日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ映画」の意味・わかりやすい解説
ドイツ映画
どいつえいが
文化的地方主義のために先進的な技術が正当に開花することを妨げられていたドイツでは、第一次世界大戦前は、市場は広かったにもかかわらず、映画製作は振るわず、フランスなどの外国映画によって市場を席巻(せっけん)されていた。しかしその間の蓄積は、小プロダクションを強制的に統合して第一次世界大戦中の1918年にウーファ(正式名称はウニベルズム映画)が設立されたことがきっかけとなって、敗戦後の解放的雰囲気のなかで一挙に開花し、表現主義映画と称されるドイツ映画の黄金時代を出現させた。ヒトラーの第三帝国時代はワイマール共和国時代の遺産を食いつぶし、第二次世界大戦の敗北によるドイツ分割はドイツ映画に致命的な打撃を与え、映画は低迷期に入った。ウーファの所在地が旧東ドイツになったため、中心を失った西ドイツ映画は、1960年代末からむしろアメリカやフランスの新しい傾向を土台とする「ニュー・ジャーマン・シネマ」として、伝統と断絶した方向で復活した。旧東ドイツは、ワイマール時代の伝統と社会主義とを基礎とする枠組みのなかで、新しい現実に対応する映画づくりの道をたどっていたが、東ドイツの崩壊によって、統合ドイツの枠組みの中で再編成される困難な過程に入った。
[平井 正]
草創期
ドイツ映画の歴史は、1895年マックス・スクラダノフスキーMax Skladanowsky(1863―1939)が「ビオスコープ」Bioskopを上映したときに始まる。しかし草創期のドイツ映画界は、外国映画に市場を席巻され、わずかにオスカー・メスターOskar Messter(1866―1943)がヘニー・ポルテンHenny Porten(1890―1960)を主演女優とするダンス映画などをつくっていた程度だった。ドイツ映画の芸術的革新は、アスタ・ニールセンとウアバン・ガーズ(ウルバン・ガット)Urban Gad(1879―1947)という、デンマークからの輸入スターと輸入監督による北欧的エロスの映画によって始まった。それと並んでドイツ独自の怪奇幻想の映画化も始まり、シュテラン・ライStellan Rye(1880―1914)の『プラーグの大学生』(1913)となって結実した。
[平井 正]
ワイマール共和国時代
第一次世界大戦の敗戦による権威主義的帝国の崩壊は、文化的には解放であり、インフレと戦後の混乱はドイツ映画の製作と輸出をかえって活気づかせた。人々は夢を求め、性教育に名を借りたポルノ映画や喜劇映画、豪華スペクタクル映画がブームとなった。エルンスト・ルビッチは『パッション』(1919)や『寵姫(ちょうき)ズムルン』(1920)によって国際的名声を博した。さらに、内面的深淵(しんえん)の世界に焦点をあて映像表現に新しい世界を開いたのが、ロベルト・ウィーネRobert Wiene(1873―1938)の『カリガリ博士』『ゲニーネ』(ともに1920)を先駆とする表現主義映画であった。また、レオポルド・イェスナーの『裏階段』(1921)、ループー・ピックLupu Pick(1886―1931)の『破片』(1921)といった「室内劇(カンマーシュピール)映画」は、人間の内面に迫るとともに、技法的には映像の純粋表現を追求する無字幕映画を志向した。カール・マイヤーCarl Mayer(1894―1944)の台本によるフリードリヒ・ウィルヘルム・ムルナウの『最後の人』(1924)はその頂点である。ムルナウと『ニーベルンゲン』二部作(1924)のフリッツ・ラングは幻想的・神話的人物を映像化した二大巨匠であるが、そうした映像も最終的には内面世界に規定されていた。それは、カール・グルーネKarl Grune(1890―1962)の『蠱惑(こわく)の街』(1923)や、エーウァルト・アンドレ・デュポンEwald André Dupont(1891―1956)の『ヴァリエテ 曲芸団』(1925)などにも共通している。
しかし、1920年代後半になると表現主義的傾向は後退し、新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)が前面に出てくる。その代表者ゲオルク・ウィルヘルム・パプストは、『喜びなき街』(1925)や『パンドラの箱』(1929)によって、当時の社会の枠組みを冷酷に暴き出した。同時にこの傾向は、現実の断面を表現する「横断面(クベーアシュニット)映画」というドキュメンタリー形式を生み出した。ウァルター・ルットマンWalter Ruttmann(1887―1941)の『伯林(ベルリン)大都会交響楽』(1927)などがそれである。他方『戦艦ポチョムキン』(1925)を皮切りとするソビエト革命映画の衝撃は、ドイツにも新即物主義の枠内での社会批判的リアリズム映画、フィル・ユッツィPhil Jutzi(1896―1946)の『クラウス小母(おば)さんの幸福』(1929)、カール・ユングハンスCarl Junghans(1897―1984)の『人生はかくの如(ごと)し』(1929)などを出現させた。
