイレス大都市圏の一部をなす。周辺一帯はパラナ川三角州の南東端にあたり,多数の小河川や運河が網の目状に走り,ラプラタ川と呼ばれる大三角江に注ぐ。 1678年に建てられた聖堂を中心に発展した町で,現在は商業中心地として繁栄,特に果実市場で知られる。また周辺の川では水上スポーツが盛んで,市内には海軍博物館,レコンキスタ博物館などがあり,観光客も多い。周辺一帯を含めたティグレ地区の人口 25万 6005 (1991推計) 。

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百科事典マイペディア 「ティグレ」の意味・わかりやすい解説

ティグレ

エチオピア北部高原およびエリトリアを中心に居住する民族集団。推定人口400万人。コプト派キリスト教を信奉し,同じセム系のティグリニヤ語を話すなど,アムハラとは近縁の関係にある。多民族のエチオピアでは少数派で,政治的には長らくアムハラなど他の民族の覇権の下におかれてきたが,1991年の政変劇では前政権打倒の主力となり,新政権の中核を構成。また1993年に分離独立したエリトリアでは多数派を占める。
→関連項目アスマラアフリカの角

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