8世紀末~11世紀にヨーロッパを襲ったスカンジナビア人の海賊。
古北欧語ではビーキングvíkingrと記され,-ingは人を表す。víkについては,古北欧語で入江,小湾を指すvík,オスロの周辺部の古い地名Vík(またはVíkinn),古英語で交易地を指すwíc(ドイツ語Wik,ラテン語表記vicus)など諸説あり,学問的な定説はない。ビーキングの呼称は主としてアイスランド,ノルウェーの詩などにみられる。しかしそこでは,人を表す用法以上に,〈バイキングに赴く〉というように行為を表す用例が多く,その場合には海外への略奪遠征を意味する。したがって,北欧に〈バイキング〉という特別な社会的グループ・身分があったのではなく,普通の人々の正常な生活の活動の一部としてバイキング行為があったのである。
当時スカンジナビア人は,散居定住し,単婚の自由人家族に若干の奴隷を加えた農場世帯を営んだ。デンマークを除けば主穀生産は不十分で,牧畜,漁業を行い,必要な物を入手するために,船によって交易をした。交易先で機会が許せば略奪をし,またその帰途,水と食料を手ごろなところで実力で入手したから,8世紀末以降,ヨーロッパ各地へバイキングが進出する,いわゆるバイキング時代以前から,バイキング的生活は北欧やバルト海地域で行われていたのである。農場家産は息子たちに均分相続されたが,不動産は一人の息子が経営を引き継ぐようにし,他の息子たちは動産を受け取って新農場を開いた。800年ころ,ノルウェーとくにその西部沿岸では農場が肥沃な土地を占め尽くし,あまりよくない土地にも農場が建設されつつあったから,その意味では相対的な人口過剰=土地不足になっていた。北欧の他の地域では,このような現象は必ずしも認められないから,バイキング活動(とくに西欧への侵入)の原因を端的に人口過剰に求めることはできないが,しかし息子たちがそれぞれ独立して新農場を開くのだから,国内での新開墾にせよ海外植民にせよ,絶えず新しい土地が求められていたのである。また交易と海外略奪は豪族たちの政治権力としての成長の根拠となり,同時に目的となった。バイキング時代は北欧諸国における王権を頂点とする地域的もしくは統一的政治権力成長の時代でもある。スカンジナビア人を構成するスウェーデン人(スベア人とヨート人からなる),デンマーク人,ノルウェー人はすべて北ゲルマン人として互いに通じあえる言語を話し,協力することもあったが,バイキングとしてはおおざっぱに三つの違った方向に向かった(なお,バイキング時代のスカンジナビアの社会・生活については,〈スカンジナビア〉の項〈歴史〉で詳述されている)。
ノルウェー人はまず8世紀末ブリテン諸島北部の島々,すなわちシェトランド諸島,オークニー諸島,ヘブリディーズ諸島に現れ,これらを根拠地とした。記録に残る最初のバイキング襲撃である北イングランド東沖のリンディスファーン修道院略奪(793)や,アイルランド攻撃(795)はここを拠点としてなされた。次いでマン島,アイリッシュ海を抜け,早くも799年にはフランス西岸,ロアール河口のノアール・ムーティエ島が襲撃される。セビリャ,コルドバ(ともに814),ニーム,アルル,ピサ(いずれも860),ルーアン(842),ナント(843)など,地中海とフランスでの都市略奪がよく知られているが,ノルウェー人のおもな活動はアイルランドを中心とするブリテン諸島に向けられた。9世紀前半からシェトランド諸島など島嶼部,北スコットランド,イングランド北西部(カンバーランド,ウェストモーランド),ダブリン地域を中心とするアイルランドはノルウェー人によって定住され,ダブリン地域にはノルウェー系の〈王国〉ができた。アイルランドとスコットランドからノルウェー人が追い払われたのちも,シェトランド,オークニー,ヘブリディーズ,マン島は,15世紀までノルウェーの政治的宗主権下にあった。