こうしてドイツのサイレント映画は技術的にも完成の頂点にたった。が、そこへ転機が訪れた。大恐慌による社会的危機と、トーキー出現による映画の危機である。それに対してドイツは、トービス社の方式によるトーキーによってさまざまな対応を示した。しかし、アメリカからジョセフ・フォン・スタンバーグを呼び戻してつくった、ウーファ起死回生のトーキー『嘆きの天使』(1930)から、主演女優マレーネ・ディートリヒのニヒルな姿が示すように、すでになんらかの意味で「末期」の刻印を帯びていた。パプストの『西部戦線1918』(1930)、『炭坑』『三文オペラ』(ともに1931)や、ベルトルト・ブレヒト脚本、スラタン・ドゥードフSlatan Dudow(1903―1963)監督のプロレタリア映画『クーレ・ワンペ』(1932)は、共和国における批判的リアリズムの最後の段階を示している。ラングの『M』(1931)は共和国の末期そのものの所産である。また、リリアン・ハーベイLilian Harvey(1906―1968)を主演女優とするウィルヘルム・ティーレWilhelm Thiele(1890―1975)の『ガソリン・ボーイ3人組』(1930)、エリック・シャレルErik Charell(1895―1974)の『会議は踊る』(1931)のようなシネオペレッタは末期の人々のはかない願望の記念碑であり、レオンティーネ・ザガンLeontine Sagan(1889―1974)の『制服の処女』(1931)や、エリザベート・ベルクナーElisabeth Bergner(1897―1986)を主演女優とするパウル・ツィンナーPaul Czinner(1890―1972)の『夢見る唇』(1932)は、第二次世界大戦前のドイツ映画最後の佳作である。
しかし、他方ではすでにルイス・トレンカーLuis Trenker(1892―1990)の『アルプスの血煙』(1933)のような国粋的傾向の作品が続出して、ナチス時代の到来を告げていた。代表的名優エミール・ヤニングス、ウェルナー・クラウス、二枚目人気俳優ウィリー・フリッチュWilly Fritsch(1901―1973)、ハンス・アルバースHans Albers(1891―1960)らはドイツにとどまったが、コンラート・ファイトConrad Veidt(1893―1943)、フリッツ・コルトナーらは、ウーファの黄金時代をつくった大プロデューサーのエリッヒ・ポマーErich Pommer(1889―1966)や監督のビリー・ワイルダーなどとともにドイツを去った。
[平井 正]
第三帝国時代
ナチス時代には、ハンス・シュタインホフHans Steinhoff(1882―1945)の『ヒトラー青年』(1933)、『世界に告ぐ』(1941)、ファイト・ハーランVeit Harlan(1899―1964)の『ユダヤ人ジュース』(1940)のような札付きの宣伝映画がつくられた。また、毒にも薬にもならない娯楽作品や、それまでも根強い人気を保っていた国粋的映画が前面に出てきた。このようにウーファのナチ化の進行とともに、技術的にもワイマール時代の遺産を食いつぶし、しだいに退行していった。しかし、レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』二部作「民族の祭典」「美の祭典」(1938)は特異な美意識を示し、カール・リッターKarl Ritter(1888―1977)の『最後の一兵まで』『誓いの休暇』(ともに1937)は戦争映画として問題をはらみ、ヘルムート・コイトナーHelmut Käutner(1908―1980)は『ロマンツェ・イン・モル』(1943)などで伝統を戦後につなぐ役割を示した。
なおドイツに併合されるまでのオーストリアでは、ウィリ・フォルストの『未完成交響楽』(1933)や『たそがれの維納(ウィーン)』(1934)など、旧時代の残映を伝える作品が最後の花を咲かせた。
[平井 正]
旧東ドイツ映画
東ドイツ映画は1946年、国営の独占的製作配給会社デーファDEFAの設立によって始まった。第一作はウォルフガング・シュタウテWolfgang Staudte(1906―1984)のナチ告発映画『殺人者はわれわれの中にいる』(1946)である。そしてしばらくは過去と対決する批判的リアリズムの秀作、クルト・メーツィヒKurt Maetzig(1911―2012)の『日影の結婚』(1947)、エリッヒ・エンゲルErich Engel(1891―1966)の『ブルム事件』(1948)などがつくられたが、まもなく肯定的人間像を求める社会主義リアリズムによる「党派性」のテーゼが採択され、スターリニズムによる停滞が始まった。シュタウテは西に去った。1960年代に入るとテレビによる映画の観客離れがおこり、民衆の要求への反省から日常的生活に即した問題が取り上げられるようになり、コンラート・ウォルフKonrad Wolf(1925―1982)の『断ち切られた空』(1964)が大きな論議をよんだ。
