ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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翻訳|Fronde
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フランスのルイ14世の幼少期における高等法院・貴族を中心とする反王権運動(1648~53)。フロンドfrondeとは、当時青少年に流行した石投げ器のことで、それをもじって名づけられたといわれる。運動の根底には、リシュリューの中央集権化政策路線を受け継ぐマザランに対する彼らの不満や、食糧・財政危機に対する民衆の不満があげられる。
高等法院のフロンドFronde(1648~49)は、その第一段階であり、パリ高等法院、会計院、租税院、大評議会の法官たちは、1648年5月より一致してマザランによる既得権侵害に抗議し、国政改革案を示して王権に対抗した。これにはパリとその周辺地域の民衆も同調したが、翌年3月高等法院と王権の妥協が成立した。第二段階は、貴族のフロンド(1650~53)で、高等法院のフロンドの収拾に力のあったコンデ親王一族が、マザラン打倒を目ざし、旧貴族勢力の復権を図った。51年になると、パリ高等法院も貴族のフロンドに合流したので、パリは騒乱に巻き込まれた。成年に達したルイ14世は、コンデ一族との武力対決を続け、反国王派にいたチュレンヌを王党派に引き入れることに成功し、52年9月コンデはパリを離れて亡命した。
フロンドの乱の背景には、局面に応じて民衆の蜂起(ほうき)がみられたが、それは高等法院や貴族のフロンド派によって反王権運動に利用されたにすぎなかった。ルイ14世は、幼少時に体験したフロンドの乱という苦い思い出を教訓として、親政開始後から、高等法院や旧貴族層の政治的特権を剥奪(はくだつ)し、国王絶対主義への道を切り開くことになった。
[志垣嘉夫]
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…また,三十年戦争の継続の結果,危機に陥っていた財政を支えるためさまざまな形で租税の増徴をはからねばならず,そのことが民衆の不満を買った。王権に対するこうした反発が48年にフロンドの乱となって爆発すると,マザランは一時ドイツに亡命を余儀なくされるほどの苦境に陥った。しかし,彼は高等法院や大貴族といった特権階層と巧みに妥協することで内乱の平定に成功した。…
※「フロンドの乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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