細長く両端が反り上がったバイキング船がもつ特性--帆走による遠洋航海の可能性を利用し尽くしたのはノルウェー人である。820年ころには,ブリテン北部の北にあったフェロー諸島が発見され,植民された。860年ころ,ノルウェーからフェロー諸島へ向かった船が漂流し,アイスランドを発見することになり,870年から永住的な植民が始まった。以後60年間の植民が事実上先住者のいなかった島への漸次的で平和的な移住であったため,ここには当時の北欧社会が雛形として再現し,しかも12世紀の《植民の書》,13世紀の散文学サガによってこの社会のあり方とその形成過程を再構成しうるので,アイスランド社会はバイキング時代の北欧,ひいては古ゲルマン社会の研究にとって特別な重要性をもっている。ノルウェー人の赤毛のエイリークはアイスランド移住のあと,殺人事件のため3年間の追放処分となり,この間にグリーンランドを探査,985-986年に植民を組織した。最盛期にこの島には,2ヵ所に計280の農場があったと伝えられるが,気候の悪化もあって13世紀以後衰退し,1500年ころ絶滅した。赤毛のエイリークの息子レイブはカナダ北東海岸からニューファンドランドを発見・調査(1000ころ),後者には植民が試みられたが,原住民との衝突などにより失敗に終わった(ビーンランド伝説)。
デンマーク人は主として沿岸伝いにフリースランド,北西フランスおよび東イングランドに侵入した。交易地ドレスタットは834-863年の間に7回の襲撃をうけ,パリ(845)を含め多数のフランク諸都市が略奪された。イングランドは830年代からデンマーク人(デイン人,デーン人)の侵入をうけ,アルフレッド大王がウェセックス王に即位したとき(871),ウェセックス以外のアングロ・サクソン諸王国はすべてデイン人に屈伏していた。バイキングの9世紀における成功は,その機動力と集中力および防衛側の不統一と恐怖に基づいている。すでに852年,ハンブルクを炎上させたデンマーク人は,帰途待ち伏せたザクセン軍に完敗した。イングランドではアルフレッド大王がねばり強い反撃を組織し,デイン人の首領グソルムとの協定(886)によって,イングランド北東部はデイン人のものにとどまったが(デインロー),南西部はウェセックスのものとなった。パリでは884-885年ころのバイキングの大襲撃が,パリ伯ウード(カペー朝の祖)の指揮する防衛によって撃退された。880年代からライン・モーゼル川流域を攻略し,クサンテン(882),アーヘン,ケルン,コブレンツ,トリール(883)などを略奪・破壊したライン・バイキングは,991年,東フランク王ケルンテンのアルヌルフ遠征軍によって,ルーバン(ルーベン)付近で壊滅させられた。生残りはドーバー海峡を渡るがアルフレッド大王に撃退され,セーヌ河口に向かった。セーヌ下流域はすでに820年代からデンマーク人の定着が行われ,他の地方からのバイキングも集めて9世紀末から10世紀初め最も活発なバイキングの拠点となっていたが,911年シャルトル包囲戦に敗れたあと,セーヌ・バイキングの首領ロロが西フランク王より初代ノルマンディー公に封ぜられ,フランク王国に対する敵対を終えた。
スウェーデン人は7世紀以来バルト海南東岸と交渉をもち,グロービン(現,ラトビア領)に交易拠点をもち,ゴトランド島および中部スウェーデン,メーラル湖のヘリェーと結ぶ交易網をもっていた。バイキング時代彼らは北西ロシアに進出し,ラドガ湖南の古ラドガを拠点とした。スラブ人,フィン人から略奪や交易によって毛皮と奴隷を得,それらを,西欧とドニエプル川,ボルガ川経由でアラブ・イスラム世界,ビザンティン帝国方面へもたらした。交易地ビルカなどで発見される見返り〈輸入〉品は,西欧の手工業製品(ガラス,陶器,毛織物,武器など)とアラブ銀貨,銀製腕輪,ビザンティンの絹などである。