1970年代に入ると社会主義の国自体の困難と葛藤(かっとう)が冷静に扱われるようになり、反ファシズム、反戦平和、ヒューマニズムの基調は維持されているものの、より具体的な、結婚、協同、女性解放といったテーマを前面に出したエゴン・ギュンターEgon Günther(1927―2017)の『三番目の夫』(1972)、ハイナー・カーロウHeiner Carow(1929―1997)の『パウルとパウラの物語』(1973)などがつくられるようになった。そしてポツダムの映画大学やモスクワで学んだ新しい世代は、歴史的古典作品の映画化という文化政策には、ジーグフリード・キューンSiegfried Kühn(1935― )がゲーテの現代的解釈『親和力』(1974)などでこたえ、退職する非英雄的な主人公を扱ったローランド・グレーフRoland Gräf(1934―2017)の『アヒレスのための宴会』(1975)などで社会主義国の日常的真実に迫っていた。このころから東でも、真の状況に迫る機運が高まり、フランク・バイヤーFrank Beyer(1932―2006)は日常をリアルに描いた『隠れ家』(1978)を製作した。だが社会主義的人間像に挑戦したライナー・ジーモンRainer Simon(1941― )の『ヤドゥップとボエル』(1980)は公開直前に禁止された。
しかし1987年、当時ソ連共産党書記長であったゴルバチョフのペレストロイカは東ドイツをも揺り動かし、1988年になると、既定の路線と崩壊との混在となった。『ヤドゥップとボエル』が解禁されたのは、むしろ崩壊の兆候だった。
そして1989年、ベルリンの壁が崩壊すると、国家の消滅まで短期間映画は高揚し、それまでの枠を破ったハイナー・カーロウの『カミング・アウト』が、壁崩壊の日に封切られた。しかし先の保証はなく、ドイツ統合によって、東ドイツ映画の歴史は終わった。
なお、旧東ドイツではドキュメンタリー映画が重要な意味をもち、ウォルター・ハイノフスキーWalter Heynowski(1927― )、ゲルハルト・ショイマンGerhard Scheumann(1930―1998)の『笑う男』(1965)などが知られており、ライプツィヒ国際記録映画祭はもっとも重要な国家行事の一つとなっていた。
[平井 正]
旧西ドイツ映画
第二次世界大戦の敗戦はドイツの分割をもたらしたうえ、文化的にも大きな荒廃をもたらした。ゼロからの再出発を余儀なくされた西ドイツ映画は、残されたわずかな遺産によってどん底をしのぐほかはなかった。最初につくられたのは過去の罪を告発したもの、荒廃と飢餓を扱ったものが主で、「瓦礫(トリュンマー)映画」とよばれた。ナチス時代を総決算する『あの頃(ころ)には』(1947)をつくって先鞭(せんべん)をつけたコイトナーは、ドイツ映画の冬の時代を支えた中心的存在となった。しかし瓦礫映画はすぐに飽きられ、ロバート・アドルフ・シュテムレRobert Adolf Stemmle(1903―1974)のパロディー映画『ベルリン物語』(1948)、ルドルフ・ユーゲルトRudolf Jugert(1907―1979)の『題名のない映画』(1948)によってその使命を終えた。1950年代に入って「奇跡の経済復興」が始まると、ドイツ人の価値意識は大きく変質して小市民的俗物根性がはびこった。そして映画界も、矮小(わいしょう)化したドイツ人の地方意識と昔への郷愁に媚(こ)びたハンス・デッペHans Deppe(1897―1969)の『黒森の娘』(1950)などの「郷土(ハイマート)映画」やメロドラマなどが全盛となった。こうした風潮に抗してわずかに、コイトナーの『最後の橋』(1954)、シュタウテの『検事にバラを』(1959)、ベルナール・ウィッキBernhard Wicki(1919―2000)の『橋』(1959)などが、例外的に時代の枠を越える鋭さを示していた。
[平井 正]
ニュー・ジャーマン・シネマ
1962年2月8日、オーバーハウゼン短編映画祭に集まった若い映画作家たちは、「パパの映画は死んだ」という標語を掲げた「オーバーハウゼン宣言」を発表。アレクサンダー・クルーゲAlexander Kluge(1932― )の『昨日(きのう)からの別れ』(1966)を告げる「若いドイツ映画」Junger Deutscher Film(New German Cinema)の世代が登場したことで、停滞していた西ドイツの映画状況は大きく変化した。アメリカを主とする外国映画とローカリズムにしか関心のない一般観客と、新しい波に関心を示す少数の支持者の並存状態が生まれた。これら若い映画人の要求に対して、テレビ局や自治体の助成措置や、ミュンヘンとベルリンに映画・テレビ大学が設立されるなどの文化政策が行われ、1970年代のニュー・ジャーマン・シネマ開花の下地がつくられた。
