改訂新版 世界大百科事典 「ヒンドゥー教美術」の意味・わかりやすい解説
ヒンドゥー教美術 (ヒンドゥーきょうびじゅつ)
ヒンドゥー教の思想に基づき,諸神を賛嘆するために,あるいは儀礼上の必要から,また教化の手段として制作された美術で,広義にはヒンドゥー教に先行するバラモン教の美術や非アーリヤ人の民間信仰の美術をも含み,インドおよびその周辺地域で行われた。バラモン教の供犠(ヤジュニャ)では神像も神殿も必要としないため,造形美術の展開する余地はなかったが,ブラフマー(梵天),インドラ(帝釈天),スーリヤ(日天)などのバラモン教の神々は仏教の守護神として紀元前から造像されている。さらに古くはインダス文明の遺品の中に,地母神像,シバの原型と思われる獣主像その他が含まれていて,ヒンドゥー教美術の淵源をこれらに求めることも可能である。またマウリヤ朝時代から民間信仰の神々として造像された地母神,ヤクシャ,ヤクシーなどもヒンドゥー教美術の前史を形成している。グプタ朝時代にインド全域のすべての社会階層に広まったヒンドゥー教は礼拝供養(プージャー)を重視し,ここにヒンドゥー教の造形活動が本格化した。すなわち,ヒンドゥー教美術は古代末期にようやく興隆し,中世前期に最盛期を迎えた。このようにその成立は遅いが,インド的美意識を最もよく具現している。
建築
ヒンドゥー教寺院は神の住居と考えられ,本殿(ビマーナ)と前殿(拝殿,マンダパ)とを最少構成単位とし,原則として東面する。遺例では切石積みが最も多く,石窟,寺院全体を岩塊から彫り出した岩石寺院のほかに,煉瓦造や木造もある。最古の遺構は中インドのウダヤギリ石窟でその第6窟に401年にあたる年記がある。ほかにデーオーガルのビシュヌ神の石積寺院(6世紀初期)を除けば,グプタ朝時代の現存例はきわめて少ない。次いで南インドで6世紀末期から300年間互いに抗争を繰り返したチャールキヤ,パッラバ,パーンディヤの3王朝の治下にヒンドゥー教文化はおおいに高揚した。カルナータカ州北部を中心とするチャールキヤ朝では,バーダーミの石窟(6世紀末期),アイホーレ(6世紀後期~8世紀)とパッタダカル(8世紀前半)との石積寺院が代表的遺構。パッラバ朝では首都カーンチープラムのカイラーサナータ寺をはじめとする石積寺院(7~9世紀),海港マハーバリプラムの岩石寺院,石窟,石積寺院(7世紀前期~8世紀初期)が重要である。パーンディヤ朝ではカルグマライの岩石寺院(8世紀)があげられる。エローラのヒンドゥー教石窟(7~9世紀)は,チャールキヤ,パッラバ両朝の建築技法を継承発展させたもので,とくに第16窟の岩石寺院カイラーサナータ寺(8世紀中期~9世紀中期)はヒンドゥー教寺院の最高傑作である。同じ頃の造営の(異説もある)エレファンタ石窟も傑出している。北インドではグプタ朝の衰退後,諸王朝の分立が続き,カシミール地方のマールターンド(8世紀),チャンデッラ朝のカジュラーホ(9~12世紀),さらにグジャラート地方(10~13世紀)や,オリッサ地方のブバネーシュワル(8~13世紀),プリー(1100ころ),コナーラク(13世紀)などの石積寺院が造営された。北インドではイスラム軍の侵入により13世紀以後造営活動は衰退するが,南インド,とくにタミル地方では近世に至るまでチョーラ朝,ビジャヤナガル王国,ナーヤカの勢力などによって,タンジャーブール(1000ころ創建),チダムバラム(10~17世紀),シュリーランガム(13~17世紀),マドゥライ(17世紀)の諸寺が創建され,また改築・増築された。一方,デカン高原南部ではホイサラ朝によってソームナートプル(13世紀)その他に,特異な形態の寺院建築が展開した。
これらのうちカジュラーホやブバネーシュワルの諸寺は北型建築を代表し,本殿が砲弾形の高塔形式をとる。それに対しタミル地方を中心に分布する南型では本殿の屋根はピラミッド状で,囲壁の正面または四辺にゴープラムgopuramと呼ばれる楼門を建て,ゴープラムは時代が下るとともに高大さを誇るようになる。ホイサラ朝の寺院は中間型と呼ばれ,南北両型の折衷である。インド以外では,パキスタンのカーフィルコート,アフガニスタンのハイル・ハネー,バングラデシュのマハースターンなどに寺院址があり,ネパールでは仏教美術との習合がみられる。東南アジアでは7世紀ころからヒンドゥー教美術が行われはじめ,カンボジアのアンコール・ワットやアンコール・トムのバイヨンが最も有名で,ベトナムやジャワにもみるべき遺構が多い。
彫刻
仏教が瞑想的,静止的であるのに対し,ヒンドゥー教は神々の作用力を重視する。したがってその形像は顔や腕の数が多い多面多臂の活動的な姿をとり,個々の神が神話の場面に応じて像容を異にすることもあり,きわめて複雑かつ変化に富む。手に執る持物(じもつ)はことに武具が多く,ほかに楽器,儀式用具,動物,花などもある。また神々がそれぞれ特定の動物の背に乗るのは神々の超人的な働きを示し,それらの動物は神の活動を補佐する意味をもっている。さらに印相(ムドラー。手や指のポーズ),立・座などの姿勢,各種の衣服や装身具なども神名を判定する決め手となる。肉体の力,とくに性的な力(シャクティ)を神的なものとする考え方は,神妃の観念を発達させ,男神に特定の神妃を配するようになった。女神像,ことに官能的な像容をとるものが多く,男女の性的結合を示す像(ミトゥナ)も作られたのはこのことによる。なお,上述の特質は密教像にもみられるところであるが,それは大乗仏教がヒンドゥー教的な考え方を採り入れて密教となったからにほかならない。
ブラフマー,ビシュヌ,シバを三大神とするが,ブラフマーの信仰は振るわず造例も少ない。ビシュヌはシバとともに神界を二分するほどの勢力があり,世界救済のためにさまざまに化身(アバターラ)する神話が好んで造形化され,ことにクリシュナの化身は著名である。シバには魔神を退治する激しい面と恩沢を与える温和な面とがあり,幅広い活動に応じて種々の姿をとる。本尊としてまつられるときはリンガ(男根)の形をとり,ナタラージャと呼ばれる舞踏像の作例も多い。以上の主神のほかに多数の男女の神々があり,低級神や魔神も少なくなく,神々の世界は広くその構成も不規則である。本殿の中核に安置される本尊のほかに,寺院の内外が神々の活動を示す浮彫や本尊を賛嘆する神像で充満しているのは,まさにヒンドゥー教寺院ならではの奇観である。彫刻の用材は石が大部分で,テラコッタ像や,ことに南インドには青銅像の優品も多い。
絵画
寺院の多くは壁画で飾られていたと考えられるものの,遺品は少なく,わずかにバーダーミ第3窟,カーンチープラムのカイラーサナータ寺,エローラ第16窟,タンジャーブールのブリハディーシュバラ寺などに断片的に残るのみである。絵画遺品として重要なのは北西インドで16~19世紀に盛行したラージプート細密画(ラージプート絵画)である。これは主としてビシュヌ信仰と深く結びついた庶民的色彩の濃いもので,ビシュヌの化身であるクリシュナと牧女たちとの恋を主要なテーマとしている。
→インド美術 →ヒンドゥー教
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報