また,スウェーデン人はノブゴロドおよびキエフにおける政治権力の形成にかかわった。キエフの《過ぎし年月の物語》は,ロシアの古名ルーシそのものが北欧の一種族の名称からきたと述べ,スウェーデン人の征服によってキエフ・ルーシ(キエフ・ロシア)権力が成立したという。彼らが少なくとも雇い兵的軍事力として初期ロシア政治史に関与したことは確実である。スウェーデン人は10世紀以後コンスタンティノープルでもビザンティン皇帝の親衛隊として勤務した(ワリャーギまたはワランギア隊と呼ばれた)。
980年代に再びイングランド攻撃が始まる。今回は王侯などに率いられた大艦隊であることが特徴の第1で,第2にイングランド王エセルレッド2世が退去料(デインゲルド)を支払ったので,バイキングは毎年のようにロンドンなどを包囲しては,金を受け取って退去した。事実上イングランドはバイキングへの貢納国となる。1002年にエセルレッドがその領内のデンマーク人の一斉殺害を命じたこともあって,デンマーク王スベン1世はイングランドの領土的征服を開始,1013年全イングランドの王となった。翌年彼が死んだあと息子クヌット2世が征服戦を続行,16年,アングロ・サクソンの慣習にのっとってイングランド王に即位,イングランドのデイン王朝は1042年まで続いた。スベン1世とクヌット2世はその征服戦に,スウェーデンなど全北欧からバイキングを募り,分配金を与えた。北欧では980年代以降のアングロ・サクソン銀貨が約5万4000枚出土しているが,その5分の4はスウェーデン出土である。ブリテン諸島に対する北欧からの遠征はなお数度みられる。王侯に率いられる10世紀末以降のこれら遠征は,もはや本来の農民的性格をもたない。11世紀以後にバイキング的活動をなしたのはポーランド人(ウェンド人)であり,その矛先はスカンジナビア諸地方に向けられたのであった。
→スカンジナビア
執筆者:熊野 聰
テーブルに並べられた各種の料理を,セルフサービスで各自の皿に取りわけて食べる食事の様式。この意味で〈バイキング〉の語を使うことは,高度成長期以降の日本で行われるようになったものである。その形式は,16世紀以来,スウェーデンで行われてきた,料理をすべてテーブルに並べて,皆で取りわけて食べる習慣が,19世紀に様式化されて完成した〈スメルゴスボードsmörgåsbord〉(smörgåsはバターつきのパン,転じてオープン・サンドイッチの意,bordはテーブルの意)というパーティ料理に由来する。スメルゴスボードは,本来は,酢漬ニシンや薫製のサケ,ニシン,チーズやパン,ロースト・ポークやグラタンなどが彩りも豊かにテーブルの上に並ぶ,いわばスウェーデン料理の集大成なのであるが,その分配法だけを採用するとともに,それに中世のスカンジナビアの航海者たち,バイキングの呼称を冠したのである。多くのホテルやレストランなどでは,〈西洋風バイキング〉はもとより,〈中華バイキング〉や〈和風バイキング〉など,素材や料理法に関係なく,各種のバイキング料理が提供される状況を現出させている。
執筆者:高田 公理
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8世紀末より11世紀後半にかけて海上からヨーロッパ各地に侵入した北ゲルマン人(ノルマン人)の別称。「バイキング」は英語読みで慣用的に用いられるが、「ビーキング」の呼び方が正しい。デンマーク系、ノルウェー系、スウェーデン系に大別される。この民族の移動は、同じころヨーロッパに侵攻したマジャール人やイスラム教徒アラブ人とともに、第二の民族移動ともよばれる。バイキングの語源に関しては、アングロ・サクソン語のwicing(戦士)、北欧に多いvik(入り江)の住人、vicus(商品集積地)を訪れる者などの諸説があるが、定説はない。