その第一世代に属する、『マリア・ブラウンの結婚』(1979)のライナー・ウェルナー・ファスビンダー、『アギーレ・神の怒り』(1972)のウェルナー・ヘルツォーク、『ブリキの太鼓』(1979)のフォルカー・シュレンドルフ、『都会のアリス』(1974)、『パリ、テキサス』(1984)のビム・ベンダースらは、アウトサイダー的心情の映像化の旗手となり、国際的な評価を得ていた。それに続く第二、第三の世代は、伝統からの断絶やニューヨークやパリに精神的基盤を置く姿勢の強調よりは、西ドイツの状況そのものに根ざしたさまざまな視点と個別的テーマに取り組んだ。ラインハルト・ハウフReinhard Hauff(1939― )の『頭の中のナイフ』(1978)、バディム・グロウナVadim Glowna(1941―2012)の『無法者の町』(1981)などがそれである。ハウフは西ドイツ過激派の裁判を扱った『シュタムハイム裁判』で、1986年度ベルリン国際映画祭の金賞を得た。さらに、ヘルマ・ザンダース・ブラームスHelma Sanders Brahms(1940―2014)の『ドイツ、青ざめた母』(1980)やマルガレーテ・フォン・トロッタMargarethe von Trotta(1942― )の『鉛の時代』(1981)など、女性監督の進出も目だっていた。しかし、ウォルフガング・ペーターゼンWolfgang Petersen(1941―2022)の『Uボート』(1981)の世界的成功やファスビンダーの『ベロニカ・フォスのあこがれ』(1982)によって頂点に達した新時代映画も、ファスビンダーが急死し、社会状況も変化すると転機が予感された。それはホーフ映画祭で公開されたヘルベルト・アハテンブッシュHerbert Achternbusch(1938―2022)の『幽霊』(1982)が神聖冒涜(ぼうとく)としてスキャンダルになったことで顕在化した。連邦内相の推進した利益優先の路線は反発を買ったが、政治的・社会的コミット路線は後退し始め、新しい世代の関心は世相を風俗的に扱うほうに向かった。
1984年には、ミヒャエル・エンデ原作、ウォルフガング・ペーターゼンの『ネバーエンディング・ストーリー』が世界を風靡(ふうび)し、カンヌ国際映画祭では、ベンダースの『パリ、テキサス』に金賞が与えられた。またニュー・シネマ以後の傾向を予告するパーシー・アドロンPercy Adlon(1935―2024)の新種のコメディー『シュガーベイビー』(1985)も封切られた。そして、ドーリス・デリエ(ドリス・デリー)Doris Dörrie(1955― )の『メン』(1985)の記録的成功によって新たな潮流への動きが決定的になった。
[平井 正]
統一後の動向
統一後のドイツでは、亀裂を孕(はら)んだ複雑な社会状況を万華鏡的に照射した映画が現れた。
[平井 正]
1990年代前半
ヨゼフ・フィルスマイヤーJoseph Vilsmaier(1939―2020)は『スターリングラード』(1993)で多く論議をよんだ。アハテンブッシュは『チベットへ』(1993)で、ドイツという場を適確に表している。統一後のドイツ映画でもっとも目だつ現象は、女性監督のフェミニズム映画による「別種の視点」の提起であるが、トロッタは、ドイツ分断というテーマに取り組んだ『約束』(1994)で物議を醸した。
1994年の第44回ベルリン国際映画祭では、ヤン・シュッテJan Schütte(1957― )のドイツ・ポーランド合作映画『さよなら、アメリカ』(1994)が上映されたが、それは故郷を訪れたアメリカ在住のポーランド人がドイツに連行される事件を扱った作品だった。同年には、レオ・ヒーマーLeo Hiemer(1954― )が『レニ』(1994)によって、アウシュウィッツへ連行されて殺される少女の物語という、時代色濃厚な作品を世に問うた。同じ年に、3人の傑出した映画監督によって「X・フィルム・クリエイティブ・プール」という、独立映画製作会社が設立され、トム・ティクウァTom Tykwer(1965― )の『ラン・ローラ・ラン』(1998)などの、数々の傑作を生み出すことになった。
1995年には、ロムアルト・カルマーカーRomuald Karmakar(1965― )が『殺し屋』(1995)で、1924年に20人以上の若者が殺され世間を震撼(しんかん)させた猟奇殺人事件を映像化した。ベンダースは『リスボン物語』(1995)で、失踪(しっそう)した友人の映画監督の消息を求めてリスボンの町に来た音楽技師が彼と出会いふたたび映画を撮り始めるまでの姿を描いた。ルドルフ・トーメRudolf Thome(1939― )は、『秘密』(1995)で「愛の課す刑」という彼のテーマを追い続けた。
[平井 正]
1990年代後半
カロリーヌ・リンクCaroline Link(1964― )の『ビヨンド・ザ・サイレンス』(1996)は、聴覚障害者の両親をもつ少女の成長を描き、日本でも大きな反響をよんだ。第46回ベルリン国際映画祭で上映されたダニー・レビーDani Levy(1957― )の『サイレント・ナイト』(1996)は、パリとベルリンに別れて住む男女が聖夜に、ただ一度の奇怪なあいびきをする話だった。カーチャ・フォン・ガルニエKatja von Garnier(1966― )の『バンディッツ』(1997)は、服役中の4人の女囚が巻き起こす、破天荒なエキサイティング・ムービーで、ロックミュージックを背景に友情と生と死が交錯する作品だった。トーマス・ヤーンThomas Jahn(1965― )の『ノッキン・オン・ザ・ヘブンズ・ドア(天国の扉)』(1997)は、脳腫瘍(しゅよう)と末期の骨髄がんで死期の迫った2人の重症患者が、迫る死期を前に、海を見るために病院を抜け出し、高級車「メルセデス・ベンツ230SL」を盗んで海を目ざすが、車はギャングの親分のもので、トランクには大金が入っていたことから、大騒ぎになるというストーリーで、ドイツ版アクション・ムービーとしてヒットした。ウォルフガング・ベッカーWolfgang Becker(1954― )の『人生は建築現場』(1997)は、大都会ベルリンを背景にした今日的世相と愛を描いた物語だった。フィルスマイヤーの『コメディアン・ハーモニスツ』(1997)は、1920年代のベルリンで活躍した伝説的なコーラスグループのメンバー6人のうちの3人が、ユダヤ人だっため、ナチの政権獲得で、最後の公演を盛況裡(り)に終えた後、「さようなら」を繰り返して、ドイツを去っていくというストーリーで、グループが時代の変化によって引き裂かれ解散するまでの過程が描かれている。
ステファン・ルツォウィツキーStefan Ruzowitzky(1961― )の『七分の一農民』(1998)は、両大戦間、権力に翻弄(ほんろう)される農民の姿を描いた、新しい性質の「郷土映画」だった。ベルリン国際映画祭で上映された、トーマス・ハイゼThomas Heise(1955― )の『バルシュケ』(1997)は、旧東ドイツの諜報機関「シュタージ」のためにアメリカでスパイとして働いたベルトルト・バルシュケの伝記的記録映画で、ドイツ分断のトラウマを描いていた。1998年は、ドイツ史の文化的状況を体現したともいえるブレヒトの生誕100周年ということで、多くのオマージュ作品が捧げられた。ベンダースの『エンド・オブ・バイオレンス』(1997)は、暴力が人間に及ぼす作用をサスペンス映画風に描いた作品で、日本での公開にあわせて来日した彼は、新聞記者の質問に「映画は本来パワフル。暴力を主題とするのなら直接的に描くより、示唆するほうが見る側に伝わるはず。しかしハリウッドの輸出物は、暴力的テーマに集中してしまっている」と答えた。シュレンドルフの『パルメット』(1998)は、刑務所から釈放された記者ハリー・バーバーが、仕事を探して、誘拐を依頼され、手に負えないめんどうに巻き込まれる物語である。前述した「X・フィルム」グループのトム・ティクウァの『ラン・ローラ・ラン』は、大金を置き忘れてボスに殺されると訴える恋人のために、ひたすらベルリンの町中を走り回るローラの姿を描き、大ヒットした。ビビアン・ネーフェVivian Naefe(1953― )は、夫の不倫に逆上してベニスに飛んだ女性をめぐる騒動を描いた『逢(あ)いたくてヴェニス』(1998)をつくった。
1999年の第49回ベルリン国際映画祭は、史上初めてドイツ連邦共和国首相によって開幕され、「性格の異なる作品を競わせる」ことを目ざした。金熊賞を与えられたアメリカのテレンス・マリックTerrence Malick(1943― )の映画『シン・レッド・ライン』(1998)は、第二次世界大戦で日本の敗戦を決定づけた「ガダルカナルの死闘」を描いた映画で、戦争の悲惨さと不条理を訴えていた。他方、映画祭で特別上映されたカロリーヌ・リンクの『点子ちゃんとアントン』(1999)は、異なった社会層の2人の子ども、裕福な少女の点子ちゃんと貧しいアントンが、勇気ある友情をもち続け、別れた両親を反省させる物語で、心温まる作品だった。しかしディディ・ダンクウァルトDidi Danquart(1955― )の『ユダ畜生レヴィ』(1999)は、ナチが政権をとると、それまで尊敬されていたユダヤ人の家畜商人が憎しみの的になるというストーリーで、ユダヤ人に対するドイツ人のトラウマを描いた。
他方、ドーリス・デリエは、妻子に家出された二人のだめ兄弟が、日本の禅寺で瞑想(めいそう)を志すが、さまざまな問題に直面した後、落ち着いた人間になるという『MON-ZEN(もんぜん)』(1999)をつくった。「ニュー・シネマ」の旗手の一人で、巨匠の域に達したベンダースは、キューバ旅行で、大地に根ざした民俗音楽に魅せられ、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999)をつくって、キューバのミュージシャンの公演を映像に定着させた。同じく「ニュー・シネマ」の旗手だったヘルツォークは、『キンスキー、我(わ)が最愛の敵』(1999)で、自分の重要な作品で主役を演じ、1991年に死去したクラウス・キンスキーKlaus Kinski(1926―1991)との愛憎定まらぬ友情の思い出を、フィルム・ドキュメントによって総括した作品につくりあげて、感銘を与えた。