一般にバイキングの活動の原因には、人口増加による土地不足、海外に新天地を求めた首長の存在、遠征に適した気候の温暖化などが考えられるが、帆を装備して河川航行、大洋航海とも可能な快速軍船の開発がなされたことが前提であろう。これにより、大洋を越え、沿岸部から主要河川を内陸深く遡行(そこう)し、敏速な奇襲戦法でかなりの成功を収めたからである。その活動は、略奪行為にとどまらず、征服、植民、交易、傭兵(ようへい)と多様に変化した。初期の段階では、戦利品獲得を目的とした夏期の「出稼ぎ」的遠征で、無防備な教会・修道院を襲撃しては冬期以前に故地へ戻っていたが、徐々に異国の河口・沿岸部で越冬を始め、ここから侵入を繰り返しつつ組織化し、定住していった。同時に、当時のヨーロッパ内部の分裂状態は侵入を容易にし、また王侯のなかにはバイキングの侵攻にバイキング傭兵で対処した者もおり、彼らの植民に拍車がかけられて、イングランドのデーン・ローDane law地方(デーン人の法慣習施行地域)、フランスのノルマンディー公国、ロシアのノブゴロド公国などの建設をみるに至った。
総じてこれらの対外活動は、西欧封建社会成立の重要な契機となり、またこの時代は北欧諸国の政治的統一期であった。さらにヨーロッパ各地での略奪、植民、交易活動は、デンマークのヘズビュー、スウェーデンのビルカ、ノルウェーのカウーパンなどの主要交易地を発展させ、遠隔地交易を促進し、またこの交易路に沿ったキリスト教伝道活動により、北欧はオーディンやトールの神々を信奉する異教社会から、しだいにヨーロッパ・キリスト教世界へと編入されていくのである。以下に、デンマーク系、ノルウェー系、スウェーデン系のそれぞれの活動を概観する。
[荒川明久]
デンマークからの遠征は、9世紀初頭、フランク王国カール大帝のザクセン人平定により国境南部を脅かされたデーン人ゴズフレズ王Godfred(?―810)が、フリースラントを攻撃したことに始まる。大帝以後の諸王は、沿岸防備強化と艦隊建造でこれに対抗したが効果は薄く、同世紀中ごろまでに商業地ドレスタットやカントビック、ハンブルクなどが略奪、破壊された。当時すでにイングランド北東部に植民していた部隊も加わり、マース川流域や内陸のトリールに達する勢いであったが、ルーバンでアルヌルフ王に撃破され、敗走した(891)。一方、820年以降ノルマンディー地方に定住し始めた一団はセーヌ川をさかのぼり、執拗(しつよう)にパリを攻囲、占領し(845~889)、その結果シャルル3世(単純王、Charles Ⅲ。879―929、在位898~923)はサン・クレール・シュル・エプト条約(911)で、改宗を条件に首長ロロをノルマンディー公に封じた。ここでは彼らは急速にフランス化し、以後侵入もやんだ。
イングランド北東部は、835年ごろから襲撃され、同世紀中ごろには広範な植民が進み、ここから大陸攻撃もなされた。ウェセックスのアルフレッド大王は、彼らの南下を阻止し、条約でデーン・ロー地方を承認した(886)が、大王没後この地域はふたたびウェセックス王家の支配に服した。925~980年にかけて平穏な時代が続くが、これは「全デンマークとノルウェーを獲得し、デーン人をキリスト教徒にした」とイェリング大石碑に彫られたハラール(青歯王)の統一事業(960ころ)など、北欧内の情勢に起因しよう。10世紀末になると、ノルウェーのオーラフ1世やハラールの子スベン(双髯(そうぜん)王)は、イングランドを威嚇して多額のデーン税を徴収し(994)、さらにスベンの子クヌード(大王)はデンマーク・ノルウェー・イングランド王となり、キリスト教的「北海帝国」を樹立した(1017~1035)。1066年、ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)のイングランド征服以後は侵入もやみ、ここにノルマン朝封建国家が形成された。
[荒川明久]