1999年にはセバスティアン・シッパーSebastian Schipper(1968― )が、『ギガンティック』(1999)をつくって、生活の場をみつけられないフラストレーションから、貨物船でシンガポールへ行こうとする若者が、旅立つ前の残された短い時間を仲間と3人で、無軌道に明け暮れる姿を描いた。またレアンダー・ハウスマンLeander Haußmann(1959― )は『サン・アレー』(1999)で、「壁崩壊」で東ドイツが西に飲み込まれていく状況のなかで、東ベルリンに住む男の子が抱く複雑な心情を描いた。
[平井 正]
2000年代前半
2000年にはベルリンの新都心「ポツダム広場」の一角に、「マレーネ・ディートリヒ広場」が完成し、彼女の遺品を中心にした「ドイツ・キネマテーク=ベルリン映画博物館Deutsche Kinemathek Museum für Film Fernsehen」が開館した。第二次世界大戦前の『嘆きの天使』(1930)以来、彼女の伝説化はエスカレートするばかりで、フィルスマイヤーは、彼女の経歴を追った作品『マレーネ』(2000)を捧げた。そして第50回ベルリン国際映画祭では、オープニングを飾ったベンダースの『ミリオンダラー・ホテル』(2000)に銀熊賞が与えられたが、アメリカで成功し、英語名の映画ばかり撮っている国際監督に対する反感は強く、激しいブーイングが浴びせられた。
ステファン・ルツォウィツキーは女性医学生パウラが見た生体解剖の悪夢を映像化した『アナトミー』(2000)をつくった。シュレンドルフは、旧東ドイツで新しいアイデンティティをみいだしたものの、ベルリンの「壁」崩壊で、自分の過去と対決しなくてはならなくなった元「赤軍派」のメンバーを扱った『終わりの後の静けさ』(2000)を世に問うた。ゲッツ・シュピールマンGötz Spielmann(1961― )は、離婚して無気力な生活をおくる男とメキシコ女性との出会いを描いた性格劇『異国の女』(2000)をつくった。ヘルツォークの『神に選ばれし無敵の男』(2001)は、1920~1930年代、社会不安と退廃でオカルト・ブームとなったベルリンで、「神秘の館」をつくって千里眼の興行を行い、世間の寵児(ちょうじ)となり、ヒトラーにも取り入ったものの、結局抹殺されたハヌッセンErik Jan Hanussen(1889―1933)を扱った作品だった。オスカー・レーラーOskar Roehler(1959― )の『アンタッチャブル』(2000)は、旧東ドイツを理想化した女性作家の生と死を描いた作品である。トルコ系のファティ・アキンFatih Akin(1973― )の『太陽に恋して』(2000)は、女性に会うため、ハンブルクからイスタンブールまで行く青年の物語だった。マティアス・グラスナーMatthias Glasner(1965― )は『CLUBファンダンゴ』(2000)で、モデルを夢みながら、ベルリンのクラブで働く女性と2人の男性がふとしたことからトラブルに巻き込まれるさまを描いたアクション・ドラマを制作した。
ローランド・ズゾ・リヒターRoland Suso Richter(1961― )の『トンネル』(2001)は、ベルリンの壁の下を145メートルも掘り、多くの東ドイツ市民の救出に成功した実話を映像化した作品だが、それを「NBC」のカメラ・チームが撮影して迫真的な回想となったことで話題をよんだ。モーリッツ・デ・ハーデルンMoritz de Hadeln(1940― )の下での最後の「ベルリン国際映画祭」は、ヨーロッパ色の作品が優勢だった。ラーズ・クラウムLars Kraume(1973― )の『コマーシャル・マン』(2001)は、若者が大ぼらを吹いて、大きな広告会社のトップに成り上がるサクセスストーリーで、大いに笑わせた。アンドレス・ファイエルAndres Veiel(1959― )の『ブラック・ボックス・ジャーマニー』(2001)は、ベルリンの壁崩壊直後、ドイツ銀行のトップ・マネージャーが赤軍の分派に殺害された事件を扱った作品だった。コニー・ウァルターConnie Walter(1962― )の『ネレ&キャプテン 壁をこえて』(2001)は、東西に分断されたベルリンで起きた現代の「ロミオとジュリエット物語」だった。カルロ・ローラCarlo Rola(1958―2016)の『バーグラーズ 最後の賭(か)け』(2001)は、1920年代のベルリンで、いつも警察の裏をかいて金庫を破る名人の兄弟が、民衆にヒーローとしてもてはやされていたものの、初めて失敗を犯して面目を失い、挽回しようと銀行の金庫破りに挑戦する物語である。カロリーヌ・リンクの『名もなきアフリカの地で』(2001)は、ナチ政権下のドイツからアフリカに逃れたユダヤ人一家の物語で、両親の苦闘と娘の変貌(へんぼう)が、アフリカを背景として印象的に描かれ、日本でも大きな感動をよんだ。オリバー・ヒルシュビーゲルOliver Hirschbiegel(1957― )の『エス』(2001)では、大学の模擬監獄実験に応募した被験者たちが模擬刑務所の看守役と囚人役に分けられ、実験が進められていくうちに実験の枠組みを超えコントロール不能になっていくというストーリーで、実際に過去行われた心理実験(現在は禁止されている)が再現されている。