ノルウェー系は、8世紀末にシェトランド、オークニー両諸島を基地としてスコットランドやアイルランドの沿岸部をうかがった。9世紀初期にはマン島に植民してアイルランド侵攻を開始し、837年にトゥルゲイスTurgeis(生没年不詳)は要塞(ようさい)市ダブリンを建設してアイルランド王を自称した。オーラフ白王Óláfrhinn Hvítí(生没年不詳)の建設した(853)ダブリン王国の諸王は、のちにイングランド北部でデーン人と争い、他方アイルランド統一を試みるが、先住民の王ブライアン・ボルーBrian Boru(941ころ―1014、在位975~1014)に撃破され(1014)、衰微した。しかし、彼らがアイルランドに建設した基地は、のちに交易地として発展する。このころイングランドではノルウェーのオーラフ1世、オーラフ2世らの大規模遠征を経て、ハラール3世(強意王、Harald Ⅲ Sigurdsson、1016―1066、在位1046~1066)は征服を企てたが、スタンフォード橋で戦死し(1066)、これがイングランド最後の大攻勢となった。
フランク王国では、843年にルーアンが焼かれ、翌年ウェストファルディンギWestfaldingi(オスロ峡湾のベストフォルVestfold地方の住人の意)がロアール河口のナントを略奪し、塩とワインの集積地ノアールムーティエ島で交易に従事した。彼らのなかには、イベリア半島を迂回(うかい)して地中海のイスラム教徒勢力と接触した者もいた。
北大西洋ではフェロー諸島を拠点に860年ごろアイスランドが発見され、930年ごろまでに植民が完了、アルシンク(国会)が設立された。アイスランド人エリック(赤毛の)Eiríkr(生没年不詳)は、グリーンランドに向かって植民し(982ころ)、息子のレイブ(幸運児)は1000年ごろアメリカ北東岸を探検したが、植民には至らなかった。
[荒川明久]
東方に進出したのはおもにスウェーデン系で、スウェーデンで発見される多数のルーン碑銘は、「東方で没した」同胞を記念したもので、ギリシアやセルクランド(カスピ海の東部地方)に言及するものもある。
彼らは7世紀からバルト海東岸部に進出し、9世紀には北ロシアのラドガ湖周辺に定住して、ドニエプル川と黒海によりビザンティン帝国と、またボルガ川沿いにカスピ海を越えてイスラム教国と、おもに交易関係をもった。『ベルタン年代記』は、839年ロシアを通過し、ビザンティン帝国の使節に随伴してルイ1世(敬虔(けいけん)王)を訪れたスウェーデン人を記録する。1112年ごろにキエフ(現、キーウ)で編纂(へんさん)された『原初年代記』によると、862年ルーシ(スウェーデン人をさすフィン語の訛(なま)り)の首長リューリクは、スラブ人らに招致されノブゴロド公国を、また部下のオレーグは、882年に遷都してドニエプル川中流にキエフ公国を建設した。10世紀に入ると、ルーシ人はビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルに遠征し、種々の商業特権を帝国領内で獲得するが、両者間で結ばれた912、945両年の通商条約に署名されたルーシ人名の比較から、彼らの急速なスラブ化の過程が判明する。しかし、キエフ諸公と、オーラフ1世、オーラフ2世ら北欧諸王との親縁関係は、以後も維持された。この時代、キエフやコンスタンティノープルで傭兵あるいは皇帝の親衛隊として勇名をはせた北欧人はワリャーグとよばれ、ノルウェーのハラール3世は著名であるが、彼らを通じてギリシア正教、ビザンツ文化がロシア、北欧にもたらされた。
一方、9世紀ごろにノブゴロドからボルガ川中流の町ブルガルの大市へ赴き、さらにカスピ海へ下ってアラブ人と交易関係を維持した者もあるが、彼らは9~10世紀中ごろまで北ロシアやスウェーデンにアラブ銀貨を多量に流入させ、アラブ人は彼らをルーシ商人とよんでいた。
[荒川明久]
『ジャクリーヌ・シンプソン著、早野勝巳訳『ヴァイキングの世界』(1982・東京書籍)』▽『熊野聰著『北の農民ヴァイキング――実力と友情の社会』(1983・平凡社)』
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…低温域にあるので原材料中で酸化鉄が安定であり,金属鉄含量が少ないらしい。その表面がバイキングの観測でも示されたように赤さびだらけなのはこの傾向にも一致する。もう一つ赤さびを作る原因は,二酸化炭素大気の光分解で作られるオゾンなどの過酸化物による表面鉄分の酸化である。…