アルムート・ゲットーAlmut Getto(1964― )の『魚はセックスするの?』(2002)では、夢うつつの男の子と元気な女の子が知り合い、魚はセックスするのかという疑問を抱くという物語。ハンス・ワインガルトナーHans Weingartner(1977― )の『ベルリン、僕らの革命』(2004)では、大都会ベルリンにやって来た若者が、妄想性分裂症にかかり、恋人にもちかけられた復讐(ふくしゅう)のための重役宅侵入で窮地に陥るというストーリー。日本での上映にあわせて来日した監督は、「今の若者に組織的な運動はあわない。だから個人的な革命というのを考えてみたんだ」と語った。アンドレアス・ドレーゼンAndreas Dresen(1963― )の『階段の途中で』(2002)では、大都会でわびしい生活を送る2組の夫婦のつきあいが、予期しない展開を遂げる。ディーター・コスリックDieter Kosslick(1948― )体制最初の第52回ベルリン国際映画祭は、宮崎駿(はやお)監督の『千と千尋(ちひろ)の神隠し』(2001)に金熊賞を与え、アニメ映画の地位を承認したことで話題をよんだ。イアイン・ディルタイIain Dilthey(1971― )の『欲望』(2002)は、夫に虐げられている牧師の妻が、ある機械工に心をひかれるが、彼は恐ろしい秘密をもった男だったことがわかるというストーリーだった。
2003年には、第53回ベルリン国際映画祭が、「寛容に向かって」をテーマとして開催された。ウォルフガング・ベッカーは『グッバイ、レーニン!』(2003)を制作した。それは旧東ドイツが崩壊したことを知らずに昏睡(こんすい)状態から回復した母親に、ふたたびショックを与えないため、激変した世情を懸命に隠そうと奮闘する青年の姿を描き、日本でも大ヒットした。クリスチャン・ペツォルトChristian Petzold(1960― )の『ヴォルフスブルク』(2003)では、子どもをひき逃げされた母親が犯人を探しているうちに、当の犯人と出会い、親しくなってしまう物語。トミー・ウィガントTomy Wigand(1952― )の『飛ぶ教室』(2003)は、何度も寄宿学校から出された主人公が、有名な「トーマス教会合唱団」の寄宿学校でよい友人と仲間になり、いっしょに古い鉄道車両の中で『飛ぶ教室』という劇の台本をみつけて上演しようとするが、実はそれは、寮監のベク先生が分断時代の東ドイツで書いたものだったという物語で、原作はドイツの国民的作家エーリッヒ・ケストナーが1933年に発表した名作。またベンダースは『ソウル・オブ・マン』(2003)をつくった。
2004年の第54回ベルリン国際映画祭は、トルコ系のファティ・アキンがつくった『愛より強く』(2004)に金熊賞を与えた。ドイツ在住のトルコ人第二世代男女が、二つの文明の間で引き裂かれ、傷つき、愛し合う姿を描いた作品で、映画祭が芸術性よりアクチュアリティ(実情)を重視する傾向に向かったと評された。アヒム・フォン・ボリエスAchim von Borries(1968― )の『青い棘(とげ)』(2004)は、1920年代のベルリンで若者の暴走事件として騒がれた実話を映画化した作品で、麻薬と音楽に陶酔する若者の姿を描いている。オリバー・ヒルシュビーゲルの『ヒトラー 最期の12日間』(2004)は、1945年4月20日、ソ連軍が迫るベルリンの総統防空壕(ごう)での最後の模様を迫真的に描き、日本でも大きな反響をよんだ。主役を演じたブルーノ・ガンツBruno Ganz(1941―2019)の演技は評判となった。ベンダースは『ランド・オブ・プレンティ』(2004)を制作した。
ドイツの映画制作は活況を呈してきて、ハンス・クリスティアン・シュミットHans Christian Schmid(1965― )の『クレイジー』(2000)、クリスチャン・ペツォルトの『幻影』(2004)、ダニー・レビーの『何でもツッカー!』(2004)、ミヒャエル・クリーアMichael Klier(1943― )の『ファーラント』(2004)、ヘンドリック・ヘルツェマンHendrik Hölzemannの(1976― )『心の鼓動』(2004)、アンドレアス・ドレーゼンの『ヴィレンブロック』(2005)といった作品が制作され、日本では「ドイツ映画祭2005」で公開された。
[平井 正]
2000年代後半
2005年4月には、大統領ホルスト・ケーラーと日本の皇太子臨席の下で「日本におけるドイツ年」の開幕式典が挙行され、1年間にわたる種々の催しの一環として「ドイツ映画祭2005」も開かれた。他方、ベルリンでは第55回「ベルリン国際映画祭」が開催され、オペラ「カルメン」の舞台を南アフリカの貧困地区に移した、マーク・ドンフォードメイMark Dornford May(1955― )の『ウ・カルメン・イ・カエリチャ』(2005)に、金熊賞が与えられた。またナチ時代末期に反ヒトラーの抵抗運動によって処刑されたゾフィー・ショルSophie Scholl(1921―1943)をとりあげた、マルク・ローテムンドMarc Rothemund(1968― )の『白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々』(2005)には銀熊賞ほか計三つの賞が与えられ、日本でも公開されて、大きな衝撃を与えた。