…この間異教徒であったアングロ・サクソン人はキリスト教に改宗し,それとともにラテン文化が流入,文字の使用,慣習法や伝承文学の成文化も始まった。 分立した七王国は,9世紀前半ウェセックス王エグバートにより一応統一されたが,このころから北欧を原住地とするバイキング(デーン人)の侵入が激しくなり,同世紀後半にはイングランドの北東部は彼らに占拠された。このときイングランド王となったアルフレッド大王は,軍制を改革して彼らを破り,それ以上の拡大を阻止して国土を守った。…
…その後,ローマ帝国の没落による海上貿易の衰退で,海賊も一時的に消滅した。8世紀に始まるバイキングの遠征はノルマン人の民族移動と表裏一体になっていた。バイキングは〈入江に出没する海賊〉という意味である。…
…紀元前後のカエサルやP.C.タキトゥスの証言でも,ゲルマン人は〈獣皮もしくはトナカイの短皮〉や〈海獣の斑点のある毛皮〉を着用していたとされる。スウェーデン系バイキングの〈ルーシ人〉がボルガ上流地方へ進出したのも,ノルウェー系バイキングがアイスランドからグリーンランドに植民し,さらに新大陸北部に雄飛したのも,一つには毛皮の獲得に動機があった。またドイツ商人が12世紀以来,リューベックからバルト海地方に乗り出し,バイキング商業に割りこんでいったのも,やはりロシア産毛皮に目をつけたからである。…
… 北ヨーロッパでは北海とバルト海において海運が発達した。8世紀からスカンジナビアのバイキングの活動が活発となり,西は大西洋岸,東はドナウ川から黒海,ドニエプル川からカスピ海に及ぶ広範囲な通商・略奪行為を行った。12,13世紀にはドイツのハンザ商人(ハンザ同盟)が進出した。…
…死体を舟に乗せて流す例はポリネシアの諸民族で見られる。さらにその変形として,バイキングは死体を舟に置き,舟ごと焼くという水葬と火葬の混合形態を採り入れていたし,太平洋周辺の多くの民族は舟形の棺を作り,埋葬する。舟葬【内堀 基光】。…
…本来はデンマーク人の呼称であるが,広くは8~11世紀に北欧各地からグレート・ブリテン島に侵入したバイキングの総称。彼らのイングランドへの略奪活動は8世紀末に始まり,各地の教会,修道院,都市に甚大な被害を与えた。…
…8世紀末から11世紀前半にかけてスカンジナビアを基地として海洋および河川を利用して東西および南方に広く進出した北方ゲルマン人,バイキングの残した美術。古くは5世紀ごろにまでさかのぼる。…
…北欧では東海Østersjønと呼ぶ。北の地中海にあたり,古代バルト文明,中世のバイキング東征やハンザ同盟通商の舞台となった。約1万~1万5000年前にスカンジナビア氷床の縁がこの海域にあり,北の硬い楯状地と南の若い堆積岩の境界部が深く削られてこの海盆ができ,その頃はストックホルムとイェーテボリを結ぶ低地で北海と連なり,カテガット海峡は閉じていた。…
…肉料理では牛,子牛,豚などのひき肉で作る肉だんごの料理が各国に見られ,北部のラップランド地方ではトナカイのローストなどが食べられる。スウェーデンのスメルゴスボードsmörgåsbordという食事形式は,大きなテーブルに魚,肉,野菜の温冷さまざまな料理を何十種類も並べ,各自が好きなものを自由にとって食べるもので,日本では〈バイキング〉の名で知られる。デンマークでは,薄切りのパンの上に魚介類やハム,ソーセージ,酪農国らしいチーズなど,変化に富んだ材料をのせたオープンサンドイッチのスメアブレトsmørrebrødに定評がある。…
※「バイキング」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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