「ニュー・シネマ」の旗手として、異様な素材を追い続けるヘルツォークは、自ら「SFファンタジー」と称した『ワイルド・ブルー・ヨンダー』(2005)を制作し、人が住めなくなった地球や、帰還できなくなった宇宙船の乗員の姿を素材として、始原状態を映像化した。ドミニク・デリュデレDominique Deruddere(1957― )は、古城レストランでの結婚披露パーティが、流血の惨事となる『血の結婚式』(2005)をつくった。フロリアン・ホフマイスターFlorian Hoffmeister(1970― )は突然姿を消した親友が5年後に戻ってきて、波紋を投ずる『3度下がれば』(2005)をつくった。アンジェリーナ・マッカローネAngelina Maccarone(1965― )は『異国の肌』(2005)で、身分を偽って入国したイラン人女性の恋が、大きな危険を伴うというストーリーによって、現代ドイツの一側面を描いた。俳優としても人気絶頂のティル・シュウァイガーTil Schweiger(1963― )の『裸足の女』(2005)は、プレイボーイが長年監禁状態だった自殺未遂の女性としだいに親しくなる話だった。その一方で、いまや老大家となったベンダースは、落ち目になった西部劇俳優が、かつて女に生ませた子どもと故郷で再会する『アメリカ、家族のいる風景』(2005)を制作した。その他、ケニヤでマサイの戦士と恋に落ちたドイツ女性の歓喜と苦悩を描いたヘルミーネ・フントゲブルトHermine Huntgeburth(1957― )の『マサイの恋人』(2005)や、ドーリス・デリエの『漁師と妻』(2005)などがつくられた。
2006年のベルリン国際映画祭は「政治的作品、そして軍事的衝突、社会状況の悪化という、現代の現実に焦点をあて」て、ボスニア・ヘルツェゴビナのヤスミラ・ズバニチJasmila Zbanic(1974― )が、ボスニア紛争をテーマとした作品『グラバビカGrabavica』(2006)に金熊賞を与えた。他方、ローランド・ズゾ・リヒターは、『ドレスデン、運命の日』(2006)をつくって、第二次世界大戦後末期、恋に落ちた敵国同志の男女の姿を軸に、大空襲で廃墟と化すドレスデンを描いた。新進映画監督フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクFlorian Henckel von Donnersmarck(1973― )の『善(よ)き人のためのソナタ』(2006)は、旧東ドイツの秘密警察「シュタージ」の実態を描いて、センセーションを巻き起こした。トム・ティクウァの『パフューム ある人殺しの物語』(2006)では、驚異的な嗅覚(きゅうかく)をもつ主人公が、ある香りを再現するために、若い女性を次々に殺害して死刑となるが、処刑場でその香水をまくと、男女の大集団が求め合うという場面があり衝撃を与えた。オスカー・レーラーOskar Roehler(1959― )は『素粒子』(2006)で、養育を放棄されて正反対の性格に育った異父兄弟の苦闘する姿を描いた。グレゴール・シュニッツラーGregor Schnitzler(1964― )の『黒い雲(みえない雲)』(2006)は、原子力発電所の事故のパニックを背景にした恋愛物語だった。アラン・グスポーナーAlain Gsponer(1976― )は『人生の真実』(2006)で、家庭生活の虚偽を描いて、現代の世相を暴いた。
2007年の第57回ベルリン国際映画祭のコンペでは、戦争や歴史をテーマとした作品が多かったが、金熊賞を得たのは、モンゴルで夫や子どもを養うために金持ちと再婚しようとする遊牧民の女性の心の葛藤を描いた、中国の王全安(ワンチュアンアン)(1965― )の『トゥヤの結婚』(2006)だった。
シュレンドルフは、世界を揺るがしたポーランドの「連帯」誕生の時を回顧した新作『ストライキ ダンツィヒのヒロイン』(2006)で、健在ぶりを示している。
[平井 正]
『ジークフリート・クラカウアー著、平井正訳『カリガリからヒットラーまで』(1971・せりか書房)』▽『岡田晋・三木宮彦・山田和夫著『世界の映像作家34――ドイツ・北欧・ポーランド映画史』(1977・キネマ旬報社)』▽『東京ドイツ文化センター編刊『ドイツ映画史1906―1945』(1985)』▽『ハンス・ギュンター・プフラウム、ハンス・ヘルムート・プリンツラー著、岩淵達治訳『ニュー・ジャーマン・シネマ』(1990・未来社)』▽『瀬川裕司他編『ドイツ・ニューシネマを読む――深々とした時代の森に迷いこんだ39人の映画作家』(1992・フィルムアート社)』▽『ジークフリート・クラカウアー著、丸尾定訳『カリガリからヒトラーへ――ドイツ映画1918―1933における集団心理の構造分析』新装版(1995・みすず書房)』▽『クラウス・クライマイアー著、平田達治他訳『ウーファ物語――ある映画コンツェルンの歴史』(2005・鳥影社)』